葦嶽山ピラミッド

  Report 2010.11.13 平津 豊  Hiratsu Yutaka
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2010年11月13日、日本のピラミッドと言われる広島県庄原市本村町の葦嶽山(アシタケヤマ)の探索を行なった。
中国縦貫道の庄原インターを降りて東に県道23号を10キロメートル進むと日本ピラミッドという看板が見つかる。私が探索するのは、人の行かない場所が多いのだが、このように大々的に看板があるのは珍しい。観光地として有名な場所である。そこから南に山道を2キロメートルほど入っていくと車を止めることができる場所があり、さらにこの分岐点を東に1キロメートルほど少し広い道を進むと灰原ルートの登山口の駐車場にたどり着いた。
       【この分岐点を左に進むと駐車場がある】(Photograph 2010.11.13)

1934年4月23日、酒井勝軍(サカイカツトキ)は、京都の講演会で梅田寛一代議士から巨大な切石の話を聞き、すぐに廣島縣比婆郡本村の現地調査を決行した。その調査の途中で、酒井が「諸君! あの山がまさにピラミッドである!!」と叫んだのである。日本にもピラミッドがあることが世に認識された瞬間である。その後、この葦嶽山は新聞にも取り上げられ、昭和初期に一大ブームとなったと記録されている。
酒井勝軍は、『竹内文書』を世に出した竹内巨麿(タケウチキョマロの同士で、『竹内文書』に日本人のアイデンティティーを見出した宗教家である。『竹内文書』とは、『古事記』以前に神代文字で書かれた歴史書で、竹内宿禰(タケノウチスクネ)の孫、平群真鳥(ヘグリノマトリ)が漢字混じり仮名文に書き写したとされるものである。古代は、日本が世界の中心であり、天皇が天浮船(アマノウキフネ)に乗って万国を巡幸して世界を支配していたという壮大な創世記が書かれている。その内容は、「万教同根」と天皇の「万世一系」に貫かれており、エホバ、アダム、モーゼ、キリスト、モハメット、孔子、釈迦等も登場する。
1930年から1944年にかけて天津教弾圧事件がおこる。『竹内文書』は偽書であるとして、竹内巨麿は不敬罪で起訴され、徹底的な批判を受ける。それ以後、『竹内文書』はアカデミズムから無視され続けているのである。
【案内図】(Photograph 2010.11.13)

最短距離の道を通って葦嶽山を目指すことにした。しかし、葦嶽山らしい山は全く見えない。かなりきつい坂道を10分ほど登りきると平坦な道に出た。さらに10分ほど歩くと小さな鳥居があり、この鳥居から美しい三角形をした山が見える。これが葦嶽山に違いない。
【鳥居の向こうに葦嶽山が見える】(Photograph 2010.11.13)

尾根を少し下ると、葦嶽山山頂へと続く整備された道に出る。
【山頂に続く道、整備されている。】(Photograph 2010.11.13)

そこを少し登ると、鷹岩と呼ばれる不思議な岩に出会った。約3メートルの高さの岩で、風化しており原型はわからないが、自然石ではなく何かを模ったものであることは確かである。非常に古さを感じる。
【鷹岩、南側より撮影】(Photograph 2010.11.13)
【鷹岩、北側より撮影】(Photograph 2010.11.13)
意外とあっさりと頂上に着いた。駐車場から1キロメートル程の行程である。葦嶽山の標高は、815メートルであるが、駐車場からの高低差は300メートルほどである。
頂上は、約5メートル四方の広場となっているが何も無い。
酒井勝軍は、『太古日本のピラミッド』の中で、この頂上の調査について、「神體太陽石が花崗岩であったために、露出面が甚だしく風化して居って到底原形を想像することさへも出来ぬ状態ではあるが、一個の自然石であることだけは確かである。そして其の形が角か円かは判然せぬが、徑約十二尺であって、其の周囲に、東西南北に正面する方形磐境が築かれて居る。但し北部は崩壊して跡形も無い。」と述べている。

また、「ピラミッドの西を少し下ったところに通稱観音岩と呼んでる岩がある。但し観音岩といふ名稱は佛教渡来後のもので、其前は烏帽子岩といふたらしい。之は其形が似て居るために烏帽子といふたものであるが、元来はエビス岩といふのである。」と書いてあるので、葦嶽山の西面を降りてみたが、急勾配で道も無くなり、そのような岩は見つからなかった。
ここまでは、葦嶽山はきれいな三角形をした山で、頂上に花崗岩があるというだけであり、ピラミッドであるというには物足りない。日本には姿優美な神奈備(カンナビ)山は、葦嶽山以外にも数多く存在する。葦嶽山が特別なのはここからである。葦嶽山の北側の鬼叫山(キキョウザン)に葦嶽山がピラミッドと言われるゆえんとなる遺跡がある。
【葦嶽山山頂】(Photograph 2010.11.13)

図1.太陽石の種類
『太古日本のピラミッド』より

     
     
葦嶽山頂上を北側へ降りて鬼叫山を登ることにした。かなり急な下り坂で、岩や枝をつかみながら鬼叫山との間の鞍部へ降りた。そして、鬼叫山を登り始めるとすぐに岩だらけの場所に出る。そこには、テーブル状に石を組んだドルメンがあった。さらに登ると獅子岩と呼ばれる岩があり、その上部は、人工的に彫りこまれたようであり、動物の顔に見える。その向こうの石組みは、酒井勝軍が東西南北を示す方位石と定めた石組みである。
【ドルメン巨石群を南側より撮影】(Photograph 2010.11.13)

【ドルメン巨石群を北側より撮影】(Photograph 2010.11.13)

【ドルメン】(Photograph 2010.11.13)

【獅子岩】(Photograph 2010.11.13)

【方位石】(Photograph 2010.11.13)

東側の足元に酒井勝軍が鏡石と定めた巨大な一枚岩が立っている。高さ約3メートル幅約4メートルの岩で東側の面は奇麗に平面に削られている。
酒井は、次のように書き残している。「此等ドルメンの所を右に廻ると鏡石がある。之は高さ一丈二尺位、幅一丈五尺位で、自然の岩を鏡の如く平面にしたもので、その左右に装飾があつたらしく左の分だけはマダ残って居るが、右の方は崩されて其石は谷に落とされて居る。」
【鏡石】(Photograph 2010.11.13)
この鏡石の南側の景色には圧倒された。約6メートルほどの巨大な柱が立ち、多くの石柱が谷底に崩れている。この石柱は神武岩と呼ばれ、頂上に宝玉が置かれ夜も昼も光輝いていたという伝説を持つ。神武岩の頂上部には、確かにその宝玉が置かれた穴が開いている。
石柱はもともと3本立っていたということだが、酒井勝軍が調査を行った時には、1本しか立っていなかった。ここが神武天皇の御陵で宝が埋まっているという噂を信じた村人によって、石柱は打ち倒され、掘り起こされた後であったという。酒井は、次のように書き残している。「丁度此鏡石の右手前に約二尺角長一丈程の石柱が立つて居るが二十年前村人等が好奇心に駆られて破壊作業を試みた時は、三本立つて居つたとの事であるから、之は必ず四本で一の方位石を構成して居つたものであらうが、如何にも残念な事をしたものである。」村人がこのような愚行をしたのは、1914年頃であったと考えられる。
そして、村に伝わる神武に縁のある岩との伝承に対して、酒井は懐疑的であり、次のように考察している。「神武岩の名稱は、直ちに否認は出来ぬが、神武の稱號は遥かに後世の事でもあり、皇陵でも分陵でもないとすると之は、後世の人が思ひ違って言い伝へた思はれる。即ちエビス岩がある以上セム岩が有つて然るべきで、我八雲民族及出雲民族は何れもセム族と同系で、ギザのピラミッドを造つたのも此セム族であるから、セム族の名が拝殿の何處かに残されてあつて然るべきである。そこでセム岩と呼び傳へられたものが、後世神武岩と言ひ誤られたものと見る方が穏やかであると思ふ。」

【鏡岩の南側の巨石群】(Photograph 2010.11.13)

【神武岩の頂上の穴】(Photograph 2010.11.13)

【神武岩、人と比べるとその大きさがわかる】(Photograph 2010.11.13)
【神武岩の下に石柱が崩れている】(Photograph 2010.11.13)
図2.のピラミッド略図
『太古日本のピラミッド』より

   図3.方位石、鏡岩、神武岩の位置関係スケッチ

酒井勝軍は、この鬼叫山の巨石施設を葦嶽山を拝む拝殿跡であるとした。奈良の三輪神社のような古い神社には本殿が無く、山を御神体としそれを拝む場所に拝殿のみが建てられているが、この様式の原点がここにある。

また、酒井勝軍は、竹内文書の鵜草不葦合(ウガヤフキアエズ)第十二代彌廣殿作尊(ヤヒロトノツクリミコト)天皇が作ったヤヒロ殿がピラミッドであると主張している。ヤヒロ殿という建造物は、『竹内文書』だけでなく、『古事記』にも、伊耶那岐(イザナギ)、伊耶那美(イザナミ)が「その島(淤能碁呂嶋(オノコロシマ))に天降りまして、天の御柱(アマノミハシラ)を見立て、八尋殿(ヤヒロドノを見立てたまひき。」として出現する。
一説では、酒井勝軍は、竹内巨麿からピラミッド御神体石なるものを見せられ、その石にはモリツネ文字(神代文字の一つ)で、「トシイヤヨソ マトイムヒ ミコトノリシテ キビツネノモトニ オツナテヒコ スミラミコトノ タマシヒビヤウ マタナミシヤ ヒルノカミ ツキノカミ ツクリヌシカミ ヒラミツト 」と彫られていたと言う。この文の意味は、古代の天皇がオオツナテ彦に詔して、天皇霊、日神、月神、造主神を供に祀る廟を建てさせ、ヒラミットと名付けたというものである。
酒井の説をとると、世界中のピラミッド状建造物は、この日本のピラミッドが世界に広がったものであり、エジプトのギザのピラミッドは、山の無い砂漠に日本の山を形作ろうとしたので、しかたなく岩を積み上げたということになる。そうであるなら、鬼叫山にある獅子岩がスフィンクスの元になったのかもしれない。
【この方向から獅子岩を見るとスフィンクスのようだ】(Photograph 2010.11.13)

酒井は、日本のピラミッドを次のように規定し、「神人交通機関の神秘機関」であり「天地人一体」の救世主の象徴であるとしている。
1)自然の山を利用している。
2)頂上には太陽石があり、その周りには列石を配している。
3)ピラミッドの他に拝殿が存在することがあり、小山であったり方位石、鏡石、立石などの石造物であったりする。
4)平面ピラミッドもある。
酒井勝軍は、葦嶽山以外にも青森の大石神ピラミッドや岩手の五葉山ピラミッドを発見し、日本中でピラミッド探しが始まったのである。現在では、秋田の黒又山、岐阜の位山、富山の尖山、長野の皆神山、広島の弥山など、数多くのピラミッドが見つかっている。

次々と現れる巨石の様子は、これまでいろいろと訪れてきた他の巨石遺跡とは異なって、濃密な意志を感じた。何らかの意図を持った施設が存在したのは確実である。そして、その施設を誰がどのような目的で破壊したのか、それが問題である。

鬼叫山を下山しはじめると、目の前に葦嶽山ピラミッドがそびえ立ち、その直上に太陽が輝いていた。
(Photograph 2010.11.13)
         【鬼叫山から葦嶽山を望む】(Photograph 2010.11.13)


■参考文献
1 酒井勝軍:モーゼの裏十誡(1941)、太古日本のピラミッド(1944)、八幡書店(國教宣明團発行復刻)(1999)
2 大内善郷校注:神代秘史資料集成天之巻、八幡書店(1984)
3 現代霊学研究会編纂:神代秘史資料集成地之巻、八幡書店(1983)
4 現代霊学研究会編纂:神代秘史資料集成人之巻、八幡書店(1984)
5 倉野憲司校注:古事記、岩波書店(1991)

2010年11月13日  「葦嶽山ピラミッド」 レポート 平津豊
2016年3月6日 改訂