秦氏を追って

 Report 2012.12.9 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
Share (facebook) トップ画面へ

本論文・レポートのリンクおよびシェアは自由です。画像や文章を抜き出して引用する場合は出典を明記してください。
まとめサイト等への掲載や転載は禁止します。

「よいよいよい!」「よいよいよい!」ふんどし姿の男達がこっけいな掛け声を発しながらバタ板を担いで見物人の集団に突っ込んでいく。
悪ふざけのようなバタ板架けが終わると、神輿を船に乗せて巡航が始まった。
禁足の生島(イキシマ)のお旅所に向けて、12隻の船が行列して湾内を一周するのである。 2012年10月14日、坂越の船祭りといわれる国重要無形民俗文化財の珍しい祭りを見物した。
【大避神社の向かいの湾に浮かぶ生島】Photograph 2012.10.14 
【大避神社の船渡御祭 神輿が神輿船に乗せられる】Photograph 2012.10.14 
【大避神社の船渡御祭 神輿船】Photograph 2012.10.14 
【大避神社の船渡御祭 櫂伝馬船】Photograph 2012.10.14 
この祭りは兵庫県赤穂市坂越(サコシ)にある大避神社(オオサケジンジャ)の船渡御祭である。
昼過ぎに山の中腹にある大避神社から御祭神の分霊を遷した神輿が、鼻高(猿田彦)、獅子、頭人に率いられて宮を出る。海岸まで運ばれた神輿は神輿船に乗せられ、この祭りのハイライトである船渡御が行われる。1番漕船(櫂伝馬船)、1番漕船、獅子船、5番頭人船〜1番頭人船、楽船、神輿船、供奉船、歌船と続く船列の上では、獅子舞や御船歌が演じられながら、湾内の生島にあるお旅所に運ばれる。 
【大避神社の船渡御祭 坂越湾内を船列を組んで一周する】Photograph 2012.10.14 
【大避神社の船渡御祭 湾内に浮かぶ、お旅所である生島に神輿を運ぶ】Photograph 2012.10.14 

生島のお旅所で神事が行われた後、深い夕闇の中、神輿は再び船に乗せられ、松明が焚かれた浜辺に帰ってくる。幻想的な光景である。そして神輿は、提灯行列に囲まれて大避神社に宮入りして祭りは終わる。芸能の要素が数多く含まれた祭りである。
この祭りの主人公は、大避神社の御祭神である秦河勝(ハタノカワカツ)であり、生島にその墓があると云われている。 
【大避神社の船渡御祭 夜になると生島のお旅所から神輿が帰ってくる】Photograph 2012.10.14 
【大避神社の船渡御祭 神輿が大避神社に宮入する】Photograph 2012.10.14 

さて、ほぼ同時期に京都で行われる奇祭がある。広峰寺の牛祭りである。摩多羅(マタラ)神という謎の神を牛に乗せて巡行する、なんとも奇妙な祭りである。この祭りは旧暦9月12日に行なわれていたが、近年は毎年行なわれていないという。
603年、聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝がこの仏像を譲り受けて寺を建てたという。この寺が今の広隆寺である。
同じ秦河勝に関わる祭りが同時期に行われていることから考えて、おそらく大避神社の船渡御祭も旧暦9月12日に行なわれていたのではないかと思う。


【木島坐天照御魂神社の鳥居】Photograph 2012.10.27 
2012年10月27日、広峰寺のある太秦に出かけた。
まずは、木島坐天照御魂神社(コノシマニマスアマテルミタマジンジャ)にお参りした。地下鉄太秦天神川駅から歩いて10分ほどで、神社に着く。
うっそうとした森に囲まれた古い神社である。二葉の葵紋の提灯が掲げられている本殿にお参りする。本殿の東側に、養蚕、織物、染色の祖神を祀った蚕の社がある。そして西側には、元糺の池がありその中に問題の三柱鳥居がある。3つの鳥居を三角形に組み合わせた珍しい鳥居で、ここ以外では三囲神社に見られるだけである。ちなみに三囲神社の三柱鳥居は、三井家の屋敷から移設されたものだという。
【木島坐天照御魂神社の中門】Photograph 2012.10.27
【木島坐天照御魂神社の中門の右にある磐座】Photograph 2012.10.27
【木島坐天照御魂神社の中門の左にある磐座】Photograph 2012.10.27
【木島坐天照御魂神社の拝殿、奥に本殿】Photograph 2012.10.27
【木島坐天照御魂神社の養蚕神社(蚕の社)】Photograph 2012.10.27
【木島坐天照御魂神社の境内社 白清社】Photograph 2012.10.27
【木島坐天照御魂神社の三柱鳥居】Photograph 2012.10.27
【木島坐天照御魂神社の元糺の池】Photograph 2012.10.27
【木島坐天照御魂神社の元糺の池】Photograph 2012.10.27
御朱印がいただきたかったが、社務所が留守だったので、困っていると、ご近所の方が宮司に連絡していただき、お会いして少しお話しすることができた。
三柱鳥居は享保に立て替えられたものであるが、以前も同じ場所にあったこと、元糺の池は水が湧かなくなり干上がってしまっていることなど教えていただいた。

さらに、神社を去ろうとすると、ちょうど鳥居横のご由緒を書いた看板を架け替えていた。古い看板は文字が消えてしまい全く読めなくなっていたのだ。うれしい偶然である。新しい看板に書かれていたご由緒は以下のようなものであった。

『木嶋坐天照御魂神社
延喜式内社で祭神は天之御中主神外四柱(大国魂神・穂々出見命・鵜茅葺不合命・瓊々杵尊)を祀っている 創建年月日は不詳であるが「続日本紀」大宝元年(701)4月3日の条に神社名が記載されていることからそれ以前に祭祀されていたこと思われる古社である 天之御中主神を主として奉り 上は天神に至り下は地神に渉り 御魂の総徳を感じて天照御魂と称し奉り 廣隆寺創建とともに勧請されたものと伝えられる
学問の神であり祓いの神でもある

蚕養神社(蚕ノ社) 本殿右側の社殿
雄略天皇御代(1500年前)秦酒公呉国(今の中国南部)より漢織・呉織を召し秦氏の諸侯と供に数多くの絹 綾を織り出し「禹豆麻佐」の姓を賜る この地を太秦と称し推古天皇の御代に至り その報恩と繁栄を祈るため養蚕 織物 染色の祖神を勧請したのがこの社である
養蚕 織物 染色の守護神である

元糺の池
境内に「元糺の池」と称する神池がある 嵯峨天皇の御代に下鴨に遷してより「元糺」と云う
糺は「正シクナス」「誤ヲナオス」の意味で此の神池は身滌(身に罪や穢のある時に心身を浄める)の行場である
夏期第一の「土用の丑」の日にこの神池に手足を浸すと諸病にかからぬと云う俗信仰がある。

三柱鳥居
全国唯一の鳥居である 鳥居を三つ組み合わせた形体で中央の組み石は本殿ご祭神の神座であり宇宙の中心を表し四方より拝することが出来るよう建立されている 創立年月は不詳であるが現在の鳥居は享保年間(約3百年前)に修復されたものである
一説には景教(キリスト教の一派ネストル教約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと伝われている』

この御由緒では、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、大国魂神(オオクニタマノカミ)、穂々出見命(ホホデミノミコト)、鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、瓊々杵尊(ニニギノミコト)となっているが、延喜式神名帳には、木嶋坐天照御魂神社の御祭神は、天照国照天火明命(アマテルクニテルアメノホアカリノミコト)と書かれている。なぜ秦氏の神社に尾張氏の始祖である火明命が祀られているのか、それを現在は、隠してしまったのか、不明である。
一方、「天照」に注目した場合、もう一つのつながりが見えてくる。古事記に「天照大御神、忌服屋に坐して、神御衣織らしめたまひし」とある。日本書紀にも同様のことが記載されている。つまり天照大神という神は織物との関係が深い。そして、この木島坐天照御魂神社にも蚕養神社があり秦氏も織物との関係が深いのである。

【大酒神社の鳥居】Photograph 2012.10.27
この神社から広隆寺に向う途中に、大酒神社(オオサケジンジャ)がある。坂越の大避神社と字は異なるが同じ名前の神社である。
【大酒神社の本殿】Photograph 2012.10.27
ここもまた、秦氏ゆかりの神社である。この神社の案内板には次のように書いてある。

『祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公、相殿 兄媛命、弟媛命(呉服女、漢織女)、神階 正一位、治歴4年4月(1068年)
当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社 (元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(356年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇十四年(372年)百済より百二十七県の民衆一万八千六百七十余人 統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王 の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って 絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(ウズマサ)と言う言葉で 酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。数多の絹綾を織出したる呉服 漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中 破壊に及びしを以て、当社に合祭す。機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で十月十日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。尚、603年広隆寺建立者秦河勝は酒公の六代目の孫。又、大宝元年(701年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を 創立、和銅四年(713年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。』


【広隆寺の南大門】Photograph 2012.10.27
大酒神社からほどなく歩いて、牛祭りが行なわれる広隆寺(コウリュウジ)に着いた。
広隆寺はもともと、蜂岡寺(ハチオカデラ)、太秦寺(ウズマサデラ)や秦公寺(ハタノキミデラ)とも云われ、日本書紀によれば、603年に聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝(ハタノカワカツ)が、この仏像を譲り受け蜂岡寺を建てたという。この仏像が国宝第1号の弥勒菩薩半跏思惟像といわれている。
この境内にも太秦殿があり、太秦明神、漢織女(アヤハトリメ)、呉秦女(クレハトリメ)を祀っている。先ほどの大酒神社は、神仏分離のときに広隆寺の境内から現在地に移設されたものである。

この太秦のある山背国葛野郡という地は、まさに秦氏の国である。
【広隆寺の上宮王院太子殿】Photograph 2012.10.27
【広隆寺の太秦殿 秦河勝を奉っている】Photograph 2012.10.27
秦氏について、日本書紀では、283年に百済より帰化した弓月君を祖とすると記されており、これと同様の記述が古事記や新撰姓氏録にもあり信憑性は高い。秦始皇帝に繋がる一族かどうかはさておき、応神天皇の時期に渡来して養蚕、機織、農耕、造酒、土木、芸能を日本に伝えた技術者集団であったのは確かである。

また、、明治41年、佐伯好郎は『太秦を論ず』という文献で、三柱鳥居は、三角を2つ重ねるとダビデの星となること、大酒神社の古名である「大辟」とは、「大闢」のことでありダビデと読むこと、中国に「大秦景教流行中国碑」が中国の太秦寺にあることなどから、秦氏はユダヤから日本に流れ着いたイスラエルの遺民であるとの説をとなえた。これから派生して、三柱鳥居はキリスト教の「父」と「子」と「聖霊」の三位一体を表すと唱える人もいる。また、この三柱鳥居の頂点が秦氏ゆかりの稲荷山、松尾山、双ヶ山を指しているともいわれている。
この佐伯氏の説は、景教が中国に伝わったのが635年であり、秦氏が渡来した時期はそれより早いので成立しないと云われている。しかし、私は「日ユ同祖論」自体は捨てられないものがあると考えている。中国の景教とは関係なくもっと古い時代にイスラエルの失われた十支族が日本にたどり着いたのではないかと思える傍証が多く存在するからだ。
   (徳島・剣山ミステリー探索のレポートはこちら)
【広隆寺に掲示していた十善戒】Photograph 2012.10.27
この広隆寺にも十善戒(ジュウゼンカイ)という戒めが伝わっている。
不殺生 (生き物を殺しません)、不偸盗 (ものを盗みません)、不邪淫 (みだらな男女の関係をしません)、不妄語 (うそいつわりを言いません)、不綺語 (たわごとを言いません)、不悪口 (人の悪口を言いません )、不両舌 (二枚舌を使いません)、不慳貪 (ものを慳み貪りません)、不瞋恚 (いかり憎むことをしません)、不邪見(間違った考え方をしません)というものである。このように十の行いを具体的に例示して戒めを示すという方法は、モーセが神から与えられた十戒と同じであり、偶然ではかたずけられない。モーセの十戒の知識が伝わっていなければ作ることはできないものである。ただし、モーセの十戒の5番目から10番目までは、この十善戒と全く同じであるが、モーセの十戒の1番目から4番目は、神と人の関係の戒めであり、この十善戒にはない。


このように秦氏の出生については謎が多く興味は尽きない。一方、秦氏の活躍を論じるには、秦河勝を考えねばならない。聖徳太子に重用された河勝であるが、世阿弥が記した能の理論書である「風姿花伝」に次のような文がある。

『一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。 三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人なるがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これなり。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝におほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治まり国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。
 かの河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子につかへたてまつる。この芸をば子孫に伝へて、化人跡を止めぬによりて、摂津国浪速の浦より、うつぼ船に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越(シャクシ)の浦に着く。 浦人船をあげて見れば、形人間に変われり。諸人につきたたりて奇瑞をなす。すなはち神と崇めて国豊かなり。大きに荒るると書きて、大荒大明神と名附く。今の代に霊験あらたなり。本地毘沙門天王にてまします。上宮太子、守谷の逆臣をたいらげたまひし時も、かの河勝が神通方便の手にかかりて、守谷は失せぬと云々。』


芸能の一族に祖先の話として伝わったもので、聖徳太子がものまねを秦河勝に演じさせたのが猿楽のはじめとしている。ここで秦河勝は赤子のときに壺に入って流れ着き、成人して活躍し、大臣にまで登りつめた後、最後は、うつぼ船に乗って坂越の浦に着いている。
壺に入って流れ着くのも不思議たが、その後の「うつぼ船」という言葉に興味を引かれる。
「うつぼ船」とは「うつろ船」ともいい、中国の陳大王の娘である大比留女(オオヒルメ)が7歳で懐妊したため「うつぼ船」に入れて流され、九州の大隅へ流れ着き、その息子が正八幡となる話に出てくるものである。このうつぼ船形の話は、神の子を懐妊した女性を閉じ込めて海に流すが、助けられてその子供が活躍する話の形であり、古事記の神功皇后やギリシャ神話のダナエも同類である。つまり「うつぼ船」とは、罪人を流刑するための窓も入り口もふさいだ船を意味する。
秦河勝は、聖徳太子と蜜月関係にあり冠位十二階の小徳にまで昇り、蘇我物部戦争では、物部守屋まで討った英雄であったが、大化の改新によって、蘇我氏が滅亡したため、秦河勝も山背国から播磨国へ逃れてきたのであろう。しかし、その様子は尋常なものではなく、流刑であったということを、この「うつぼ船」という表現が伝えているのではないだろうか。

ちなみに「うつぼ船」という言葉には、もう一つ面白い面がある。兎園小説の中に、享和3年に常盤国の浜にまるで空飛ぶ円盤ようなものに乗って異国人が漂着したという「虚舟の蛮女」という話がある。この空飛ぶ円盤のような乗り物も「うつぼ船」と呼ばれているのである。

ここでもう一つのミステリーにも言及しておかなければならない。それは、最近話題となっている聖徳太子不在説である。
聖徳太子は、後世に作られた架空の人物であるという説である。その理由について、ここで深く掘り下げるつもりはない。問題は、聖徳太子の話に散りばめられた文言である。
・厩戸皇子(ウマヤドノオオジ)は厩戸で生まれたが、イエスも馬小屋で生まれた。
・間人皇女(ハシヒトノヒメミコ)は救世観音が胎内に入り身籠もったが、マリアも処女受胎した。
・蘇我馬子(ソガノウマコ)の名について、イエスが復活した時、「我は蘇り」と語った。物部守屋(モノノベノモリヤ)の名について、イエスが磔にされた「ゴルゴタの丘」の旧名は「モリヤ」という。
・聖徳太子は冠位十二階を作ったが、イエスの弟子は十二使徒である。
・聖徳太子は未来書を書いたが、イエスも預言者であった。
聖徳太子が作り話であった場合、その話は、キリスト教の知識があった者が作ったと考えざるをえないほどの一致といえるだろう。また、聖徳太子にモデルがいたとすれば、最有力は蘇我馬子であろう。当時最も実力のあった馬子の業績を聖徳太子に反映したことは想像に難くない。しかし、当時多才な能力を発揮した秦河勝がモデルになった可能性もある。なぜなら、当時、キリスト教の知識を持っていた可能性が高いのは秦氏だからである。

【賀茂御祖神社のさざれ石】Photograph 2012.10.28
次の日、神社検定合格者向に対して行なわれるセミナーに参加した。
京都の3箇所の神社を訪れて宮司から説明を聞くというものであった。参加者は60人ぐらいであろうか、2台のバスに分かれて移動した。それぞれの神社で正式参拝を行なうので、参加者は正装である。スーツ姿の団体が境内を移動するのは、なかなか異様な光景である。天気はあいにくの雨模様である。
【賀茂御祖神社の御手洗の舟形磐座石】Photograph 2012.10.28
最初は、賀茂御祖神社(カモノミオヤジンジャ)いわゆる下賀茂神社を参拝した。賀茂祭(葵祭)のときに天皇により勅使が遣わされる勅祭社であり、山城国一宮でもある。西殿に賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)、と東殿にその娘の玉依媛命(タマヨリヒメノミコト)が祀られている。賀茂建角身命は神武東征のときに先導した八咫烏(ヤタガラス)であるといわれている。
【賀茂御祖神社の舞殿(左)と中門(奥)】Photograph 2012.10.28
この神社は、伊勢神宮と同じように式年遷宮が行なわれ皇女が斎王として仕えていた由緒正しい神社である。宮司からは、21年毎に行なわれる式年遷宮のことや葵祭りのことなどを詳しく説明していただいた。特に比叡山麓の八瀬御蔭山から荒御魂を迎える御蔭祭(ミカゲマツリ)の話は興味深かった。

また、幣殿の前に七つの祠がある。中門入って右手から左回りに、ね歳生守護の大国主神を祀る祠、うし歳生・ゐ歳生守護の大物主神を祀る祠、この二祠は二言社という。う歳生・とり歳生守護の志固男神を祀る祠、とら歳生・いぬ歳生守護の大己貴神を祀る祠、たつ歳生・さる歳生守護の八千矛神を祀る祠、この三祠は、三言社という。中央の二祠は、右から、み歳生・ひつじ歳生守護の大国魂神を祀る祠、うま歳生守護の顕国魂神を祀る祠、この二祠は一言社という。干支の12と大国主神の別名の7を強引に3にまとめている。なんとも不思議な構成である。
また、研修道場で展示されていた遷宮の地鎮祭の様子の再現にも、中央に興玉神、東に大○神(○は田に儿の字)、西に太田神、南に御気津神、北に底立神というサルタヒコの神の別名をそれぞれお祀りするという良く似た構図があった。この神社には、地方神をまとめなければならないという使命でもあるようだ。
【賀茂御祖神社の言社】Photograph 2012.10.28
【賀茂御祖神社の本殿(この奥に2つの本殿)】Photograph 2012.10.28
【賀茂御祖神社の糺すの森の古代祭祀跡】Photograph 2012.10.28
【賀茂御祖神社の生石御祓い場】Photograph 2012.10.28
【賀茂御祖神社境内社の河合神社 二葉の葵紋の提灯】Photograph 2012.10.28
【賀茂御祖神社境内社の河合神社本殿】Photograph 2012.10.28

さて、この神社には糺の森と呼ばれる原始林があるが、これに呼応するように、木島坐天照御魂神社に元糺の池があるのである。また三本足の八咫烏に対し三柱鳥居。さらに、葵祭りの名前の基になったように、賀茂御祖神社の神紋は二葉葵であり、木島坐天照御魂神社も同じである。つまり、この賀茂御祖神社も元々は、秦氏の神社と考えられる。



2番目に参拝したのは、石清水八幡宮(イワシミズハチマングウ)である。山の上にある八幡宮は雨雲の中である。霧の中に沈む朱塗りの社はとても美しい。
【石清水八幡宮の楼門Photograph 2012.10.28
【石清水八幡宮の黄金の樋Photograph 2012.10.28
御祭神は、応神天皇(オウジンテンノウ)、比淘蜷_(ヒメオオカミ) [多紀理毘賣命(タギリビメノミコト)、市寸島姫命(イチキシマヒメノミコト)、多岐津比賣命(タギツヒメノミコト)]、神功皇后(ジングウコウゴウ)である。京都の裏鬼門を守るために、宇佐八幡宮から移座された八幡で、平将門の乱より武家の崇敬を集めていた神社である。本殿は八幡造りといわれる前後2棟からなる独特の形式である。宮司の説明では、朝と夜に神霊がこの2棟を行き来するというのであるが、何かエジプトのピラミッドとよく似た話である。
また、この2棟の屋根の間の樋が黄金でできている。これは将来、八幡宮が資金に困らないようにと織田信長から寄進されたもので、比叡山の焼き討ちなどで神仏を恐れないと云われている信長の意外な一面である。

さて、この八幡宮(ハチマングウ)であるが、最寄り駅は京阪電車の八幡(ヤワタ)駅である。八幡はハチマンと呼んでいるが本来は、ヤワタあるいはヤハタであり、八幡の神(ヤハタノカミ)である。この神は、辛島氏が祀る豊前国香春岳(カワラダケ)の神という説が有力である。というのも宇佐八幡宮の最大の祭事である放生会(ホウジョウエ)が、香春にある元宮八幡宮から、宇佐の和間浜まで香春岳の銅で作られた鏡を運ぶ神幸行事であるからである。そして、この辛島氏もまた秦氏である可能性が高いと云われている。
一方、中国の隋書には、倭に秦王国があったと書かれており、この豊前国に秦王国があったのではないかとも云われている。
つまり、豊前国の秦王国で秦氏が祀った神がヤハタの神であるということである。
「八幡」の「八」は多いとか大きいを意味するので、これを外せば「幡(ハタ)」だけ残る。これは「秦(ハタ)」であるとするのは単純すぎるだろうか。
さて、この「ヤハタ」にもユダヤの神「ヤハウェ」の変形であるともユダヤそのものの「イェフダー」の変形だとする異説もあり、秦氏がユダヤであるとする傍証の一つとされている。

【賀茂別雷神社の一の鳥居Photograph 2012.10.28
最後にお参りしたのは、賀茂別雷神社(カモワケイカヅチ)いわゆる上賀茂神社を参拝した。下賀茂神社と同じく、勅祭社で山城国一宮であり、式年遷宮も行なわれる格式高い神社である。この賀茂別雷神社と賀茂御祖神社は、元々一つの神社であったものが分かれたもので、この二社を合わせて論じるのが正しい見かたであろう。
【賀茂別雷神社の細殿と立砂Photograph 2012.10.28
賀茂別雷神社の二の鳥居をくぐったところに、この神社の象徴である立砂(タテズナ)がある。この立砂は玉垣の中にもあるのだが、白砂を山のように固めたもので、右の頂上に2葉の松葉、左の頂上に3葉の松葉を立ててある。御祭神(雷神)が降り立った神山(コウヤマ)を模しており、盛り塩の原型と言われている。
しかし、神山を模したものなら1つでいいわけで、なぜ2つあるのか不思議である。宮司は、大陸から伝わった陰陽五行思想に影響されたものだと説明していたが、にわかには納得できない。上賀茂神社は、伊勢神宮よりもはるかに古い伝統を守ってきた格式高い神社である。簡単にしきたりを変えるであろうか?
私は、この立砂は、山を模したものではなく、最初から2つあったと考える。実は、この盛り砂と同じようなものを鞍馬山で見たことがある。
   (鞍馬山のレポートはこちら)

鞍馬山も天から御祭神が降り立っており、その名前は、魔王尊サナト・クラマ。この魔王尊が金星より焔の君たちを従えて鞍馬山に降臨する様子を形象化した庭に白砂盛があり、この白砂盛は魔王尊の乗物である天車を意味すると説明されていた。まるでUFOのような話である。この上賀茂神社の立砂も神の乗り物を表していて、それが2台あったのではないかということである。
【賀茂別雷神社の中門Photograph 2012.10.28
【賀茂別雷神社の摂社 片山御子神社Photograph 2012.10.28
【賀茂別雷神社の社務所に掲げてある御由緒絵 タマヨリヒメPhotograph 2012.10.28
さらに、この賀茂別雷神社には有名な話が伝わっている。
賀茂建角身命の娘である玉依比売命(タマヨリヒメノミコト)は、川で丹塗の矢を拾って持ち帰ったところ、懐妊して若宮を産んだ。賀茂建角身命は、八百万の神が集まる場で、若宮に対し父親の元に酒を持っていけと命じたところ、若宮は天を指し、父神はあそこにおられると言った。そこに雷が落ち、若宮は天に戻っていった。玉依姫は若宮(賀茂別雷の神)と再会するために、祭りを行なったが、これが今に伝わる賀茂祭(葵祭)である。

これは、神武天皇の妻の五十鈴媛の出自話などにも見られる丹塗矢型神婚説話であるが、賀茂神社のタマヨリヒメの祀られ方に不思議なところがある。
賀茂神社において、この説話のタマヨリヒメは、賀茂別雷神社境内の片山御子神社(カタヤマミコジンジャ)や賀茂御祖神社の東殿に祀られている。
一方、賀茂御祖神社境内の河合神社(カワイジンジャ)にもタマヨリヒメが祀られており、そのタマヨリヒメは、神武天皇の母と説明されている。賀茂御祖神社の御手洗に船形の磐座石が用いられており、御祭神の神話伝承にちなんでいると説明されているのだが、この神話伝承とは、貴船神社に伝わる神武天皇の母である玉依姫が難波の浜から黄船にのって淀川、鴨川、貴船川をたどってたどり着いたという伝承のことではないかと考えてしまう。

タマヨリヒメとは、霊(タマ)の憑(ヨ)りつく女性のことであり、巫女を示す一般名詞と考えられるので、賀茂別雷の神の母神と神武天皇の母神が同名であることに問題は無いが、なぜわざわざ賀茂神社に神武天皇の母神である方のタマヨリヒメを祀らなければないのか理解できない。
そもそも、貴船神社のタマヨリヒメもわざわざ九州にいた神武天皇の母神が京都に移動してきたとは考えにくい。

やはり、これら貴船神社、片山御子神社、賀茂御祖神社、河合神社のタマヨリヒメは同一神ではないかと思う。
つまり、元々、貴船神社に祀られていたタマヨリヒメが賀茂の神に組み入れられたのではないかということである。もちろんそのようなことを行ったのは秦氏であろう。




【賀茂別雷神社の土屋Photograph 2012.10.28




地元の坂越大避神社の祭りから始まり、京都の神社を巡る今回の旅は、どこに行っても秦氏につながってしまい、まるで秦氏の足跡を追っているようであった。それほど日本に大きな影響を与えた一族であるが、彼らが何を目的としていたのかはよくわかっていない。
例えば、日本の神道は「日ユ同祖論」で論じられているようにユダヤとの繋がりが深く、前述した秦河勝にもユダヤとの繋がりが見られる、それならばなぜ、秦河勝は、日本に仏教を取り入れた蘇我氏や聖徳太子に味方して物部氏を討ったのか、中大兄皇子と藤原鎌足によって、蘇我氏が滅亡したあと、秦河勝は流刑される。
鎌足は、初期の頃には中臣鎌子(ナカトミノカマコ)を名乗り、神事や祭祀を行なう中臣氏であるので、このできごとは一見、神道の復権のように見えるが、この後行なわれた大化改新は、まさに政治と文化の大転換であった。
このなかで、重要な問題は、仏教の布教と供に普及していった漢字である。日本に漢字が伝わるまで日本人が文盲であったとは考えられないことであり、神代文字があったわけだが、それを焚書と漢字とカタカナとひらがなの導入によって消し去り、古事記・日本書紀によって歴史を書き換えたのである。
一方で、このカナ文字とヘブライ文字の類似、日本書紀と旧約聖書との類似も指摘されている。
秦氏の謎は、日本史の謎そのものであり、興味が尽きない。



上賀茂神社で、宮司のご講話を聞き歴史の迷路に思いを馳せていると、遠くで雷が鳴っていた。賀茂神社では、祭りの後、最初に雷が鳴ると神さまがお帰りになるという言い伝えが残っているらしい。
そう、ここは、雷神を祀る神社である・・・。


2012年12月9日  「秦氏を追って」 レポート 平津豊