保久良神社とカタカムナ

 Report 2014.3.8 (2014.4.13改訂) 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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2014年3月8日に「保久良神社とカタカムナ」のレポートをこのホームページに発表した後、イワクラ(磐座)学会の大先輩である江頭務氏から、このレポートに関しての貴重なアドバイスと保久良神社発掘時の文献をいただいた。
文献は、『攝津保久良神社遺跡の研究』 (樋口清之 史前学雑誌14巻2・3号合併号 1942年)で、静岡県の登呂遺跡の発掘などを行った考古学者である樋口清之氏が保久良神社を調査した報告書である。当然ながら、その調査内容は、私が訪れて写真を撮っただけのものとは比ぶべくもない。その内容を引用した方がよりわかりやすくなると考え、改訂を行った。  2014年4月13日
 
兵庫県神戸市東灘区本山町北畑680、金鳥山中腹に保久良神社(ホクラジンジャ)という古社が鎮座している。(北緯34度44分08.08秒、東経135度16分40.91秒)
あまり有名とは言えない神社ではあるが、この神社には、巨大な古代の謎が潜んでいる。2013年7月14日、この保久良神社を20年ぶりに訪れ、猿丸宮司のお話を聞くことができた。その時のお話も交えてこの神社の謎の数々を紹介する。
【保久良神社】Photograph 2013.7.14

保久良神社の御祭神


保久良神社の御由緒は以下のとおりである。

保久良神社 御由緒
所在地 神戸市東灘区本山町北畑680番地
御祭神 須佐之男命、大歳御祖命
      大国主命、椎根津彦命
由緒

創立年暦不詳なれども境内外地は上代祖神の御霊が鎮座せる磐境の遺跡地にして其れらより発見されつつある石器時代の石斧、石剣、石鉋丁、石鏃類、青銅器時代の銅戈(重美)弥生式土器が前期中期後期に亘り多数出土し西暦紀元前二、三世紀頃より西暦紀元三世紀頃のものにしてそのいづれもが儀礼的なものたることの考證せられてあるを見ればその頃にはもはやこの霊地に祭祀せられたる證拠なり。また当社は始めに椎根津彦命の子孫たる大和連倉人水守(西暦七六九)等が祭祀したるとも神功皇后(西暦一〇一)三韓の役の戦利武器を此の社地に収蔵し奉りしより起因するとも又社名の火倉、火の山、烽火場の地より起こりしとも称せられる。

尚祝部土器、玻璃玉の発見せられてあり平安時代の延喜式(西暦九二七)には社格・社名を載せ奉りてあり。 鎌倉中期の青銅製懸仏の発見されており摂津志には建長二年(西暦一二五〇)重修の棟札の所持せることを記載する等上代より祭祀の存続せる事実を実證する資料となれり。
天王宮とも称せられ中古本荘近古本庄の庄の氏神にして工業商業者はもとより多くの崇敬の中心となる。
当社の位置は(海抜一八五米)後に六甲の翠巒を負い前には茅渟の海を一望に見渡す最景勝地にして社頭に燈明台ありて毎夜北畑天王講の人々交替して御神火を点じ近海を渡る船舶の航路安全を祈る灘の一つ火として崇拝せられ古来より航海者等の一針路となる。
これは祖神の代表的事蹟たる海路嚮導の行為とを考え合すとき氏子人の祖神の御遺徳を追慕する行事にして上代より現在に到るまでに長年月の間一日として絶やすことなく奉仕し居れり。
主たる祭日 一月  一日  歳旦祭
        一月 二十日  大俵祭
        五月   四日  例祭
              五日  神幸祭
        七月 十四日  名越祭
末社 祓御神社 御祭神 天照皇太神 春日大神


御祭神は、主神に須佐之男命(スサノオノミコト)、相殿に大歳御祖命(オオトシミオヤノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)、椎根津彦命(シイネツヒコノミコト)が配されている。また、末社に祓御神社(天照皇太神、春日大神)も祀られている。

御祭神について、境内に説明が掲げられていたので転記する。

御祭神「椎根津彦命」の御事蹟(その一)
摂津国菟原郡(夙川西岸から生田川東岸までの間)の統治を委任された「命」は、多くの村里が良く見渡せる場と、海から昇る日輪(太陽)が遥拝できる場を兼ね合わせた処を、海上から眺め探し求められ、最適な場所として、「ほくら山」を見つけられ、青亀を麓の真下の海岸に着けられました。【この由緒から青亀(アオキ)が着いた岸部、青木(アオキ)の地名が起る】
早速、青木→南田邊→北畑を経て山を目指して登られました。山頂から、眼下に広がる海・対岸の山々・東西に広がる村里を眺められ「命」の心に適合した場所であり、祭祀する場として清めた後、東から昇る日輪を遥拝し、大岩を並べ「磐座」とされ、「祖先神」(須佐之男命・大歳御祖命・大国主命)を祭祀して「農業生産・諸業繁栄・村里安全」を一族の人々と共に祈願されました。
【社名由来の一=「ホ」は「ヒ」(神霊)を集めた場(倉)から】
そして一族の人々共に、生活改善向上の策として、日々、常時「火種」の供給の場を起こし定められ、多くの人々に「火力」普及保持を勧め、土器生産を通じ農業発展を奨励する一方、海上交通の安全を図る為、社頭に「かがり火」を焚き、航行安穏を祈ると同時に、文物の流通の道を開拓されました。
【社名由来の二=「火種を保持する庫・倉」=「火庫(ホクラ)」となる】
【「灘の一つ火」の起源=社頭のかがり火が始まり】

御事蹟(その二)
「火力」の補給を通じ、「農業」を促進、海上交通安全から文物流通等、活気溢るる村里の繁栄に尽くされました。
丁度その頃、天つ神の御子(神武天皇)が東・大和に向かうことを聞かれ、青亀に乗り、和田の浦にて釣りをしながら、速吸の門(ハヤスイノト)(明石海峡)にて待機、「私は国つ神、名は珍彦(ウヅヒコ)」と名乗り、「皇船の先導者とならん」と申され、椎槁(シイザオ)を通して船中に入り、神武天皇と対面、「椎根津彦」の称号を賜り、海導者として浪花に上陸。河内、大和等転戦、苦労の中に献策を立てられました。後、大和建国の第一の功労者として、神武天皇即位二年「汝、皇船に迎え、導きて、績(イサヲシ)を香具山の巓(イタダキ)に表せり、因りて、倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)を賜る」(日本書記・旧事本紀)
また、倭宿称(ヤマトノスクネ)として天皇の近くにあり、大和建国・安寧に貢献されました。
その後、信濃・越後の国の開発に尽力される等の後、倭国造の要職を子孫に譲り、「命」は故郷「菟原の郷」に帰り、弟搰(オトウカシ)と共に郷土の育成に尽くされました。
今も昔も変わること無く、毎朝太陽の日の出を拝み、「磐座」に神々の神恩を感謝し祈りを捧げつつ、代々の祖先から継承されてきたこの聖地を護持し、敬神愛山の道を育てて行きたいものです。


上記の社伝によれば、椎根津彦命が実在の人物として登場し、須佐之男命・大歳御祖命・大国主命を祭祀したとある。
延喜式神名帳にも「保久良(ホクラノ)神社」として記載され、御祭神は須佐男命となっている。

しかし、やはり、この保久良神社の主神は、椎根津彦命であろう。
椎根津彦命=珍彦について、少し掘り下げてみる。

『古事記』では、椎根津彦命は次のように、神武東征に登場する。

またその國より遷り上り幸でまして、吉備の高嶋宮に八年坐しき。故、その國より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて、釣しつつ、打ち羽擧き來る人、速吸門(ハヤスヒノト)に遇ひき。ここに喚び歸せて、「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は國つ神ぞ。」と答え曰しき。また、「汝は、海道を知れりや。」と問ひたまへば、「能く知れり。」と答へ曰しき。また、「從に仕へ奉らむや。」と問ひたまへば、「仕へま奉らむ。」と答へ曰しき。故ここに槁機を指し渡して、その御船に引き入れて、すなはち名を賜ひて、槁根津日子(サヲネツヒコ)と號けたまひき。こは、倭國の造等の祖。


『日本書紀』では、次のように書かれている。

其の年の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。速吸之門に至ります。時に、一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、招せて、因りて問ひて曰はく、「汝は誰そ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神なり。名をば珍彦(ウヅヒコ)と曰す。曲浦(ワダノウラ)に釣魚す。天神の子来でますと聞りて、故に即ち迎へ奉る」とまうす。又問ひて曰はく、「汝能く我が為に導つかまつらむや」とのたまふ。対えて曰さく、「導きたてまつらむ」とまうす。天皇、勅をもて漁人に椎槁(シヒサオ)が末を授して、執へしめて、皇船に牽き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦(シヒネツヒコ)とす。此即ち倭直部が始祖なり。


『旧事本紀』では、次のように書かれている。

天孫親ら諸ら諸の皇子・舟師を帥て東征たまふ。速吸門に至し時に一漁人有て艇に乗て至る。
天孫之招て因て問て曰く「汝は誰そ」とのたまふ。對曰く「是國神なり。名は珍彦(ウヅヒコ)と曰す。曲浦(ワダノウラ)に釣魚す。天神子來と聞り、故、即ち、迎へ奉る」とまをす。又問曰く「汝、能く我が爲に導つかまつらむや」とのたまふ。對て曰さく「導まつらむ」とまをす。天孫、勅て漁人に椎槁が末を授して、執令て、皇舟に牽納て、以て海導者と爲す。乃ち、特に名を賜ひて、椎根津彦(シヒネツヒコ)と爲す。此即ち倭直部が始祖なり。


どの話も同一の出来事を伝えていることに異論はないであろう。
神武天皇が海路で大阪に攻め入る途中、速吸門で待っていた珍彦が神武天皇を案内し、椎根津彦という名を賜る話である。
その後、椎根津彦は神武天皇に付き従い、変装して天香具山の土を持ち帰り、これをもって神武天皇は戦勝を祈願し、勝利する。
椎根津彦はその功により、倭国造の要職に就くという話でもあり、倭国造つまり大倭氏の祖神逸話にもなっている。

また、姫路沖の家島にある「どんがめっさん」という海亀を模したイワクラには次のような逸話が伝わっている。

白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、沖で釣をしていると、吉備水道を抜け出て来た船団が播磨灘に向かってやってきて、翁がこの海に関して詳しい事を知り、翁に道先案内を頼みました。船団は、家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、食料の補充をして数年間がたちました。そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。難波について翁は手柄を褒められました。翁の亀は、忙しい主人をおいて、先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。
亀は、主人のいる難波のほうを向いて待ち続けているうちに石になってしまいました。
現在は、水天宮として祀られています。
(割烹旅館 志みずのホームページより)


この家島の逸話も椎根津彦と神武天皇の出来事を伝えたものと考えられる。

神武天皇が吉備の高嶋から大阪に行く途中に出会っており、家島にもその話が伝わっているとすると、速吸門は明石海峡だと考えられる。
そして、その椎根津彦が祀られているのが神戸の保久良神社であるということに違和感は全く無い。

これらの話の中に登場する珍彦こと椎根津彦は、海亀に乗った翁が釣りをしているという姿で表現されているが、この姿から何か想像しないだろうか、そう浦島太郎である。
珍彦と浦島太郎の関係については、考察が長くなるので、別の機会に述べることにする。

保久良神社の磐座


保久良神社に話を戻そう。

神社の南には石灯篭があり「灘の一つ火」と呼ばれている。古代から絶やすことなく灯がともされていたが、昭和33年頃に電灯に変わったようである。
阪神大震災でこの石灯篭をはじめ、鳥居や社務所も倒壊したが、今では、猿丸宮司や信仰者によって復興している。
この「灘の一つ火」は、灯台の役目をしていて沖を通る船の安全を守ったもので、保久良神社は、古代の海上交通の要所であった。
まさに、神武天皇の海路の案内をした椎根津彦命=珍彦を祀っている神社に相応しい。
【保久良神社から一直線に海に向って参道が開いている】Photograph 2013.7.14


また、日本武命が熊襲遠征の帰途、夜に航路がわからなくなった時、保久良神社の灯火が見えて難波へ帰りつけたという話もある。1月20日の大俵(ダイヒョウ)祭では、餅を長方形に伸ばして、両側から折り重ね、藁苞にして供える。これは昔、兵糧として用いられた餅で、日本武尊が熊襲征伐の帰路、この餅を持参して参拝したものと伝えられている。

さらに、社伝によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、広田、長田、生田神社を祭り、保久良に宝物を収めたとされており、広田神社に並ぶ重要な神社であったと考えられる。

保久良神社および背後の金鳥山の一帯は、六甲山よりも早く隆起した土地で、水成岩の地質である。
この古い地質の保久良神社を取り巻くように巨石が点在し、昭和13年の社殿改築工事の際には、紀元前2~300年頃の祭礼用の石斧や銅戈、鏃、土器などが出土している。古代から、この地で祭祀が行なわれていた証拠である。

磐座に関する境内の説明には以下のように書いてある。

「磐座」古代祭祀遺蹟地
「ほくら」の境内には、大きな岩がたくさんあります。
この岩は「立岩(タテイワ)」といわれ、神様に祈るために人々が立て起こした祈願岩の一つです。
社務所の裏の大きな岩は、「神生岩(カミナリイワ)」と呼ばれております。
神社の建物の裏の岩群を中心に境内にかけ、大きな円形状に大岩が配置されております。このように配置された岩群は、「磐座(イワクラ)」と呼ばれ「磐境(イワサカ)」ともいわれます。
昔の人は、大きな岩に常世の国より神様をお招きして、農業生産、諸業繁栄、村里安全を祈願いたしました。
このように古代人等が祈願した神聖な場所ですから、現代では「古代祭祀遺蹟地」と呼ばれ、祈る時に使用された「つぼ・かめ・さら」などの土器破片や「やじり・おの」の石器も多数出土しております。それらは「弥生式」の中期の時代のものと認定され、紀元前二百年前頃より、この「ほくら」では、古代人が神様を祭祀していた一つの「証拠」であります。
また、ほくらの「磐座」は、昔大和の国、現奈良県桜井市の大神神社の背後の三輪山頂にある「磐座」と同じ時期のものといわれております。



猿丸宮司のご好意で、本殿裏の瑞垣内にある磐座を見せていただいた。
本殿を取り巻くように巨石が並んでいるが、猿丸宮司の話では、本殿の北に位置する小さな石がこの磐座群の中心だという。他の岩が地面に埋まっているのに対し、この石だけが、地面と切り離されているのがその理由らしい。
また、神社の境内やその外に存在する磐座について、いくつかは破壊されてしまったり、取り除かれてしまっているが、磐座は二重の円を形成しているようだと教えていただいた。

以前のレポート「六甲山系の磐座~六甲に走るレイライン~」で言及したが、六甲山系で有名な磐座である天叢雲剣の磐座と弁天岩を結んだ線をのばすとこの保久良神社に到達する。私は、保久良神社の位置が、重要な意味を持っていると考えている。
【保久良神社の本殿北の瑞垣内の磐座と猿丸宮司】Photograph 2013.7.14
(北緯34度44分08.53秒、東経135度16分40.99秒)

【保久良神社本殿東の磐座】Photograph 2013.7.14

【保久良神社本殿北東の磐座】Photograph 2013.7.14

【保久良神社本殿北の磐座】Photograph 2013.7.14
表面に線刻があるように見えるが、時間が無く詳しく調査できなかった。

【保久良神社本殿北の磐座 中心石】Photograph 2013.7.14

猿丸宮司によるとこの石が磐座群の中心となる石とのこと

【保久良神社本殿北西の磐座】Photograph 2013.7.14

【保久良神社本殿西の磐座】Photograph 2013.7.14

【保久良神社境内西にある磐座 神生岩(カミナリイワ) 南から撮影】Photograph 2013.7.14
(北緯34度44分07.48秒、東経135度16分40.95秒)

【保久良神社境内西にある磐座 神生岩(カミナリイワ) 北から撮影】Photograph 2013.7.14

【保久良神社境内南西にあるイワクラ】Photograph 2013.7.14

【保久良神社境内南にある磐座 立石 北から撮影】Photograph 2013.7.14
(北緯34度44分07.48秒、東経135度16分40.95秒)

【保久良神社境内南にある磐座 立石 南から撮影】Photograph 2013.7.14

【1987年の立石 】Photograph 1987.3.15

【保久良神社境内東にある遥拝所】Photograph 2013.7.14
ここは、イワクラが取り除かれた跡と考えられる。

【保久良神社境外東にあるイワクラ】Photograph 2013.7.14

【保久良神社境外東にある磐座 三交岩(サンゴイワ) 西から撮影】Photograph 2013.7.14
(北緯34度44分08.13秒、東経135度16分42.89秒)

【保久良神社境外東西にある磐座 三交岩(サンゴイワ) 南から撮影】Photograph 2013.7.14

【保久良神社境外東にある磐座 三交岩(サンゴイワ) 北下から撮影】Photograph 2013.7.14

【保久良神社境外西にあるイワクラ】Photograph 2013.7.14

『攝津保久良神社遺跡の研究 樋口清之』には、昭和16年に樋口清之氏が保久良神社の遺蹟を研究した結果が詳しく書かれている。以下その抜粋である。

當遺跡に布設せられてゐる巨石の石質は之を大別して、石英粗面岩Ryoliteと緑泥片岩Chlorite schistの二種類とすることが出來る様觀察した。
--------略-----------
當遺蹟上に存在する巨石は、その大小によらずほとんど全部が、自然の露出散布によるものではなく(石英粗面岩としては雷岩及び社務所北側のもの、緑泥片岩としては三五岩中の二三は自然露出のものと認められた)、いづれも人爲的に他より動かし來つて敷設せられたと考へられるので、假りに全數に於てはその二三割程に當る程度と考へられる緑泥片岩も、そのほとんどは、この山麓より運び上げられたと考へられまことに興味深いものがあるのである。
--------略-----------
本遺蹟には、その頂上部をめぐつて當地方産出の岩石たる石英粗面岩及び緑泥片岩の巨大なるものを用ひて人爲的に敷設構築せられた遺構を留めて居る。之は自然存在の巨石をもその中に利用した点も見られるが、大體はこの頂上部の自然の地形に沿つてほゞ圓形に配列せられ、北端に於て内接する二重又は三重の圓状を成して配列せられて居る如くであつた。かゝる巨大な岩石を任意に運搬敷設したその土木工學の知識は、他の祭祀遺蹟や古墳等の例に於てすでに我古代に於ては常識的なものであつたと認定し得られるが、しかし本遺蹟の如きは、先づ保存の可良なものゝ例として注目に價し、之が後述の如くその年代及び性質を實證する遺物を伴出してゐる點は、更に本遺蹟の學術的價値を昻めるものに外ならないのである。



【保久良神社の岩群図】 『攝津保久良神社遺跡の研究』より


【保久良神社の岩群の配置パターン図】 『攝津保久良神社遺跡の研究』より


--------略-----------
本遺蹟地内はすべて遺物散布地であるとも言ひ得る位遺物は多量に各所より發見せられてゐる。しかもその分布はほとんど石群の分布と軌を一にして居り、イ群よりは石鏃、土器片が、ロ群よりは土器片が、ハ群よりは石鏃、土器片が、ホ群へ群よりは石鏃、土器片が、ル群よりも石鏃、土器片が、ヲ群よりはその附近より土器片が、その巨石下の岩陰よりは石鏃が特に發見せられて居り、此の他チ群北方低所に在る用水池附近からも土器片を、又、遺蹟南傾面は一帯に土器片、石鏃等が廣く分布して居る。此等各々が果してかつて遺物包含層を有したものであるか否かは之を實證することを得ないが、先づ稀薄包含層があつて之が洗ひ出されたものが主であり、たゞ南方傾斜面のもののみはその上部の包含層が破壊せられてその遺物が落下散布したものと推定することを得るのである。
なほ遺物として本遺蹟通有の弥生式土器、土師器の外に、リ群東南方よりは祝部土器片及び玻璃製曲玉が散布して發見せられた。

--------略-----------
本地點は今は全部破壊せられ、その用石も破砕せられて全然痕跡を留めないのであるが、猿丸宮司の記憶によれば以前は第七圖平面圖に示す如く、長さ五尺巾三尺位の巨石を始め大小數個のものが不規則に集合し、その巨大なものゝ側と交叉する徑の隅より後述の鑿形磨石斧二個が、それぞれ發見せられたのであつた。この石は庭石に最適であるため早く取り去られ、たゞ最後にそのうちの小形の三尺及至二尺程の大きさを持つ石英粗面岩が相當深く埋沒して殘つてゐるに過ぎなかつた。この石は表土四五糎程の下に存在する六〇糎程の包含層のなほ下位に在つて約三十度程の傾斜を持つ基層の上に置かれて居り、その根には根固めが施されてその轉落防がれてあつた。その石のすぐ東側にほとんど三糎程の間をおいて一本のクリス型銅劍がその鋒を正北に向けて水平位に置かれて居つた。之は表土下約一〇〇糎、包含層上面下五五糎、其層上約五糎程の位置に在つたと言はれる。更にこの銅劍に接觸して二糎位づゝの距離を以て二個のサヌカイト製打製石鏃(後出、いづれも先端を損傷す)が東方に並んで居つた。この出土部位は他の天王前坂包含層に比較しては土壌の色に黒味を多く帯び、又粘製もやゝ弱い様に考へられ、無数の松材の木炭が混合して居つた。(以上猿丸武男氏報)

本遺蹟に於ける磐境の上限は少なくとも、千六百年以前頃よりも古い頃より始まり、金石併用の文化、第三様式彌生式土器文化の中に開始せられ、以後鐡器使用の我上代文化の中を經過し奈良朝、平安朝を經て今日に及んだものであり、その問に於ておそらく逐次構造物が加補せられ又は整備せられて今日見る如き二重又は三重圏と見做し得る磐境に整へられるに至つたものと考へ得るのである。



【出土した銅剣】
『攝津保久良神社遺跡の研究』より


この文献が書かれた時期には、神生岩は雷岩、三交岩は三五岩と表記されていたようである。(平津注)

カタカムナ文献


いろいろと逸話の残る保久良神社であるが、さらに不思議な話が伝わっている。

昭和24年、この神社が鎮座する金鳥山で、楢崎皐月がカタカムナ神社の平十字という老人からカタカムナという文献を見せられている。
そのカタカムナ文献は、幾何学的な円と直線からなる図象文字で書かれており、楢崎は、満州で交流していた蘆有三(ラウサン)導士から聞かされたアシア族の八鏡化美津文字(ハッキョウカミツモジ)ではないかと考え、これを翻訳することに成功した。

楢崎皐月の解読によってこのカタカムナ文献は高度な文明を築いた古代人の宇宙観を、詩歌という形で書いた科学書であることがわかったのである。楢崎は、これをもとに、相似象学と呼ばれる独自の学問を展開している。
それは、原子転換、正反重畳状態の原則、不確定性原理、極限飽和定律、風景工学、医療法、農法など驚愕な内容である。

楢崎皐月が書いた『日本の物理学予稿』から少し引用すると。

上古代が始元量と直感した間(マ)には、数種の基本的状態があり、それぞれの間(マ)の状態は微分された状態が統合されているという観方をしている。そして微分状態量のいくつかの組み合わせ量、すなわち状態和の量に従い、いろいろな物と成り、いろいろな物理を構成するという観方をしている。また間(マ)の基本的状態は始元状態の変遷の相(スガタ)であり、その変遷を(アマノタカマカハラ)と表現したのである。したがって後代人が(アマノタカマカハラ)を神の在す高天原、すなわち超自然界の如く解釈したことは当たっていない。上古代人は全く神秘思想がなく極めて高度の理学思想を持っていたことを指摘しておく。
さて(アマ)とは時空量が縮退している潜態であり、物質や生命質の発現し起動する以前の間(マ)の始元態、正しく言えば客観背後の潜態である。そして宇宙外の無限界を意味する。吾々が概念にもつ宇宙は、上古代人の直観によれば有限の宇宙球(タカタマ)であり、無限界の(アマ)には幾つかの宇宙球(タカタマ)が存在していると観ている。また無限界の(アマ)も微分無限量(アメ)の統合された潜態であると観ており、(アマ)の無限界を占有するいろいろな潜象の主(ヌシ)が存在すると観ている。そのことを(アメノミナカヌシ)と言い、無限界の微分量には(アメノミナカヌシ)が存在すると言う((アマ)(アメ)の2つの神名があることに要注意)。

中略

(A)素粒子、原子核、原子へ分化する有様を示した歌
(A1)(オキミツゴ アメクニヅチ モコロシマ アメクニサギリ アメクニクラド)(オキミツゴ)とは、モコロ微球の六方八軸に循環している電気、磁気、力の素量子の三種類(何れも潜象)であり、何れも正反配偶の素量子。
(アメクニ)とは、現象に潜象が重なっている意味であり現象と潜象の重畳状態のことである。例えば暗さと明るさとが重畳している朝・夕の情景の如き状態である。
(サヅチサギリ)とは、(モコロ)微球の六方八軸が解体されて、三種の配偶素量子が拡散された相(スガタ)
(クラド)とは、配偶素量子が線上に自由に並列したり、線が自由に統合して軸となる相(スガタ)
以上、個々の歌詞の意味から推して、(A1)の神名歌は次のように解読される:
「モコロシマ」の有様は、潜象と現象が重畳した状態であり(マリ)の六方八軸が解体されて、電気、磁気、力の素量子の三種類が拡散し、自由に線上に並列したり、線が自由に統合した軸となって持続している状態である」という直観を示している。

(A2)(モコロシマ オホトマトヒメ タケヒワケ ソコマリソギシマ アメノトリフネ)
(オホトマトヒメ)とは、潜態において(マリ)の六方八軸が統合されること
(タケヒワケ)とは、単調和の線軸と、複調和の線軸に分かれることであり、そのような(モコロシマ)である意味(描像参照)
(ソコマリソギシマ)とは、(モコロ)微球の拡散現象を(シマ)の凝結する現象のこと。
(アメノトリフネ)とは、始元量(アメ)本来性である(ソコタチ)と(ソギタチ)に基づく意味。
以上、個々の歌詞の意味から推して、(A2)の神名歌は次のように解読される:
「モコロシマは六方八軸が統合された線軸と成り、単調和の軸線と複調和の軸線に分かれる(シマ)である。そして配偶素量子の拡散流と軸線の凝結の流れとは、始元潜態(アマ)の二つの本来性に基づく現象であり渦巻流体と成る関連である」という直観を示している。
下に図示する描像は、単調軸線と複調和軸線とに分かれる縞の模型である。また後項で説明する単調粒子と複調和型粒子(対発生の粒子)の発生の模型でもある。




(A3)(モコロシマ オホゲツヒメ ミツゴナミ ヒノカガビコ タグリカナヤマ)
(オホゲツヒメ)とは、潜態において(モコロ)状態の六方八軸の統合された軸線が、渦巻きの流れの向きが互いに逆向く相(スガタ)となることを意味する。
(ミツゴナミ)とは、軸線の逆向きの流れにより、軸線を構成する電気、磁気、力の三配偶素量子が振動の波と成ることであり、電磁力波の発生を意味する。
(ヒノカガビコ)とは、電磁力波の発生により、光の粒子(光子)が発生する意味。
(タグリカナヤマ)とは、電磁力波の賦有する電、磁、力の素量を放出して、中性の微子が発生することを意味する。
したがって、(A3)の神名歌の意味は次のように解読される:
「モコロシマの状態は、潜態において統合軸線の渦の流れが正反の向きと成り、軸線を形成する電気、磁気、力の三配偶素量子は波動波と成る。そして電磁力波から光子や中性微子が発生する」という直観を示している。科学においては電磁力波という見解は無く、電磁波である。そいて電磁波の発生は電子の有するエネルギー準位の落差に基き、高準位から低準位に落ちた電子がその準位の定常状態に達するまで過剰エネルギーを放出することによって電磁波が発生するという見解である。また光子や中間微子の発生は解明されていない。吾々は直観の方が妥当性が多いと判断している。

【日本の物理学予稿 より】




このように、神名や国名は古代の物理用語であり、古文書を史書としてではなく、科学書として解読したのである。
楢崎は、陸軍の技術研究機関で研究を行なっていた人物であり、この解釈には、多分に楢崎の自論が持ち込まれているのは間違いないであろう。
したがって、この解説を全て鵜呑みにすることはできないが、カタカムナ文献の「カムナガラ」「ミトロカエシ」「イヤシロチ」などの言葉のリズムは魅力的であり興奮すら覚える。この文献自体を創作と切り捨てるには、あまりにも魅力的すぎるのである。

【上古代 八鏡之文字 研究資料(再写録)楢崎皐月 昭和29年4月5日-6月21日より】

上図のように カタカムナ文献は、右回りの螺旋状に幾何学文字が配置されていて、中心から外に向って読むそうである。
保久良神社のイワクラの配置について、樋口清之氏は二重及び三重の円と推測されているが、私には、渦巻状に配置されているのではないかと思えてならない。

樋口清之氏の二重円及び三重円説は、イ群を共有した円となる。したがって猿丸宮司が主張していた中心石が本殿北のイ群にある事と合致する。しかし不自然ではないだろうか、普通、二重円や三重円は、独立した円を描くと思うのだ。

むしろ、ト群を起点とした螺旋と考えた方が自然ではないだろうか。
この場合、最も重要な点はト群になるが、この地点には立岩というメンヒルが立っているのである。私は、このメンヒルの方が遺蹟の中心に相応しいと考える。
そして、これは、このカタカムナ文献に書かれている渦巻流体と保久良神社の関係を示すものであろう。
さらに、保久良神社の御祭神の別名が珍彦=ウズヒコというのも意味深である。

  【保久良神社の岩群の配置パターン図】

また、樋口清之氏の調査の中で銅剣が出土した層に木炭が多量に埋まっていたという事実が報告されているが、カタカムナには、木炭を地面に埋めて土地をイヤシロチ(快適な土地)にするという技術があり、この点も保久良神社とカタカムナをつなげる証拠の一つかもしれない。

さらに、私が注目するのは、このカタカムナ文献の第1歌の中に出てくる「アシアトウアン ウツシマツル」という言葉である。
素直に読めば、楢崎が見たカタカムナ文献は、アシアトウアンという人物が写したものという意味である。
この人物は誰なのか、
これについては、楢崎が満州の老師から聞いたアシア族の人物と考えるのが自然であろう。

では、このアシア族とは何者なのだろうか。
楢崎は、満州の老師から、上古代の日本にアシア族という高度の文明をもつ種族が存在し、八鏡の文字を創り、特殊な鉄などさまざまな生活技術を持っていた。それが神農氏らによって支那に伝えられて、支那の文明の元になったという話を聞いている。
また、平十字は、カタカムナ神を祀る一族の王アシアトウアンと天皇家の祖先が戦い、アシアトウアンは敗けて九州で死んだと語ったともいう。

つまり、アシア族は、数万年前の日本に存在した種族であり、今とは異なる科学原理に基づいた高度な文明を持っており、その末裔は、天孫族に滅ぼされているということである。

この古代文明を築いたアシア族こそ、保久良神社のイワクラをはじめ、六甲山系に数多く残るイワクラを造った一族にふさわしいと思うのだ。

もう、お気づきだと思うが、神戸市の東に位置する「芦屋」という地名は、六甲の地にアシア族が住んでいた証拠ではないだろうか。


2014年3月8日  「保久良神社とカタカムナ」  論文 平津豊
○2014年3月8日 平津豊ホームページ ミステリースポット掲載
○2014年4月13日   一部改正
○2016年12月12日 イワクラ(磐座)学会会報38号 掲載