保久良神社とカタカムナ |
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Report 2014.3.8 (2014.4.13改訂) 平津 豊 Hiratsu Yutaka | ||
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2014年3月8日に「保久良神社とカタカムナ」のレポートをこのホームページに発表した後、イワクラ(磐座)学会の大先輩である江頭務氏から、このレポートに関しての貴重なアドバイスと保久良神社発掘時の文献をいただいた。 文献は、『攝津保久良神社遺跡の研究』 (樋口清之 史前学雑誌14巻2・3号合併号 1942年)で、静岡県の登呂遺跡の発掘などを行った考古学者である樋口清之氏が保久良神社を調査した報告書である。当然ながら、その調査内容は、私が訪れて写真を撮っただけのものとは比ぶべくもない。その内容を引用した方がよりわかりやすくなると考え、改訂を行った。 2014年4月13日 |
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兵庫県神戸市東灘区本山町北畑680、金鳥山中腹に保久良神社(ホクラジンジャ)という古社が鎮座している。(北緯34度44分08.08秒、東経135度16分40.91秒) あまり有名とは言えない神社ではあるが、この神社には、巨大な古代の謎が潜んでいる。2013年7月14日、この保久良神社を20年ぶりに訪れ、猿丸宮司のお話を聞くことができた。その時のお話も交えてこの神社の謎の数々を紹介する。 |
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【保久良神社】Photograph 2013.7.14 | ||
保久良神社の御祭神 |
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保久良神社の御由緒は以下のとおりである。 |
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保久良神社 御由緒
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御祭神は、主神に須佐之男命(スサノオノミコト)、相殿に大歳御祖命(オオトシミオヤノミコト)、大国主命(オオクニヌシノミコト)、椎根津彦命(シイネツヒコノミコト)が配されている。また、末社に祓御神社(天照皇太神、春日大神)も祀られている。 御祭神について、境内に説明が掲げられていたので転記する。 |
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御祭神「椎根津彦命」の御事蹟(その一)
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上記の社伝によれば、椎根津彦命が実在の人物として登場し、須佐之男命・大歳御祖命・大国主命を祭祀したとある。 延喜式神名帳にも「保久良(ホクラノ)神社」として記載され、御祭神は須佐男命となっている。 しかし、やはり、この保久良神社の主神は、椎根津彦命であろう。 椎根津彦命=珍彦について、少し掘り下げてみる。 『古事記』では、椎根津彦命は次のように、神武東征に登場する。 |
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またその國より遷り上り幸でまして、吉備の高嶋宮に八年坐しき。故、その國より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて、釣しつつ、打ち羽擧き來る人、速吸門(ハヤスヒノト)に遇ひき。ここに喚び歸せて、「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は國つ神ぞ。」と答え曰しき。また、「汝は、海道を知れりや。」と問ひたまへば、「能く知れり。」と答へ曰しき。また、「從に仕へ奉らむや。」と問ひたまへば、「仕へま奉らむ。」と答へ曰しき。故ここに槁機を指し渡して、その御船に引き入れて、すなはち名を賜ひて、槁根津日子(サヲネツヒコ)と號けたまひき。こは、倭國の造等の祖。 |
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『日本書紀』では、次のように書かれている。 | ||
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其の年の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。速吸之門に至ります。時に、一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、招せて、因りて問ひて曰はく、「汝は誰そ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神なり。名をば珍彦(ウヅヒコ)と曰す。曲浦(ワダノウラ)に釣魚す。天神の子来でますと聞りて、故に即ち迎へ奉る」とまうす。又問ひて曰はく、「汝能く我が為に導つかまつらむや」とのたまふ。対えて曰さく、「導きたてまつらむ」とまうす。天皇、勅をもて漁人に椎槁(シヒサオ)が末を授して、執へしめて、皇船に牽き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦(シヒネツヒコ)とす。此即ち倭直部が始祖なり。 |
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『旧事本紀』では、次のように書かれている。 | ||
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天孫親ら諸ら諸の皇子・舟師を帥て東征たまふ。速吸門に至し時に一漁人有て艇に乗て至る。
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どの話も同一の出来事を伝えていることに異論はないであろう。 神武天皇が海路で大阪に攻め入る途中、速吸門で待っていた珍彦が神武天皇を案内し、椎根津彦という名を賜る話である。 その後、椎根津彦は神武天皇に付き従い、変装して天香具山の土を持ち帰り、これをもって神武天皇は戦勝を祈願し、勝利する。 椎根津彦はその功により、倭国造の要職に就くという話でもあり、倭国造つまり大倭氏の祖神逸話にもなっている。 また、姫路沖の家島にある「どんがめっさん」という海亀を模したイワクラには次のような逸話が伝わっている。 |
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白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、沖で釣をしていると、吉備水道を抜け出て来た船団が播磨灘に向かってやってきて、翁がこの海に関して詳しい事を知り、翁に道先案内を頼みました。船団は、家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、食料の補充をして数年間がたちました。そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。難波について翁は手柄を褒められました。翁の亀は、忙しい主人をおいて、先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。
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この家島の逸話も椎根津彦と神武天皇の出来事を伝えたものと考えられる。 神武天皇が吉備の高嶋から大阪に行く途中に出会っており、家島にもその話が伝わっているとすると、速吸門は明石海峡だと考えられる。 そして、その椎根津彦が祀られているのが神戸の保久良神社であるということに違和感は全く無い。 これらの話の中に登場する珍彦こと椎根津彦は、海亀に乗った翁が釣りをしているという姿で表現されているが、この姿から何か想像しないだろうか、そう浦島太郎である。 珍彦と浦島太郎の関係については、考察が長くなるので、別の機会に述べることにする。 |
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保久良神社の磐座 |
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保久良神社に話を戻そう。 神社の南には石灯篭があり「灘の一つ火」と呼ばれている。古代から絶やすことなく灯がともされていたが、昭和33年頃に電灯に変わったようである。 阪神大震災でこの石灯篭をはじめ、鳥居や社務所も倒壊したが、今では、猿丸宮司や信仰者によって復興している。 この「灘の一つ火」は、灯台の役目をしていて沖を通る船の安全を守ったもので、保久良神社は、古代の海上交通の要所であった。 まさに、神武天皇の海路の案内をした椎根津彦命=珍彦を祀っている神社に相応しい。 |
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【保久良神社から一直線に海に向って参道が開いている】Photograph 2013.7.14 | ||
また、日本武命が熊襲遠征の帰途、夜に航路がわからなくなった時、保久良神社の灯火が見えて難波へ帰りつけたという話もある。1月20日の大俵(ダイヒョウ)祭では、餅を長方形に伸ばして、両側から折り重ね、藁苞にして供える。これは昔、兵糧として用いられた餅で、日本武尊が熊襲征伐の帰路、この餅を持参して参拝したものと伝えられている。 さらに、社伝によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、広田、長田、生田神社を祭り、保久良に宝物を収めたとされており、広田神社に並ぶ重要な神社であったと考えられる。 保久良神社および背後の金鳥山の一帯は、六甲山よりも早く隆起した土地で、水成岩の地質である。 この古い地質の保久良神社を取り巻くように巨石が点在し、昭和13年の社殿改築工事の際には、紀元前2~300年頃の祭礼用の石斧や銅戈、鏃、土器などが出土している。古代から、この地で祭祀が行なわれていた証拠である。 磐座に関する境内の説明には以下のように書いてある。 |
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「磐座」古代祭祀遺蹟地
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猿丸宮司のご好意で、本殿裏の瑞垣内にある磐座を見せていただいた。 本殿を取り巻くように巨石が並んでいるが、猿丸宮司の話では、本殿の北に位置する小さな石がこの磐座群の中心だという。他の岩が地面に埋まっているのに対し、この石だけが、地面と切り離されているのがその理由らしい。 また、神社の境内やその外に存在する磐座について、いくつかは破壊されてしまったり、取り除かれてしまっているが、磐座は二重の円を形成しているようだと教えていただいた。 以前のレポート「六甲山系の磐座~六甲に走るレイライン~」で言及したが、六甲山系で有名な磐座である天叢雲剣の磐座と弁天岩を結んだ線をのばすとこの保久良神社に到達する。私は、保久良神社の位置が、重要な意味を持っていると考えている。 |
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【保久良神社の本殿北の瑞垣内の磐座と猿丸宮司】Photograph 2013.7.14 (北緯34度44分08.53秒、東経135度16分40.99秒) |
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【保久良神社本殿東の磐座】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社本殿北東の磐座】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社本殿北の磐座】Photograph 2013.7.14 表面に線刻があるように見えるが、時間が無く詳しく調査できなかった。 |
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【保久良神社本殿北の磐座 中心石】Photograph 2013.7.14 猿丸宮司によるとこの石が磐座群の中心となる石とのこと |
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【保久良神社本殿北西の磐座】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社本殿西の磐座】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社境内西にある磐座 神生岩(カミナリイワ) 南から撮影】Photograph 2013.7.14 (北緯34度44分07.48秒、東経135度16分40.95秒) |
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【保久良神社境内西にある磐座 神生岩(カミナリイワ) 北から撮影】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社境内南西にあるイワクラ】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社境内南にある磐座 立石 北から撮影】Photograph 2013.7.14 (北緯34度44分07.48秒、東経135度16分40.95秒) |
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【保久良神社境内南にある磐座 立石 南から撮影】Photograph 2013.7.14 |
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【1987年の立石 】Photograph 1987.3.15 |
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【保久良神社境内東にある遥拝所】Photograph 2013.7.14 ここは、イワクラが取り除かれた跡と考えられる。 |
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【保久良神社境外東にあるイワクラ】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社境外東にある磐座 三交岩(サンゴイワ) 西から撮影】Photograph 2013.7.14 (北緯34度44分08.13秒、東経135度16分42.89秒) |
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【保久良神社境外東西にある磐座 三交岩(サンゴイワ) 南から撮影】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社境外東にある磐座 三交岩(サンゴイワ) 北下から撮影】Photograph 2013.7.14 | ||
【保久良神社境外西にあるイワクラ】Photograph 2013.7.14 |
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『攝津保久良神社遺跡の研究 樋口清之』には、昭和16年に樋口清之氏が保久良神社の遺蹟を研究した結果が詳しく書かれている。以下その抜粋である。 |
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當遺跡に布設せられてゐる巨石の石質は之を大別して、石英粗面岩Ryoliteと緑泥片岩Chlorite schistの二種類とすることが出來る様觀察した。
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カタカムナ文献 |
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いろいろと逸話の残る保久良神社であるが、さらに不思議な話が伝わっている。 昭和24年、この神社が鎮座する金鳥山で、楢崎皐月がカタカムナ神社の平十字という老人からカタカムナという文献を見せられている。 そのカタカムナ文献は、幾何学的な円と直線からなる図象文字で書かれており、楢崎は、満州で交流していた蘆有三(ラウサン)導士から聞かされたアシア族の八鏡化美津文字(ハッキョウカミツモジ)ではないかと考え、これを翻訳することに成功した。 楢崎皐月の解読によってこのカタカムナ文献は高度な文明を築いた古代人の宇宙観を、詩歌という形で書いた科学書であることがわかったのである。楢崎は、これをもとに、相似象学と呼ばれる独自の学問を展開している。 それは、原子転換、正反重畳状態の原則、不確定性原理、極限飽和定律、風景工学、医療法、農法など驚愕な内容である。 楢崎皐月が書いた『日本の物理学予稿』から少し引用すると。 |
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上古代が始元量と直感した間(マ)には、数種の基本的状態があり、それぞれの間(マ)の状態は微分された状態が統合されているという観方をしている。そして微分状態量のいくつかの組み合わせ量、すなわち状態和の量に従い、いろいろな物と成り、いろいろな物理を構成するという観方をしている。また間(マ)の基本的状態は始元状態の変遷の相(スガタ)であり、その変遷を(アマノタカマカハラ)と表現したのである。したがって後代人が(アマノタカマカハラ)を神の在す高天原、すなわち超自然界の如く解釈したことは当たっていない。上古代人は全く神秘思想がなく極めて高度の理学思想を持っていたことを指摘しておく。
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このように、神名や国名は古代の物理用語であり、古文書を史書としてではなく、科学書として解読したのである。 楢崎は、陸軍の技術研究機関で研究を行なっていた人物であり、この解釈には、多分に楢崎の自論が持ち込まれているのは間違いないであろう。 したがって、この解説を全て鵜呑みにすることはできないが、カタカムナ文献の「カムナガラ」「ミトロカエシ」「イヤシロチ」などの言葉のリズムは魅力的であり興奮すら覚える。この文献自体を創作と切り捨てるには、あまりにも魅力的すぎるのである。 |
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【上古代 八鏡之文字 研究資料(再写録)楢崎皐月 昭和29年4月5日-6月21日より】 |
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上図のように カタカムナ文献は、右回りの螺旋状に幾何学文字が配置されていて、中心から外に向って読むそうである。 保久良神社のイワクラの配置について、樋口清之氏は二重及び三重の円と推測されているが、私には、渦巻状に配置されているのではないかと思えてならない。 樋口清之氏の二重円及び三重円説は、イ群を共有した円となる。したがって猿丸宮司が主張していた中心石が本殿北のイ群にある事と合致する。しかし不自然ではないだろうか、普通、二重円や三重円は、独立した円を描くと思うのだ。 むしろ、ト群を起点とした螺旋と考えた方が自然ではないだろうか。 この場合、最も重要な点はト群になるが、この地点には立岩というメンヒルが立っているのである。私は、このメンヒルの方が遺蹟の中心に相応しいと考える。 そして、これは、このカタカムナ文献に書かれている渦巻流体と保久良神社の関係を示すものであろう。 さらに、保久良神社の御祭神の別名が珍彦=ウズヒコというのも意味深である。 |
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【保久良神社の岩群の配置パターン図】 | ||
また、樋口清之氏の調査の中で銅剣が出土した層に木炭が多量に埋まっていたという事実が報告されているが、カタカムナには、木炭を地面に埋めて土地をイヤシロチ(快適な土地)にするという技術があり、この点も保久良神社とカタカムナをつなげる証拠の一つかもしれない。 |
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さらに、私が注目するのは、このカタカムナ文献の第1歌の中に出てくる「アシアトウアン ウツシマツル」という言葉である。 素直に読めば、楢崎が見たカタカムナ文献は、アシアトウアンという人物が写したものという意味である。 この人物は誰なのか、 これについては、楢崎が満州の老師から聞いたアシア族の人物と考えるのが自然であろう。 では、このアシア族とは何者なのだろうか。 楢崎は、満州の老師から、上古代の日本にアシア族という高度の文明をもつ種族が存在し、八鏡の文字を創り、特殊な鉄などさまざまな生活技術を持っていた。それが神農氏らによって支那に伝えられて、支那の文明の元になったという話を聞いている。 また、平十字は、カタカムナ神を祀る一族の王アシアトウアンと天皇家の祖先が戦い、アシアトウアンは敗けて九州で死んだと語ったともいう。 つまり、アシア族は、数万年前の日本に存在した種族であり、今とは異なる科学原理に基づいた高度な文明を持っており、その末裔は、天孫族に滅ぼされているということである。 この古代文明を築いたアシア族こそ、保久良神社のイワクラをはじめ、六甲山系に数多く残るイワクラを造った一族にふさわしいと思うのだ。 もう、お気づきだと思うが、神戸市の東に位置する「芦屋」という地名は、六甲の地にアシア族が住んでいた証拠ではないだろうか。 |
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2014年3月8日 「保久良神社とカタカムナ」 論文 平津豊 ○2014年3月8日 平津豊ホームページ ミステリースポット掲載 ○2014年4月13日 一部改正 ○2016年12月12日 イワクラ(磐座)学会会報38号 掲載 |
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