春日大社の磐座

 Report 2018.9.9 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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春日大社

奈良県の神社と言えば、真っ先に浮かぶのは春日大社であろう。奈良に平城京が置かれた時代、国家鎮護の社として藤原氏によって創建された神社である。
春日大社は、768年に称徳天皇の勅命で、藤原永手(ながて)によって、現在地に社殿が造営され、鹿島神宮から武甕槌(たけみかづち)命、香取神宮から経津主(ふつぬし)命、枚岡神社から天児屋根(あめのこやね)命と比売神(ひめかみ)が勧請された。武甕槌命、経津主命、天児屋根命は、いづれも藤原氏の氏神であり、まさに藤原氏の神社である。
【春日大社中門】Photograph 2017.12.17

【春日大社 燈篭】Photograph 2017.01.03

『延喜式の神名牒』には以下のように書かれている。

大和国添上郡春日祭神四座
武甕槌命、齊主命、天児屋根命、姫神
今按帝王編年記一ノ御殿健甕槌命常陸國鹿島伝伝二ノ御殿伊波比主命下總國香取三ノ御殿天兒屋根命河内國枚岡四ノ御殿比賣神伊勢國相殿自伊勢大神宮遷御など諸説あれど祝詞式に四座の神を擧たるに比賣神をば第四に記して所在をいはず比賣神の神階も三座の下に序られ玉ふを以て考ふるに伊勢大御神に非ること明けしこは平岡神を河内より遷奉る時かの平岡にます天兒屋命または其姫神をも同じく遷されたる故に天兒屋命姫神と並べて記せるものなるべし故今延喜式に因て之を訂せり。


ここで、神名牒の作者は、四神の一柱を齊主命(伊波比主命)と表記している。このイワヒヌシはフツヌシのことである。香取の神はフツヌシであるのだが、フツヌシは石上神社の御祭神でもあり、これを嫌った藤原氏が名前を変えたものと考えられる。また、鹿島のタケミカヅチも本来はフツヌシだった可能性も指摘されている。これもまた藤原氏による改竄である。
そして、神名牒の作者が長々と記しているのは、ヒメガミのことである。伊勢大神つまり天照大御神と言われているが、他の三神より下に置かれているのでこれを否定し、天児屋根命の姫であろうと推測している。このヒメガミが当時から謎であったことがわかる。
現在でも天照大神とする説や宗像三女とする説などがある。
一方、天児屋根命の后であれば、天美豆玉照比咩大神。母であれば許登能麻遅比売命となるが、なぜヒメガミとして名前を明示していないのか不可解である。さらに、鹿島と香取の神が単独で勧請されているのに、なぜ枚岡の神だけ夫婦で勧請されているのであろうか。
このヒメガミが誰なのかについては後述する。

春日大社の特別な祭は、式年造替(しきねんぞうたい)である。770年から20年毎に社殿や神宝を新しくする祭で、ほぼ中断なく1200年間継続されている。直近では、2016年から2017年にかけて第六十次式年造替が執り行われ、今回は、本殿の前に鎮座する獅子と狛犬や金地螺鈿毛抜形太刀が復元された。
また、3月31日に毎年行われる春日大社の例祭である春日祭は、春日大社の最も重要な祭であり、加茂社の葵祭と石清水八幡宮の石清水祭とともに天皇の勅使が参向する三勅祭である。
しかし、これらの祭よりも盛大に行われる祭が「おん祭」である。
奈良町では、「まつりおさめはおん祭」と言われも毎年師走の15日から18日に行われる。

おん祭

2017年12月16日の夜、春日若宮おん祭の遷幸(せんこう)の儀に参列した。
春日大社の二の鳥居前に着いたのは16日の23時であった。二の鳥居から先は神職と崇敬会の方々しか入れない。一般の参列者は二の鳥居の前から参道の両脇に並ぶことになる。
暗い参道を続々と人が登って行く。係りの人から写真撮影禁止と懐中電灯などの一切の灯りの禁止を言い渡された。
【春日大社 二の鳥居】Photograph 2017.12.16

23時45分になると全ての灯りが消えた。24時から神事が行われるが、二の鳥居から若宮までは200メートルもあるので何が行われているかわからない。しばらくすると暗闇の中から松明の明かりが近づいてきた。5、6名の神職が参道の両脇を大きな松明を地面に接触させて火の粉を落として道を清めていく。参道の両脇に2本の光の道が描かれた。香の匂いもしていたので、先導の人たちは香も焚いていたようである。松明の煙か、香の煙かわからないが、靄がかかった。先導が遠ざかると、暗闇の中、火の粉による光の道だけが見えている。
雅楽の音とヲーヲーという警蹕の声が近づいてきた。
鳥居の向こうがぼやっと白く輝くと、その白い塊が近づいてきた。靄のせいであろうか、灯りはないはずなのに、不思議に白い塊が光っている。
その白い塊が目の前に達すると、白い装束の神職が何重にも御神体を取り囲んで進んでいるのがわかる。その歩く速度は非常に速いもので、一瞬で目の前を通り過ぎた。その後を雅楽と崇敬者の一団が長々と続いた。崇敬者の人たちも何かに取り憑かれたかのようにヲーヲーという警蹕の声を発している。
非常に神秘的な神事であったが、私が今まで見た神様のお渡り式とは、異質なものを感じた。一つ目は、本当の真っ暗闇で行われていることである。他の神社では電灯は消すが松明ぐらいはつけるし、写真のフラッシュも飛び交う。また、町の灯りが届いて真っ暗闇にはならない。この祭の暗闇は広大な春日大社の敷地があってこそ実現していることである。
ニつ目は、大人数での警蹕の声である。雅楽の笛の音と混じったそれは初めての体験であった。正確な人数はわからないが、神職が100名以上、信者が1000名程度であろうか、このような大人数の警蹕は地鳴りのようであった。
三つ目は、ゆったりとしたお渡りではなく、ものすごい速度で御神体を運んでいることである。これによって「厳か」という感じを受けなかった。
また、神社側から参列者へ発せられた注意の言葉からは、参列者を歓迎していないという様子が感じられ、現場はピリピリとした雰囲気になっていた。今までいろいろとマナーの悪い人がいた故のことなのだろう。さらに、神社側からするとこの神事は一般の人に見てほしくないものなのかもしれない。
この遷幸の儀からは、「荘厳」より「畏怖」が強く感じられた。
その後1時から、御旅所に建てられた行宮(あんぐう)で暁祭が行われた。行宮は、この祭りの時だけ建てられる社で、その前には土を盛り上げた舞台が造られ、左右に4メートルもの大きさの鼉太鼓が設置されていた。この装飾が素晴らしい。鳳凰の飾りに囲まれた二つ巴の鼉太鼓の上には月輪が、双龍の飾りに囲まれた三つ巴の鼉太鼓の上には日輪が飾られてる。真っ暗闇の中を行幸してきた神様は、この行宮で松明の灯りに迎えられる。
20名ほどの神官がリレー方式で数多くの神饌をてきぱきと神様に捧げ、祝詞を奏上した後、巫女舞が献上され、撤饌で終わる。
運よく一番前で暁祭を見せていただき、その幽玄に浸ったが、終わる頃には体が冷えきっていた。
17日の昼間には、お渡り式、松の下式、競馬や流鏑馬、御旅所祭などが盛大に行なわれ、午後11時には、還幸(かんこう)の儀が行われて、神様が若宮にお戻りになる。
【おん祭の暁祭 行宮 】Photograph 2017.12.17

【おん祭の暁祭 行宮 】Photograph 2017.12.17

【おん祭 行宮 】Photograph 2017.12.17

【おん祭の流鏑馬用の馬】Photograph 2017.12.17

若宮

さて、このように年に一度、奈良町に行幸し、人々の熱烈な歓迎を受ける若宮様とは何者なのであろうか。
若宮の御祭神は、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)であり天児屋根命の息子とされているので何も問題はないように見える。
しかし、この若宮の創建が普通ではない。
若宮神主家の秘記『若宮御根本縁又根元 同六諸神根元井進物日記』には、1003年3月3日巳刻、本殿第四殿の板敷に「心太様」のものが落ち、中から蛇が這い出て第四殿に入った。1041年3月1日、童子を通じて春日神より「五所御子、つまり5番目の御子神である若宮に対し御供を行わないなら私への御供は受け付けない」という信託が下ったため、若宮は第二殿と第三殿の間に祀られ、1135年に現在の場所に社殿が建てられた。この翌年からおん祭が始まった。
一般的にこの不可解な出来事は、興福寺の台頭と本地垂迹説で説明されているが、私は地主神の復権と藤原氏の怨霊信仰ではないかと考えているのである。
【若宮】Photograph 2017.12.17

【若宮】Photograph 2017.12.17

御蓋山

御蓋山の西麓には、南門前(出現石)、御間道側(さぐり石)、寿月観の東側、神庫の西階段、春日明神遥拝所、枚岡神社遥拝所、伊勢神宮遥拝所、龍王珠石、水谷神社、市の井恵毘須神社、石荒神社などの磐座が点在している。
そして、その御蓋山の山頂には、延喜式内社の「大和日向神社」に比定されている本宮神社が鎮座し、磐境や磐座が存在している。これは、大神神社の三輪山の祭祀形態と酷似している。三輪山の頂上にも日向御子神を祀る高宮神社(こうのみや)が鎮座し、その側には奥津磐座が存在する。そして三輪山の麓にも辺津磐座が点在しているのである。
したがって、この御蓋山も三輪山と同じく神奈備山であったと考えられる。
つまり、8世紀に藤原氏が春日大社を建てる前からこの地では、御蓋山を聖山とする祭祀が行われていたのである。古文書にも添上郡の春日郷に春日氏(和珥氏)や山村郷に阿倍氏が居住していたことが記されている。
藤原氏は、古代からの祭祀の場に、春日大社を建てたのである。春日大社は北を拝する形で建てられているが、これは、藤原氏が平城京の南北ラインに合わせて建てたものである。本来ならば御蓋山を拝する東西ラインで建てられるべきものを藤原氏は古代の祭祀形態を無視して、春日大社を建てたのである。しかもこの場所は、平城京を見下ろす高台にあり、藤原氏の栄華と傲慢を示している。
【御蓋山浮雲峰遥拝所】Photograph 2015.04.09

【御蓋山本宮神社遥拝所】Photograph 2015.04.09

【春日大社と若宮の祭祀ライン】googleマップ

この藤原氏の傲慢さを示す次のような逸話も残っている。
武甕槌命は春日野の地主である榎本の神に「この土地を地尺だけ譲ってほしい」と言った。榎本の神は「三尺くらいなら」と承諾したが、武甕槌命は広大な土地に囲いをした。榎本の神は「話が違う」と抗議したが、武甕槌命は「私は地下三尺と言ったのに、あなたが聞き取れなかったのです。」と言った。住む所がなくなった榎本の神のために、春日大社本殿のすぐそばに社を造った。というものである。まさに武甕槌命が地主神から土地をだましとったことが語られている。
榎本神社は摂社として祀られているが、今でも耳が遠い神として参拝者から柱を叩かれる仕打ちを受けている。

このように、藤原氏は、御蓋山の祭祀場であった場所から地主神を追い出し、他の場所から藤原氏に関係の深い神々を勧請して春日大社を建設した。しかし、1041年にその地主神が若宮として復活するのである。
関裕二氏は著書の中で「神社で稚宮、若宮と言った場合、多くは祟る神を祀っている。理由はあらためて説明するまでもあるまい。童子は祟る鬼だからである。」と述べている。
この若宮が地主神であり、藤原氏が祟りを恐れて若宮社に祀ったのである。その証拠に、若宮社は春日大社とは異なり、御蓋山を拝する東西ラインに建てられているのであり、若宮の神が年に一度行幸するおん祭では、祟りを恐れて盛大にもてなすのである。おん祭の遷幸の儀から「畏怖」が感じられたのは当然なのである。

ここで、春日大社の第四殿に祀られている比売神は誰なのかについてである。このヒメガミについて定説は無く、しかも一般名詞であることは、神が固有名詞を付けられる前から祀られていた神を示している。古代の自然神は山の神とか水の神と呼ばれ、神話に登場する人格神が現れたのは後世の事である。したがってこのヒメガミは、御蓋山を中心とする祭祀場で祀られていた地主神と考えられるのである。
この説を主張した薬師寺慎一氏は、宇佐神宮に神功皇后と応神天皇との間に祀られている比売神も御許山の地主神であり、枚岡神社の比売神もまた天児屋根命の后神ではなく、生駒山の地主神であろうと述べている。

春日大社の磐座

春日大社の磐座についても、この祟りへの恐れが感じられる。
まずは、南門前の出現石である。若宮の御祭神である赤童子が現れた石と言われる。または南門に掲げられた「鹿島大明神」の扁額が落雷により落下して穴があき、その穴に扁額を埋めた額塚とされる。若宮と童子そして、地主神の祟りのような逸話が残っているが、本来は古代から祀られていた磐座であろう。

【春日大社 南門】Photograph 2017.12.17

【出現石】Photograph 2015.04.09

【春日赤童子像 植槻八幡神社蔵 1488年】『おん祭と春日信仰の美術』より

布生橋(ふしょうばし)の手前に埋まっている石がさぐり石である。出現石からさぐり石までの距離を、目を閉じて歩ければ願い事が叶うと言われているが、これも磐座と考えられる。また、出現石もさぐり石も一部が現れているだけであり、磐座を恐れて意図的に埋めたのかもしれない。
【さぐり石】Photograph Photograph 2017.12.17

若宮から紀伊神社まで続く道沿いにある遥拝所には、石が用いられている。
春日明神遥拝所は、鎌倉時代に明恵上人が9個の石の上から春日大社本殿を遥拝したことが伝わる場所である。
【春日明神遥拝所】Photograph 2015.04.09

枚岡神社遥拝所は、小さな石を積み上げた石積みである。
【枚岡神社遥拝所】Photograph 2015.04.09

伊勢神宮遥拝所は、二つに割れた大石である。
【伊勢神宮遥拝所】Photograph 2015.04.09

紀伊神社の側に、善女竜王が尾玉を納めた所と伝わる龍王珠石がある。これも小さな石を積み上げた石積みである。
【龍王珠石】Photograph 2015.04.09

水谷(みずや)神社の子授石は、女陰を模った磐座であり、古代からの子孫繁栄の信仰である。
【子授石】Photograph 2017.01.03

【祭祀遺跡図】『春日大社古代祭祀遺跡調査報告』より
春日大社の重要な磐座が本殿裏に存在するが、これは現在、見ることができない。しかし、60回目の式年造替を記念して2015年の4月1日から5月31日の間、140年ぶりに後殿への参入が許されたので、行ってきた。
その磐座は、第一殿と第二殿の裏に鎮座していた。今まで神職以外は拝礼する事ができなかった秘中の石であるが、一切の記録がない神秘の石でもある。春日大社には数多く文書が所蔵されているが、それでも記載が無いそうである。そしてこの磐座の一番の神秘がその形状と表面が白い漆喰で塗り固められていることである。

こんな磐座は見たことが無い。形は面の角が立っており結晶性が高くて劈開する岩質である。水晶かもしれないが漆喰が塗られているため判別できない。
一般人はこの磐座を目にすることはできないが、これと類似した磐座が水谷神社の床下に存在しているのでそちらを拝見されると良い。
【春日大社の地図】『国宝御本殿特別公開パンフレット』より

【春日大社 御本殿の磐座のスケッチ】 2015.04.09

【水谷神社】Photograph 2017.01.03

【水谷神社の床下の磐座】Photograph 2017.01.03

【水谷神社の床下の磐座】Photograph 2017.01.03

【水谷神社の床下の磐座】Photograph 2017.01.03

なぜ、このように漆喰で塗り固められているのか、これが最大の謎であるが、私は、磐座を封じ込めたのではないかと考えるのである。
藤原氏が地主神の祟りを恐れて、封じ込めたのではないだろうか。
春日大社は、藤原氏の栄華を誇る神社であると共に、藤原一族が地主神の祟り大いにを恐れた様子を物語る神社でもある。

(イワクラハンター 平津豊)

謝辞

本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった美馬由紀氏に感謝いたします。

参考文献

1.特選神名牒(内務省蔵版)、思文閣出版(1925)
2.おん祭と春日信仰の美術、奈良国立博物館(2016)
3.国宝御本殿特別講演パンフレット、春日大社社務所(2015)
4.関裕二、古代史で読みとく桃太郎伝説の謎、祥伝社(2014)
5.薬師寺慎一、聖なる山とイワクラ・泉、吉備人出版(2006)
6.中村春寿、春日大社古代祭祀遺跡調査報告、春日顕彰会、(1979)

2018年9月9日  「春日大社の磐座」  論文 平津豊