葛城 一言主神社 |
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Report 1987.7.11 平津 豊 Hiratsu Yutaka | |
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奈良県御所市の葛城山の麓に葛城一言主(ヒトコトヌシ)神社がある。小さな社ではあるが、いちごんさんと呼ばれ一言の願いであれば何事でもかなえてくれるという信仰がある。つまり神託の神である。 | |
古事記にこのヒトコトヌシの話がでてくる。雄略天皇が葛城山に登った時に、側につき従う百官の役人達は紅い紐のついた青摺の衣を着ていた。その時、向こうの山の尾根づたいに行列があり、その人数といい、装束といいそっくりだった。天皇は、この大和の国には、自分の他に君というものは無いはずだ。いったい何者がこのように行列をつくっていくのだ。と尋ねたところ。向こうから答えてくる言葉もまったく同じであった。天皇は激怒し、お互いに矢をかまえた。天皇はそれなら名乗りあってから矢を放とうとい言った。 | |
【一言主神社】 | |
すると向こうから答えて言うには、私は悪事(マガゴト)も一言、善事(ヨゴト)も一言で決めてしまう言離(コトサカ)の神で、葛城の一言主之大神(ヒトコトヌシノオホカミ)である。この言葉を聞いた天皇は、勿体ないことでございます。我が大神よ。このように現身をお示しになろうとは夢にも思いませんでした。と言い、腰につけた太刀や弓矢を初めとして、百官の衣服をも脱がせて献上した。ヒトコトヌシは喜んでこの贈り物を受け取った。 この話は天皇よりもヒトコトヌシが力を持っていて、しかも独立した勢力を持っていたことを示している。この一言主神社のある一帯は、渡来系の賀茂氏の勢力化にあり、このヒトコトヌシもカモの神である。つまりこの話は、賀茂氏の勢力を表したものと考えられる。 |
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【一言主神社にある巨木】 | |
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背後にそびえる葛城山は、古くは金剛山までを含んだこの山系を指し、日本書紀には足の長い土蜘蛛のような古代人が住んでいて、暴れまわるので葛のつるで編んだ網で捕まえたところからかつらきというとある。 | |
【葛城山頂にある役の小角の祠】 |
【葛城山頂にある葛城天神社】国常立尊を祭神としている。境内に鴨の森といわれる古代祭祀遺跡がある。 |
この葛城山、賀茂氏といえば、賀茂役君の家の出である役の小角(エンノオヅヌ)が思い浮かぶ。 | |
日本霊異記によると、役の優婆塞(エンノウバソク)は、葛木の上の郡茅原の村に生まれ、博学で修行につとめた。五色の雲に乗って仙人と遊び、孔雀の呪法を修習してあやしき験術を証得し、鬼神を自由に使役した。ある日、役の優婆塞が鬼神に命じ、金の峯と葛木の峯との間に橋を渡そうとしたところ、一言主の神はこれを中傷して、役の優婆塞が天皇に謀反を企てていると言った。天皇は役の優婆塞の母を人質として彼を捕らえ、伊豆の島へ流した。しかし、役の優婆塞は夜になると富士山で修行しついに空を飛べるようになった。後に道照が入唐の途中、新羅の山の中で日本語で質問するものがいるので名を尋ねると役の優婆塞と答えたという。そして一言主の神は役の優婆塞に呪縛され現在も解脱されずにいるという。(この優婆塞とは半僧半俗の行者をいい、ここでは役の小角をさす) また続日本記には、文武天皇の699年に、役の小角を伊豆の島へ流した。役の小角は葛木山に住み呪術を使うので知られていた。よく鬼神を使役して水を汲ませ薪をとらせたりしていた。韓国連広足(カラクニノムラジヒロタリ)は小角を師としていたが、その能力を妬み、小角は妖術で人を惑わしていると偽りを言って訴えた。そのために遠隔の地に流された。とある。 この小角は、日本各地の修験場の開祖とされ、非常に強力な能力を持っていたことが分かる。日本の歴史上たぐいまれな超能力者であった。あの一言主を呪縛できるほどの力を持っていたのである。広足は物部の一族とされる渡来系の呪禁師であり小角とは遠い同族。また、一言主は前述したように小角の同族。いづれにせよ、小角は同族からの裏切りにあったこととなる。その裏に、小角の能力に恐れをいだいた天皇の策略がはたらいたかどうかは定かではないが、天皇が小角を島流しにしたことは間違いない。その後、役の小角は反体制という看板を背負いながら山岳修験者のシンボル的存在となっていったのである。 (Photograph 1987.7.11) |
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