万治の石仏

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 Share (facebook)  Report 1990 平津 豊 Hiratsu Yutaka

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長野県の諏訪地方の、諏訪下社 春宮の西にある砥川を渡って少し北へ上がると、万治の石仏といわれる石像がある。
      【万治の石仏】
1660年諏訪大社の大鳥居の材料にしようとこの石にノミを入れたとき、傷から血が流れ出したので石工達は恐れをなして仕事をやめたとされる。
その異様さの一つの原因は、胴体と頭部があまりにもアンバランスである。
1660年は、胴体が作られた時期で、頭部はもっと古い時代からあったものではないかと思う。
というのも、この顔が仏像らしくない。これが異様さのもう一つの原因なのだが、まるでイースター島のモアイ像のようである。
近くには、ジジ穴・ババ穴と呼ばれる石室があり、火の雨が降った時、この穴に逃れたものだけ助かったという言い伝えもある。
火の雨とモアイに良く似た像、SF的な想像にかきたてられる場所である。
(Photograph 1990)
補足:2024/04/20
諏訪下社春宮の西にある砥川を渡って北へ少し歩くと、「万治(まんじ)の石仏」または「みたらしの石仏」と呼ばれる石像があります。下諏訪町の指定有形文化財になっています。
安山岩の胴体(高2.6メートル、幅3.8メートル、奥3.7メートル)の上に0.7メートルの頭をのせた石像で、胴体と頭部がアンバランスな造形です。岡本太郎氏がこの造形を絶賛したことによって全国的に有名になり、新田次郎氏によってイースター島の石像の頭部が日本へもたらされたとする説も展開されました。
胴体には、阿弥陀定印を結んだ仏が彫られ、その衣の上には逆卍、太陽、雷、雲、磐座、月などのレリーフが刻まれています。
脇には「南無阿弥陀仏 万治三年十一月一日 願主 明誉浄光 心誉廣春」と彫られており、浄土宗の作仏聖一派の明誉が仏頭を造り、心誉が胴体部分を刻んだと考えられています。
さて、この石像がただの石仏であるならイワクラ(広義のイワクラ)ではなく、ここで取り上げる必要はありませんが、次のような伝説が伝わっているのです。
「高島藩主諏訪忠晴公が、万治2年(1659)春宮の石の大鳥居を寄進した。そのときこれを石材にしようとして石工が鑿を入れたところ、血が流れ出たので神様の祟りと恐れて中止した。その夜石工の夢枕に、上原山(茅野市)に良い石材があるというお告げがあり、上原山の石を使い、急ぎ阿弥陀様を祀って、鳥居の完成を祈願した」という。現在も残っている鑿の跡はその時のものと言われている。・・・下諏訪町のホームページより
この伝説によると石仏の胴体に使われている岩は、元々は信仰された岩石であった可能性が高いと考えられます。だからこそ祟りを恐れて鳥居用の石材に利用するのを止めたのでしょう。また伝説では阿弥陀如来として祀ったとなっていますが、ノミを入れると出血するのですからこの時点で現在のような石仏の形に造りかえたとは考えにくいです。
したがって、この大岩にレリーフを彫って仏頭を取付けたのは、祟り話が風化したもっと後世であったと推測します。1733年の『諏訪藩主手元絵図』には「えぼし石」と書かれているようですが、石仏に加工されていた場合は「えぼし石」とは呼ばないと思いますので、1733年の時点では、まだ石仏に改造されていなかったと考えられます。一方、胴体には「万治三年(1660年)」と彫られていますので、ここに齟齬が生じています。
この万治の石仏が、仏像として信仰されているのならば、それは阿弥陀如来への信仰であって岩石信仰ではありません。しかし、信仰されていた岩石を利用して石仏にした可能性が高いので、岩石信仰に分類しました。