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post to my website in 2019.3.11 平津 豊 Hiratsu Yutaka
2018年5月13日に、イワクラ学会の岡山イワクラツアーを企画した。
古代祭祀跡と古墳が数多く残る吉備において、磐座と古墳を見学してその関係を考えてみるという趣向である。
案内は岡山の磐座や古墳に詳しい野崎豊氏にお願いした。
あいにくの雨の中、28名が参加した。
岡山県倉敷市西尾の真宮(まみや、しんみや)神社は、王墓山の中に鎮座している神社である。王墓山は、現在は宅地で分断されてしまっているが、もともとは楯築(たてつき)遺跡を含む60基以上もの遺跡のある丘であった。この丘を歩くと数多くの石室を見ることができる。中でも6世紀後半の王墓山古墳は20メートルの円墳で、四仏四獣鏡をはじめ装馬具や武具などの副葬品が出土しており、強大な王の存在が予想される。古墳の側には家型石棺が保存されており、この石棺の材質は井原産の浪形石である。
王墓山の南の端に建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を祀る真宮神社が鎮座している。この神社は50個ほどの石で構成された環状列石で囲まれている。野崎豊氏によると真宮神社の本殿の下から銅鐸が出土したとのことである。したがって、これは神社の石垣ではなく、神社が建てられる前からこの場所に存在していた祭祀場ではないかと考えられる。
【真宮神社の環状列石】Photograph 2018.5.13
真宮神社の側に蛇頭岩と呼ばれる磐座が祀られている。正面から見るとまさに大蛇がこちらを睨んでいるような造形で恐ろしさを感じる。
【真宮神社の蛇頭岩】Photograph 2018.5.13
王墓山古墳と楯築遺跡の間に、弥生時代中期の女男岩(みょうといわ)遺跡があったが、宅地開発で消滅してしまった。この女男岩遺跡は、家型特殊器台が出土したことで有名である。
斎藤守弘氏は著書の中で「女男岩遺跡は、王墓山の標高30メートルのあたり、見晴らしのいい段々畑の中にあった。段のいちばん高い場所に大量の朱を用いて埋葬した木棺の跡が発掘され、そこが遺跡の中心であると分かる。そこから一段降りたところに、奇妙な用途不明の浅い溝があった。地山を20~50センチばかり掘り下げ、幅は約6メートル。U字状の底の方に大量の植物の朽ちたらしい有機土と、その投げ込んだ植物をおさえとめたのか、大量の小自然石、それと復元不可能な土器の破片が多数出土した。つまり、この奇妙な溝状遺構こそ、日本的に変形された聖サーペントではないだろうか。」と書かれている。この溝状遺構は、中央木棺の南側と北側から見つかっており、斎藤氏は、木棺を中心に直径25メートルの溝がぐるりと一巻きしていただろうと推測し、これが日本のサーペントであると主張している。この「サーペント」とは西洋で「大蛇、蛇神、古き蛇、悪魔」を意味するが、斎藤氏が意図しているのは、1846年にエドウィンデーヴィスがオハイオで発見した蛇状の土盛り遺跡、サーペントマウンドである。この遺跡はフォートエンシェント族が1070年頃に造ったとする説が有力である。この遺跡に埋葬の跡は見つかっておらず用途は不明であるが、その形は明確に蛇を模ったものであり、頭部については、丸い頭部なのか、それとも卵を飲み込もうとしている姿なのか、2とおりの解釈ができる。最近、夏至の日に蛇の頭から卵を見ると太陽が沈むことが分かり、暦を知る装置だったのではないかと言われている。エンシェント族は夏至を基準にしてトウモロコシの種を蒔いていたので信憑性は高い。
【オハイオのサーペントマウンド】
【オハイオのサーペントマウンド】
ここで、斎藤氏は「日本的に変形された聖サーペント」と主張しているが、年代が逆で、女男岩遺跡の方がサーペントマウンドより古いことになる。
このサーペントマウンドは、川からの標高差30メートルの位置に、幅6メートル、高さ1~1.5メートル、長さ435メートルの土盛である。幅は女男岩遺跡の溝状遺構と一致する。
ただし、女男岩遺跡に溝状遺構があったからといって、それを簡単に蛇と結びつけるのは危険である。
岡山の磐座祭祀を研究された薬師寺慎一氏は、楯築遺跡の北にあたる加茂小学校の発掘調査の時に、幅6メートル深さ2メートル以上の濠が発見され、その底から弥生式土器が出土していることから、この加茂小学校から楯築遺跡、王墓山、岩倉神社、上東遺跡までを含む3キロメートルにも及ぶ大規模な環濠集落があったのではないかと推測している。この濠の幅も6メートルである。
著者は、女男岩遺跡の溝状遺構にこだわらずに、足守川から真宮神社まで全長約800メートルの王墓山自体が蛇を模った遺構だったのではないかと考える。
縄文時代の人々は、北の楯築遺跡の場所に立石でストーンサークルを造り、南の端の真宮神社の位置に丸石でストーンサークルを造り、大蛇の頭の位置に蛇頭岩を置いて聖なる場所とした。そして、弥生から古墳時代にその聖地を王の墓に利用したのではないだろうか。
また、真宮神社から岩倉神社の方向が冬至の日の出方向にあたる。ほぼ真円の岩倉神社は大蛇が飲み込む卵であろうか。
オハイオのサーペントマウンドがその向きで、夏至の日を知らせていたことに呼応するように、王墓山の大蛇は、冬至の日を知らせていたのである。
【王墓山に横たわる大蛇】平津豊作図
王墓山の大蛇が向いている卵にあたる岩倉神社は、北に弥生時代の墳丘墓である楯築遺跡、南に弥生の集落跡の上東遺跡に挟まれた重要な位置に鎮座している。
岩倉神社は巨石が積み重なった丘であるが昔は近くまで海が迫っていた。今は、その海は水田となっている。周りを見ても巨石があるのはここだけで、人が岩を積み上げた場所かもしれない。
神社の説明看板の由緒には、吉備津彦に関係して、この地で稲を積み上げたので「稲倉」と呼ばれ、それが訛って「岩倉」となったと書かれているが、この岩だらけの光景を見ると元々はやはり「磐座」であろう。
本殿の背後の巨石が御神体の磐座であり、三角形の岩がこの磐座を指している。
【岩倉神社 御神体の磐座】Photograph 2018.5.13
薬師寺氏は、鳥居の前の立石に注目した。立石の根元から弥生式土器が出土しており、社殿や鳥居のない時代は、この立石から本殿の背後の磐座を直接、拝んでいたと考えたのである。さらに、磐座と立石のラインを伸ばした先に吉備の中山が存在していることから、この磐座に中山の神を迎え入れる仕組みであると主張した。
【岩倉神社 立石】Photograph 2018.3.3
さて、著者が最も興味を持ったのは社殿の南側の巨大な岩組みである。この上部の巨石の北側は割れている。また、南側から巨石の下に入れるようになっており、中に潜ると巨石が点で接触していて、微妙なバランスで構築されているのが分かる。このことから風化によって自然に残存した地形ではなく、積み上がったものと考えられる。さらにこの中で火を焚いた跡も見られる。この岩組みは人が組上げたものではないだろうか。
【岩倉神社 南側の巨大な岩組】Photograph 2018.5.13
【岩倉神社 南側の巨大な岩組の内部】Photograph 2018.5.13
岩石が鯨の形に見えることからくじら岩と呼ばれている。野崎豊氏によると、昔は、この岩の上に灯台が置かれ船の航行を見守っていたようである。
この辺りまで海が入り込んでいた証拠である。
【くじら岩】Photograph 2018.3.3
吉備津宮縁起に『温羅伝説』がある。それは以下の様なものである。
この話が『桃太郎』の下敷きとなったと言われている『温羅伝説』である。『桃太郎』童話は、全国に伝わる『瓜子姫』や『桃の子太郎』のような話が江戸時代にまとめられたもので、この『温羅伝説』がどれほど影響を与えたのか疑問である。特に『温羅伝説』のクライマックスの化身合戦が『桃太郎』に登場しないのは、どういう理由なのであろうか。なお現存する鬼の城跡は7世紀に造られた物であり、『温羅伝説』とは直接の関係はない。
さて、この矢喰宮は、吉備津彦命の射た矢と、鬼ノ城にいた温羅が投げた岩がぶつかり落ちた場所といわれるところで、御祭神は吉備武彦命である。温羅が布陣した鬼城山と吉備津彦が布陣した中山の中心に矢喰宮があり、岩が存在していることから『温羅伝説』と結びついたものと考えられる。
矢喰宮も岩倉神社と同様に、この場所だけ巨石が集まっている。ここに神社が建てられる以前から、これらの巨石が祭祀されていたのであろう。薬師寺氏は、矢喰宮が鬼城山と中山の中心にあり、矢喰宮から中山をのぞむ方向が冬至の日の出方向にあたることから、重要な祭祀場であったと推測している。
【矢喰宮】Photograph 2018.3.3
矢喰宮の巨石には、数多くの盃状穴が彫られている。どれも3センチメートルほどの小さな盃状穴である。当日、イワクラ学会のメンバーで、星座を模っているのではないかと議論したが、証明するには正確に図面に落として検証する必要がある。
【矢喰宮 盃状穴のある岩石】Photograph 2018.5.13
【矢喰宮 盃状穴のある岩石】Photograph 2018.5.13
【矢喰宮 盃状穴のある岩石】Photograph 2018.5.13
楯築(たてつき)遺跡は、非常に特殊で日本の古代史において極めて重要な遺跡である。
2世紀後半から3世紀前半に造られた弥生時代の墳丘墓である。円墳に2つの方墳が連なった双方中円という珍しい形であるが、1つの方墳は後から造られた可能性が高い。そうであると前方後円墳となり円墳から前方後円墳へと発展する過程の墳丘墓とする説もある。また、円墳が約40メートル、方墳部が10から20メートルの大きさとなると、おそらく弥生時代の最大の墳丘墓ではないだろうか。墓の大きさが国力に比例すると仮定した場合、吉備に弥生時代最大級のクニが存在したことになる。
楯築遺跡は、1976年から1986年の間に岡山大学によって7回の発掘調査が行われた。ツアーでは、その調査にも立ち会った野崎氏によって現地解説が行われた。
円墳の中心部と南東部に埋葬施設がある。特に中心部からは、長さ9メートルもの巨大な墓の中に2メートルの木棺が見つかり、ヒスイの勾玉、瑪瑙の管玉、碧玉の首飾り、47センチメートルの鉄剣などが出土した。また、上部からは、約1メートルの大型特殊器台の破片が出土している。特殊器台は吉備で生まれた首長の埋葬祭祀で、これがヤマト(奈良)に伝わって円筒埴輪に変化していく。
注目すべきは、木棺の中に32キログラムもの朱が厚く敷かれていたことで、この朱の量は異常である。朱は硫化第二水銀で大変貴重なものであるので、通常、墓から出土する朱は、数10グラム程度である。このことから被葬者は相当高貴な人物であったことが想像できる。また、出土した被葬者の歯は小さく、女性の可能性が高いとのことである。2世紀後半から3世紀前半で高貴な女性となると、卑弥呼を想像してしまう。魏志倭人伝にも卑弥呼が朱を好んだと記述されている。この朱は、亡骸の腐敗防止という実用的な目的よりも、呪術的な意味合いで用いたものではないだろうか。
【楯築遺跡から出土した朱】Photograph 2018.5.13
また、この木棺の上から不思議な模様の石がバラバラになって見つかった。これを組み合わせると表面に弧帯文を刻んだ1個の石になり、それは、楯築神社に伝わる御神体とそっくりであった。
【楯築遺跡から出土した弧帯文石 浅野正人氏撮影】
楯築神社は、楯築遺跡の円丘部に建てられた神社で、その御神体は、約90×約90×約30センチメートルの弧帯文石と呼ばれる不思議な石である。
ツアー当日は、野崎氏のご尽力で、この御神体を見せていただくことができた。正面に顔がついてあり、全体に複雑な模様が彫られている。その模様は弧帯文であり、帯の中心は深く彫られて、中央に突起を造っていて、まるで蛇の目のようである。この目は裏にも造られており、全体で20個ある。帯は、10~11の細かな線で分割されており、端と真ん中の線が少し太めに彫られている。裏の帯にはその細い線は彫られていない。また、顔の反対側の尻の部分も細い線は彫られていない。縦約18×横約15センチメートルの大きさの顔は、意図的に削り取られたように見える。
この御神体の弧帯文石に対して、出土した弧帯文石は約75×約30×約18センチメートルと小さく顔もない。
鯉喰神社の境内で施帯文石の破片が1個採取されている他は、このような石はない。なぜ弧帯文石が2つあり、1つは破壊され1つは破壊されていないのか、1つには顔がありもう1つには顔がないのか、謎だらけである。
【御神体の弧帯文石 横から撮影】Photograph 2018.3.3
【御神体の弧帯文石 前から撮影】Photograph 2018.5.13
【御神体の弧帯文石 正面から撮影】Photograph 2018.5.13
【御神体の弧帯文石 顔のレリーフ】Photograph 2018.5.13
【御神体の弧帯文石 後ろから撮影】Photograph 2018.5.13
楯築遺跡の発掘を指揮した近藤義郎氏は、「亡き首長を緊縛し、そのことによって霊威が増大することを願っての呪術的な行為の表現である」と考え、薬師寺氏は、「御神体石は、首長が楯築の丘上で行っていた神祭り、特に水に関わる祭祀に際しての水の神の依代であった。その後、首長が死んで神として祭られることになった時、次代の首長はこのような大切な意味を持った石を死んだ首長と不離一体のものとして祭るようにした。」と考えた。近藤氏は2つの弧帯文石を葬儀用に造ったものと考え、薬師寺氏は、御神体石は首長が生前に祭祀していたもので、首長が死亡した時に、それを模して小さい弧帯文石を造って破壊して墓に埋めたと考えている。
著者は、後者の説に賛同する。
ちなみに、この近くの千足古墳の石室には直弧文が彫られている。
【千足古墳の石室には直弧文 直弧文の世界―千足古墳の文様が語る倭の歴史パンフより】
この楯築遺跡でイワクラ研究者として気になるのは、やはり墓の周りに立てられている5つの立石である。
前述した『温羅伝説』によると、「五十狭芹彦命が吉備の中山に陣を布き、西は片岡山に石楯(いしたて)を築き立てて防戦の準備をした。」となっており、楯築神社には吉備津彦命と共に従軍して功を立てた片岡多計留(かたおかたける)が祀られていることから、この石楯が楯築遺跡の立石と言われている。
これは、立石が楯に似ていることから創作された話であろう。
【楯築遺跡の立石 北から撮影】Photograph 2018.5.13
【楯築遺跡の立石 南から撮影】Photograph 2018.5.13
目立つ5つの岩石は、1つの石を中心にして東西南北に設置されている。この中央の石は高さ約320×幅約70×厚さ70センチメートルと最も重く、大正時代に造られた石祠が付けられている。東の石は、高さ約150×幅約240×厚さ70センチメートルでベンチのような形をしているが元々は立っていたようである。北の石は、高さ約380×幅約290×厚さ25センチメートルの薄い板のような形をしている。西の石は、高さ約300×幅約180×厚さ40センチメートルの板のような形をしている。南の石は、高さ約240×幅約80×厚さ30センチメートルの上部が膨らんだ細長い形をしている。この他にも小さな石が配置されており、特に南東の石は器のような不思議な形をしている。
【楯築遺跡の立石 中心石】Photograph 2018.5.13
【楯築遺跡の立石 東の石】Photograph 2018.5.13
【楯築遺跡の立石 北の石】Photograph 2018.5.13
【楯築遺跡の立石 南の石】Photograph 2018.5.13
【楯築遺跡の立石 西の石】Photograph 2018.5.13
【楯築遺跡 器のような石】Photograph 2018.5.13
【楯築遺跡 丸石】Photograph 2018.5.13
【楯築遺跡 割れた丸石】Photograph 2018.5.13
この立石について、近藤氏は聖域を守る石垣と推測しているが、薬師寺氏は、元々磐座祭祀場であった丘に、弥生時代の墓が造られたと推測されている。その根拠は、北、東、西の石が中央石から約5メートルの位置にあるのに南の石だけ約10メートルも離れていて、その間から木棺が出土したことである。薬師寺氏は、南の石も元々は中央の石から5メートルの位置にあったが、首長を埋葬するのに邪魔になり、位置を移動させたのではないかと考えた。
模式図を書くと図のようになる。北東の突起部から見ると木棺は円形部の中央に横向きに埋葬されたことになる。つまり古代祭祀が行われていた丘に、張り出し部を追加し、それに合わせて埋葬するために邪魔になった南の石をズラしたという説である。非常に説得力がある。
【楯築遺跡の配置図】平津豊作図
また、薬師寺氏は、石垣ならば、なぜ不揃いな石を用いているのか説明がつかないとも言われている。一方、薬師寺氏は不揃いな石を用いている理由については言及していない。
これについて、ツアーに参加していたイワクラ学会の岡本静雄氏は大変興味ある仮説を立てられた。
それは「それぞれの石の形は日本各地の民族を表すものである」という説である。岡本氏はそれぞれの石の特徴を各地で見たというのである。この説が真実ならば、この場所に日本各地の民族が集まって祭祀をしていたことになる。奈良の纏向遺跡においては、南関東、北陸、山陰、西部瀬戸内製の土器が出土していることを理由に纏向遺跡が古墳時代前期の日本の中心地と推定されている。そうであるなら、まさに楯築遺跡が弥生時代以前の日本の中心地だったのではないかと想像が膨らむのである。
この他に、円丘の端に沿っても列石が置かれている。つまり2重の環状列石が造られている。その内、真東方位に斜めに突出した特徴的な立石があるが、この仰角が16度であったことから柳原輝明氏は、アルデバラン、ヒアデス星団またはプレアデス星団を祈っていたのではないかと推測されている。
【楯築遺跡 斜めを指した石】Photograph 2018.5.13
著者がこの楯築遺跡を最初に訪れたのは1987年で、巨大な立石に驚いたものであるが、今回、訪れてみて30年前よりも、ますます驚きが大きくなった。
日差山(ひさしやま)の日差寺は報恩大師の開基(754年)と伝えられる。参拝者は岩の上に置かれた備前焼の虎に出迎えられる。この虎でわかるように、日差山は毘沙門天信仰の山である。礼拝堂の後ろの岩に毘沙門天が彫られている。この毘沙門天は、左足で鬼の顔を踏み、左手で宝塔を捧げ、右手で鬼の足を掴んでいる。礼拝堂には本尊はなく、この毘沙門天を本尊としている。これは毘沙門天が彫られた岩がかつて磐座であったことを示唆している。仏教は、聖なる山に寺を建築し、磐座に仏像や梵字などを彫っていったのである。
【日差山の磐座】Photograph 2018.5.13
【日差山の毘沙門天】Photograph 2018.5.13
毘沙門天の岩の上は、非常に見晴らしの良い場所である。目の前には楯築遺跡を含む王墓山が蛇のように横たわり、その向こうに吉備の聖なる山、中山が見える。ここから楯築遺跡を結ぶラインを伸ばすとぴったりと吉備津神社に至るのも意図的に設計されたのかもしれない。
【日差山からの眺望】Photograph 2018.3.3
この近くの岩に大きな穴が開けられている。野崎氏は忌穴(いみあな)と説明されていた。星と太陽の会の佐藤光範氏は穴に溜まった呪水を清めや治癒に使用した霊泉穴であろうと述べられている。また、何かを置いて祭事を行った跡という話もあるが詳細は不明である。
【日差山の盃状穴】Photograph 2018.5.13
庚申山(こうしんやま)は、昔は三尾山と呼ばれ、積善寺という真言宗の寺があったが、1582年に焼失した。1691年に本隆寺が積善寺の跡地に堂宇を建立して、庚申の神として復興した。
この庚申山の頂上の梵天の堂の後ろの岩石に毘沙門天が刻まれている。その姿は日差山の毘沙門天に類似しているので、日差山をお手本として刻んだものと推測する。庚申山の毘沙門天も、日差山と同じように、祭祀されていた磐座に仏教が刻んだものと考えられる。
【庚申山の毘沙門天】Photograph 2018.5.13
庚申山には「庚申待ち」が行われた通夜堂の跡がある。「庚申待ち」は仏教、神道、道教が混在した信仰である。干支の庚申の日に眠ると、腹の中の三虫が天に昇って人の罪を上帝に伝え、人の命を短くすると信じられていて、庚申の日には頭屋に集まり徹夜していた。これは聖山で日の出を拝む行為につながる。
この庚申山から吉備の中山を望む方向は、冬至の日の出のラインとなる。つまり庚申山に登って、吉備の中山から日が昇れば冬至の日が来たことが分かる仕組みである。詳細は後述するが、薬師寺氏は、この庚申山を天壇と比定している。
冬至の日の出のラインは、吉備の中山の新宮の東のピークを通る。この位置は、楯築遺跡から真東に当たる。つまり、当時にこの地を支配した首長は、春分、秋分に楯築遺跡に登って中山から昇る日の出を祈り、冬至には庚申山に登って中山から昇る日の出を祈ったと考えられる。
【庚申山の卵石】Photograph 2018.5.13
【庚申山の岩屋状の石組】Photograph 2018.5.13
また、庚申山は、足守川、血吸川、砂川の3つの川の合流点に位置している。古代は水上交通が最も多くの物を速く運べる方法であったので、この合流点は非常に重要である。そこにある庚申山には見張台の役目もあっただろう。現在は南側から庚申山に登るが、当然、北の足守川の方から庚申山に登るルートもある。今は荒れ果てていて踏み入るには躊躇するが、こちらの方にも大きなイワクラに仏像が彫られたり、仏像が置かれたりしている。
【庚申山 北からの登拝道】Photograph 2016.5.15
【庚申山 北の石組】Photograph 2016.5.15
造山(つくりやま・ぞうざん)古墳は、全長350メートル、高さ31メートルの日本で4番目の大きさを誇る前方後円墳である。しかし、1位から3位の大山古墳、誉田御廟山古墳、石津ヶ丘古墳は、いずれも造山古墳よりも新しい時代に造られており、造山古墳が造られたときは(400~425年)、日本最大の古墳であった。
古墳時代中期は、カワチとキビでのみ巨大古墳が造られているが、墓の大きさが国力に比例すると仮定した場合、吉備に日本で最大級のクニが存在したことになる。弥生時代の楯築遺跡から古墳時代に至るまで、吉備の国力は強大で、ヤマトにとっては無視できない存在であったことが容易に想像できる。
造山古墳の周辺の調査は行われているが、肝心の埋葬部分の発掘調査は行われていない。したがって造山古墳の被葬者を推測する情報は少ないのだが、薬師寺氏は、応神天皇であると推定している。日本書紀によると、応神天皇は、吉備出身の妃の兄媛(えひめ)のために葦守宮(現在の吉備の足守八幡宮)に逗留している。記紀を読むと、応神天皇のみならず天皇家と吉備は深い関係を築いていたことがわかる。
造山古墳の後円部の上は、毛利氏が城を築いていたので、その時の造成跡が残っている。
【造山古墳 遠景】Photograph 2016.5.15
【造山古墳】Photograph 2016.5.15
前方部には荒神社が鎮座し、そこに石棺が置かれている。この石棺の大きさは、長さ239センチメートル、幅111センチメートル、高さ75センチメートルで、長持形石棺的要素を有する舟形石棺という珍しいものである。石材は阿蘇溶結凝灰岩のピンク石で、蓋の部分から直弧文が見つかっている。これらの特徴から九州の影響を強く受けた石棺であると言える。このような九州との関係を示唆する情報も造山古墳の応神天皇陵説を補強している。
この石棺には、数多くの盃状穴が見られるが、これは石棺が野ざらしにされた後に彫られたものと考えられる。一般的に、神社の手水石や灯篭等に盃状穴を彫るという行為は、昭和初期まで続いていた。
さて、この石棺についての謎は、どの古墳の石棺なのかという点である。普通に考えれば、造山古墳の後円部の埋葬施設が盗掘時、又は築城時に破壊されて石棺が露出し、その石棺が前方部に移動されたということになる。しかし、和田千吉氏は、石棺が造山古墳前方部から出土したものだという村の言い伝えがあると主張した。確かに、前方部に埋葬される例もある。一方、西川宏氏は、石棺はもともと車塚古墳から出土したと伝えられていると主張した。今のところ、どの説が正しいか決着していない。造山古墳の後円部の中心の発掘調査が行われたときに、石棺が残っているのかどうかを含めて、明らかになるだろう。
【造山古墳 石棺】Photograph 2018.3.3
【造山古墳 石棺の蓋の直弧文】Photograph 2018.7.1
薬師寺氏は、造山古墳について、大変興味のある考察をしている。それは造山古墳の陪塚である加茂造山二号墳が地壇であるという説である。加茂造山二号墳は、造山古墳の前方部から西50メートルにある一辺約40メートルの県内最大級の方墳である。造山古墳には6つの陪塚があるが、方墳はここだけである。この加茂造山二号墳は、周りに濠をめぐらせた二段構造をしている。そしてこの方墳から造山古墳の後円部の中心を見た方向は夏至の日の出方向に一致する。
薬師寺氏は司馬遷の『史記封禅書』に「冬の日至に天を南郊に祀り、長日に至るを迎う。夏の日至に地祇を祭る。」とあり、中国の天壇は石造りの三層の円丘で、地壇は沢の中に二層の方丘である。と述べ、この地壇が加茂造山二号墳であると主張した。天壇は前述した庚申山である。
この庚申山は、造山古墳の後円部の中心から真北に5キロメートルの場所に位置しており、造山古墳は、庚申山を意識して計画的に建設されていると考えられる。
また、造山古墳の後円部の中心から楯築遺跡を見ると、冬至の太陽が昇る。これも意図的であろう。
【造山古墳と夏至の日の出方向】平津豊作図
【造山古墳 模型】Photograph 2018.7.1
【造山古墳 加茂造山二号墳】Photograph 2016.5.15
そして、この造山古墳の主軸を後円部方向に伸ばすと5キロメートル離れた龍王山に至る。この龍王山は最上稲荷の奥の院となっている。最上稲荷は、報恩大師が創建した日蓮宗の寺院である。本尊は白狐に乗る天女で人肉を食べる荼枳尼天(だきにてん)であり、伏見稲荷とは関係がない。
この奥の院には日蓮の題目石が立ち並んでいるが、この台座はイワクラを流用したものと考えられる。また龍王山には、中腹の八畳岩や龍泉寺の古代祭祀跡など、たくさんのイワクラが存在している。
このように造山古墳の主軸が龍王山を向いている状況は、ヤマトの東南部の多くの古墳が龍王山を向いているのと同じ状況である。偶然にも山の名前まで同じである。
【龍王山 最上稲荷奥の院】Photograph 2018.7.1
【龍王山 龍泉寺古代祭祀跡】Photograph 2018.7.1
【龍王山 龍泉寺古代祭祀跡】Photograph 2018.7.1
【龍王山 龍泉寺古代祭祀跡】Photograph 2018.7.1
また、造山古墳の主軸を前方部方向に伸ばすと江田山の尾根にぶつかるが、その場所に地元の人しか知らない巨大なイワクラが存在している。
このイワクラは私有地にあり勝手に登ることはできないが、50年前までは村の人がこのイワクラまで上がって酒盛りをしていた。このイワクラの名前は八丈岩といい、周囲から弥生式の土器が出土しているようである。また、ここの岩を庚申山に持って行って妙見として合祀しているそうである。さらに3つのイワクラ群があることから、奥津、中津、辺津のイワクラを形成している可能性がある。
尾根頂上部の八丈岩のイワクラ群は、南北に20メートルも続く岩列で、まるで、龍をかたどっているようである。
造山古墳は古代から続く2つの龍神信仰を意識して設計されたのではないだろうか。
【江田山 八丈岩】Photograph 2016.5.15
【江田山 八丈岩】Photograph 2016.5.15
【江田山 八丈岩】Photograph 2016.5.15
【磐座と古墳の配置図】平津豊作図
このように古墳は、古くから崇拝されていた聖山(そこにあるイワクラ)を意識して、建設されているのである。
(了)
本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった野崎豊氏に感謝いたします
2019年3月10日 「岡山の磐座と古墳」 論文 平津豊
○ 2019年3月10日 平津豊ホームページ ミステリースポット掲載
○2019年3月11日 イワクラ(磐座)学会会報43号 掲載
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