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post to my website in 2022.11.20  平津 豊  Hiratsu Yutaka

大湯環状列石の岩石配置図に関する検証

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本論文は、2022年3月1日 日本天文考古学会会誌 通巻3号 2021年1巻1号に 「大湯環状列石の岩石配置図に関する検証」として掲載されたものに一部説明を追加して再録したものです。

1.はじめに

秋田県鹿角市十和田大湯に存在する大湯環状列石は、日本を代表するストーンサークルである。万座環状列石と野中堂環状列石が並んで造られており、そのどちらの環状列石にも内帯と外帯の2重円が形成され、日時計状組石と呼ばれる特徴的な組石が内帯と外帯の間に1組造られている。2021年に「北海道・北東北の縄文遺跡群」として17遺跡が世界文化遺産に指定されたが、この大湯環状列石は、間違いなくその中核となる遺跡である。


図1.万座環状列石

 この遺跡の岩石の配置については、夏至を意識しているといわれているので、天文考古学としては、恰好の対象である。本論文では、大湯環状列石が造られた時代の太陽軌道を計算し、大湯環状列石の配石図に書き込むことで、大湯環状列石が太陽を意識して造られたのか、月を意識して造られたのか、星を意識して造られたのか、それとも周りの聖山を意識して造られたのかを議論できる基盤の図を作る事を目的とした。

2.大湯環状列石が造られた時代

三内丸山遺跡は、5900年前に集落ができ、4200年前に集落が放棄された考えられている。日本全体の人口推移で見ても、12000年前に2万人であった人口が三内丸山の集落が存在した時代に26万人になり、以後8万人に減少して、この動きに一致している1)。この集落放棄の原因は寒冷化ではないかといわれている。
 地球の気温の変化は、地球の公転軌道の離心率の周期的変化、自転軸の傾きの周期的変化、自転軸の歳差運動という3つの要因によって日射量が変動するミランコビッチ・サイクルと呼ばれる理論で説明でき、氷河期が約10万年周期で訪れる。この大きな周期に、太陽活動の変動や人間活動などが加わって、気温が変化する。アルケノンによる海水温の推測や花粉の量からの陸上の気温の推測によると、10000年前に寒冷であった気候がだんだんと暖かくなるが、4000年前からは再び寒冷化しており、この時期は三内丸山集落が放棄された時期と重なる2)。



図2.コアから得られたアルケノン水温そして花粉(コナラ族アカガシ亜属、クリ)含有量の変化 2)

 川幡穂高氏によると、現在の商業栗の生産は、宮城県以南で行われており、青森県では寒くて難しい状況である。しかし、4000年前に寒冷化する前の青森の気候は2度高く、等温線で見ると230kmの緯度の距離に換算でき、現在の宮城県にあたる。よって、三内丸山の集落では美味しい栗が安定生産されていたと考えられる。
 まとめると、5900年前から三内丸山で大規模な集落が成立していた。その後に寒冷化が進み大規模集落が維持できなくなり、小さな集落に分散して住むようになる。その頃に大規模環状列石が現れるが、その環状列石の周りに人が住んだ跡はほとんど見つかっていない。つまり、生活を維持するために分散して生活した一族が、決まった時期に環状列石に集まり、お互いの関係を確認しあったのではないかと考える。これらのことから環状列石は生活に必要な施設ではなく、祭場、墳墓、天体観測施設など、文化的な施設と考えられる。


3.大湯環状列石の調査の歴史と議論

 大湯環状列石については、1931年に発見されてから以下のように、幾度となく調査が行われてきた。
1931年、耕地整理の工事中に発見
1933年、諏訪富多氏、高木新助氏、浅井小魚氏らによって遺跡の研究と保護を目的に「大湯郷土研究会」が発足
1942年、神代文化研究所による大規模な発掘調査
1946年、秋田県教育委員会・朝日新聞社による発掘調査
1951年、1952年の国営の発掘調査
1956年、国指定特別史跡に指定
2021年、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に指定
 これらの調査を通じて議論されてきたのは、縄文人はなぜ、川から8500個の岩石(石英閃緑玢岩が主)を運んで環状列石を形作ったのか、という「目的」である。この目的について、1951年から1952年の調査では、11基の組石下から土坑が確認されたが、骨や埋葬品は見つからず、わずかに1基の土壌分析のリン濃度が高かっただけであった。調査を行った斉藤忠氏は、環状列石を墳墓が集合した「墳墓説」を提示したが断定しなかった。これに対して江坂輝爾氏は、配石遺構全てを墓地とするには無理があり、始めに祭祀の場所として作られ、後に遺体をこの場に葬ったとする 「祭祀場説」を強調した。1984年から1986年の調査では、遺構群の全ての配石の下に土坑があり、2基から甕棺、1基からは石鏃、1基からは朱塗りの木製品が見つかり、3基の土坑から脂肪酸とコレストロールを検出したため、「墳墓説」が有力となった。一方、青森県平川市の太師森遺跡や青森県弘前市の大森勝山遺跡の環状列石には墓が造られているが、秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡や青森県青森市の小牧野遺跡の環状列石には墓が造られておらず、環状列石の成立に必ず墳墓が必要ではないことも事実である。
 大湯環状列石については、1956年に川口重一氏が、天文観測施設説を発表した3)。川口重一氏は、野中堂環状列石の中心と日時計状配石、万座環状列石の中心と日時計状配石との4点を結んだ線が、夏至の太陽の日没線と一致するため、この遺跡を構築した人々は夏至の到来に重大な関心を持ち夏至観測とそれによって何らかの行事を営んでいたと推測した。この説は、アカデミズムに受け入れられることはなかったが、1994年に小林達雄氏や冨樫泰時氏らによって実施検証が行われ、正しいことが確認された。現在では、大湯ストーンサークル館のガイドが説明し、テレビ等のマスメディアが紹介するまで浸透している。
 川口説が正しいなら、大湯環状列石は、暦を知るための天体観測装置であったことになる。
 また、大湯環状列石よりも前の時代の三内丸山遺跡でも、墓の周りを列石で環に囲った環状列石が見つかっているが、これは4メートルほどの小規模なものである。一方、三内丸山遺跡で最も有名な6本柱について、太田原潤氏は、夏至の日の入りを意識して建てられてたとする説を発表している4)。6本の柱の長軸方向が夏至の日の入りの方位と一致しているため、夏至の日には、3本と3本の間に太陽が沈むと考察している。
これについても、方位の扱いを間違えている可能性があり、再検討すべきである。


図3. 三内丸山遺跡の6本柱穴


図4. 6本柱巨木柱列と方位 4)


4.大湯の縄文人は数を認識していたか

 大湯環状列石が天体観測装置であるならば、大湯の縄文人は「数」を理解して使用していたはずである。これを考察するにあたり、大湯環状列石から出土した幅3.7センチ、縦5.8センチの小さい土版に注目した。現在は、1個しか存在していないが、発掘当時はもっと数多く出土したとの噂もある。


図5.土版(大湯環状列石遺跡出土)

 土版は人を連想するように造られていて、口が1、目が2、右胸に3個、左胸に4個、中央に5個の穴がある。1、2、3、4、5と穴の群が認識できるので、縄文人が1から5までの数を認識していたのは確実である。縄文人の数値認識は3までとする説があるが、このような説は明確に否定される。さて、裏を見ると3の群が2つ造られている。これは、6を示すが、6つの穴の群を造らずに、わざわざ3と3を別の群として造ってあるのは、3+3で6になることを教えてくれる。つまり足し算を使っているのである。足し算を理解して利用していたと考えると、右胸と左胸を足して7、中央と右胸を足して8、中央と左胸を足して9を表すことができる。ここで、9まで表せるということは、10での桁上がりを使っていた可能性も出てくる。さらに、良く見ると、口を表す1の穴及び2を表す目の穴と、3や4の穴との深さが違うことに気付く。表面の目と口を除外すると、3と4と5となる。これらを足すと12。ここまでくると裏面に3+3の6を造った意味がわかる。3、6、12の等比数列を表しているのではないか。縄文人が数をどのように理解していたかが想像できる重要な遺物である。
 三内丸山遺跡から出土した十字型土偶にも土版と良く似た穴が造られている。一見すると土偶の模様と考えてしまうが、やはり数の群が示されている。これらを研究されている藤田富士夫氏の説明は以下のようなものである5)。1~10までの数が示され、8、9、10の部分が足し算で表現されており、左頬の5に当たるところに4が再度出現している。裏面を見るとこの意味が分かる。裏面には、4つのL字部分があり、対面する2つをセットと考えると10+12=22と11+11=22が表現されている。十字の部分は、横列が15で、縦列は8+7=15が表現されている。裏面の穴を全部足すと22+22+15+15=74となる。これに対し表面は、大湯の土版の時と同じ理由で口の穴を除外すると2+3+4+4+6+7+11=37となる。これは74の半分の数値となる。大湯の土版の裏が6、表がその倍の12であったと同じように、十字型土偶の表が37、裏がその2倍となっている。そして、この37という数字は素数である。素数とは1 と自分自身以外に正の約数を持たない特別な数のことで、縄文人がこの素数を理解していたのならば、割り算を使っていた可能性も出てくる。藤田富士夫氏は、さらに表と裏を足すと穴の数が111となることから、ゾロ目を重要視したのではないかと考察しているが、ゾロ目になるのは、十進法で桁上がりするからであり、そうであるなら5000年前の縄文人が、我々と変わらない算術知識を持っていたことになる。


図6.十字型土偶(三内丸山遺跡出土)


図7.  『藤田富士夫:算術する縄文人-高度な数字処理の事例(2008)』 5)より


 世界に目を向けると、BC1000年には中国で最古の数学書が書かれ、BC1800年にはエジプト文明で2次方程式や円周率が現れ、BC2000年には、メソポタニア文明で60進法、BC2800年にはインダス文明で10進法、BC3100年には、エジプト文明で10進法、BC3400年にはメソポタニア文明で度量衡が用いられている。日本の縄文時代において、算術が行われていたとしても、なんら不思議ではない。
 大湯環状列石の万座環状列石の配置は、中心から4メートルから8メートルの幅の中に内帯の列石が配され、16メートルから24メートルの幅の中に外帯の列石が配されて、さらにその外側には建物の柱跡が30メートル、36メートル48メートルの環に並べられている。4、8、16、24、30、36、48は数列でこそないが、美しい数字のリズムを感じる。
 また、この建物の柱跡は4本と6本がセットとなっているが、なぜが5本セットの柱跡が発見されている。5本の柱にどうやって屋根を作ったのかがわからず、復元時も柱だけにされている。これも大湯環状列石を造った人々が数に拘った証拠ではないだろうか。
 これらのことから、大湯の縄文人は、天文観測を行なえるに足る算術知識を所有していたと推測できる。


図8.万座環状列石の柱穴


図9.  『秋元信夫:石にこめた縄文人の祈り 大湯環状列石(2005)』 14) より


5.大湯の縄文人は東西南北を認識していたか

 大湯環状列石が天文観測装置であるなら、大湯の縄文人は東西南北を認識していたはずである。
 大湯環状列石において東西南北を表しているのではないかと考えられるのが、日時計状組石である。特に野中堂環状列石の日時計状組石には、周りに4つの大きな石が置かれているため、この4つの石が東西南北を表しているのではないかとの考えが浮かぶ。埋蔵文化財発掘調査報告第二『大湯環状列石』の調査図(1953)7)によると、東西南北からはズレているように見える。このズレについては、統計学を用いて偶然に起る確率を算出しようとしたが、その前に1953年の調査図に対して、後述するような疑義が生じたため中断した。


図10. 野中堂環状列石の日時計状組石


図11. 野中堂各組石実測図 第十三図 7)

6.大湯の縄文人は太陽軌道を認識していたか

 夏至には、1年で最も昼の時間が長くなり、冬至には、1年で最も昼の時間が短くなる。この現象によって、日本には季節があり気温差も生じる。この変化を縄文人は意識していたことは明白であるが、どこまで太陽と関係付けて把握していたかが問題である。

6-1. 4000年前の太陽軌道の特異点の方位
 太陽軌道の特異点である春分、夏至、秋分、冬至は、天文学的には太陽の黄経が0°、90°、180°、270°になる時である。場所と時代によって変化するので、StellaNavigateorを使用して、万座環状列石の地点である緯度40度16分17.954秒、経度140度48分13.892秒におけるBC2000年の夏至の日の入りを計算した。なお、StellaNavigateorでの方位は南を0度としている。

夏至の日入
BC2000年7月10日19時30分
黄経 89゚35'00" 黄緯 +00゚05'38" (視位置)
方位 123.377゚ 高度 -0.651゚
 ここで、日付が6月21日ではなく、7月10日となっているのは、黄経が90°に最も近づく時を夏至としたためである。なお日付はユリウス暦で示されている。さらに、正確を期するために、縄文人が大湯環状列石から太陽を見た場合に、日没は山の稜線に隠れたときを意味するので、周辺の山の稜線を考慮すると以下のようになる。
夏至の稜線への日入
BC2000年7月10日19時23分
黄経 89゚34'43" 黄緯 +00゚05'38" (視位置)
方位 122.261゚ 高度 0.275゚
 ここで、日の出と日の入りは、以下の図のように定義した。


図12.日の出と日の入りの定義

 このようにして、計算した太陽軌道の特異点の方位は以下のようになる。

表1.万座環状列石でのBC2000年の二至二分の方位

6-2.検証に用いた岩石配置図
 岩石配置図の上にBC2000年の太陽軌道の特異点の方位を書き込めば、大湯の環状列石と太陽軌道との関係が議論できる。万座環状列石の岩石配置図としては、埋蔵文化財発掘調査報告第二『大湯環状列石』7)(1953)の図版第四(「1953年第四図」とする)、同じく図版第三(「1953年第三図」とする)、鹿角市文化財調査資料77『特別史跡大湯環状列石』8)(2005)のⅤ章第5図(「2005年第5図」とする)、第7図(「2005年第7図」とする)、第9図(「2005年第9図」とする)を対象とした。

6-3.「1953年第四図」と「2005年第7図」
 「2005年第7図」には、注釈に「大湯環状列石収蔵の実測図を使用」と記載されているので、「1953年第四図」と重ね合わせると配石図は一致する。しかし、縮尺バーは異なっているため、どちらかの縮尺が間違っている。大湯ストーンサークル館のガイドブック6) に万座環状列石の直径が52メートルと書いてあるのが正しいとすれば、「2005年第7図」の縮尺バーが間違っていることになり、2005年の報告書を作成するときに、縮尺バーの転記を間違ったのではないかと推測する。


図13. 「1953年第四図」と「2005年第7図」を重ねた図

6-4.「1953年第四図」と「2005年第5図」及び「2005年第9図」
「2005年第5図」及び「2005年第9図」には、注釈に「平成14年実測図」及び「平成14年の実測図を使用」と記載されているので、1953年の測量図ではなく、2005年に再測定されたと考えられる。当然ながら遺跡は動いておらず同じ物を測定しているので、1953年の岩石配置図と2005年の岩石配置図は一致するはずである。
 しかし、「2005年第5図」及び「2005年第9図」を「1953年第四図」と重ね合わせると一致しない。


図14. 「1953年第四図」と「2005年第5図」を重ねた図


図15. 「1953年第四図」と「2005年第9図」を重ねた図

中心と日時計状組石の方向を基準として「1953年第四図」との差を測ると、「2005年第5図」は4度、「2005年第9図」は2度異なっている。ここで、「2005年第5図」及び「2005年第9図」の方位マークが小さいため紙面の上を北としたこと、環状列石の中心をどこに置くかについては誤差を含んでいることを断っておく。

 これらの疑義について鹿角市教育委員会に、「埋蔵文化財発掘調査報告第二「大湯環状列石」(1953)の図版第四や第十三図などの方位マークは、全て磁北でしょうか? それとも真北でしょうか?」と問い合わせると、大湯ストーンサークル館から「報告書を作成した担当者からは、当時の発掘調査の図面は磁北で作成し、報告書掲載にあたって方位の修正は行っていないとうかがっております。」と、回答をいただいた。
 つまり、「埋蔵文化財発掘調査報告第二「大湯環状列石」の「1953年第四図」などは、磁北で作成され、真北ではないという説明である。遺跡と太陽の関係を議論する場合には、真北を基準とした岩石配置図が必要である。

6-5. 1953年の偏角の推定
 磁北と真北とのズレは何度なのかを推測する。国土地理院の偏角一覧図(2015年)10)によると、万座環状列石の地点では8.1°西編している。今道周一氏の『日本の偏角の永年変化』9)によると、2015年から1953年へ遡ると、約1°東にズレる。

図16.日本の偏角の永年変化 9) 著者加筆

 よって、1953年の万座環状列石の地点の偏角は、約7度と推測できる、(8.1°-1°=7.1°)。しかし、磁北で書いた「1953年第四図」と「2005年第5図」とのズレは4度、「2005年第9図」とのズレは2度異なっており、計算が合わない。
 これらを大湯ストーンサークル館に問い合わせると、2005年の測量図は真北ではないとの回答があり万座環状列石の正しい岩石岩石配置図が送られてきた。
この図には、GRS80楕円体に変換した平面直角座標のX、Y座標が記載され、各グリッド交点において異なる真北方向の補正されている。その真北方向の補正は、約1分程度のものなので、本検討では誤差として無視できるので、紙面上を真北として扱うことにした。この岩石配置図を「2021年第1図」とする。


図17. 万座環状列石の岩石配置図、「2021年第1図」

6-6. 1953年測定図への疑義
「2021年第1図」が真北で描かれ、「1953年第四図」が磁北で書いたものならば、2つの図を重ねたときのズレは、著者が推測した約7度となるはずであるが、そのズレは12度となり一致しない。1953年の報告書に書かれた岩石配置図は、磁北で測定されたものではない可能性が高い。

図18. 「1953年第四図」と「2021年第1図」を重ねた図


6-7. 論点の整理と考察
 ここまでをまとめると以下のようになる
a)「1953年第四図」と「2005年第7図」の縮尺が異なる。
b)「2005年第5図」と「2005年第9図」は同じになるはずが一致しない。
c)「1953年第四図」が磁北で作られ、「2005年第5図」及び「2005年第9図」が真北で作られているなら約7度の差となるはずが、4度及び2度である。
d)「1953年第四図」が磁北で作られ、「2021年第1図」が真北で作られているなら約7度の差となるはずが、12度である。
 「2021年第1図」がほぼ真北で作成された正しい岩石配置図とすると、以下のようなことが推測される。1953年の報告書に描かれた岩石配置図は、磁北で測定されたものでもなく、1953年の報告書の方位測定は信用に足るものではない。2005年の報告書に描かれた岩石配置図は、方位や縮尺についてずさんな取り扱いがされており、信用に足るものではない。したがって、大湯環状列石について、これまで正しい岩石配置図が報告されてこなかったのではないか。そうであるなら、大湯環状列石の岩石配置について、これまで議論されてきた結論も見直さなければならない。特に、川口重一氏は1953年の報告書に基づいて議論しており、川口重一氏の天文観測装置説は見直しが必要である。


図19.「1953年第三図」野中堂環状列石の岩石配置図

 「1953年第三図」の野中堂環状列石の中心から日時計状組石方向は304度となり、著者が計算した夏至の日の入り方位302度と2度の違いになる。川口氏がこの図を見て、中心から夏至の日の入りの方向に日時計状組石があると考えても無理はない。
 しかし、この「1953年第三図」は、磁北で書かれた、又は磁北でもない図なのだから、川口氏の考察は意味が無いものであったといわざるを得ない。

6-8万座環状列石と太陽軌道の特異点との関係
 「2021年第1図」が正しい岩石配置図として、BC2000年の太陽軌道の特異点の方位を乗せると以下のような図となる。


図20.「2001年第1図」万座環状列石の岩石配置図と太陽軌道の特異点

 この図において、万座環状列石の中心から日時計状組石の方向は289度であり、BC2000年の夏至の日の入りは302度なので、13度異なっている。
 また、Googleの航空図に、野中堂環状列石の中心と万座環状列石の中心を結んだ線を描くと、その方向は293度となり、BC2000年の夏至の日の入り方向の302度とは、9度異なっている。
なお、野中堂環状列石の中心と日時計状組石を結ぶ方向については、現時点では、野中堂環状列石の正しい岩石配置図を入手できていないので、本考察からは除外する。


図21.野中堂環状列石と万座環状列石

 この13度及び9度を誤差として許容できるかについては、議論の余地があるとは思うが、天文と関係のある他の遺跡の精密さと比べるとこの差はあまりにも大きい。残念ながら、大湯環状列石が夏至を意識して造られたという説は見直されるべきである。

 一方で、この図の北東に放射状に並ぶ一列の配石は、万座環状列石から北東2キロメートルの位置にあるクロマンタ(黒又山)を指している可能性が高い。クロマンタは、刻文石製品が多数出土し、地中レーダーによって地下に数段のテラス状の石造構造が確認されている謎の山であり11)12)13)大湯環状列石とどのような関係があったのか、興味のあるところである。


図22.クロマンタを指す石の列



図23.クロマンタ(黒又山)

 この例のように、大湯環状列石の岩石配置の中に聖山を指す石組みがあるということは、大湯環状列石の岩石配置が無意味に並べられたものではなく、意味を持って並べられた可能性が高く、これらの石組みが何を示しているかについては、太陽軌道の特異点(二至二分)に拘らずに、月や星、聖なる山、他の遺跡など、いろいろな仮説を検証してみるべきであろう。さらに、万座環状列石の南西に10メートルの等間隔で並ぶ柱跡は、天体観測の目印であった可能性があり、今後の天文考古学的研究によって、環状列石建設当時の天体位置との関係が解明されることを期待する。

参考文献

1) 小山修三・杉藤重信:縄文人口シミュレーション、国立民族学博物館研究報告9-1(1984)
2) 川幡穂高・山本尚史:縄文時代の古環境その2-三内丸山遺跡周辺の環境変遷-、地質ニュース666、31-38(2010)
3) 川口重一:大湯町環状列石の配置の意義、大老古学会報41(1956)
4) 太田原潤:縄文時代11(2000)
5) 藤田富士夫:算術する縄文人-高度な数字処理の事例-敬和学園大学人文社会科学研究所年報(6)、153-167(2008)
6) 大湯ストーンサークル館ガイドブック(2010)
7) 文化財保護委員会:埋蔵文化財発掘調査報告第二「大湯環状列石」(1953)
8) 鹿角市教育委員会:鹿角市文化財調査資料77『特別史跡大湯環状列石』(2005)
9) 今道周一:Secular variation of the magnetic declination in Japan, Mem. Kakioka、Magnetic Observatory, 7, 49-57(1956).
10) 国土地理院:偏角一覧図(2015年)
11) 鈴木旭:古代日本ピラミッドの謎、新人物往来社(1993)
12) 鈴木旭:クロマンタ・ピラミッドの謎、新人物往来社(1994)
13) 鈴木陽悦:クロマンタ 日本ピラミッドの謎を追う、評論社(1993)
14) 秋元信夫:石にこめた縄文人の祈り 大湯環状列石(2005)
過去の太陽軌道についは、AstroArts社のStellaNavigateor 11を用いて計算した。


2022年11月20日  「大湯環状列石の岩石配置図に関する検証」  ホームページ「ミステリースポット」掲載

2022年3月1日 日本天文考古学会会誌 通巻3号 2021年1巻1号に 「大湯環状列石の岩石配置図に関する検証」として掲載されたものに一部説明を追加して再録したものです。





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