Share (facebook)

トップ画面へ戻る
調査報告へ戻る
post to my website in 2022.3.20  平津 豊  Hiratsu Yutaka

天宮さん

本論文・レポートのリンクおよびシェアは自由です。画像や文章を抜き出して引用する場合は出典を必ず明記してください。まとめサイト等への掲載や転載は禁止します。



はじめに

2015年9月22日、筆者は、鳥取荒神神楽研究会が企画した「巨石ロマン古代伯耆の磐座巡り」に参加し、鳥取県南部町の「天宮さん」と呼ばれる岩石群を見学した。
そのとき、地元から調査の要請があり、11月25日に、イワクラ学会でプレ調査を実施することになった。プレ調査の目的は、この「天宮さん」が民俗学的遺跡として価値のあるものなのかどうかを見極めることである。

「天宮さん」の過去

鳥取荒神神楽研究会は、この「天宮さん」に関係する資料を丹念に収集している。その資料の一つに『比婆山御陵調査報告書冩』がある。この資料は、「大正15年12月9日 山陰徴古館ニテ元ヲ複寫ス」と記されており、『比婆山御陵調査報告書』を写したものである。そこには以下のようなことが記録されている。

1889年(明治22年)に、金田熊野神社の神職であった山本熊雄氏は、比婆山に葬られた伊弉冉尊の御陵を発見したと鳥取県知事に報告し、「天宮さん」の調査を要請したが聞き入れられなかった。
山本熊雄氏の主張は、以下の様なものである。
『古事記』に、伊邪那美は、出雲国と伯耆国の境の比婆山に葬られたと書かれているが、この場所は鳥取県西伯郡賀野村の大蔵山の中腹の「比婆ケいち」と呼ばれる所である。この近くの金田熊野神社の御祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊の二柱と御子の軻遇突智である。伊弉諾尊が軻遇突智を産んで亡くなったのは御内谷であり、その御陵が「天宮さん」である。
--------------------(平津意訳)



【金田 熊野神社】 Photograph 2015.9.22

国学者井口寛平(備中玉島の生まれ、平田鉄胤に学び、笠岡皇學館で教鞭をとる)は、人工的に積み重ねられたが如く御陵が「天宮の岩家」と呼ぶことに関して国学的見地より「大古此巌窟を神の御造り遊ばされし時かほどの大岩なれども神々集まりて手操り持ちにして此の所に上げ給ひて造り玉ふと言傳へたり。故に世人名ずけて「手ぐりの岩屋」と申すなり訛りては「てんぐりの岩屋」とも申すなり。」と述べている。

その後、1926年(大正15年)8月2日に鳥居龍蔵がここを訪れ、「天宮さん」はメンヒルを中心とした最大のストーンサークル群であると評価したため、昭和初期まで、このイザナミの御陵とされた「天宮さん」を参拝する人が多く訪れたようである。会見町誌によると、賀野村史蹟調査保存会が設立され、参拝者は伯陽電鉄の手間駅から御内谷まで行列をなし、赤白の幟が立ち、茶菓子や酒を提供する露店で賑わったそうである。

鳥居龍蔵は以下のような見解を述べている。

「巨石遺跡としては実に見事なものだ。最近九州地方日向豊後に二ヵ所許り同様の遺跡が発見されて居るが比婆之山のはその巨大なる点に於いて全国稀有のもので近畿はもとより山陰山陽を通じて唯一の遺跡で考古学上の珍資料である遺跡は「メンヒル」を中心として玉垣の様に磐境が布置されて居る。日本では未だ名称のつけ方がない「ストーンサークル」に属するものだ、たしかな有史以前の石器時代所謂先史時代のであることは明らかで普通の古墳等よりも遥かに以前のものである。
--------------------大正15年8月3日山陰日日新聞鳥居博士の談話」より


「巨大なる「メンヒル」を中心として無数の巨石のめぐらされ具形状様式は最近九州に於て発見されたものと同じではあるが其のスケールに於いて一層雄大なものである上に年代なども古く今日までに発見されたものの中では実に最大最古のものである。同地方では伊弉册尊の御陵であるとの傳説もあり。一般から神聖な霊地として尊信され周圍の如き千年斧銊を加へざる大樹鬱蒼として繁り合ひ自ら森嚴の氣に打たる、のであるがしかし果たして期る尊き霊跡であるかどうかは尚ほ調査を経なければ何れとも云へぬ。兎に角かくの如き立派な「ストーンサークル」が殆ど原形の儘今日に残されてゐる事はもことに結構な事で我が國考古学研究上得るところ極めて大なるものである。
--------------------大正15年8月5日大阪毎日新聞「比婆山の巨石遺構は世界の珍宝」より」

天宮神と呼ぶは、見取図の如く巨岩を積み重ねたるもの、如く高さ三丈許の土台石の上に一丈許の大岩二個を支へとして建て添へ其上に主石即ち博士の所謂メンヒルを建つ。此主石の正面は高さ一丈七尺横一丈五尺餘周圍四丈二尺余あり。雄大崇高晝尚ほ暗き深林の中に儼然としてそそり立つ其のかうがうしさ言はん方なし。而して此巨石層を現今天宮又はてんぐりと呼ぶに関しては鳥居博士も全然井口翁の説を踏襲して、天宮の語は古事記等にある所謂「國寄」の言葉の如く人力の及ばぬ神の力で手繰りあげた岩と云ふのが「テグル」から「テングリ」「テングー」「テングウー」など転訛して霊地にふさはしい天宮の文字をあてはめられたものであるまいかと云はれて居る。

この資料には、次のような図が添付されている。


図1.スケッチ図

著者は、2016年3月13日、徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の下田順一氏(当時主任)に本資料を見ていただき、この図は鳥居龍蔵が書いた図であるのか、また鳥居龍蔵が鳥取の「天宮さん」を調査した記録は残っているか調べていただいた。
下田氏はこのような資料を見たことは無く、鳥居龍蔵が「天宮さん」を調査した記録も残っていないとのこと、また鳥居龍蔵のフィールドノートとの比較から鳥居龍蔵の直筆ではないだろうとの見解であった。しかし、鳥居龍蔵が残した書類は膨大なために全てが整理できておらず、今後、資料が出てくるかもしれないので、あくまでも現時点の見解としてほしいとのことであった。
著者は、鳥居龍蔵が1920年代の山陰史蹟協会の設立に参画していることから、1926年8月2日に鳥取県の「天宮さん」を訪れている可能性は高いと考えている。


図2.鳥居龍蔵のフィールドノート

その後、著者は『鳥居龍蔵全集』の中に以下のような記述を見つけ、鳥居龍蔵が確かにこの天宮さんを訪れている事を確定した。

山陰の巨石遺跡
『山陰史跡』3巻1号 昭和2年
八月二日、鳥取県西伯郡賀野村で珍しい巨石遺構を発見しましたから、ここにちょっとこれを記します。
賀野村は米子町から三里ほどあって、その遺跡のある所は小さな谷間の山腹にあるのです。この山はいささか傾斜して居って、東は遠く有名なる大山と相対し、遺跡は山麓より凡そ三町余の所に存在して居る。この遺跡は大きな石の上に長さ十七尺(幅十尺)くらいの一本の巨石を立て、これに二本の巨石が支えて居る。中心の巨石の周囲には石が立てられて居る。
これはもと同村の人々が高貴な神の墳墓であると崇信して居るので、私に是非見てもらいたいとというから、ここに行って見たのです。しかるにこれは明らかに巨石遺跡で、中央の巨石はメンヒルで、周囲の石はストーンサークルである。しかもメンヒルとしては最も大きなものです。ここのメンヒルは、かの豊後別府附近の由布獄麓にある向山のそれと最もよく似て居る。そしてここのメンヒルは東方にあって、大山に向って居るが、向山の方は豊後富士たる由布獄に向って居る。
メンヒルの下の山腹にはまた山腹を取り巻いているストーンサークルがあるらしいが、未だ確かにそれとはいい難いが、充分調査する必要がある。向山の方にはその山腹に二重のストーンサークルが出来て居る。これは後のコウゴウ石になるものである。
同山麓の一小丘陵には一個のメンヒルを中心としたストーンサークルが認めらるるが、なおその附近にもこの種の石材が見える。私はこの附近一帯にこれがなお発見せらるるであろうと思われる。
私は日向の大峡や細島一帯で巨石遺跡を発見し、続いて別府附近でもこれを発見したが、今や山陰鳥取県西伯郡賀野村に於いてもこれを発見した。しかもこの賀野村のそれは中国、畿内、東海、北陸等に於いて唯一ものである。
この巨石遺跡は原始時代のものにあらで、有史以前のものと考えらるるが、とにかくかかる遺跡の存在によって、裏日本の上代及びそれ以前の事実に一エポックを画したものと思われる(美保関にて)


鳥居龍蔵は、1870年4月4日に徳島県に生まれ、人類学を研究するために上京して、東京大学で坪井正五郎のもとで研究を行った。
まだ考古学という学問が無かった時代に人類学者として、台湾、中国、モンゴル、朝鮮、シベリア、そして日本各地を調査した。その調査の中で、巨石遺跡の探索も実施した。特に、遼東半島の析木城(せきぼくじょう)で2基の支石墓(しせきぼ)を発見し、朝鮮半島の南部に伝播するにつれて、支石が低くなっていくことを解明した。しばしば、巨石の様態を示すメンヒル(立石)、ドルメン(支墓石)、ストーンサークルなどの言葉を用いたのは鳥居龍蔵で、イギリスに留学した坪井正五郎の影響を強く受けたものと考えられる。(平津豊『イワクラ学初級編』より)

「天宮さん」プレ調査

プレ調査は、2015年11月28日に鳥取荒神神楽研究会のコーディネイトで実施された。
参加者は、以下の通り。
イワクラ学会(柳原輝明氏、武部正俊氏、岡本静雄氏、須田郡司氏、平津豊)、荒神谷博物館(平野芳英氏)、鳥取荒神神楽研究会(徳林亜美氏、海澤純氏)母里両八幡宮禰宜(宮廻郁丸氏)
このメンバーに地元の方々、区長、地域協議会も加わった。

「天宮さん」の場所
鳥取県西伯郡南部町御内谷
北緯35度20分01.27秒、東経133度21分50.16秒、標高198m

図3.天宮さん付近の地図


【天宮さんが鎮座する大蔵山】 Photograph 2015.11.28

「天宮さん」は大蔵山の谷の奥にあり、東に大山が望むことができることから祭祀場所としては適した場所である。

【天宮さんへの登山道から見る大山】 Photograph 2015.9.22

「天宮さん」は、標高198メートルの位置にあり、横幅4メートル、高さ5メートルの主石を立てた状態になるように組み合わされ、土台部分には小さな岩屋を形成している。この石組みが図1の中心に描かれた「天宮神」と考えられる。
この岩の東面は20メートル以上もの高さの絶壁となっており、下から岩石が組みあがっているようにも見える。また、木々が生い茂って無ければ、この岩は、朝日を浴びて輝いていたと推測する。逆に「天宮さん」からは、美しい大山が望めたのであろう。
「天宮さん」の30メートル北にある巨石。図1の石組み「大岩」と考えられる。

【天宮さん】 Photograph 2015.11.28


【天宮さん】 Photograph 2015.11.28


【天宮さん】 Photograph 2015.11.28


【大岩】 Photograph 2015.11.28

今回のプレ調査でのメンバーの意見を記録しておく。なお、ここで記した意見は、測量等の詳細な調査を行う前の可能性として捉えていただきたい。

1.「天宮さん」の主石の裏面(東)は平で夏至の日の出を向いており、夏至の日の出の太陽が、この岩を照らすのではないか(【意見】平津豊)。


2.「天宮さん」の岩屋は冬至の日の入りに向って開いており、日が差し込むのではないか、また、岩屋の中に小さい穴があいており、この穴に夏至の日の出が入るのではないか(【意見】平津豊)。


3.「天宮さん」の主石の南側の岩組みに三角形状の岩群があり、その各岩の稜線が東西南北、冬至の日の出方向ではないか(【意見】岡本静雄)。


4.大岩の側面には巨大な「目」が造られているのではないか(【意見】岡本静雄)


5.「天宮さん」への登山口にある小さな石組みが東西南北を示している(【意見】岡本静雄)


6.「天宮さん」と大岩の2つの岩石が山添村の北斗星と同じく2つの星を表しているなら、BC3000年からBC2000年前のトウバーンの可能性があり、図1のスケッチのように「天宮さん」をとりまくように岩が並べられているなら、天球を形作っている可能性がある(【意見】柳原輝明)

また、須田郡司氏と武部正俊氏は、この大蔵山の西面を探索し、そこにも調査すべき岩群を見つけたが、今回の短時間の調査では、図1に描かれている「天宮さん」の周りの岩群を全て発見することはできなかった。

この日のプレ調査の夜、地元の人との話し合いを行った結果、まずこの場所をオープン(観光化)にしていいのかどうか地元の方々で話し合っていただくこととし、来春にイワクラ学会で本格的な調査を行なうこと、それまでに地元の方で山の木々の伐採を進めていただくことが決まった。


【地元の方々との話し合いの様子】 Photograph 2015.11.28

しかし、その後、地元からの連絡は無く、本格的な調査は実施することはなかった。
非常に興味が湧く魅力的な場所であるので、是非とも時間をかけて調査を行いたい場所である。

(イワクラハンター 平津豊)

謝辞

プレ調査をコーディネートしていただいた鳥取荒神神楽研究会に深謝の意を表します。


参考文献

1.倉野憲司校注:古事記、岩波書店(1991)
2.坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注:日本書記、岩波書店(1994)
3.平津豊:イワクラ学初級編、ともはつよし社(2016)
4. 比婆山御陵調査報告書冩(1926)
5. 会見町誌(1973)
6. 鳥居龍蔵、鳥居龍蔵全集 第四巻、朝日新聞社(1976)

2022年3月20日  「天宮さん」  論文 平津豊
2022年3月20日  「天宮さん」  ホームページ「ミステリースポット」掲載



トップ画面へ戻る
調査報告へ戻る

Copyright © 1987-2022 Hiratsu Yutaka All Rights Reserved.