葦嶽山ピラミッド2

  post to my website in 2018.5.6  平津 豊  Hiratsu Yutaka
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■はじめに

2010年に、広島県の葦嶽山を訪れて葦嶽山ピラミッドについての報告を書いているが、2017年に再訪し、さらに詳しく調査したので、改訂版を掲載する。前回の内容は包括してある。

■酒井勝軍

古代文明というと5千年前のエジプト文明や2千年前のマヤ文明が建造したピラミッドを思い浮かべるが、日本にもピラミッドではないかと言われている山が存在している。
酒井勝軍(さかいかつとき)(1874〜1940)は、『竹内文書』に登場するヤヒロ殿やヒラミツトは、ピラミッドのことであり、2〜3万年前に日本で造られ、それがエジプト伝わったという説を唱えた。
日本のピラミッドと言われているのは、葦獄山(広島県)、位山(岐阜県)、尖山(富山県)、皆神山(長野県)、千貫森山(福島県)、大石神(青森県)、弥山(広島県)、野貝原山(広島県)、三輪山(奈良県)、五葉山(岩手県)、黒又山(秋田県)などである。
これらの日本ピラミッドと言われる山の頂上や周辺にイワクラが存在しているが、ピラミッド山自体も巨大なイワクラとも考えられる。そして、これらの山には、決まって発光などの不可解な現象が見られるのである。

1934年4月23日、酒井勝軍は、京都の講演会で梅田寛一代議士から巨大な切石の話を聞き、すぐに廣島縣比婆郡本村の現地調査を決行した。
その調査の途中で、酒井が「諸君! あの山がまさにピラミッドである!!」と叫んだ。
これが日本にもピラミッドがあることが世に認識された瞬間である。その後、この葦嶽山は新聞にも取り上げられ、昭和初期に一大ブームとなったと記録されている。

酒井勝軍は、『竹内文書』を世に出した竹内巨麿(きょまろ)の同士で、『竹内文書』に日本人のアイデンティティを見出した宗教家である。
『竹内文書』とは、『古事記』以前に神代文字で書かれた歴史書で、竹内宿禰(たけのうちすくね)の孫、平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字混じり仮名文に書き写したとされるものである。古代の日本は、世界の中心であり、天皇が天浮船(あまのうきふね)に乗って万国を巡幸して世界を支配していたという壮大な創世記が書かれている。その内容は、「万教同根」と天皇の「万世一系」に貫かれており、エホバ、アダム、モーゼ、キリスト、モハメット、孔子、釈迦等も登場する。
1930年から1944年にかけて天津教弾圧事件が起ると、竹内巨麿は不敬罪で起訴され、『竹内文書』は偽書であるとして徹底的な批判を受けることになった。それ以後、『竹内文書』はアカデミズムから無視され続けている。

■葦嶽山


葦嶽山は、4辺の稜線がある815メートルの山で、エジプトのギザのピラミッドにそっくりである。
灰原ルートから登り始めると葦嶽山らしい山は全く見えない。
かなりきつい坂道を10分ほど登りきると平坦な道に出る。さらに10分ほど歩くと小さな鳥居があり、この鳥居から美しい三角形をした山が見える。
これが葦嶽山に違いない。鳥居の扁額には「奴国乃大王」と書かれていた。

【葦嶽山は四方に稜線がある】

【鳥居の向こうに葦嶽山が見える】Photograph 2010.11.13

葦嶽山の山頂へと登る道の途中に鷹岩と呼ばれる不思議な岩がある。
約3メートルの高さの岩で、風化が進んでいて原形はわからないが、何かを模ったものであることは確かである。顔と思われる方向は120度で冬至の日の出の方向を向いていた。
【鷹岩、南側より撮影】Photograph 2017.9.17

【鷹岩、北側より撮影】Photograph 2010.11.13

葦嶽山の頂上は、約5メートル四方の広場となっているが何もない。
酒井勝軍は、『太古日本のピラミッド』の中で、この頂上の調査について、以下のように述べている。

「神體(しんたい)太陽石が花崗岩であったために、露出面が甚だしく風化して居って到底原形を想像することさへも出来ぬ状態ではあるが、一個の自然石であることだけは確かである。そして其の形が角か円かは判然せぬが、徑約十二尺であって、其の周囲に、東西南北に正面する方形磐境が築かれて居る。但し北部は崩壊して跡形も無い。」


【葦嶽山山頂】Photograph 2010.11.13

【葦嶽山山頂の酒井勝軍 『太古日本のピラミッド』より】

この「葦嶽山の太陽石」については、発見当時に存在したのかしなかったのか、いろいろと議論を呼んだ。
1984年にサンデー毎日が『日本にピラミッドがあった! 追跡企画』を企画し、斉藤豊氏(信州大助教授)、吉田博直氏(広島大助教授)、福田博好氏(福田テクニカ社長)、篠原興弥氏(地質コンサル)、浮本勇氏(三重大名誉教授)、顧問団として、小松左京氏(作家)、手塚治虫氏(漫画家)、平尾収氏(東大名誉教授)、山口博氏(富山大教授)、三宅克也氏(名大助教授)、立松和平氏(作家)、森政弘氏(東工大教授)、渡辺豊和氏(京都芸術短大教授)、松本零士氏(漫画家)、三橋一夫氏(音楽家)などが参加して科学的検証を行った。
その記事の中で、大江熊一氏(建築業)は、以下のように証言している。

「酒井勝軍が山頂で行った講演に立ち会った。酒井勝軍はここに太陽石があると言って、頂上の中心を棒でトントンと音をさせた。それを取り囲むように磐境と呼ばれるタイル状の石があった。酒井は、36枚あるはずだが、北側は欠けていると言った。」


また、浮本勇氏(三重大名誉教授)は、以下のように証言している。

「酒井勝軍が山頂で講演をした2ヵ月後に葦嶽山に登った。丸い石とそれを取り囲むように一辺70センチのタイルのような石が16枚敷きつめられているのを見た。」


これらの証言は信用に足るものであり、発見当時は太陽石やタイル状の石は存在したと考えられる。
では、なぜ現在は存在しないのか。これについては、天津教弾圧事件の中で軍部に破壊されたとの噂が伝わっている。真偽は不明であるが、現存していないのは大変、残念なことである。

また、酒井は、以下のようにと述べている。

「ピラミッドの西を少し下ったところに通稱(つうしょう)観音岩と呼んでる岩がある。但し観音岩といふ名稱(めいしょう)は佛教渡来後のもので、其前は烏帽子(えぼし)岩といふたらしい。之は其形が似て居るために烏帽子といふたものであるが、元来はエビス岩といふのである。」



この説明のとおりに、葦嶽山の頂上から西面を降りていくと、ひょうたんのような烏帽子岩がある。この岩もおよそ自然に形成されたとは思えない形をしている。湾曲部分が後部と考えるとその反対側は300度を向いていて、夏至の日の入りの方向となる。
なお、この岩の表面に「天」という文字が彫ってあるが、これは近年彫られたものと考えられる。
【烏帽子岩】Photograph 2017.9.17

【烏帽子岩】Photograph 2017.9.17

【烏帽子岩に彫られた文字】Photograph 2017.9.17

頂上の西側には、天狗岩と呼ばれる岩組もある。詳しく調べていないが人工の匂いのする岩組である。

【天狗岩】Photograph 2010.11.13

■鬼叫山

 葦嶽山の北側の鬼叫山(ききょうざん)に葦嶽山がピラミッドと言われる由縁となる遺跡がある。

葦嶽山頂上を北側へ降りて鬼叫山を登ると、すぐに岩だらけの場所に出る。そこには、テーブル状に石を組んだドルメンがある。
 
ドルメン状の岩組み
【ドルメン巨石群を南側より撮影】Photograph 2010.11.13

【ドルメン巨石群を北側より撮影】Photograph 2010.11.13

【平たい岩】Photograph 2017.9.17


さらに登ると獅子岩と呼ばれる岩が現われる。
その頭部は、人工的に彫りこまれたようで動物の顔に見える。この顔もまた、夏至の日の入りの300度を向いている。
【獅子岩】Photograph 2010.11.13

【獅子岩】Photograph 2017.9.17

その奥の石組みは、酒井勝軍が東西南北を示す方位石と定めた石組みである。
これについては、サンデー毎日の『日本にピラミッドがあった! 追跡企画』において再調査され、東西南北ではなく冬至と夏至の日の出および日の入方向を示していると結論された。
しかし、測定してみると50度と145度で、この結論は間違っている。この方位石は意味のある方位を示していない。

【方位石】Photograph Photograph 2017.9.17

【方位石】Photograph Photograph 2017.9.17

一方、方位石の南にある鏡岩は幅5.8メートル、高さ3.3メートルの巨大なもので、南東側の面は奇麗に平面に削られている。

酒井は、次のように書き残している。

「此等ドルメンの所を右に廻ると鏡石がある。之は高さ一丈二尺位、幅一丈五尺位で、自然の岩を鏡の如く平面にしたもので、その左右に装飾があつたらしく左の分だけはマダ残って居るが、右の方は崩されて其石は谷に落とされて居る。」


【鏡岩】Photograph Photograph 2017.9.17

さらに、この鏡岩の南側の光景には圧倒される。
約7メートルの巨大な柱が立ち、多くの石柱が谷底に崩れている。この石柱は神武岩と呼ばれ頂上に宝玉が置かれ夜も昼も光輝いていたという伝説を持っている。神武岩の頂上部には、確かにその宝玉が置かれた穴が穿たれている。
神武岩の下には、クサビの石がはめ込んであり、神武岩が人工的に建てられた証拠の一つである。
神武岩には神代アヒル.文字で「アメノミハシラ ヤヒロトノ(天之御柱 八尋殿)」と彫られているとの噂があるが、確認はできなかった。

【鏡岩の南側の巨石群】Photograph 2010.11.13

【神武岩周りの巨石群】Photograph 2017.9.17

【神武岩】Photograph 2017.9.17

【神武岩、人と比べるとその大きさがわかる】Photograph 2010.11.13

【神武岩の頂上の穴】Photograph 2017.9.17

【神武岩の下部のくさび石】Photograph 2017.9.17

石柱はもともと3本立っていたが、酒井勝軍が調査を行った時には、1本しか立っていなかった。
ここが神武天皇の御陵で宝が埋まっているという噂を信じた村人によって、石柱は打ち倒され掘り起こされた後であったという。
酒井は、次のように書き残している。

丁度此鏡石の右手前に約二尺角長一丈程の石柱が立つて居るが二十年前村人等が好奇心に駆られて破壊作業を試みた時は、三本立つて居つたとの事であるから、之は必ず四本で一の方位石を構成して居つたものであらうが、如何にも残念な事をしたものである。


村人がこのような愚行を働いたのは1914年頃であったと考えられる。
そして、村に伝わる神武に縁のある岩との伝承に対して酒井は懐疑的で、次のように考察している。

神武岩の名稱(めいしょう)は、直ちに否認は出来ぬが、神武の稱號(しょうごう)は遥かに後世の事でもあり、皇陵でも分陵でもないとすると之は、後世の人が思ひ違って言い伝へた思はれる。即ちエビス岩がある以上セム岩が有つて然るべきで、我八雲民族及出雲民族は何れもセム族と同系で、ギザのピラミッドを造つたのも此セム族であるから、セム族の名が拝殿の何處かに残されてあつて然るべきである。そこでセム岩と呼び傳(つた)へられたものが、後世神武岩と言ひ誤られたものと見る方が穏やかであると思ふ。



この鬼叫山の神武岩の周りを測定し、簡単な配置図を作成した。
50度の節理を利用して建設されていることがわかる。
不思議なのは、獅子岩部分は風化したように丸みを帯びているのに、神武岩のあたりの岩石は鋭角なエッジを持っていることである。
この岩石群からは濃密な意志を感じる。何らかの意図を持った施設が存在したのは確実である。

【鬼叫山神武岩の周りの岩石配置図  平津豊作成】

【葦嶽山の遺跡地図 酒井勝軍「太古日本のピラミッド」より】

【葦嶽山の遺跡地図 平津豊作成】

■日本ピラミッド

酒井勝軍は、鬼叫山の巨石施設について葦嶽山を拝む拝殿跡であると結論付けている。
奈良の三輪神社のような古い神社には本殿が無く山を御神体としそれを拝む場所に拝殿のみが建てられているが、この様式の原点がここにある。

酒井は、日本のピラミッドを次のように規定し、「神人交通機関の神秘機関」であり「天地人一体」の救世主の象徴であるとした。
1)自然の山を利用している。
2)頂上には太陽石があり、その周りには列石を配している。
3)ピラミッドの他に拝殿が存在することがあり、小山であったり方位石、鏡石、立石などの石造物であったりする。
4)平面ピラミッドもある。

また、ピラミッドの頂上に存在する太陽石にの4つの様式を書き記している。

【太陽石の種類 酒井勝軍「太古日本のピラミッド」より】

また、酒井勝軍は、竹内文書の鵜草不葦合(うがやふきあえず)第十二代彌廣殿作尊(やひろとのつくりみこと)天皇が作ったヤヒロ殿がピラミッドであると主張した。
ヤヒロ殿という建造物は、『竹内文書』だけでなく、『古事記』にも、次のように登場する。

伊耶那岐(いざなぎ)、伊耶那美(いざなみ)が、「その島(淤能碁呂嶋(おのころしま))に天降りまして、天(あま)の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき。」


一説では、酒井勝軍は、竹内巨麿からピラミッド御神体石なるものを見せられ、その石にはモリツネ文字(神代文字の一つ)で、「トシイヤヨソ マトイムヒ ミコトノリシテ キビツネノモトニ オツナテヒコ スミラミコトノ タマシヒビヤウ マタナミシヤ ヒルノカミ ツキノカミ ツクリヌシカミ ヒラミツト 」と彫られていたと言う。この文の意味は、古代の天皇がオオツナテ彦に詔して、天皇霊、日神、月神、造主神を供に祀る廟を建てさせ、ヒラミットと名付けたというものである。
酒井の説をとると、世界中のピラミッド状建造物は、この日本のピラミッドが世界に広がったものであり、エジプトのギザのピラミッドは、山の無い砂漠に日本の山を形作ろうとしたので、しかたなく岩を積み上げたということになる。

【筆者とスフィンクス 1988年撮影】


そして、鬼叫山にある獅子岩を方位石から眺めると、まるでエジプトのギサのスフィンクスのようである。鬼叫山にある獅子岩がスフィンクスの元になったのかもしれない。

【鬼叫山 スフィンクスのように見える獅子岩】Photograph 2010.11.13

■蘇羅比古神社

この葦嶽山から3.6キロメートル離れた場所に、蘇羅比古神社という式内社が鎮座している。
まず最初に、巨木をそのまま利用した鳥居に驚かされる。
【蘇羅比古神社の鳥居】Photograph 2017.9.17

【蘇羅比古神社】Photograph 2017.9.17

御祭神の「そらつひこ」は、天津日高日子穂々手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)、または火遠理命(ほおりのみこと)、つまり山幸彦である。
その孫にあたる神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)つまり神武天皇も祀られており、鬼叫山の神武岩の命名に関わりがあるかもしれない。

そして、不思議なことに蘇羅比古神社の異形の狛犬は空を眺めているのである。

この狛犬達は、誰を待っているのであろうか・・・・・

【蘇羅比古神社の狛犬】Photograph 2017.9.17

【蘇羅比古神社の狛犬】Photograph 2017.9.17

■謝辞

本論文を作成するに当たり、貴重な資料を提供していただいた星加すみこ氏に感謝いたします。
また、小林晴明氏、宮崎みどり氏、越智美輪氏、池澤正浩氏、池澤久美氏には、私のわがままな調査に、付き合っていただきました。ありがとうございました。

■参考文献

1 酒井勝軍:モーゼの裏十誡(1941)、太古日本のピラミッド(1934)、八幡書店(國教宣明團発行復刻)(1999)
2 大内善郷校注:神代秘史資料集成天之巻、八幡書店(1984)
3 現代霊学研究会編纂:神代秘史資料集成地之巻、八幡書店(1983)
4 現代霊学研究会編纂:神代秘史資料集成人之巻、八幡書店(1984)
5 サンデー毎日 日本にピラミッドがあった 84 9・8版 毎日新聞社 (1984)
6 サンデー毎日 日本にピラミッドがあった 84 11・10版 毎日新聞社 (1984)
7 サンデー毎日 日本にピラミッドがあった 85 3・30版 毎日新聞社 (1985)
8.古事記 ワイド版岩波文庫 倉野憲司校注、岩波書店(1991)
9.日本書記 岩波文庫 坂本太郎・家永三郎他校注、岩波書店(1994)
10.平津豊ホームページミステリースポット 葦嶽山ピラミッド
http://mysteryspot.org/report/ashitake/ashitake01.htm
2018年5月6日 「葦嶽山ピラミッド2」 平津豊
(2010年11月13日  「葦嶽山ピラミッド」 の改訂版)