謎の古代飛騨国

 Report 2015.10.25 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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2015年5月23日と24日、『古事記のものがたり』の著者である小林清明氏・宮崎みどり氏と一緒に岐阜県の高山市を訪れ、古代飛騨国の一端に触れることができたので報告する。

日輪神社

「ここ高山は、今でこそ飛騨の田舎町になりさがってしまったが、かつては神代日本の日球(ヒダマ)として輝く神境であり、仙境であった。私は自分の研究から、その秘密を明かす神跡がここに眠っていることを確信する。もし高山人の頭脳にそうした神秘な自覚が湧き出づれば、ここ高山盆地は、遠からず世界の神域として天下万民の礼拝所になるであろう。」
日本ピラミッドの提唱者である酒井勝軍が昭和9年に、高山の講演で解き放った言葉である。
これに触発されて研究を始めたのが上原清二氏である。彼によって飛騨高山は太古日本の文明発祥地である証拠が次々と発表された。
もちろん、酒井勝軍に端を発していることから、竹内文書がベースとなっていることは明白である。
竹内文書とは、武内宿禰(タケウチノスクネ)の子孫とされる竹内家の竹内巨麿(タケウチキョマロ)が、1928年に存在を公開した文書で、神代文字で記された文書と、その文書を武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥(ヘグリノマトリ)が漢字カタカナ交じり文に訳したとする写本、さらに文字を刻んだ石や、ヒヒイロカネでできた鏡や剣、天皇の骨で造った像などをいう。
天津教は、1935年から1942年にわたって、特高警察により不敬罪で投獄などの弾圧を受ける。1944年に証拠不十分で無罪となるが、その裁判で提出された竹内文書約4000点が太平洋戦争の空襲により焼失した。戦後は、GHQから天津教は解散指定される。
その竹内文書には、奇怪な話が満載である。神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代があり、さらにその前に天神7代があったという。今から数十万年前の超古代の日本は世界の政治文化の中心地であり、御皇城山(オミジンヤマ)が高天原であった。世界には五色人(イツイロヒト)・黄人(アジア人)・赤人(ネイティブアメリカンやユダヤ人)・青人(現在、純血種はいない)・黒人(アフリカ人やインド人)、白人(ヨーロッパ人)が存在していた。天皇は、天空を超高速で駆ける天浮之船(アメノウキフネ)に乗って世界を巡行した。キリストやモーゼや釈迦など世界の大宗教教祖はすべて来日し天皇に仕えた。キリストは十字架上で死なずに日本で死んだ(ゴルゴダで処刑されたのは弟のイスキリ)。不合朝69代神足別豊鋤天皇の代にミヨイ、タミアラが陥没した(これがムーとアトランティス)。朱に輝き錆びない金属ヒヒイロカネが存在する(アトランティスのオリハルコン)。吉備常根本国に大綱手彦天皇(オツナテヒコスメラミコ)の霊廟である日来神宮を造ったと書かれ、この日来神宮がヒラミットと読む。
などなど、驚愕な話であるが、地球上の全人類が日本の天皇の下に統治されていたという歴史であり、地球は一つであり人類も一つであるという国家間戦争を否定する思想で貫かれていることも確かである。

その上原氏が重視したのが、この日輪神社である。(北緯36度10分18.06秒、東経137度21分20.63秒)
上原氏によると、原初の高天原は乗鞍岳にあったが、寒冷化によって低地に移り、高山盆地が神都となった。その途中に築かれた最初の築山式太陽神殿が日輪神社であり、この日輪神社が原形となって各地にピラミッド状の神体山を祀る太陽神殿が築かれるようになった。という。
写真を見ていただければわかるように社叢林が三角錐をしており、ここが尋常ならざる場所であること示している。
【日輪神社の参道】Photograph 2015.5.24

【日輪神社の拝殿】Photograph 2015.5.24


日輪神社
鎮座地 丹生川町大字大谷宇漆洞五六二番地
祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)・倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ 稲荷)・火武主比大神(ほむすびのおおかみ 荒神)・奥津日子大神(おきつひこのおおかみ 荒神)・奥津比女大神(おきつひめのおおかみ 荒神)・菅原道真公(すがわらみちざねこう 天神)
由来 当社は創立年代は不詳であるが山そのものが御神体として崇敬が暑く第百二代後花園天皇の永享年間(皇紀二〇八九~二一〇〇、西暦一四二九~一四四〇)小八賀郷の領主斯波氏が再興し、社嶺を奉献した。中古以来「日輪」と称し、寛永元年再建し、宝暦四年には現本殿を再営した。明治四十年には区内の稲荷・天満・荒神の三社を合祀した。
   ━立看板より━


ご祭神は、太陽神殿に相応しく、天照大神である。
参道から神社、そして裏山の神体山に向かう方向は100度の東向きであり、日の出の太陽を拝する形である。参道の脇は急な崖となっており、まるでマヤのピラミッドの階段のようである。この山が人の手で造られた可能性を感じる。
神社の裏山を100メートルほど登った頂上とおぼしき場所には何もないが、その南側に丸い岩が転がっている。これが頂上にあった太陽石ではないかと言われているイワクラである。(北緯36度10分17.05秒、東経137度21分21.46秒)
表面には築城時代にこの石を割ろうとした矢穴が打たれている。ここまで矢穴を入れておきながら、なぜ割らなかったか、不思議である。「神殺し」そんな考えが頭をよぎった。
地図をみると、この山はだらだらとした尾根が続いており、どこを頂上とするのか明確ではない。データ上の最高点(標高890メートル)は、神社から1000メートルもの東方にある。この山中を探索すると、イワクラが存在するかもしれない。再度、挑戦してみたい場所である。
【日輪神社のイワクラ】Photograph 2015.5.24

今回は訪れて確認することはできなかったが、飛騨の高屋山ピラミッドも有名である。林崎勝彦氏が1978年2月27日に発見した山で、稜線が明確に形成され、山中には列石や神代文字が存在し、近くには方位石もあったという。

両面宿儺

高山には千光寺という寺がある。(北緯36度11分23.98秒、東経137度17分17.11秒)
岩を積み重ねて庭を造っているが、線刻らしきものも見られ、もともとはイワクラだった可能性がある。
また、境内にある光明真言塔は、明治時代に500メートル離れた大萱地区から多くの人々によって運ばれたもので、磐座信仰の一つの形と考えられる。
【千光寺の庭】Photograph 2015.5.24

【千光寺の庭 線刻のある岩石】Photograph 2015.5.24

【千光寺の光明真言塔】Photograph 2015.5.24

その他にも本堂天井の血染めの龍など見所がある寺であるが、なんといっても円空仏が有名である。
生涯で12万体の仏像を彫ったという円空の仏像が63体保存されている。その一部は、円空仏寺宝館で見ることができる。中でも円空の代表作は、両面宿儺(リョウメンスクナ)の像で、その力強さに圧倒される。一見に値する木像である。

さて、この両面宿儺について、『日本書記』には次のように書かれている。

仁徳天皇六十五年、飛騨国に一人の人あり。宿儺といふ。それひととなり、体を壱つにして両の面あり、面おのおの相そむけり、頂合いてうなじなし。各手足あり。それ膝ありてよほろ踵なし。力多にして軽く捷し、左右に剣を佩きて、四の手に並に弓矢を用ふ。ここをもって、皇命にしたがはず。人民を掠略みて楽とす。ここに和珥臣の祖難波根子武振熊を遣わして誅さしむ。


飛騨に2つの顔を持つ宿儺という怪物がいて、略奪するので武振熊を遣わして誅した。と書かれている。

一方。飛騨に残る伝承はこれとは異なっている。
この千光寺を開山したのは乗鞍山に住んでいた両面宿儺と伝わっている。また、位山には、神武天皇が位山に登山すると、身一つにして面二つ、手足四本の姿をした両面宿儺が天から降臨し、天皇の位を授けたので、この山を位山と呼ぶようになったという伝承が残っている。
その他にも飛騨地方には、両面宿儺に関する数多くの伝承が残っているが、日本書紀のような悪者ではなく、ヒーローとして語られている。

その両面宿儺の異様な姿を具現化した像のなかで最も有名なのは、前述した円空が彫った両面宿儺である。その円空の両面宿儺の顔は横に2つ並び、4本の手は正面を向いて斧を持ち、足は見えないという姿をしている。
一方、『日本書記』では、2つの顔、4本の手に弓矢を持ち、4本の足を持ち2人の人間を背中合わせに貼り合わせた姿であると記載されている。
この違いの原因については、円空が『日本書紀』を読まずに彫ったのではないかと考えられている。当時、『日本書記』に接することができたのは、ごく一部の人だけだったはずである。

【両面宿儺像】

さて、この両面宿儺の異様な容姿について、星野之宣氏は『宗像教授伝奇考』の中で、ヒンズー教の火の神アグニが赤色の体に二つの顔と二本又は七本の手と三本の足を持つ姿で描かれること。プラトンの『饗宴』に登場するアンドロギュノスが男と男、女と女、男と女がくっついた三種類の人間であり、不遜な態度をとったのでゼウスによってその体を二つに裂かれたこと。との類似性を指摘している。興味深い見解である。

一方、私が、この『日本書紀』の記述で気になったのは、「つむじが無い」と「きびすが無い」という部分である。これを想像してもらいたい。きびすが無ければ、歩くことはできないし、人間的ではない。ぴったりと2人の人間が背中合わせにくっついているというよりは、左右対称になっている物体を想像する。

そして、以下の一節が、私の頭に浮かんだのである。

わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火の中に青銅のように輝くものがあった。またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。その足はまっすぐで、足のうらは子牛の足のうらのようであり、みがいた青銅のように光っていた。その四方に、そのおのおのの翼の下に人の手があった。この四つの者はみな顔と翼をもち、翼は互に連なり、行く時は回らずに、おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ。顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。


これは、旧約聖書エゼキエル書の冒頭部分である。エゼキエルが天から降りてくるケルビムの様子を描写したものであり、エーリッヒ・フォン・デニケンが、「エゼキエル・コンタクティー説」つまりUFOとの遭遇の様子であるという説を発表したことで有名になった部分でもある。
両面宿儺の描写との類似性があるのではないだろうか。
さらに、両面宿儺は、丹生川村の岩窟から飛来し国家安全、五穀豊穣を祈った後、下之保村高沢山へ飛び立ったと伝えられている。両面宿儺も空を飛んでいたのである。

空飛ぶ物体の話が出たところで、『金山巨石群』にも触れておく、この金山巨石群は、位山から32キロメートル南にある巨石群で、縄文人が造った太陽や星の天体観測装置である。日本の考古学学会は認めようとしていないが、世界的には有名で、世界各国から研究者がやってきている。
日本にも現代の文明に匹敵する巨石文明があったということを証明する遺跡の一つである。考古学者が認めなくても、そこに存在しているのであるから真実である。
詳しくはこちらを見ていただきたい。古代天体観測装置―金山巨石群―
ピラミッドや空飛ぶ乗り物など、これらは、古代の飛騨に、高度に進んだ文明が存在した形跡ではないのだろうか。
さらに謎に包まれているのが位山である。

位山

高山市久々野町の堂之上遺跡は、43軒もの住居跡が発掘された縄文時代の大遺跡であるが、この集落は位山(クライヤマ)を向き、位山を遥拝していたと考えられている。

位山が古代史において重要な山であることは、多くの古史古伝で伝わっている。

例えば、竹内文書には、天神七代の皇太子「天日豊本葦牙氣皇主身光大神(アメヒノムトアシカビキミノシノミヒカリオホカミ)」が日本に降臨して天皇(スミラミコト)となるが、その場所が、富山の立山の麓の御皇城山(オミジンヤマ)とも高山の位山とも言われている。
私が、竹内文書を読む限り「位山」という名前は出てこないが、その傍証の一つとして、位山の南北線上に羽根(ハネ)という地名のラインが並び、これが、竹内文書に登場する天空浮船の発着場であるといわれている。

また、高畠精二氏は、ホツマツタエ天の巻き4アヤに、『玉の岩戸を開けとばかりに一位(イチイ)の木の笏(サク)の先(ハナ)を持って、今こそ天の戸は開かれんと胞衣(エナ)から御子を取り上げました。』と書かれていて、アマテル神を取り上げる際に、胞衣を割くのに、位山の一位の笏(サク)が用いられ、この笏を持つ者は神の末裔となった。と解説されている。

飛騨地方には、神武天皇が位山に登山すると、身一つにして面二つ、手足四本の姿をした両面宿儺(リョウメンスクナ)が天から降臨し、天皇の位を授けたので、この山を位山と呼ぶようになったという地域伝承が残っている。

水無神社では、現在でも、天皇のご即位式(大嘗祭)には、位山のイチイの木から作った笏木が献上されている。

さらに、山本健造氏は、「天孫」とは飛騨民族のことであり、ヒルメムチ(天照大神)が葬られている位山で、サヌ(神武)にイチイの木で作られた位板が授けられた。という口伝が飛騨に残っていると言う。これについては後途する。

また、このような伝承が新興宗教を呼び込むのであろうか、位山には、太陽神殿と光神殿が建設されている。
太陽神殿と呼ばれる奇怪な建造物は、1953年に都竹峰仙氏という彫刻家が位山に登ったとき、足元より大龍神が立ち昇って「位山を開け、永年待ったぞ」という声が聞こえたという。都竹氏は、位山に籠って山を開いた後、ご神体を作り、1955年に位山頂上付近の巨石の横に神殿を建立した。しかし、その後、新しく球体の神殿を造るようにという神示を受けて、7合目にこのジュラルミン製の球体の神殿を1984年に造った。

一方、光神殿は、崇教真光の開祖である岡田光玉の魂を奉る神殿で、1992年に建設された。崇教真光の世界総本山が高山市にあるので、霊山である位山に重要施設を置いたものだろう。
【位山の太陽神殿】Photograph 2015.5.23

このように不思議な伝承に彩られた位山には、巨石がゴロゴロ存在している。
ダナ林道から頂上付近に鎮座する天の岩戸までの間の磐座群を順番に紹介する。
【位山の案内図】Photograph 2015.5.23

【位山の磐座配置図】

禊岩(ミソギイワ)(北緯36度02分46.68秒、東経137度11分32.16秒)
磐座群の最初に位置するので、ここで修祓するという意味で禊岩という名前をつけたのだろう。
 【位山 禊岩】Photograph 2015.5.23

御門岩(ミカドイワ)(北緯36度02分46.26秒、東経137度11分32.39秒)
磐座群の最初には、参道の入り口を示す鳥居のように、二つの岩が並んでいることがしばしばある。名前からこの岩もその部類であろうか。
  【位山 御門岩】Photograph 2015.5.23

日抱岩(ヒダキイワ)(北緯36度02分45.68秒、東経137度11分33.31秒)
後述する飛騨の口伝には、日抱御魂鎮(ヒダキノミタマシズメ)という神事が伝わっている。この磐座はそれにあやかって付けられた名前であろう。
   【位山 日抱岩】Photograph 2015.5.23

朧岩(オボロイワ)(北緯36度02分44.43秒、東経137度11分36.11秒)
朧とは、ぼんやりとかすんでいることを意味するが、この岩石との関係はわからない。
    【位山 朧岩】Photograph 2015.5.23

朧岩の一部は、まるで鬼の牙のような造形をしている。不思議な形である。偶然に形成されたものか、それとも人が造形したものか、詳しく調査すれば判明するだろう。
 【位山 朧岩】Photograph 2015.5.23

光岩(ヒカリイワ)(北緯36度02分43.94秒、東経137度11分36.00秒)
立石のように見えるが、細部は樹木でよくわからない。名前から、樹木が無い時代には、太陽に照らされて光っていたのであろうか。
【位山 光岩】Photograph 2015.5.23

豊雲岩(トヨクモイワ)(北緯36度02分42.64秒、東経137度11分38.58秒)
神代七代の一柱である豊雲野神(トヨクモノノノカミ)にあやかった名前であろうか。雲を司る神である。丸いきれいな形をしている。
【位山 豊雲岩】Photograph 2015.5.23


鞍ノ岩(クラノイワ)(北緯36度02分42.33秒、東経137度11分39.40秒)
形が馬具の鞍に似ているので付けられた名前であろう。
【位山 鞍ノ岩】Photograph 2015.5.23

餅ノ岩(モチノイワ)(北緯36度02分42.64秒、東経137度11分38.58秒)
樹木で岩石の様子がよくわからない。なぜ名前が餅なのかもわからない。
【位山 餅ノ岩】Photograph 2015.5.23

八重雲岩(ヤエクモイワ)(北緯36度02分36.02秒、東経137度11分45.34秒)
岩石のひび割れが雲のようだということで付けられた名前だろうか。八重雲とは幾重にも重なる雲のことである。
【位山 八重雲岩】Photograph 2015.5.23

蔵立岩(クラタテイワ)(北緯36度02分34.85秒、東経137度11分46.13秒)
大きく上下に2つに割れているが、上の岩石はさらに細かく割れている。上の岩石だけ木の根が割ったと考えられる。
【位山 蔵立岩】Photograph 2015.5.23

天の岩戸(アマノイワト)(北緯36度02分29.64秒、東経137度11分51.32秒)標高1528.9メートルの位置にある。その形からして位山で最も重要な磐座である。
後述する飛騨の口伝では、長である淡上方様が崩御されると位山の頂上に岩を運んで皇祖岩(スメラノオヤイワ)とし、その横に埋葬した。そしてその後も代々の祖先を葬り、ヒルメムチ(天照大神)もここに葬られた。と伝わっている。この皇祖岩が天の岩戸だと考える。
【位山 天の岩戸 北西から撮影】Photograph 2015.5.23

中央の岩屋の中には、岩石が並べられている。もちろん岩屋の中に人が運び込んだものである。この岩石が運び込まれた時代はわからないが、その岩石自体も加工されたように見える。
【位山 天の岩戸 岩戸の中】Photograph 2015.5.23

天の岩戸の南西面、樹木が覆ってしまい、磐座の形が良くわからない。
【位山 天の岩戸 南西から撮影】Photograph 2015.5.23
天の岩戸の南東面
【位山 天の岩戸 南東から撮影】Photograph 2015.5.23
天の岩戸の北東面、手前の岩石は、人工的に加工されたように見える。
【位山 天の岩戸 北東から撮影】Photograph 2015.5.23

気になる場所。
【位山 天の岩戸 周辺部】Photograph 2015.5.23

天の岩戸の南西の岩(北緯36度02分29.41秒、東経137度11分51.12秒)
自然に割れと風化で形成されたとは思えない岩石である。
【位山 天の岩戸 南西側の岩】Photograph 2015.5.23

 
天の岩戸の直ぐ北にある鏡岩(カガミイワ)(北緯36度02分29.81秒、東経137度11分51.94秒)
鏡岩という名前は付いているが、岩面は北を向いており、太陽は反射しない。
【位山 鏡岩】Photograph 2015.5.23
天の岩戸は、口伝どおり、人が造った可能性が高い。また、代々の祖先を葬ったとあることから、直線に並ぶこれらの磐座のそれぞれが墓なのかもしれない。
今回は、時間がなく、見ることができなかった磐座も他に存在する。
非常に引き付けられる山である。

水無神社

水無神社は、飛騨国一之宮である。「水無」は「ミナシ」と読むのが一般的で、「水主(ミヌシ)」のことされている。また、「スイム」と読むとする説もあり、延喜式では飛騨国大野郡水無神社として記載され「ミズナシ」と振り仮名が付いている。
創立については不詳であるが、平安初期の貞観9年(867年)に従五位下の神位を授けられたことが延喜式に出てくることから、その時代には存在していたことになる。
1945年には、熱田神宮のご神体(草薙の剣)がこの神社に一時避難していたことがあるなど、皇室からの信任も篤いようだ。
神社によると、御祭神は、水無神(ミナシノカミ)を主神として十四柱の神々が祀られ、この水無神は、御年大神(ミトシノオオカミ)であるとされている。
現在では「年」は、12ヶ月という期間のことを意味するが、本居宣長は、「登志とは穀のことなり」と述べており、穀物(稲)のことを示す。つまり稲を収穫する期間が12ヶ月だったので、この期間を「年」と言うようになった。よって、御年大神は穀物の神である。
さて、古事記では、この御年神は、素戔嗚命と神大市比売命の息子の大年神と香用比売神の子供とされている。
この素戔嗚の系譜については、かなり怪しいものだが、ここでは触れないでおく。
私は、水無神は、やはり、水の神だと考えたい。宮川がこの神社の前で伏流して水無川となることから付けられた自然神の名前と考えるのが妥当である。
これは、後術する『座禅石』の逸話とも合致する。御年神は後から上書きされたものではないだろうか。
【水無神社 拝殿】Photograph 2015.5.24

この神社は、位山を神体山として祀る神社で、天皇陛下の即位と伊勢の神宮の式年遷宮の時には、位山のイチイの木から作られた笏が現在でも献上されている。この献上について、神社の歴史では、平治元年(1159年)の記録が残っている。
このように位山が聖地であることには何の異論もないが、水無神社が位山を神体山(奥宮)とする神社であることには、疑問がある。
というのも、神社の位置と方位に問題があるからである。
神社は位山から7キロメートル北東に位置し、南東方向(135度)を拝する形に建てられている。つまり水無神社を参拝しても全く位山を参拝する形になっていないのだ。これは非常に問題である。古代祭祀の形を残している神社は、必ずご神体山を背にして建設され、神社を参拝すればご神体山を参拝する形になっているはずである。

これに関し、福田康宏氏から水無神社が富士山を拝しているという秘伝があるとの貴重な情報をいただいた。検討すると、水無神社の祭祀ラインと富士山は20度ずれている。もちろん、150キロも離れているので、これくらいは許されるのかもしれない。
しかし、福田氏の「富士山を拝している」というヒントを拡大して、距離の離れた他の山を探すと、御嶽山が水無神社の祭祀ラインにピッタリと当てはまった。位山からも御嶽山の噴煙がしっかりと見えることから考えても、水無神社が御嶽山を拝している方が相応しいのではないだろうか。
このように、現在の水無神社の奥宮を位山とするのは無理がある。おそらく、なんらかの理由で、水無神社の祭祀形態が変わってしまった時期があったのだろう。

一方、現地に行って気になったのは、この水無神社の御旅所である。それは水無神社から西に1キロメートルほど離れた丘である。この丘は円墳のような形になっていて、その頂上部に広場がある。そして、この頂上部に登るために100メートルの真直ぐな道が造られている。まるで滑走路のようである。
そういえば、富山県の尖山にも真直ぐな道が存在した。 尖山ピラミッド
「尖山に入った男が急にまぶしい光に包まれ気がつくと位山にいた」という話もあるので、尖山と位山には、何か深い関係があるのかもしれない。
この御旅所は、位山の遥拝所とされている。位山が良く見え、遥拝所に相応しい場所である。
【水無神社御旅所への道】Photograph 2015.5.24

【水無神社御旅所から位山を望む】Photograph 2015.5.24

さて、この御旅所へ登る滑走路のような道の方向が位山を向いていればピッタリなのだが、残念ながら道の延長上に位山はなく、20度ずれている。しかし、その方向は、240度で、冬至の日の入りの方向にあたる。つまり、この道の下からお旅所の広場を見るとその方向に冬至の太陽が沈むことになる。また、この道を逆に伸ばすと臥龍桜公園に至る。
この臥龍公園には、臥龍桜という推定樹齢1100年以上の江戸彼岸桜があるが、私には、公園内に点在する岩石の方が気になった。
大幢寺の境内であった場所が、1989年に公園として整備されたようで、これらの岩石がもともとこの場所にあったのか、運ばれてきたのか定かではないが、その岩石の形や線刻らしきものがあることから、イワクラの可能性がある。
【臥龍公園】Photograph 2015.5.24

【臥龍公園内のイワクラらしき岩石】Photograph 2015.5.24

【臥龍公園内の岩石の線刻】Photograph 2015.5.24

また、その大幢寺の中には、『座禅石』という磐座がある。

大幢寺の本寺である高山の雲竜寺の開山了堂真覚和尚がいつもこの岩の上で座禅を組んで修行しておられた。ある時、白髪の翁が現れて、「われは一の宮の神であるが今法を求めてここにきた。」と申された。和尚は仏祖単伝の正脈を授けまいらせた。翁はことのほか満足されて、「如何にしてこの報恩に報いん。」と申されたので、和尚は「前の宮川の流れが滝のようで読経の妨げになるから、神野御力によって、音を止めていただきたい。」と申し上げると、「それはいとも易きこと。」といって忽ち姿が消え失せてしまった。やがてあじめに命じて川の水を地下に潜らせられたという。それ以来、寺前の流れは伏流するようになった。あじめは一の宮の神のお使いの魚として村人は捕獲したり、食べたりしない。 ―立看板より―


さらに、それ以来、この場所を覆河原(訛って鬼河原)と言うようになったようだが、この宮川が伏流している場所は、安河原とも言われ、この場所で、天孫降臨が相談されたと伝わる場所である(詳細は後述)。
この臥龍公園の場所が特別視されていて、磐座信仰もあったようなので、やはり、公園内の岩群はイワクラではないだろうか。
【座禅石】Photograph 2015.5.24

また、前述したように、お旅所とこの臥龍桜公園を結ぶラインは冬至の日の入りと夏至の日の出方向の方向になる。おそらく、お旅所から臥龍桜公園のイワクラ群まで、一直線の祭祀施設が構築されていたと考えられる。
【水無神社と位山の祭祀ライン】 © 2015 Google, ZENRIN

福来友吉

話は変わるが、飛騨高山には、福来友吉という稀代の超能力研究者の足跡も残っている。
高山市国府町の飛騨福来心理学研究所を訪れ、大場宏明氏に資料館を丁寧に説明していただいた。
福来友吉(1869~1952)は、東京帝国大学の心理学の助教授であったが、1910年に透視実験中に念写を発見した。
しかし、この念写実験のために、東京帝国大学を追放されてしまった。その後、高野山大学で教授を務められ、超心理学的研究を進めた。やがて現在の飛騨福来心理学研究所の前身である東北心霊科学研究会を設立する。
福来が研究した「念写」は、心の中に思い描いている観念を写真の乾板に焼き付ける現象である。今でこそ、念写はオカルト的な超能力としてかたづけられているが、福来は真剣に科学として実証しようとした。
彼は、X線も通さない鉛の箱の中に密閉した写真乾板に焼き付ける実験に何度も成功している。そして、念写者が過去に行なった同じ念写を繰り返すことができること、念写者が過去に読んだ本を念写すると、その本の前のページが念写されたこと、念写者が会ったこともない弘法大師の顔を念写したこと、また当時誰も見たことがない月の裏側を念写したことなどから、観念というものが浮いて消える泡のようなものではなく、エネルギーを伴って実在するとの説を展開した。簡単にいうと「心」が存在することを実証したのである。
しかし、この説は、唯物万能時代の学者に受け入れられず東京帝国大学を追放されてしまったのである。以後、アカデミズムにおいて超能力の研究はタブー視されることになる。
さて、福来が被験者に選んだのは、御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子、三田光一といった人達であった。特に御船千鶴子は千里眼事件として最も有名である。
彼女は、福来のために公開実験を行なったが、ある実験での不手際と誤解によって詐欺よばわりされ、服毒自殺するという悲惨な最期を遂げた。
これによって、それまで福来を賞賛していたマスコミも福来の念写を叩き始めたのである。
福来は、稀有の神通力者である三田光一との実験論証が未完のまま、「仕事を残して逝くは残念」と涙を流し、「福来友吉第二世生まる」と三回叫んでこの世を去ったという。
【左:月の裏側の念写写真】 飛騨福来心理学研究所パンフより
【右:弘法大師の顔の念写写真】 福来博士記念館掲示写真より

三田光一が念写した月面の裏側の写真について、東京大学の後藤以紀博士は、アポロ計画のデーターを数理的に分析して、クレーターと海が31個(全体の7割)一致したと発表した。また、物理研究家の佐佐木康二氏は、月探査機クレメンタインの画像データを分析し、8割も相関していることを発表した。しかし、現在NASAから発表されている月面写真と見比べて、とても一致してるとは思えない。
それに、その三田光一は、イギリス人手品師のギャクラーが率いる一座に入って興行していた元手品師という経歴を持っている。
では、福来が行なった膨大な実験データは、全てトリックだったのであろうか?
私には、東京帝国大学の助教授の席を失ってまで嘘の実験を行なう必要があったとは、どうしても思えない。福来が科学者として真摯に実験に取り組んでいる様子が、「透視と念写」という本で読むことができる。

国府町の三つ岩と加茂神社

この飛騨福来心理学研究所の近く、上広瀬のJR高山線のすぐ側に「三つ岩」と呼ばれる岩が置かれている。この岩は、もともと1キロメートル離れた宮川の中にあって神秘の岩とされていた。1585年に飛騨を平定した金森長近がこれに目をつけ、掘り揚げようとしたができなかった。それを上広瀬地域の人々は残念に思い、力を合わせて1894年に、掘り揚げることに成功した。その作業は、のべ9746人もかけた大事業であったと伝わっている。
三つ岩の三つの突起は、乗鞍、御嶽、白山の三つの霊峰を表し、その間の太平洋と日本海を表す窪みに溜まった水は、イボを取り除くのに霊験があるといわれている。

ぬめっとした黒い岩肌が、非常に魅力的で、芸術作品として出品しても充分評価を得られそうな形をしている。
もちろん、この三つ岩は、川の水流で岩が削られた自然の造形で、奇岩の一種である。しかし、この地区の人々が心を寄せた岩でもある。
なぜ、この地区の人々が、これほどまで苦労してこの岩を引き揚げたのか、その答えは、近くの神社にあった。
【三つ岩】Photograph 2015.5.24

三つ岩の直ぐ北側に大イチョウで有名な加茂神社が鎮座している。その前に洞ノ口1号古墳がある。このあたりが、古墳時代から人が住んでいた古い土地であることがわかる。
そして、加茂神社の境内に入ると不思議な光景に気がついた。拝殿の東側に祭壇のような石があり、西側に古い鳥居が立っている。
ということは、現在の拝殿と本殿は一般の神社と同じく南北に並んでいるが、本来は、古い鳥居と祭壇石を結ぶラインが祭祀線であったのではないだろうか。もちろん南北線よりも太陽を意識した東西線の方が古い形式である。
鳥居の方向からこの祭壇石をのぞむと、その向こうから太陽が昇ってくることになる。
この祭壇石には注連縄も何もなく放置されているが、お祀りして欲しいものである。
このあたりについて、神社の方は誰もいなかったので確かめることはできなかった。
【加茂神社の鳥居から祭壇石を望む】Photograph 2015.5.24

【加茂神社の祭壇石を望む】Photograph 2015.5.24

本殿の裏に回ってみると、さらに驚く光景があった。いろいろな岩が本殿を取り囲むように半円を描いて置かれているのである。結界石のようでもあるが、通常の結界石は、同じ種類の岩石で造られている。ところが、ここの岩石はいろいろな種類の岩石が並べられている。
三つ石のように川で表面が侵食されたなめらかな岩肌の岩、鋭角に尖った岩、そして、最も目を引いたのが円礫岩である。川などで丸石となった石がさらに堆積したもので、形成されるのに長い年月が必要である。ここの円礫岩は色とりどりの丸石を含んでいてとても美しい。そう、まるで岩石のコレクションのようである。

つまり、拝殿前の祭壇石でわかるように、この地域には、磐座信仰があったと思われる。その磐座信号が岩石を貴重なものとして扱うという飛騨人の気質を育み、神社の裏に岩石をコレクションしたり、非常に労力をかけて三つ岩を引き揚げたりしたのではないだろうか。
【加茂神社の裏の石群】Photograph 2015.5.24

【加茂神社の裏の石群 美しい円礫岩】Photograph 2015.5.24

【加茂神社の裏の石群】Photograph 2015.5.24

【加茂神社の手水舎の石 盃状穴がある】Photograph 2015.5.24

古代飛騨国

飛騨福来心理学研究所の資料館には、福来友吉に師事した山本建造氏の偉業も展示されている。実は、わざわざこの研究所を訪れたのは、こちらが目的であった。
山本建造氏は、心理学や哲学を研究し、六次元弁証法を発見した人であるが、私が興味を持ったのは、山本建造氏が1936年に書かれた「鞍ケ根風土記」である。
これは、病人を治すなどの神通力を持っていた山本氏を見込んで、乗鞍神社の隣に住んでいた老翁(名は若田か?)と旗鉾文教場の近くに住んでいた上西藤朝仙人から、飛騨に伝わる口伝(口碑)を託され、書き写したものである。

その話は、以下のようなものである(超概略)。
大昔、日本は、海から顔を出した淡山(乗鞍岳)であり、命の源である丹生の池に写る太陽や月やを眺めて心を静めていた。これを日抱御魂鎮(ヒダキノミタマシズメ)という。「ひだ」という地名の由来である。
寒冷化が進むと乗鞍岳から飛騨の地に下山して暮らすようになった。
2500年前に神通力に優れた大淡上方様(オオアワノウワカタサマ)が現れ、飛騨の国を治めた。それより15代後の淡上方様(アワウワカタサマ)は、子供である位山命に皇統命(スメラミコト)の尊称を与えた。淡上方様は外国から守るために各地に子孫を住まわせた。大淡上方様の次男の山下住水分奇力命(ヤマノシタズミミクマリクシキチカラノミコト)は西に行きその子孫が大三島の大山衹命(オオヤマヅミノミコト)である。大淡上方様の長男である山本住日高日抱奇力命(ヤマモトズミヒダカヒダキクシキチカラノミコト)の子孫である山本高山土公命(ヤマモトタカヤマツチノキミノミコト)は、伊勢の鈴鹿に行き、その子孫が猿田彦命である。
淡上方様が崩御されると位山の頂上に岩を運んで皇祖岩(スメラノオヤイワ)とし、その横に埋葬した。以後、皇統命が位に就く時には、位山のイチイの木の板で辞令が下るようになった。また、皇統命が亡くなると皇祖岩の横に埋葬していった。34代の伊邪那岐命(イザナギノミコト)は出雲から来られた那美命(ナミノミコト)と結婚し、ヒルメムチ命(後の天照大神)を産む。弟の素戔嗚命(スサノオノミコト)は、飛騨を出奔して母の国である出雲に行ってしまう。
35代の天照大神は飛騨の分家である山下家の思兼命(オモイカネノミコト)と結婚し、5男3女をもうける。素戔嗚命は、草薙剣を天照大神に差出し、飛騨政権と出雲政権が仲良くしていくために、天照大神の三人の娘を素戔嗚命の三人の息子の嫁にやり、天照大神の一人の息子を素戔嗚命の娘の婿にやる話がまとまった。これが誓約(ウケイ)の真実である。
このようにして多紀理姫(タギリヒメ)が大国主命に嫁いで、阿遅志貴命(アジスキノミコト)と下照姫(シタテルヒメ)が産まれるが、大国主命は他国の姫を追い求めて多紀理姫に寄りつかなくなる。とうとう正妻である多紀理姫をさしおき、須勢理姫(スセリヒメ)を正妻にすると言い出した。素戔嗚命が大国主に試練を与える物語は、大国主が飛騨王国への裏切り行為を行なおうとしているのを、素戔嗚命が制止しようとしたものである。さらに素戔嗚命の娘と結婚するために出雲に使わされていた天照大神の息子の熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)が突然、原因不明に死亡する。
ここに、天照大神と素戔嗚命の約束は破られ、多紀理姫は飛騨に逃げ帰ることになる。
天照大神は、出雲に軍隊を派遣し、国譲りを迫る。出雲政権は、戦力的にも文化的にも飛騨政権に勝てる見込みがないので、たちまち降伏した。大国主を幽閉する御殿は飛騨の大工が造り、見張り役として天照大神の息子の穂日命(ホヒノミコト)が派遣された。
また、筑紫に外国人が渡来して勢力を増やしていることに対し、天照大神は、三人の娘を偵察に派遣した。このとき鈴鹿の猿田彦命が筑紫に案内した。
その頃、飛騨にも大雪が降るようになったので、国の中心を大和に移すことにし、近畿に人々を派遣する、天照大神の息子の日子根命(ヒコネノミコト)は滋賀を開拓し、彦根という地名になった。邇邇芸命(ニニギノミコト)の兄である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)は河内を開拓した。
三姫が帰ってきて筑紫の状況を報告すると、今度は、邇邇芸命が大勢の人々を連れて筑紫に派遣される。これが天孫降臨である。このときも猿田彦命が道案内をする。

筑紫を平定した後、邇邇芸命の孫であるサヌ命(神武天皇)が大和に凱旋するが、この時、既に大和を開拓していた饒速日命との戦いが起こり、サヌ命の兄である五瀬命が戦死する。そのうち、お互い同族であることがわかり、天照大神の指示通り、サヌ命が大和で都を開くことになる。誤解であったとはいえ、五瀬命を戦死させてしまった長髄彦は罰せられるが、饒速日命は、妻の兄を殺すことはできないので、斬ったことにして、長髄彦を東北に逃がした。
この朗報は天照大神が眠る位山に報告され、位山のイチイの木で作られた位板(クライイタ)がサヌ命に授けられた。今なお、天皇の即位式には位山のイチイの木で作った笏木が献上されている。

一方、国譲りをさせられた出雲は、穂日命を殺し、出雲神道を全国に広めることで、飛騨に復讐を始める。饒速日命を祀っていた大和の三輪神社をはじめ、数々の有力神社をのっとり勢力を伸ばしていく。出雲神道になびかない飛騨の人々をヒエッタ、エッタ、エタと呼んで差別した。倭姫が八咫の鏡を持って地方を点々と逃げまわったのも出雲神道に奪われそうになったからである。
これが飛騨に伝わる口伝である。山本建造氏の書籍のほとんどは出雲に対する恨み辛みに費やされており、いかに出雲が悪者かが延々と述べられている。
山本建造氏は、二人の老人から聞いた話を「鞍ケ根風土記」として記録し、それに、実地調査した結果を加えて発表している。したがって、どこまでが口伝でどこまでが山本建造氏の考えなのかがわかりづらくなっているが、古事記や日本書記の疑問点をうまく説明しているところもあり、非常に興味深い口伝である。
【山本建造氏が建てた天孫宮】Photograph 2015.5.24

一例をあげると、次の部分である。
垂仁天皇の皇女である倭姫が天照大御神を伊勢に鎮座させたことは有名であるが、なぜ大和から移動しなければならなかったのかが不可解である。
『日本書紀』の10代崇神天皇6年には次のように書かれている。

6年に、百姓流離へぬ。或いは背叛くもの有り。其の勢、徳を以て治ぬむこと難し。是を以て、晨に興き夕までに惕りて、神祗に請罪る。是より先に、天照大神・倭大国魂(ヤマトノオホクニタマ)、二の神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢いを畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。仍りて磯堅城の神籬を立つ。亦、日本大国魂神を以ては、渟名城入姫命(ヌナキノイリビメノミコト)に託けて祭らしむ。然るに渟名城入姫命、髪落ち体[ヤマイダレ+叟]みて祭ること能はず。


つまり、天照大神と倭大国魂の神とを天皇の大殿に祭ったが、神の勢いをおそれて、うまくいかず、天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑に祭り、倭大国魂は渟名城入姫命に託けて祭らせたと記載されている。天照大神は、もともと天皇の傍に祀っていたはずだと考えると、天照大神が倭大国魂によって追い出されたと読める。それでも倭大国魂の怒りはおさまらず、渟名城入姫命を衰弱させたのである。
しかし、どんな理由があれ、同床共殿(ドウショウキョウデン)の神勅によって、天照大神と思って、同じ床、同じ屋根の下に必ず置いて大切に祀ることを命じられている八咫鏡(ヤタノカガミ)を、天皇から離し、さらに大和から転々と移動させたのは実に不可解である。
これについて、以前、私は、倭姫が天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)も携帯していたため、倭姫が各地を平定する旅を行なったのではないかと考察したが、この飛騨の口伝によると、八咫鏡が出雲神道から狙われていたので、奪われないように逃げ回っていたということになる。なかなか説得力がある。

飛騨の山中には、考古学や歴史学を覆す、驚愕するような真実が眠っているようだ。


古事記の序文は以下のような一文がある。

時有舍人。姓稗田、名阿禮、年是廿八。爲人聰明、度目誦口、拂耳勒心。皍、勅語阿禮、令誦習帝皇日繼及先代舊辭。然、運移世異、未行其事矣。


28歳の稗田阿礼(ヒエダノアレ)は、大変頭が良く、目に見た物は即座に言葉にでき、一度聞いた事は忘れなかったので、天武天皇は阿礼に、『帝記』と『旧辞』を誦習するように命じた。と書かれている。
これを太安万侶が書き記し、712年に編纂したものが古事記である。


この稗田阿礼は、飛騨の阿礼(ヒダノアレ)のことで、その住居跡が飛騨の山中の楢谷に残っている。


■謝辞

本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった大場宏明氏に感謝いたします。
また、小林晴明氏および宮崎みどり氏には、、私のわがままな旅に、付き合っていただきました。ありがとうございました。

■参考文献

1.古事記 ワイド版岩波文庫 倉野憲司校注、岩波書店、東京(1991)
2.日本書記 岩波文庫 坂本太郎・家永三郎他校注、岩波書店、東京(1994)
3.星野之宣:宗像教授伝奇考 第二集 file.7両面宿儺、 潮出版社、東京(1996)
4.神代秘史資料集成 天之巻 、八幡書店、東京(1984)
5.ホツマツタエ 天の巻4アヤ 高畠精二訳、
株式会社 日本翻訳センター (URL:http://www.jtc.co.jp URL:http://www.hotsuma.gr.jp)、
6.福来友吉:透視と念写(復刻版)、福来出版、岐阜県(1992)
7.山本健造:日本起源の謎を解く 天照大神は卑弥呼ではない、福来出版、岐阜県(1991)
8.山本健造:明らかにされた神武以前: 日本民族 その源流と潜在意識、福来出版、岐阜県(1992)
9.山本健造・山本貴美子:日本のルーツ飛驒 飛驒は古代の中心地だった日本古代正史、福来出版、岐阜県(1997)
10.山本貴美子:暴かれた古代史 二千年の涙、福来出版、岐阜県(2010)
11.本城達也ホームページ 超常現象の謎解き
http://www.nazotoki.com/mita.html
12.平津豊ホームページミステリースポット 古代天体観測装置―金山巨石群―
http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/kanayama/kanayama.htm
13.平津豊ホームページミステリースポット 尖山ピラミッド
http://mysteryspot.main.jp/mysteryspot/togariyama/togariyama.htm
 

2015年10月25日 「謎の古代飛騨国」 平津豊