石上布都魂神社とスサノオ

Report 2012.5.1 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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前から気になっていた岡山の赤磐市の石上布都魂(イソノカミフツミタマ)神社とその周辺を探索する。
石上(イソノカミ)神社と言えば、物部氏の氏神である天理の石上神宮を思い浮かべるのであるが、備前のこの神社とどういう関係があるのか気になっていた。
山陽自動車道の瀬戸PAを降りて、赤磐市の桜ヶ丘団地を抜けて27号線から364号線に入る。PAから15kmほど走ると、平岡西のT字路に突き当たる。ここを右に折れて2.5km走ると石上という地名となり、ほどなく、参道の入口に着いた。駐車場と書いてあるので、ここに車を止めた。
【参道の鳥居】Photograph 2012.2.5
鳥居に向かって登っていくと、鳥居の向こうに駐車場がある。小さな車であれば、ここまで登ってくることは可能である。この駐車場からは、いきなり山道を登ることになる。道は急であるが、神社には直ぐに着いた。
ご祭神は素盞嗚命(スサノオノミコト)、祓殿には、瀬織津姫神、速秋津姫神、伊吹戸主神、速佐須良比売神の名が記されていた。
【石上布都魂神社の拝殿】Photograph 2012.2.5
【石上布都魂神社の本殿】Photograph 2012.2.5
お参りをした後、宮司さんと1時間近く、お話をさせていただき、神社の由緒などをお聞きすることができた。
宮司によると、素盞嗚命(スサノオノミコト)の布都魂(フツノミタマ)という剣がこの神社に納められていたという。

古事記に「速須佐之男(ハヤスサノオ)の命、その御佩かせる十拳釼(トツカノツルギ)を抜き、その蛇を切り散りたまひしかば、肥の河、血に変わりて流れき。かれ、その中の尾を切りたまひし時に、御刀の刃毀けき。しかして、恠しと思ほし、御刀の前もちて刺し割きて見そこなはせば、都牟羽の大刀あり、かれ、この大刀を取り、異しき物と思ほして、天照大御神に白し上げたまいひき。こは草なぎの大刀ぞ。」
とあるように、素盞嗚命が、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治し、大蛇の尾から天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)を取り出し、その剣が天皇の三種の神器の一つである草薙剣(クサナギノツルギ)となる話は有名だ。
一方、日本書紀には、「一書にいわく」として「その素盞嗚命の蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部(かんとものを)の許に在り」とあり、宮司によると、吉備の神部が、ここの石上布都魂神社であるということである。
【物部 忠三郎 宮司】Photograph 2012.2.5
さらに、宮司によると、崇神天皇の御代に疫病が流行り、霊剣が備前の石上布都魂神社に在ることを知った天皇が、霊剣を大和に移されて、疫病をしずめたということであった。つまり、天理の石上(イソノカミ)神社は、この石上布都魂神社の神剣を移した先であり、この備前の石上布都魂神社の方が元ということになる。
天理の石上神宮は、山辺郡石上郷の布留山に鎮座する神社で、伊勢神宮と同じく「神宮」と称された由緒ある神社である。また、最も古い氏族の一つである物部氏が祭祀し、大和政権の武器庫だったとされる神社である。その物部氏も石上布都魂神社から神剣が移されたことを認めているそうだ。ちなみに、お話を聞かせていただいた石上布都魂神社の宮司は、第十代の物部忠三郎氏という物部姓である。その昔、物部姓を名乗るように命じられたということで、残念ながら、その前の名前はわからないという。
【宮司に見せていただいた日本書紀の一節】Photograph 2012.2.5
【物部姓を名乗ることを命じられた書】Photograph 2012.2.5
それにしても、この霊剣は、素盞嗚命と天照大神の誓約(ウケイ)に使われたり、八岐大蛇を切ったり、疫病をしずめたりと強力な力を持っていたものと考えられる。また、十拳釼(トツカノツルギ)、蛇麁正(オロチノアラマサ)、天羽々斬剣(アメノハハギリノツルギ)、蛇韓鋤(オロチノカラサビ)、天蝿斫剣(アメノハエギリノツルギ)、布都斯魂剣(フツシミタマノツルギ)、布都魂(フツノミタマ)など色々な名前がついているのも特徴である。本神社名である布都(フツ)とは「フッと断つ」という意味であると宮司に教えていただいた。この剣の切れ味を名前にしたもののようだ。
【本宮に登る途中の鳥居】Photograph 2012.2.5
この神社のハイライトは、この神社の裏山の頂上にある本宮(モトミヤ)だ。山頂まで距離はないが、道は急である。最後の階段を登って、その磐座(イワクラ)が見えたときに、思わず「ワアッ」と声をあげてしまったほどすばらしいものであった。こんなに大きく荘厳な磐座は、大和の三輪神社の磐座に匹敵するのではないだろうか、山頂ということもあり、神聖な霊気を感じるまさにパワースポットという場所であった。
山頂全体が磐座となっていて、ところどころに岩が人工的に配置されているようである。特に頂上部にある岩は先のとがった特徴的な形をしている。ピラミッドのキャップストーンの可能性もある。
【頂上の巨大な磐座】Photograph 2012.2.5
【人工的に配置された岩】Photograph 2012.2.5
【先のとがった岩】Photograph 2012.2.5
さらに、驚くべきことに、明治に火災にあうまでは、この山頂に本殿や拝殿、さらに神楽殿までが建っていたということである。この場所がもっとも神聖な場所であるので、そこに本殿を建てるのは当然ではあるが、この山の頂上に神社が建っていたとは、今ではとても信じられない、現在に残っていれば、それはかなり異様な光景であったであろう。
宮司の話では、山頂まで参拝するのは、大変なので火災にあった後は、山の中腹の現在の地に本殿や拝殿を築いたということである。
周りを見渡す山の頂上に建つ天空の社に神剣が祀られているという風景は、なんと神々しい風景であったであろう、まさに、スサノオの剣が鎮座するにふさわしい場所である。
【消失前の神社の絵図】Photograph 2012.2.5
【石上布都魂神社の2.5km南にある八幡神社、10月の例祭では石上布都魂神社から、八幡神社、そして熊野神社へと神輿が練り歩く。】Photograph 2012.2.12
【八幡神社から1.8km東にある熊野神社、古墳の上に建てられた神社で、古くは宅美郷の総社と呼ばれ、創建は定かではない。祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊】Photograph 2012.2.12
石上布都魂神社を参拝した後、20kmほど北にある血洗いの滝を見に行った。羽出木という場所から本山寺(ホンザンジ)へ至る道に入る。本山寺で血洗いの滝への道を聞いたのだが、この本山寺は役の小角(エンノオヅヌ)開基、鑑真の再興と看板に書いてあったので、思わずお参りした。茅葺屋根のお堂があり、三重の塔や御霊屋で徳川家を祀っていたりと、由緒ある寺院であった。お寺の人の話によると、延暦寺よりも古い天台宗の寺で、もともと30分ほど登った奥の金毘羅山にあり、その頂上には岩があるということであった。磐座かもしれないと思いつつも、今回は予定外なので断念した。本堂も改修中だったので、後日また訪れてみたい。
本山寺を出ると、道は車1台しか通れない山道となった。対向車が来ないことを祈りながら2kmほど走ると、血洗いの滝の駐車場に着いた。
【凍りついた川】Photograph 2012.2.5
駐車場の看板には次のように書いてある。「落差は10数メートルですが、この落下する水は清冷で枯れたことがないといわれ、古くから神霊の宿るものとして、みそぎや、よう拝が行われています。とくに夏は納涼に良く、秋は周辺の広葉樹林が美しく紅葉し、ハイキングに適した処として親しまれています。須佐之男命尊が出雲で大蛇を退治したあと、剣の血をこの滝で洗ったという伝説からこの滝の名前がつけられたと伝えられています。出雲の千家尊愛が此の瀧を賞詠してから一層有名になりました 環境省・岡山県」
【血洗いの滝】Photograph 2012.2.5
この看板にあるように、須佐之男命(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を切った剣を洗ったという言い伝えから「血洗いの滝」という、とてもおどろおどろしい名前がついている。
駐車場から少し、谷に降りると、川が一面凍りついていて、時間が止まっているかのような錯覚を覚えた。また、その凍った川がソーダアイスキャンデーのような色をしていて、とっても幻想的だ。滝は2m弱程の小さなものだが、凍ることなく流れていた。
古い記録には雄滝、雌滝という記述があるので、この奥にも滝があるのだろうが、登る道すら見つからない。
周りには滝独特の冷たい空気が漂っていたが、冬空のせいか、すがすがしい感じはなく、どこか恐ろしい不気味な感じがする場所であった。
【血洗いの滝】Photograph 2012.2.5
この日、最後に訪れたのは、血洗いの滝から2kmほど東にある宗形(ムナカタ)神社である。本殿は、三間社流造で浦上宗景によって1562年に再建されたもので、小ぶりながらも立派なおやしろである。
祭神は、多紀理比売命(タキリヒメノミコト)、市寸島比売命(イチキシマヒメノミコト)、多岐都岐比売命(タキツヒメノミコト)のいわゆる宗像三女神である。
この三女神は、海運の神であり、有名な安芸の宮島の厳島(イツクシマ)神社や福岡県の宗像(ムナカタ)神社のように、海のそばに祀られるのが普通である。なぜこの山奥に祭られているのであろうか。
それは、やはり、この女神が須佐之男命の娘であるからだと思う。
古事記によると、素盞嗚命と天照大神(アマテラスオオカミ)が誓約(ウケイ)をして、天照大神が素盞嗚命の十握剣(トツカノツルギ)を三つに折って、天真名井(アマノマナイ)ですすぎ、噛み砕いて吹き出した息から生まれたのがこの三女神、一方、素盞嗚命が天照大神の勾玉をすすぎ洗ったときに生まれたのが天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)をはじめとする五男神である。
【宗形神社の鳥居】Photograph 2012.2.5
【宗形神社の拝殿】Photograph 2012.2.5
【宗形神社の本殿 三間社流造】Photograph 2012.2.5
【宗形神社の摂末社 武内神社 】Photograph 2012.2.5
宗形神社の境内に摂末社が6社あり、「神子 祖霊舎」、「地主祖神 熊野神社 国司神社」、「新田神社 御祭神清和天皇」、「武内神社 御祭神武内宿禰命」、「竹内神社」、「香稚神社 御祭神 仲哀天皇 神功皇后」であった、この中に武内宿禰命(タケシウチノミコト)を見つけたことは、ちょっと収穫かもしれない。武内宿禰は、今でいう内閣総理大臣で、景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕えたとされており、それでは、寿命が360歳にもなってしまうという謎の人物である。武内宿禰は役職名であり数人が勤めたとする説や、太古の人は何百年という寿命を持っていたが時が経ると寿命は短くなった。しかし武内宿禰は太古の血を色濃く継いでいたので長寿だったという説や、武内宿禰はタイムリーパーではないかとする説すらある。
さて、この岡山県赤磐市の狭い地域に、なぜ須佐之男命と十拳剣にまつわる話が、このように色濃く残っているのだろうか、須佐之男命が吉備で活躍したという話は今まで聞いたことがない。石上布都魂神社の宮司は、スサノオは、この辺りには来ていないはずなので、子供のニギハヤギが、血洗いの滝で剣を洗ったのではないかと言っておられたのが気になっている。
また、この辺りの神社の注連縄が独特なのにお気づきだろうか、3本の注連縄をつなげた、他で見ない形式である。この辺りには、独特の風習が残っているようだ。

石上布都魂神社の辺りには、川に裸足で入ると鉄で足を怪我するという注意が伝わっており、実際に鉄くずが見つかるそうである。30kmほど南東には長船という刀鍛冶の里もある。
また、この近くで焼き物が作られていたが、いい土がなくなったので伊部に移り、備前焼になったといわれている。
さらに、この辺りには、建部、軽部、矢田部など何々部という地名が多い。これは、朝鮮半島から渡ってきた卓越した技術をもった渡来人の名残と考えられる。
つまり、この地域には、渡来人が住み着き、剣や焼き物など高度な技術を持った文化圏を形成していたのではないかと考えられる。

一方、日本書紀には、スサノオは、朝鮮のソシモリに行ったと書かれており、スサノオと朝鮮の結びつきは強い。また、スサノオの八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治物語は、巨大な8つの瓶(焼き物)に酒を入れて、ヤマタノオロチを酔わして、十拳剣で切った話である。

渡来人が良質の砂鉄から剣を、そして良質の土から焼き物を作っていたこの地域に、スサノオのヤマタノオロチ退治物語がぴったり当てはまったので、その後日談を作って自分たちの土地に定着させたということではないだろうか、それとも十拳剣が、この地で作られたものであったかもしれない。
いずれにしても、備前の地に渡来系の製鉄集団が住み着いて、高度な文化圏を築いていたことは、間違いない。

2012年5月1日  「石上布都魂神社とスサノオ」 レポート 平津豊