伊和神社と宮山磐座

 Report 2012.8.5 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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中国自動車道の山崎インターを下りて、29号線を北へ10キロメートルほど走ると、道の駅播磨いちのみやがある。この道の駅に車を駐車して、宍粟市の伊和神社(イワジンジャ)に参拝した。神社は目の前の森の中に建っている。西に向かって歩き、表参道の鳥居と隋神門をくぐると左手(南側に)に拝殿が見える。拝殿の後ろに幣殿、その後ろに本殿が建っている。境内は57000平方メートルにもおよび、延喜式神名牒に伊和坐大名持御魂神社とあるのがこの神社で、名神大社にも列せられた播磨国の一之宮である。
神社の直ぐ側を姫路と鳥取を結ぶ国道29号線が通っているように、この地は古代から交通の要所であった。また、古墳も多く存在し、縄文早期の土器が出土していることから古くから人が住んでいた場所である。
【参道から伊和神社拝殿をのぞむ】Photograph 2012.7.15
【伊和神社拝殿】Photograph 2012.7.15
ご由緒によると、『大己貴神(オオナムチノカミ)は、播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国内各地を御巡歴になって国造りの事業をされ、最後に伊和里に至りまして、我が事業は終わった「おわ」と仰せられて鎮まりました。ここに於いて人々がその御神徳を慕い、社殿を営んで奉斎したのが当社の創祀であります。』となっており、御祭神は、大己貴神(オオナムチノカミ)(大名持御魂神(オオナモチミタマノカミ)、大国主神(オオクニヌシノカミ)又、伊和大神とも申し上げる)、配祀は少彦名神(スクナヒコナノカミ)、下照姫神(シタテルヒメノカミ)とされている。
大国主とそのコンビである少彦名、そして大国主の娘である下照姫が祀られているわけであるが、播磨国風土記によると、伊和大神は、出雲から旅をしてこの伊和の地に落ち着いたとされており、大国主とは別の神だと考えるべきではないだろうか。大国主にはたくさんの兄弟がいたので、その一人(一族)が出雲から大和を目指して旅をし、豊かな国であった播磨に居ついてしまったのではないかと考えている。
【伊和神社幣殿と本殿】Photograph 2012.7.15
【伊和神社本殿、流造りで左右に庇がある珍しい形をしている。】Photograph 2012.7.15
この伊和神社には、とても不思議なことがある。それは、神社が北向きに建てられていることである。神社は南向きか東向き、つまり、太陽が参拝者の背から拝殿に差し込むように建てられてるのが普通であるが、伊和神社は違っている。この理由について、ご由緒では、『成務天皇甲申年二月十一日丁卯、一説に欽明天皇二十五年甲申歳、伊和恒郷の夢に「我を祀れ」との御神託があり、一夜のうちに杉・桧等が群生して多くの鶴が舞っており、大きな白鶴が二羽石上に北向きに眠っていたのでその所に社殿を造営したという。その石を鶴石といい、社殿が北向きであるのもそのためである。』となっている。
神社の本殿の裏には、その鶴石と呼ばれている1メートル程の石が祀られている。
この小さな石を祀るために北向きに建てられているのならば、強烈な磐座信仰と言えるが、鶴石を祀りながら社殿を南面に建てることもできたわけで、なぜ北向きかの理由としては、説得力がない。また、出雲大社の大国主が、参拝者と向かい合わないように西を向いていることと同類と見なして、伊和大神を封印するためとする見方や、大己貴神なので、祖国である出雲を向いているとする見方がある。
出雲との深いつながりは、御祭神の大己貴神は大国主命のことであり、江戸時代の社殿が切妻造で鰹木が三本という出雲特有の社殿であったことから推測できるが(現在の社殿は入母屋造)、北向きの理由としては説得力に欠けている。
【伊和神社の本殿裏(南側)に祀られている鶴石】Photograph 2012.7.15
【伊和神社の鶴石】Photograph 2012.7.15
【伊和神社の鶴石】Photograph 2012.7.15
【伊和神社の鶴石、小さい方】Photograph 2012.7.15
伊和神社の北側の誰も訪れそうもない森の中に立派な岩石群を見つけた。
この森の中には、三山乙女の泉という名前の心という形の小さな池と像がある。像は、着物を着た2人の少女を模った真新しいモニュメントで、その台座には、見たことのない文字が書かれている。
この三山乙女の泉の右手と左手と背後方向に数メートル離れた3箇所に岩石群がある。つまり、この3つの岩石群に囲まれる位置に三山乙女の泉の像を建てたということになる。建てたのは、伊和神社宮司の安黒義郎氏と刻まれている。
この岩石群には、注連縄も何もなく、神聖視されている形跡はない。神社の境内にこれだけ立派な岩石群があった場合、たいていは、磐座とか磐境として扱われているはずであるが、この岩石群は、放置され荒れ果てている。
この岩石群の存在が、神社を北向きに建てている理由を秘めているのかもしれない。
【伊和神社の三山乙女の泉】Photograph 2012.7.15
【伊和神社の森に放置された磐座】Photograph 2012.7.15
【伊和神社の森に放置された磐座】Photograph 2012.7.15
【伊和神社の森に放置された磐座】Photograph 2012.7.15
【伊和神社の森に放置された磐座】Photograph 2012.7.15
【伊和神社の森に放置された磐座】Photograph 2012.7.15
さらに、この岩石群のさらに奥に、不思議なモニュメントを見つけた。2メートルほどの3本の石の柱の上に80センチほどの丸い岩石が乗っている。柱は新しく、上の岩石は古い自然石のようである。誰かが最近、造ったものであることは確かだが付近には、なんの説明もない。
【伊和神社の林の不思議なモニュメント】Photograph 2012.7.15
この神社に訪れる人は、駐車場から参道を西に向かい南に折れて拝殿に向かうが、この森は、その参道を北に折れたところにあり、とても人が訪れるようなところではない。なぜこの場所が荒れているのか、そのような場所になぜ三山乙女の泉の像を建てたのか、なぜ岩石群が放置されているのか、不思議なモニュメントは誰が何の目的で造ったのか。まったくわからない。宮司に訊ねようと思ったのだが、あいにく訪れた日は夏祭りで会合が行われていたので、後日に再訪することにした。

追記(2016年3月19日):このモニュメントについて、尾崎真紀氏より、伊和神社への土地寄贈を記念して造られたモニュメントであるという情報をいただいた。


この伊和神社では、21年毎に一つ山祭、61年毎に三つ山祭という式年祭が執り行われる。一つ山とは宮山、三つ山とは白倉山・高畑山・花咲山のことで、祭りではこれらの山を遥拝する。

これと非常に良く似た祭りが姫路総社の射楯兵主神社の一つ山祭および三つ山祭である。
平安時代の中期頃、国司が国内諸神社の巡拝の労を軽減するために国内諸神社を勧請して一括に参拝できるように作った播磨国総社が姫路の射盾兵主神社である。この神社で20年に一度行なわれる祭りが三ツ山大祭で、60年に一度行なわれる祭りが一ツ山大祭である。
三ツ山大祭では、本殿から神様を神門の上に設営された仮殿にお移しになる門上殿渡御祭と、18メートルもの高さで作られた3つの置山に、全国の神様を招き入れる山上殿降神祭が行なわれる。射盾兵主神社の神様が空中で全国の神様をもてなすという珍しい祭りである。
【射盾兵主神社三ツ山大祭の置山】Photograph 2013.3.31
左から二色山(播磨国の大小明神を迎える)、五色山(九所御霊大神を迎える)、小袖山(天神地祇を迎える)

【射盾兵主神社三ツ山大祭 神門の上に造られた仮殿】Photograph 2013.3.31

【射盾兵主神社三ツ山大祭 門上殿渡御祭 本殿から神様を神門の上にお遷しになる】Photograph 2013.3.31

この祭りは、播磨の奇祭として有名であるが、そのルーツは、播磨国一宮である伊和神社の祭りにあり、その祭りが播磨国総社に伝わったものではないだろうか。
伊和神社の祭りは自然の山を遥拝しているので、明らかに総社の置山よりも古く、伊和神社が総社に勧請されるときに祭りも伝わったのではないかと考える。また、本来の祭りの意味は、山に降臨した荒御魂によって神様をリフレッシュするという意味であったものが、期間も含めて間違って伝えられたのではないだろうか。
 
【宮山 美しい三角錐の形をした山】Photograph 2012.7.15

伊和神社の岩石群の規模からして、今も一つ山祭で祀られる宮山(ミヤマ)の磐座(イワクラ)は、さぞ立派であろうと推測し、伊和神社の東2キロメートルのところにある宮山に登ることにした。昼飯をとった道の駅で宮山の登り方を聞いたが、登れるかどうかわからないと言われた。とりあえず目の前の山に向ってみる。宮山の麓はスポーツ施設になっているようで、そこを通り抜けたときに登山口の看板を見つけた。その直ぐそばに、産霊神社という小さな神社があった。そのご祭神は、磐裂神と書いてある。かぜん宮山の磐座に期待が湧いてくる。車をおいた場所で標高250メートル、頂上は514メートルなので、あと250メートルほどの登山である。
【産霊神社】Photograph 2012.7.15
道は整備されており歩きやすい、1時間ほど登ったところに、磐座という看板があり、登山道をそれる方向をさしている。そのがけを登ると右手に石積みの壁がある。登りきると巨大な岩石群が見えてきた、というより目の前が全て岩石群で、木も生い茂っており、全体像がよくわからない。一つ山祭の祠があるということだが、まったく見えない。注連縄なども見当たらないので、とりあえず、その岩石群を少し登ってみることにした。すると巨大な岩の下が他の岩に支えられているいわゆるドルメンが見えてきた。その中に小さな祠がある。これが一つつ山祭の祠のようである。
このドルメンの先にもさらに岩石群が続いている。50mくらいの間に、4つの岩石群が続いていて先ほど登ってきた登山道に続いていた。
ドルメン以外にも組み石のようなもの、V字にカットされたかのような石、鏡石らしきもの、盃状穴らしきものもあったが、どの石が磐座なのか、どこまでが磐座なのかわからない。これらの岩石群が全て磐座だとすると巨大な規模の磐座であるが、神聖視されている跡は、祠だけしか見つからない。ただ、それまで登山でへとへとだったのが、この磐座を登っているときは、まったく疲れを感じなかったのが不思議である。何か大きなパワーをこの磐座から得ていたのかもしれない。
【宮山の城壁のような石塁】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座の入口】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座  ドルメンに小さな祠が祀られている】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座 3つの盃状穴】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座  鏡石】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座】Photograph 2012.7.15
【宮山の磐座  V字石】Photograph 2012.7.15
登山道をさらに登ると、不思議な岩があった。台座の上に乗った2メートル弱の岩であるが、表面に何か描かれているかのような感じがする。近づいて観察したが、何も描かれておらず、岩の表面についた苔がそのように見えただけのようである。しかし、方位磁石を近づけると、磁石の方位が変化した。この、岩には磁気異常があるようである。この磁気異常が不思議な感覚をもたらしたのかもしれない。
【宮山の標識のような岩石】Photograph 2012.7.15
【宮山の標識のような岩石の表面】Photograph 2012.7.15
少し登ると巨岩がきれいに組み合わされて城壁のようになっているところがある。ここから直ぐに宮山の頂上に着いた。頂上は岡城跡となっている。1392年に赤松治部少輔教弘が最初に城を築き、いったん落城した後、岡城豊前守吉政が居城としたが1580年に羽柴秀吉によって落城したと伝えられている。15メートル四方の頂上にも岩石がいくつも突き出ている。
【宮山の巨石の石組み】Photograph 2012.7.15
【宮山の頂上 岡城跡】Photograph 2012.7.15
この宮山は、非常にきれいな三角錐の山であり、伊和神社という祭祀施設を備えていること、巨大な磐座の存在などから日本ピラミッドの可能性もある。しかし、もしそうであったとしても、貴重な遺跡は、この山に城を築いた時点で破壊されてしまったであろう。残念である。この山の磐座が無造作に放置されているのは、このあたりの経緯が大きく関係しているのかもしれない。それまで神聖視されていた山に、ときの権力者が城という軍事施設を築くときに、この山に対する崇敬の心も全て破壊したのではないかと思える。
ヒルに血を吸われながらの登山であったが、収穫も多かった。
【宮山の中腹から伊和神社を望む】Photograph 2012.7.15

次に、伊和神社に関係の深い神社を参拝した。

一つ目は、伊和神社から29号線を南に3キロほどいった宍粟市山崎町与位にある與位神社(ヨイジンジャ) である。15000平方メートルもの鎮守の森をもち、樹齢400年の杉が何本もある。本殿は流造である。

ご祭神は、素盞嗚命(スサノオノミコト)と稲田姫命(イナダヒメノミコト)である。
ご由緒には、『素盞嗚命は伊弉諾尊の御子にして生来御気性の荒い神様で御姉神天照大神のお怒りにあい天下り給いし後、稲田姫命をめとり、ひたすら心清々しき日々を送られた神様であります。当社の御創立は遠く成務天皇14年甲申2月11日(紀元804年 西暦144年)鎮座と称し、また欽明天皇25年甲申2月11日(紀元1224年 西暦564年)とも伝えられ、そのいずれか定かではありませんが、 伊和大神すなわち大国主命が国土経営をなされた時、父母の神として與位大神を與位山の地に、子勝大神を丸山の地に奉斎せられたのが始まりといわれ、延喜式という古い書物にもはっきりと記されていることからしても、延喜式以前の創立を物語る古い御社であります。播磨鑑という書物に「八乙女の鈴やふりつゝ祈るにぞ神も願をよるの夢みせ」と記され、今もこの故実により、八名の氏子の子女が巫女として大祭に奉仕しております。また昔から神饌第一に粟蒸しを奉る古例が存続しており明治42年に子勝神社を與位神社に合祀し、今日に至っております。』とあり、伊和大神の父母と子供を祀った神社であるようだが、私は伊和大神と大国主命は別人であると考えるので、この祭神も後付で、もともとは、違っていたのではないかと思う。
ちなみに養父郡に大與比神社という類似名の神社があるが、ここの祭神は伊和大神と戦った天日槍(アメノヒボコ)であるという。
【與位神社の鳥居】Photograph 2012.7.15
【與位神社の拝殿】Photograph 2012.7.15
【與位神社の本殿】Photograph 2012.7.15
ニつ目は、伊和神社から北東に3キロほどいった宍粟市一宮町能倉にある庭田神社(ニワタジンジャ)である。田んぼの真ん中に小高い森があり、その森の中に神社があり、小川に囲まれた美しい神社である。本殿は左右にも庇がついた屋根で伊和神社と同じ様式である。また、伊和神社の「鶴石」と同じように境内に「霊石」と呼ばれるものもある。伊和神社のミニチュア版といった感じの神社である。
ご祭神は、事代主命(コトシロヌシノミコト)。
御由緒には『古伝によると大国主命が天乃日槍命と国土経営を争い給いし時伊和の地に於て最後の交渉を終られ大事業達成に力を合せられた諸神々を招集えて酒を醸し山河の清庭の地を撰び慰労のため饗宴を為し給えり。この地が即ち庭酒の里、現在の庭田神社奉祀の霊地なるにより社殿を造営その御魂を鎮祭れりと云う然るに当社安永縁起に成務天皇の御代に神託に依り新に神殿を建て広く崇敬せらる。延喜式の制小社に列し江戸時代寛文11年社殿改造、元禄15年本殿屋根替、享保8年本殿屋根替、元文3年拝殿屋根替中略、明治4年本殿棟上再建、昭和43年5月敞殿改築、昭和49年10月拝殿改築現在に至る』とある。
社殿後方のぬくい川が霊地とされていることなど、この地の水がきれいであったため酒造りが行われ、祝宴の地とされたのは納得できるが、ご祭神の事代主命はとってつけたようでやはり納得できない。
【庭田神社の鳥居】Photograph 2012.7.15
【庭田神社の拝殿】Photograph 2012.7.15
【庭田神社の拝殿、幣殿、本殿】Photograph 2012.7.15
【庭田神社の霊石】Photograph 2012.7.15
【庭田神社の霊石】Photograph 2012.7.15

三つ目は、伊和神社から北へ13キロメートルほど行ったところにある兵庫県宍粟市一宮町森添の御形神社である。
朱塗りの美しい大きな神社である。本殿は重要文化財で優美な三間社流造であり、村人からの非常に崇敬されている神社であることがよく分かる。
また、近くの丘の上に家原(エバラ)遺跡があり、縄文、弥生、平安、鎌倉時代の住居跡が発掘されており、長期間にわたって集落があったことが分かる。その人々によって、この神社も庇護されてきたのであろう。また、この神社は、もともと、南東にある高峰山山頂に祀られていたということである。
【御形神社の鳥居】Photograph 2012.7.15
ご祭神は、本殿に葦原志許男神(アシハラノシコオノカミ)・相殿として素戔嗚神(スサノオノカミ)・高皇産霊神(タカミムスビノカミ)・月夜見神(ツクヨミノカミ)・天日槍神(アメノヒボコノカミ)となっており、珍しい月夜見神が祀られているのが興味深い。

御由緒には、『当社のご祭神は葦原志許男神(アシハラノシコオノカミ)と申し、又の御名を大国主神(オオクニヌシノカミ)とも申し上げます。志許(シコ)は 、元気のある、武勇に優れた、或は神威赫(シンイカク)たる神という意味であります。 この神様は、今の高峰山(タカミネサン)に居られて、この三方里や但馬の一部も開拓され、蒼生(アヲヒトグサ)をも定められて、今日の基礎を築いて下さいました。  しかし、その途中に天日槍神(アメノヒボコノカミ)が渡来して、国争ひが起こり、二神は黒葛(ツヅラ)を三條(ミカタ)づつ足に付けて投げられましたところ、葦原志許男神の黒葛は、一條(ヒトカタ)は但馬の気多郡に、一 條は養父郡に、そして最後は此の地に落ちましたので地名を三條(三方)といひ伝へます。又、天日槍神の黒葛は全部、但馬国に落ちましたので但馬の出石にお鎮まりになり、今に出石神社と申します。やがて葦原志許男神は事を了へられてこの地を去られるに当り、愛用された御杖を形見として、その山頂に刺し植えられ、行在の標(シルシ)とされました。以て、当社の社名「御形」は、形見代・御形代より起こりました。 その刺し植えられた所に社殿を建ててお祀り申しましたのが当社の創祀であります。 やがて奈良朝の宝亀3年(772年)、里人数人が一夜の中に三本の大杉が、山神社の森に鼎立するという霊夢を見、これは山頂の大神の当地へのご遷座の所望であらう との事で、早速ご社殿を造営し、お祀り申し上げたのが当地での起源であります。 平安時代延長5年(927)撰進の「延喜式」にその名が見え、下って室町時代後期の大永7年(1527)3度目の火災の後再建されたのが現在の御本殿です。三間社流造、檜皮葺、昭和42年国指定重要文化財に指定され、昭和46、7年に解体復元工事が施工されて、室町時代後期の見事な彫刻や繊細な組物が甦りました。(御形神社ホームページより)』とある。

ここでも葦原志許男神(アシハラノシコオノカミ)つまり大国主となっているが、この天日槍との戦いの記述は、播磨国風土記に描かれており、伊和大神のことである。
【御形神社の境内】Photograph 2012.7.15
【御形神社の拝殿】Photograph 2012.7.15
【御形神社の本殿】Photograph 2012.7.15
【御形神社の御神木 夜の間杉】Photograph 2012.7.15
このように、宍粟市には、伊和の里を中心として伊和大神の痕跡が色濃く残っている。


播磨国風土記には、伊和の里についてこう書かれている。『伊和村。大神醸酒此村。故、曰神酒村。又、伝於和村。大神国作訖以後伝、於和。等於我美岐。』
伊和(イワ)村について、大神がこの地で酒造りをしたので神酒(ミワ)村、大神がこの地で我が事業は終わったと言ったので、於和(オワ)村というとある。

つまり、伊和のイワは、ミワやオワとも呼ばれたと言うことである。
ここで奈良の三輪(ミワ)の大神神社(オオミワジンジャ)との関係も興味深い。
大神神社も酒造りにかかせない杉玉で有名であり、また三輪の大物主(オオモノヌシ)も大国主との同化がみられる。もちろん、三輪の大物主が出雲の大国主と同一神であると考えている人は、ほとんどいない。

伊和大神については、播磨風土記においてさえ、大国主との同化が見られるのであるが、やはり、出雲の大国主の兄弟が出雲から大和を目指して旅をし、豊かな国であった播磨に居ついてしまったのではないかと考えたい。

そして、今回、伊和神社の岩石群や宮山の巨大な磐座を見て、伊和(イワ)は岩(イワ)の意ではないかと思えた。 

2012年8月5日  「伊和神社と宮山磐座」 レポート 平津豊
2016年3月19日 改訂