出雲大社

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 Share (facebook)  Report 2008.8.2 平津 豊 Hiratsu Yutaka

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出雲は、最も有名なミステリーゾーンである。その中心地は出雲大社(イズモノオオヤシロ)である。
この出雲大社に数多くのミステリーがある。
59年に一度の平成の大遷宮が行われるので、出雲に行ってきた。平成の大遷宮とは、平成20年4月に大国主の神を拝殿に移し、本殿を改修した後、平成25年5月にはもとの本殿に戻されるというもので、この間、神様が留守となった本殿に上がれるという。


【御仮殿(現拝殿)】
本殿の神様は、拝殿に移されて、拝殿は御仮殿となっている。
整理券をもらって、20名程度づつ案内される。ジーパンやスパッツなどふさわしくない服装の人は、断られていた。
八足門をくぐると、急な階段を登って本殿に上がる。そこからの眺めは非常に美しく、厳粛な空気感と視界に入ってくる一面の玉砂利が、この本殿が空中に浮遊している感覚にとらわれた。
本殿に上がらないと目にすることができない不思議なものが2つある。
1つは八雲の図、本殿の天井に描かれている極彩色の図で250年間一度も塗りなおされていない。
八雲というのに7つしかないのが謎とされている。案内役は、完成させてしまうと朽ちるだけなので、これからも永遠に続くように、未完成で残している。という日光東照宮の陽明門のような説明をしていた。
他の説では、この出雲大社と対照の社である神魂神社の天井にも同様の雲が描かれており、それが9つであることから、1つが出雲大社から神魂神社へ飛んでいったと言われている。
実際に目にすると、その大きさに圧倒されるが、綺麗な絵という感じはなく、雲のデザインに呪術的なものを感じた。
もう一つの不思議は、本殿の中の大国主の祀り方である。図のように正面を向いておらず、正面を向いているのは、客神と呼ばれる5神の祭壇だった。皆が拝殿で手を合わしている方向に大国主が向いていない。一方、この客神は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)、宇麻志阿斯詞備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)、天之常立神(アメノトコタチノカミ)である。つまり別天神(コトアマツカミ)と呼ばれる天地を創造した別格の神々である。
まるで、大国主が出てこないように、別天神に見張ってもらっているように思える。
本殿を降りて、八足門をくぐる時、「門の上に、眠り猫のような彫刻がある」と話をしていると、係りの人が来て、「あれは、左甚五郎作のリスです」と教えてくれた。どうりで似ているはずだと、納得した。
【八足門】
隣の古代出雲歴史博物館に平成12年に出雲大社境内から発見された「宇豆柱(ウズバシラ)」が展示されている。
その昔、出雲大社(イズモノオオヤシロ)は、16丈(46m)もの高さであったと伝えられ、にわかには、信じられない高さであるが、この3本組みの巨大な柱が発掘されたことから、あながち嘘ではないと考えられ、建築学的に復元が試みられている。
http://www6.pref.shimane.jp/kodai/shinden/index.html
(このサイトから復元図が見られます)
長い柱の上に社が不安定にのっている異様な姿である。
【八足門から発掘された宇豆柱の跡】
出雲大社には、まだまだ不思議なことがある。
神社の参道は、上り坂が多いが、出雲大社の参道は、下り道になっている。
一般の参拝方法は、2礼2拍1礼のところ、出雲大社は2礼4拍1礼である。
さらに、注連縄が一般とは逆の左本右末の左縫である。注連縄は、天照大神が天の岩戸から出た後、岩戸に縄を張り再び中に入らないようにしたのが始まりとされ、立入り禁止を意味する。これが逆ということは、出てくるな!という意味のように思える。
なぜ、出雲大社には、謎が多いのか、これらを説明するのには、国譲りの神話が最も重要な神話であろう。
古事記によると、
天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、葦原の中つ国は、わが子の天忍穂耳(アメノオシホミミ)の命の治める国だと言い、天菩比(アメノホヒ)の神を大国主の所に遣わしたが、大国主に媚びて帰ってこなかった。次に天若日子(アメノワカヒコ)を遣わしたが、大国主の娘を娶って帰ってこなかった。そこで建御雷(タケミカヅチ)の神と天鳥船(アメノトリフネ)を伊那佐(イザサ)の小浜に降り、大国主に国を譲るように迫った。
大国主は、息子の八重事代主(ヤエコトシロヌシ)の神に聞いてくれと答えた。
建御雷は、御大の前(ミホノサキ)で釣りをしている事代主を呼び出して問うと、事代主は国譲りを承諾し、乗っていた船を転覆させて青紫垣(アオフシガキ)に隠れられた。
建御雷は、他の息子はいるのか、と聞くと。
大国主は、建御名方(タテミナカタ)の神以外にはもういない。と答えた。
そこに建御名方が来て、力比べを挑むが、建御雷に負けて科野の国の洲羽の海まで追いつめられた。建御名方は、国譲りを承諾した。
建御雷は、大国主に、二人の息子は承諾したが、お前はどうかと問うと。
仰せのとおりにするが、私の住処は、天の御巣のように底つ石根に宮柱をしっかりと立て、高原の氷木を高く上げて造っていただけるならば、隠れていましょう。と答えた。
かくして、出雲の国の多芸志の小浜に、天の御舎を造った。
これが国譲りの神話のあらましである。
大国主に建御雷が国譲りを迫るまでに天忍穂耳と天菩比が2度の失敗、建御雷も事代主と建御名方の2名の障害を排除しなければならなかった。
さらに、この後もすんなり天忍穂耳が出雲を支配したかというとそうではなく、その息子の日子番能邇邇芸(ヒコホノニニギ)の命が天下ったが、それも出雲ではなく高千穂に降りている。
それほど大国主が怖かったということである。
この話は、天津神(天照)と国津神(大国主)の2つの民族の争いを伝えたものである。土着の国津神の国に天津神が海外からやってきたことを伝えたもので、大国主側から考えると明らかに侵略であった。そして敗戦した大国主は恨みを残して死に、天津神は、その怨念を恐れて立派な社を造って大国主を封印した。
【国譲りが行われた稲佐の浜】

文字通りこの国を造り治めていた大国主から、この国を略奪した天津神は、大国主の祟りを非常に恐れた。
そして、無理をして異様な高さの出雲大社を建て、そこに大国主を封印する為の様々な呪術を施したと考えると納得できる。
【宍道湖の夕日】

(Photograph 2008.8.2)


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