神さん山イワクラツアー

 Report 2014.5.8 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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2013年12月22日、イワクラ(磐座)学会の神さん山ツアーに参加した。
関西から参加したのは、柳原輝明氏、武部正俊氏と私の三名である。我々一行は、21日19時55分、大阪発のフェリーさんふらわあで別府に向った。
翌朝22日、目を覚ますと、既に、船は別府港に着いており、フェリーを降りると、北原宏行氏が迎えに来てくれていた。
ここから北原氏の知人が1名加わり、車で美人の湯(宮崎県延岡市北川町川内名10358ー10)を目指すことになった。

 【祝子川と大崩山】Photograph 2013.12.22Photograph 2013.12.22
10時30分に美人の湯に到着。
大阪を出て14時間を超える長旅であったが、この苦労も吹っ飛ぶような凄いイワクラが待っている。

美人の湯からは、大崩山(オオクエヤマ)が望める。
大崩山は、宮崎県の延岡市北川町と延岡市北方町の境にそびえる九州最後の秘境といわれる深山幽谷の山である。
その大崩山から流れる祝子川(ホウリガワ)には、大崩山から崩れ落ちてきた何十トンもあろうかという大きな石がたくさん転がっている。
大雨の時には、石と石がぶっかって轟音をたてるそうである。
この祝子川の側に美人の湯があり、その駐車場にはホウリの命の像が立っている。
この祝子川には、ホオリの命が生まれた時に産湯として使った川が祝子川で、ホオリの命が田の神であることから流域には雀が生息していないという伝承があるそうである。

古事記では、高千穂に降臨した天津日高日子番能邇邇芸命(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)と大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘である木花之佐久夜比売(コノハナサクヤヒメ)との間に生まれたのが火遠理命(ホオリノミコト)である。
さらに、この火遠理命は、大綿津見神(オオワタツミノカミ)の娘の豊玉比売(トヨタマビメ)を后にむかえて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)が生まれる。そして、鵜葺草葺不合命と玉依比売タマヨリヒメ)との間に神倭伊波礼比古命(カムヤマトイワレビコノミコト)、つまり神武が生まれる。
天孫が山の民と海の民を支配していく過程が描かれた日向三代の話である。

火遠理命は、別名、天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホデミノミコト)または虚空津日高(ソラツヒコ)、一般には「海幸山幸」の説話に登場する山幸彦(ヤマサチヒコ)で知られている。
神さん山も祝子川の側にあることから、神さん山のイワクラが火遠理命のイワクラではないかという説もあるが、その説を裏付ける伝承は残っていない。

祝子川(ホウリガワ)神社

時間があるので、美人の湯から400メートル南に位置する祝子川(ホウリガワ)神社を見に行った。(北緯32度43分37.30秒、東経131度33分43.81秒)
鳥居から苔むした山道を登るとすぐに神社に着く。丁寧に祀られた神社であるが、ご祭神はわからなかった。
【祝子川神社】Photograph 2013.12.22
イワクラ学会としては、いつものことであるが、神社の周りを探索した。すると武部氏が尾根にそって100メートルほど登った頂上部にイワクラを見つけた。(北緯32度43分36.44秒、東経131度33分47.59秒)
鏡石のような石組みがあり195度(ほぼ南)を向いている。これが祝子川神社のご神体と考えられる。
この祝子川神社は、明治18年から昭和30年の間は、これから行く神さん山のイワクラに祀っていたそうである。しかし、このように祝子川神社には別のイワクラがあるので、それは一時的なものであり、今は本来の場所に戻されたということであろう。
【祝子川神社のイワクラ】Photograph 2013.12.22
昼食は、美人の湯の食事処で、だごじるをいただいた。宮崎の郷土料理で、そば粉ともち米粉を水に溶かして手でこねた円形のものをだし汁に入れて煮たものである。

そうこうしていると、岡山から電車で来た木寛治氏と案内役の緒方博文氏達が合流した。13時に日向から合流する人達を待ち、それから神さん山に向う予定であったが、居ても立ってもいられずに、武部氏と北原氏と私は、先に神さん山に向った。

神さん山のイワクラ

神さん山のイワクラは、巣ノ津屋(スノツヤ)洞窟遺跡であり、縄文時代の早期とみられる多数の打製石鏃や石匙が出土している。祝子川地区では、下祝子洞穴遺跡や祝子川小学校の校庭からも石鏃等が採集されている。また、峠を越えた北川町上鹿川にも縄文遺跡がある。このあたりには縄文時代にたくさんの人が住んでいたようである。
しかし、イワクラについての伝承は何も残っておらず、「神さん山」という名称以外は長い間忘れ去られていた。
先ほど述べたように、祝子川神社の移設が行なわれたときに、石段や鳥居が整備されたようである。しかし、その祝子川神社が元の位置に戻ると、再び忘れられ、参道自体も壊れて登れる状態ではなくなっていた。
そんなイワクラが注目されたのは、25年前に、福岡の宮脇淳一氏が夢に出てきたイワクラを探して上祝子を訪れ、神さん山の存在を聞き、地元の協力を得て、荒れ放題だった参道を整備したのがきっかけだそうである。
【神さん山イワクラへの階段】Photograph 2013.12.22
美人の湯から、道路を北西に400メートル進むと、神さん山と書かれた標識がある。ここから神さん山に入る。直ぐに目の前に240段の石段が見えてきた。
そこで数組の参拝者とすれ違った。
最近は、雑誌などにパワースポットとして取り上げられ、有名になったようである。
石段途中にも巨石があり、これらを調査しながら登っていった。
階段の西側にある1つ目の岩は、切り立ったスクレーパー状をしている。
2つ目の岩は、湾曲した岩である。
【参道の1つ目の岩】Photograph 2013.12.22
石段を100メートル登ると石門に着いた。
これを抜けると広場が広がっており、神さん山のイワクラが目の前に迫ってきた。(北緯32度44分02.29秒、東経131度33分33.03秒、標高480メートル)
【神さん山のイワクラ】Photograph 2013.12.23
【昭和初期のイワクラの写真、鳥居が無いが、それ以外は変わっていない】Photograph 2013.12.22

20メートルほどもある東の巨石を西側の巨石が支えていて、その間に岩屋を形成している。そしてその岩屋の中に三角形の石が造られている。
驚くほどの巨大さであるが、それよりもなんといっても、三角形の石造物に魅入られてしまう。
三角形の底辺は376センチメートル、西辺は312センチメートル、東辺は286センチメートル、高さは245センチメートルである。東辺は、巨岩の天井に合わせて造られており、その隙間は数ミリの正確さである。そう、ぴったりと造られているのである。これは驚愕である。
三角の面は130度―310度つまり南東から北西線に沿って造られており、三角形の面は220度南西を向いている(A)。
【神さん山イワクラの岩屋】Photograph 2013.12.22
【神さん山イワクラの三角形(A)】Photograph 2013.12.23
【三角形と岩の隙間】Photograph 2013.12.22
このイワクラの前は広場になっており、小さな平板がある(B)。この平板が何の目的で置かれているのかはわからない。
広場を挟んでイワクラと相対するように巨石がある。この巨石は、イワクラよりも大きい。
この巨石には円がこしらえてあり、その縁を叩くとポンポンといい音がする(C)。武部氏は、これは太鼓ではないかと推測されている。イワクラがオーバーハングしているためこの音はイワクラの手前の鳥居の前あたりに響く。この広場は祭祀場であり、祭りが執り行なわれていたと考えられる。
【広場の平板(B)】Photograph 2013.12.22
【岩肌に造られた円形(C)】Photograph 2013.12.22
【イワクラはオーバーハングしている】Photograph 2013.12.22

【イワクラの前の広場】Photograph 2013.12.23
いつのまにか後発の人たちが到着し、人数は15名ほどになっていた。
冬至の太陽が沈み始め、白い光が黄色に変わり始めた。
この地点の冬至の日の入り時間は、17時16分で243度であるが、1391メートルの国見山がその方向にあるので、日没はもっと早く訪れ、角度も南に寄ると考えられる。
16時、冬至の光は、さらに黄色味を増し、三角形を照らし始めた。そして光は黄金色になり、三角形を眩しく照らした。
素晴らしい光景である。
残念ながら杉の木が邪魔をして岩屋の奥まで光は届かなかったが、このイワクラの三角形が冬至を意識して造られていることは間違いないであろう。
衰えた太陽を蘇らせるために、このイワクラの前の祭祀場で、岩の太鼓や石笛に合わせて、アメノウズメの舞いが行なわれたのではないだろうか。古代の祭りの様子が蘇ってくるようである。
【冬至の日の入りを待つ人々】Photograph 2013.12.22
【三角形に冬至の日の入りの光があたる】Photograph 2013.12.22
一行は、下山し、美人の湯に浸かって疲れを癒したあと、懇親会を行なった。
イワクラ学会員5名と宮崎グリーンヘルパーの会員5名と案内をしていただいた緒方氏、美人湯のスタッフの方なども加わって、夜中まで古代史談義が行なわれた。


次の日(12月23日)、神さん山の頂上石が見える場所まで車で移動した。頂上石は人の顔のように見えるため人面岩と呼ばれている。逆光で見にくかったが、確かに顔に見える。
この人面岩が顔ならば、三角形のあるイワクラが股の部分であり、神さん山自体を人の体に模したのではないかという説もある。
【神さん山の頂上の人面岩】Photograph 2013.12.23
木氏は用事があって帰られたが、それ以外のイワクラ学会員は、ふたたび神さん山に登って、イワクラ周辺の探索を行なった。

簡単なスケッチを描いたので、そちらを見ていただきたい。
【神さん山のイワクラのスケッチ】
まずは、三角形の前の石が赤く焼けている(D)。武部氏は、ここで火を焚いたのではないかと推測している。

三角形から円形の方角は210度である。これは三角形面の向いている方角220度とほぼ同じである。また、これは真南から30度西よりであるが、その半分の15度の方向に平板がある。三角形から西に回るともう1つの岩屋がある。この2つ目の岩屋の横に、少し大きい三角形がある(E)。形は正面の三角形ほど美しくはないが、確かに三角形である。その三角形の面は210度を向いており、正面の三角形とほぼ同じ方向を向いている。
この側に顔に見える場所がある(F)。
この反対側にも何か彫られたような場所がある(G)。
イワクラの北側には、明らかに人造物と思える半円状の構造物がある。この構造物とイワクラとの間では音が響き、まるで反射板の役目をしているかのようである(H)。さらにその前には方位石と考えられる石が配置されている(I)。反射板は東西線に沿って造られており、この方位石は225度の方向であり、間の角度は45度である。
2つの三角形の向いている角度とこの方位石の角度である210度〜225度は、このイワクラにとって重要な意味を持った角度と考えられるのだが、その意図は不明である。
【赤く焼けた石(D)】Photograph 2013.12.22
【西側の岩屋と大きな三角形(E)】Photograph 2013.12.23
【顔に見える部分(F)】Photograph 2013.12.22
【何か彫られた部分(G)】Photograph 2013.12.22
【反射板(H)】Photograph 2013.12.23
【反射板の前の方位石(I)】Photograph 2013.12.23
イワクラの前の巨石の西側はスパッとスリットが入っている(J)。そしてこのイワクラの下部も岩屋状になっており、その岩屋上部には、なにやら文字らしきものが彫られている(K)。また、この岩には穴がたくさん開いており、地元の案内者によると水晶を採ったガマではないかということである。
この付近の山では銅や鉄や、さらに水晶が採れるらしく、古代人が鉱物資源を求めて、この地に住み着いていたと考えられる。

イワクラの北側にも尾根に沿って巨石が続いている。
80メートル北に巨石の下にできた空間の傾斜にあわせて石を沿わせたところがあり、イワクラと同じ思想が感じられる。このイワクラの周辺からは、さらに何か出てくる匂いがしている。
2日間で合計8時間も、このイワクラに居たことになるが、全く飽きることがなかった。それだけ魅力的なイワクラである。
【スリットが入った巨石(J)】Photograph 2013.12.23
【文字らしきものが彫られた部分(K)】Photograph 2013.12.23
【80メートル北の巨石の下】Photograph 2013.12.23
さて、このイワクラの岩屋が女性器をあらわし、子孫繁栄を祈る場所であったことに異論はないであろう。問題はその中になぜ三角を作ったかである。
古墳時代のかまどは、三角形に三つの石を置いたものであった。三角形は女性器を表す以外に火を象徴する。そして、女性器と火の関係も深い。メラネシア、ポリネシアから南米にかけての火の起源神話には、女性器から火が生まれるものが多い。
日本の古事記においても、火と女性器及び出産との関係が随所にみられる。
イザナミは、火の神カグツチを産んだために女性器に火傷を受けて死ぬ。
垂仁天皇の子である本牟智和気(ホムチワケ)は火中に産まれる。
そして、前述したように、このイワクラの側を流れる祝子川(ホオリガワ)を産湯に使ったとの伝説が残る火遠理命(ホオリノミコト)もまた、火の中で産まれている。
木花之佐久夜比売(コノハナサクヤヒメ)は、一夜で懐妊したため実子であるかどうかを疑われ、その疑いをはらすために、産屋に火を放って火遠理命を産むのである。

この三角形は、岩屋という女性器から生まれる火をかたどったものではないだろうか。実際に、この三角形の前では火が焚かれた跡が見られる(D)。

下山した後、地元の人にイワクラから西へ200メートルの所にある巨大な割れ岩も案内してもらった。(北緯32度44分02.90秒、東経131度33分25.43秒)
【200メートル西の割れ岩】Photograph 2013.12.23

鶴原のメンヒル

これで、帰路につくのだか、少し遠回りして、鶴原のメンヒルを見ることにした。
鶴原のメンヒルは、大正時代に鳥居龍造が名付けたイワクラで、大分県竹田市大字君ヶ園の柱立神社に立っている。(北緯32度57分26.29秒、東経131度21分39.38秒)村人に聞くと、昔、この神社は、柱立大明神と言っていたそうである。
メンヒルは2本の立石によって構成されており、7メートルほどの高さがある
境内の看板には、阿蘇熔岩の残食であり自然石であると説明されていた。
東側から見ると確かに自然の岩肌であるが、西側から見ると、2本の立石は平坦な面になっており、南側の石の面は60度―240度(東北東―西南西)を成し、北側の石の面は0度―180度(北―南)を成しており、人工物であるように思えた。
また、境内の看板には、神社内に2本、その他に3本が上野由登氏の山林中にあると説明されている。周辺探索を行なったが、残りの3本は確認できなかった。しかし、50メートル北西の山面に祭祀場ではないかと思える場所が存在した。
【鶴原のメンヒル 東側】Photograph 2013.12.23
【鶴原のメンヒル 西側】Photograph 2013.12.23
この後、別府に向って車を走らせた。時間がありそうなので、北原氏の案内で、姫山のメンヒルを見に行った。しかし、残念ながら既に日が落ち始めており、かろうじて輪郭が確認できただけであった。
北原氏に、フェリー乗り場まで送っていただき、フェリーに乗って帰路についた。(18時45分)

フェリーの中でフェイスブックを見ると、イワクラ学会の仲間からの報告が入っていた。
篠澤氏が松山の白石の鼻で、坂田氏が神戸六甲山頂で、岡本氏が徳島の明神山で、冬至の太陽光とイワクラとの関係を観察していた。
イワクラ学会員が同じ太陽を日本各地で観察しているのだ。イワクラに対する熱い思いで会員同士がつながっていることを実感した。

イワクラを造った古代人もまた、日本各地のイワクラの前で、冬至の太陽に復活の祈りをこめて祭りを行なったことだろう。それは、太陽の恵みを蘇らせると共に、日本人同士の連帯感も高める行事だったのではないだろうか。
2014年5月8日  「神さん山イワクラツアー」 レポート 平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報30号 2014年4月7日発行  掲載