コウナイの石と家島

 Report 2014.1.11 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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コウナイの石探索


2013年12月8日、午前9時、姫路港でイワクラ学会の武部氏と岡本氏と合流し、高速フェリーに乗って家島に向った。家島の宮港まで45分である。
目的は、家島諸島の西島に存在するイワクラである。

この岩は、頂上石、てっぺん石、長老岩、天の御柱、天の沼矛、天の逆矛や西島の石神さんなどと、いろんな名前で呼ばれているが、ここでは最も有名なコウナイの石と呼称する。コウナイ(高内)とはこの石のある地域の名前だそうだ。

私が、コウナイの石の存在を知ったのは、1998年5月9日の神戸新聞に、家島で信仰対象となっている巨石に採石が迫り、今にも転げ落ちそうそうになっているという記事だった。
その頃から巨石に興味のあった私は、なくなる前に見に行かなければと思ったのだが、西島へ行く術が見出せなかった。
この度、家島で旅館志みずを経営されている高島一彰氏と知り合い、案内していただくことになったのである。
今でも、このコウナイの石を見るには、船をチャーターし、島は私有地なので許可が必要である。簡単にはいけない場所である。

宮港には、その高島氏が出迎えてくれていた。高島氏は、コウナイの石を研究していた故上野忠彦氏の影響で、このイワクラを研究し、保存活動を行なっておられる。
本レポートには、上野氏が書かれた書籍『コウナイの石(1999年8月31日初版)』と高島氏が書かれたペーパー『国生みの島(2011年改訂版)』から一部引用させてもらった。
【西島の採石場の船着場からコウナイの石のある山を望む】Photograph 2013.12.8

旅館志みずの前から小型船で西島に向った。

家島諸島は、播磨灘の中央に位置し、東西26.7キロメートル、南北18.5キロメートル、大小40余りの島で成っている。人が住んでいるのは、家島本島、西島、男鹿島(タンガシマ)、坊勢島(ボウゼジマ)で、人口は約八千人である。

この家島諸島の男鹿島の大山遺跡には巨石が祀られ、その側から甕棺が出土しており弥生時代の遺跡である。しかし、既にその遺跡はない。
男鹿島の隣の小島からは、先土器時代・旧石器時代の遺物が多量に発見されている。
また、西島のマルトバ遺跡は数十基の石積み墳丘墓で箱式石棺や縄文式土器が出土している。上野氏はここで小さなストーンサークルや十字が刻まれた石を見つけたと報告しているが、この遺跡もまた失われてしまっている。

家島諸島では、弥生や縄文時代はもとより旧石器時代の遺物も発見されており、古くから人の営みがあったことがわかっている。したがってイワクラが存在する条件は整っている。
【西x島の採石場】Photograph 2013.12.8

30分ほどの船旅で西島に着いた。(10時30分)

家島本島の2キロメートル西に位置する西島は、700平方キロメートルの面積で、ほとんどが採石場となっている。採石が始まったのは百年ほど前からであるが、既に島の姿は無残なほどに変わり果て、この島の採石業も数年で終わりになるそうである。そんな中で、元の姿を留めている山の頂上に、目的のイワクラが存在する。
この石から90メートルの範囲は採石してはいけないルールになっているので、残っているのであるが、周りで巨大な機械で採掘したり、発破をかけているのに、よく転げ落ちないものである。
【コウナイの石を望む】Photograph 2013.12.8

採石業の丁場の人々にとっては、このコウナイの石ほど邪魔なものはない、残り少なくなった採石場が拡張できない原因になっているからだ、この協定ができたのも、1990年頃に業者があの石を落としたいと家島の真浦区会に申し入れられたことに対し、真浦の人々が信仰対象となっているコウナイの石を残すことに決めたためである。(コウナイの石のある区域は家島の真浦区の所有物である)

この協定を破って、コウナイの石の下をこっそり掘ろうとした人が生き埋めになったらしい。実は、このような話はたくさんある。

・石を切ろうとした人が、その日の内に狂死した。
・石を少し切った人が、その日の夕方には腹痛に苦しみもだえながら死んだ。
・石材業者から頼まれた役員が「コウナイの石は落とせ」と激をとばした直後、その役員が持つ何百トンもの鋼船が真っ二つ割れて沈没した。
・石材業者に頼まれた霊能者がコウナイの石の魂を抜いて動かせるようにしようとしたところ、大勢の霊能者を集めなければ無理だという結論に達して断念した。

など、コウナイの石を動かしたり破壊してはならないという話がいくつもあるようだ。
さらに次のような昔話まである。

昔、家松という石工が立派な石にノミを入れたところが、血が流れ出し「わしはお前に切られて死んでいくが、おばさんの高内の石だけは切ってくれるな」と声がした。家松は高熱にうなされて死に、切った石を乗せた船も風もないのに沈んだとという。今もこの石を倒そうとすると不幸な目にあうといわれる。(家島の昔話より)


これらの信憑性については、疑いようが無い。というのも、経済を考えた場合にこの石を破壊してしまいたいのは家島の島民であり、その島民がこの石に手出しできないのである。単なる迷信ではない証拠であろう。

コウナイの石には、さらに不思議な話がある。
雨が降ると石が血の涙を流す。コウナイの石を写真に撮ると不思議な光が写ることがある。コウナイの石の上にUFOが写ることがある。夜に方角がわからなくなった船が青白く光る光を目指して進むとコウナイの石に着いた。病気が治った。などである。

さて、コウナイの石は、190メートルの高さの山頂に鎮座した、高さ8メートル、周囲25メートル、500トンを超える巨石である。(北緯34度39分08.43秒、東経134度28分00.84秒)
西島全体は、青石と呼ばれる柔らかい流紋岩でできているが、コウナイの石は固い石英斑岩である。このコウナイの石を含めて、その下部は地下から隆起した半深成岩でできているらしく、他の場所とは異質である。
また、この石の周りの放射線は、0.2マイクロシーベルトであり、自然界よりも高い値を示したそうである。
さらに、西側で方位を測定すると、針が動かなくなってしまった。異常な磁場になっているようだ。

コウナイの石に写る光や、青白く光ることや、病気が治ったとかといった不思議な現象は、この異常磁場や放射能が原因である可能性がある。
【コウナイの石 南側から撮影】Photograph 2013.12.8

数十年前までは、コウナイの石の下半分が土に埋まっていたそうであるが、そこから貝や土器が出土したそうである。今は雨風によって下部まであらわれている。
その東側の下部を見ると、台座のようになっており、この石が据えられたように思える。石の南側にはパックリと割れ目があるが、この割れ目は正確に南北に入っている。
コウナイの石の南西側(60度)には、小さな石が、まるでコウナイの石のコントロール装置のように置かれている。
西側には、広場があり、不完全ではあるが列石で囲まれている。ここは祭祀場であった可能性が高い。
東側は、巨石が積まれていたようだが、今は崩れている。
【コウナイの石 東側下部 台座に乗っている】Photograph 2013.12.8

【コウナイの石 東側下部 組合わされている】Photograph 2013.12.8

【コウナイの石 南西側にある特徴的な石】Photograph 2013.12.8

【コウナイの石 西側にある祭祀場】Photograph 2013.12.8

【コウナイの石 東側の石群 南上から撮影】Photograph 2013.12.8

上野氏によれば、コウナイの石にはたくさんの図が刻まれているという。いわゆるペトログラフである。
これについては、上野氏の解説図を転記するので見ていただきたい。

このせいであろうか、コウナイの石は顔のように見え、この石がたびたび、血の涙を流すという話も納得できる。
ペトログラフは、コウナイの石本体だけでなく、東側のテーブル上の石にも目と円が彫られている。

上野氏は、これらのペトログラフについて、詳細に研究され、シュメールの文字であると結論づけられている。

何分ペトログラフは風化が激しく、上野氏の説を確認するには至らなかった。また、上野氏の解読はペトログラフ協会の吉田信啓氏がフィールドワークで積み上げた解読コードを使用したものであり、特定の民族の言語を示すものではないことを注釈しておく。
しかし、何かが彫られていることだけは確かである。

【上野忠彦 『コウナイの石』 より】

【コウナイの石 南東側にあるテーブル上の石 表面に目と円が彫られている】Photograph 2013.12.8

さて、これだけ不思議なコウナイの石が何であるのか、つまり何者が造り、何に使用したのかが問題である。
上野氏は、シュメールの海洋民族がコウナイの石を船に積み込んで航海し、祈りによって雨を降らせ、石の放射能と多様な鉱物質で命の水を作り出した。そして家島にたどり着いた後は、このシュメールの至宝を高台に安置したという説を唱えられている。
その中で、コウナイ、オオゴ、オデラ、マルトバといった家島の地名がおよそ日本的でないということも傍証としている。
私には、オドモ、ボウゼ、タンガ、インカ、ハタカ、クロフゴといった家島の地名もまた日本的でないと思える。


一方、高島氏は、国生み神話に出てくるオノゴロ島が家島で、コウナイの石が天の御柱でないかという説を主張されている。

『古事記』の上つ巻の国生み神話は、次のような文章である。

ここに、天つ神のもろもろの命もちて、伊耶那岐の命・伊耶那美の命の二柱の神に、「このただよへめ国を修理め固め成せ」と詔らし、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。かれ、二柱の神天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下して画かせば、塩こをろこをろに画き鳴して、引き上げたまふ時に、その矛の末より垂り落つる塩の累り積れる嶋と成りき。これ淤能碁呂嶋ぞ。
その嶋に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。ここに、その妹伊耶那美の命に問ひて、「なが身はいかにか成れる」と曰らししかば、「あが身は、成り成りて成り合はざる処一処あり」と答へ曰しき。しかして、伊耶那岐の命の詔らししく、「あが身は、成り成りて成り余れる処一処あり。かれ、このあが身の成り余れる処をもちて、なが身の成り合はざる処に刺し塞ぎて、国土を生み成さむとおもふ。生むこといかに」伊耶那美の命の答へ曰ししく、「しか善けむ」しかして、伊耶那岐の命の詔らししく、「しからば、あとなとこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐはひせむ」と、かく期りて、すなはち「なは右より廻り逢へ。あは左より廻り逢はむ」と詔らし、約り竟へて廻る時に、伊耶那美の命先づ、「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、えをとめを」と言ひ、おのもおのも言ひ竟へし後に、その妹に告げて、「女人の言先ちしは良くあらず」と曰らしき。しかれども、くみどに興して生みたまへる子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流し去てき。次に、淡嶋を生みたまひき。こも子の例には入れず。ここに、二柱の神議りて云ひしく。「今、わが生める子良くあらず。なほ天つ神の御所に白すべし」といひて、すなわち共に参上り、天つ神の命を請ひたまひき。しかして、天つ神の命をもちて、ふとまにに卜相ひて詔らししく、「女の言先ちしによりて良くあらず。また還り降り改め言へ」かれしかして、返り降りまして、さらにその天の御柱を往き廻りたまふこと先のごとし。ここに、伊耶那岐の命先づ、「あなにやし、えをとめを」と言ひ、後に伊耶那美の命「あなにやし、えをとこを」と言ひき。かく言ひ竟へて、御合ひまして産みたまへる子は、淡道之穂之狭別の嶋。次に、伊予之二名の嶋を生みたまひき。・・・


伊耶那岐(イザナギ)と伊耶那美(イザナミ)は、淤能碁呂嶋(オノゴロシマ)に降り、天の御柱(アメノミハシラ)と八尋殿(ヤヒロドノ)を建てる。伊耶那岐は天の御柱を左回りに周り、伊耶那美は右回りに周って、伊耶那美から声をかけて交わったが、水蛭子(ヒルコ)と淡嶋(アワシマ)という不十分な子供を生んでしまった。そこで再度、伊耶那岐から声をかけるようにやり直して、国生みを行なった。という話である。

オノゴロ島は、日本神話の中で、国土が始まったという地とされているのだから、その地は、古代日本の中心地を意味し、日本人の発祥の地、つまりルーツを示唆していると考えられる。しかし、そのオノゴロ島がどこであったかには以下のように諸説ある。

1.淡路島南端の沼島
2.淡路島北端の絵島
3.淡路島三原町の自凝島神社
4.紀伊海峡加太沖合の友ヶ島、地ノ島、神島、沖ノ島、虎島
5.鳴門海峡孫崎沖合いの裸島、飛島
6.播磨灘の家島
7.博多湾の能古島(ノコノシマ)
8.玄界灘の小呂島(オロノシマ)
9.鹿児島南方の屋久島
10.佐賀県北方の壱岐島(イキノシマ)
11.淡路島
12.紀伊半島
13.地球そのもの
14.伝説上の島で実在しない。


13、14であるなら、そもそも論議する必要はないので、ここでは触れない。10、11は、イザナギ・イザナミが生んだ島に出現するので、除外されるべきであろう。また、12も同様に受け入れにくい。
その他の島の中で、7、8は名前が「オノゴロ」に近く魅力的な説ではあるが、イザナギ・イザナミは、淡道之穂之狭別の嶋(淡路島)を1番目に生み、2番目に伊予之二名の嶋(四国)を生むので、やはり、淡路島と四国の近くの島1~6と考えるのが妥当であろう(3は昔は入り江に浮かぶ小島であったと云われている)。

また、『古事記』の仁徳天皇の章にも、淡道嶋(淡路島)で詠んだ歌として、『おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 自凝(オノゴロ)島 檳榔(アヂマサ)の島も見ゆ さけつ島見ゆ』と記載されており、淡路島からオノゴロ島が見えたと書かれている。
一方、檳榔の島とは亜熱帯にしか生息しないヤシ科の植物なので、淡路島から見えることはなく、そもそもこの歌に出てくる島は、実在しない島を示しているという考え方もある。しかし、時代を遡れば日本も亜熱帯であったときもあり、「檳榔の島」を夢物語で片付けてしまうのも乱暴である。
このように、オノゴロ島の所在地については、いろいろな議論があるが、高島氏は6を主張しているのである。
(詳しくは、オノゴロ島と国生み神話のレポート
その根拠の1つは、『日本書記』の一書(第八)に、「磤馭慮(オノゴロ)嶋を以って胞(エ)として、淡路州を生む。次に大日本豊秋津州。・・・」と書いてあることである。つまり、オノゴロ島は胞の島(エノシマ)であり、エシマに当て字をしたのが家島(イエシマ)であるという。実際に、年寄りは家島をエジマと呼んでおり、信憑性がある。

ちなみに、『古事記』にその記述は無く、『日本書記』の本書では「淡路州を以って胞とす。」と書かれている。また、『日本書記』の一書(第六)には「先づ淡路州・淡州を以って胞として、大日本豊秋津州を生む。」と淡路島を胞とすと書かれている。

さらに高島氏は、西島と坊勢島の間にできるウバウ瀬が天の浮橋(ウキハシ)であり、コウナイの石こそがイザナギとイザナギが国生みを行なった天の御柱(ミハシラ)であると主張する。
特に、古事記に「天の御柱を見立て、・・・」と書かれていることから、御柱を建てたのではなく、もともと存在していたコウナイの石を柱に見立てたという。

コウナイの石の実物を見ると、そこはかとない存在感があり、天の御柱という説に納得してしまうほどである。


私は、このコウナイの石が『播磨国風土記』に登場する石神であると思っていた。
『播磨国風土記』には次のように書いてある。

「家嶋。人民、作家而居之。故号家島。生竹・黒葛等。神嶋・伊刀嶋東。所以称神嶋者、此嶋西辺在石神。形似仏像。故因為名。此神顔有五色之玉。又、胸有流涙。是亦五色。所以泣者、品太天皇之世、新羅之客来朝。仍見此神之奇偉、以為非常之珍玉、屠其面色、掘其一瞳。神由泣。於是、大怒即起暴風、打破客船。漂没於高嶋之南浜、人悉死亡。乃埋其浜。故号曰韓浜。干今、過其処者、慎心固戒、不言韓人、不拘盲事。」
この部分の口語訳は以下のとおりである。
「家嶋。人民(オホミタカラ)、家を作りて居めり。故れ、家嶋と号く。竹・黒葛等生ふ。神嶋・伊刀嶋の東なり。神嶋と称ふ所以は、此の嶋の西の辺に石神在す。形、仏のみ像(かた)に似たり。故れ、因りて名と為す。此の神の顔に、五色(いつくさ)の玉あり。また、胸に流るる涙あり。是も亦五色なり。泣く所以は、品太(ほむだ)の天皇のみ世に、新羅の客(まらひと)来朝(まゐ)けり。すなわち、この神の奇偉(たたは)しきを見て、非常之(おもひのほかなる)珍(うづ)の玉と為(おも)ひ、その面(おもて)の色を屠(くじ)りてその一瞳(まなこ)を掘りき。神、由りて泣く。ここに、大(いた)く怒るすなはち暴風(あらきかぜ)を起こし、客の船を打ち破りき。高嶋の南の浜に漂ひ没みて、人悉(ひとことごと)に死亡(みまか)りぬ。すなはち、その浜に埋めき。故れ、号けて韓浜(からはま)と曰ふ。今に、其処(そこ)を過(よ)ぎる者、心に慎み固く戒(い)み、韓人(からひと)と言はず、盲(めしい)の事に拘(かから)はず。」


コウナイの石には顔が形作られており、涙を流すという話もあるわけで、『播磨国風土記』の石神と非常に類似している。
しかし、高島氏によると、石神のある神島とは家島から16キロメートル東の上島であり、西島ではないという。そして、上島には、この風土記の石神らしい岩があるという。

上島は、大本教の出口王仁三郎が坤の金神(ヒツジサルノコンシン)が幽閉されているとして、1916年6月25日に島開きを行なった場所である。いかにもという島である。
ちなみに、風土記にいう高島とは西島のことで、石神の罰があたって埋められた韓浜は、マルトバ遺跡ではないかということである。

上島の石神を見ていないので、その石神が『播磨国風土記』の石神であるかどうかの判断はできないが、そうであるなら、なぜ『播磨国風土記』に、コウナイの石の記述がないのであろうか、これほど存在感のあるイワクラである。『播磨国風土記』に記載されてなかったとしたら、そこに何かの理由が必要である。したがって、私はまだ、この『播磨国風土記』の石神がコウナイの石であるという説を捨てきれない。
【上島】Photograph 2013.12.8

家島探索

家島に帰ってきた後、旅館志みずで、穴重のお昼ごはんをいただいた。
せっかく、家島まで来たので、昼からは家島を探索することにした。

まずは、家島神社である。(北緯34度40分44.93秒、東経134度32分43.55秒)
式内の名神大社で、神橋まで備えた立派な神社である。
境内の看板によるとご祭神は、大己貴命(オオナムチノミコト)、少名彦命(スクナヒコナノミコト)、天満天神(テンマンテンジン)となっている。しかし、『播磨鑑』では、白髭明神となっている。また、延喜式の神名帳ではご祭神は空白になっている。
宮港の近くの宮浦神社には琵琶湖から白髭大明神を勧進したと伝えられており、『播磨鑑』はこれと混同したのであろうか。

高島氏によると、家島神社の地名は天神鼻であり、元々は天神(アマツカミ)を祀る神社であったということである。そして、天神が住んでいたこの場所が高天原ではないかと考えられている。

また、社伝として、神武天皇が嵐を避けて家島に避難したときに湾内が穏やかだったので「まるで家にいるようだ。これからこの島を家島と呼ぼう」といった逸話が、神社の社伝として看板に書いてあった。
高島説は、もともと呼ばれていたエシマに当て字をして家島になったということであり、この、神武の逸話とは矛盾するようである。もちろん、これは、高島説を否定するものではない。
【家島神社】Photograph 2013.12.8

遠見の岩があるという。それはイワクラかもわからないということで見に行くことにした。
家島神社から南西に遊歩道を600メートルほど歩くと鞍馬弘教萬體地蔵苑という施設がある。京都の鞍馬山の鞍馬弘教の施設のようであるが、なぜ家島にあるのだろうか、なにせ金星から降臨した魔王サナトクラマを祀っている宗教なので、非常に興味がある。

そこから細い道に入ると、道の側に直径1~2メートルの穴が数箇所あいている。(北緯34度40分29.41秒、東経134度32分24.21秒)
縁に石が積んでいるものもあり井戸のようであるが、井戸にしては浅すぎる。この穴は何であろうか、見当がつかない。
【謎の小さい穴】Photograph 2013.12.8

北西に300メートルほど歩くと見晴らしのよい場所に大きな岩がある。(北緯34度40分37.13秒、東経134度32分16.27秒)
ここからの眺めに驚いてしまった。
上島を頂点として左右に他の小島がV字に並んでいるのである。
おそらく、この景色を見るために設定された岩であり、イワクラの可能性が高い。
仮に「上島遥拝の磐座」としておこう。
【上島遥拝の磐座 上にある小さい岩】Photograph 2013.12.8

【上島遥拝の磐座 下にある大きい岩】Photograph 2013.12.8

【上島遥拝の磐座から上島を望む】Photograph 2013.12.8


この素晴らしい景色に意図を感じたため、帰宅してから地図に落としてみると、この高台のイワクラから上島まで、周りの小島を避けてその間を綺麗な直線が引ける。
上島は、前述したように、大本教が島開きを行なった島である。
試しに大本教との関係が深い高御位(タカミクラ)山と線を引くと、なんと、二等辺三角形が浮かび上がってきた。つまり、家島のイワクラと上島の間の距離と、上島と高御位山の間の距離がほぼ同じなのだ。
高御位山の登山口の高御位神宮は九鬼神法の秘儀が行われる場所であり、九鬼一族に伝わる九鬼文書と大本教の国祖神隠退再現神話とスサノオノミコト救世主説は似ている。一説には出口王仁三郎は、高御位神宮で九鬼神道のトレーニングを受けたとも云われる。
(詳しくは、高御位山のレポート
これはどういうことであろうか、この上島遥拝の磐座が重要な場所であることを暗示しているようである。
さらに50メートルほど下ると巨大な岩がある。(北緯34度40分37.84秒、東経134度32分13.63秒)
木がなければ、港から良く見えたと考えられる。これもシーマークとしてのイワクラの可能性がある。
これが遠見の岩であろうか、よくわからなかったが、家島にもイワクラがあることが確認できた。
【遠見の岩】Photograph 2013.12.8



最後に、フェリーの時間を待つ間、真浦港のどんがめっさんを見に行った。(北緯34度40分38.26秒、東経134度31分39.27秒)

どんがめっさんは、海亀の形をしている石である。おそらく自然石を加工して亀に模したものだろう。明治には城山の中腹にあったが、どんどん海岸に下りてきたそうである。
この石には、次のような物語が伝わっている。

白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、沖で釣をしていると、吉備水道を抜け出て来た船団が播磨灘に向かってやってきて、翁がこの海に関して詳しい事を知り、翁に道先案内を頼みました。船団は、家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、食料の補充をして数年間がたちました。そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。難波について翁は手柄を褒められました。翁の亀は、忙しい主人をおいて、先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。
亀は、主人のいる難波のほうを向いて待ち続けているうちに石になってしまいました。
現在は、水天宮として祀られています。
(割烹旅館 志みずのホームページより)


高島氏も指摘しているが、この話に良く似た話が『古事記』に出てくる。

また、その国より遷り上り幸した、吉備の高嶋の宮に八年坐しき。かれ、その国より上り幸しし時に、亀の甲に乗りて釣りをしつつ、打ち羽挙り来る人、速吸門(ハヤスナヒト)に遇ひき。しかして、喚び帰せ、「なは誰ぞ」と問ひたまひしかば、「あは国つ神ぞ」と答え曰しき。また、「なは、海つ道を知れりや」と問ひたまひしかば、「よく知れり」と答え曰しき。また、「従ひて仕へまつらむや」と問ひたまひしかば、「仕へまつらむ」と答え曰しき。かれかして、槁機(サヲ)を指し渡し、その御船に引き入れ、すなはち名を賜ひて、槁根津日子(キヲネツヒコ)と号けたまひき。


ここに登場する槁根津日子は、『日本書記』では、椎根津彦(シイネツヒコ)、珍彦(ウズヒコ)と呼ばれ、倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)の始祖とされる人物である。椎根津彦を祀る神社としては、六甲の麓の保久良神社がある。岡山から明石にかけての瀬戸内の海人族を代表する神と考えらる。
【どんがめっさん】Photograph 2013.12.8


本レポートで取り上げた以外に、家島にはチンカンドー古墳、松島にはドルメンやストーンサークルなど、家島諸島には、まだまだ古代の遺物が残っている謎に満ちた島である。
この謎に惹かれてか、コウナイの石の側に、どこかの宗教団体が天手力男神(アメノタジカラオ)の石像を無断で設置している。先に述べたように、上島では大本教が島開きを行い、家島本島には鞍馬弘教の施設がある、数多くの宗教団体が注目している場所でもある。
これらはやはり、コウナイの石にシンボライズされよう。

コウナイの石は、魅力的であり、観光資源としても充分に価値があるものと思える。採石という自然破壊の方向ではなく、西島を観光地化する方法もあるのではないだろうか。
この貴重な古代遺跡であるコウナイの石が破壊されることがないことを祈りたい。
参考文献
上野忠彦:コウナイの石(1999)
高島一彰:国生みの島(2011改訂版小冊子)

2014年1月11日  「コウナイの石と家島」 レポート 平津豊