六甲山系の磐座
〜勾玉の磐座発見〜

 Report 2013.7.26 平津 豊 Hiratsu Yutaka
Share (facebook) トップ画面へ

本論文・レポートのリンクおよびシェアは自由です。画像や文章を抜き出して引用する場合は出典を明記してください。
まとめサイト等への掲載や転載は禁止します。

六甲山系の磐座については、数多くの報告が行なわれているので今更という感はあるが、この度、新しい磐座が見つかったので、既知の磐座と合わせて報告する。

1.目神山の新磐座 祈りの磐座


2013年6月11日、イワクラ学会の柳原輝明氏、武部正俊氏に同行し、西宮の目神山八光会の磐座を訪れた帰り道に、売家があり、その敷地内に巨大な磐座を見つけた。
その売家の敷地への入り口には、徳川幕府の大阪城再建のときの採石の名残りである矢穴と大名の刻印がある。東六甲には、このような大阪城の採石場の痕跡が数多く残されている。
【目神山売家の磐座 入り口の岩】Photograph 2013.6.11

邸宅の南側に高さ3メートル、幅5メートルの巨大な岩がある。これは、鏡岩ではないかと考える。(北緯34度45分28.45秒、東経135度19分59.27秒)
この岩は、日が当たりやすいように丘の上に据えられており、正面の鏡面は南東を向いている。また、西面と上部に矢穴がある。矢穴は、矢(楔)を打ち込んで石を割るときに作られる穴で、築城の時代に行なわれた技法である。
しかし、鏡の面は、このような方法では割られてはいない。おそらく気の遠くなるような時間を使って小さなノミで削ったと考えられる。これは時間の概念が現代とは別次元であった古代にしか行なえないことである。
さらに、決定的なのは、この矢穴があることである。おそらくこの石を割って城の石垣に使おうとしたと思われるが、なぜ割らずに諦めたのかが問題である。そこには諦めた何らかの理由があるはずである。それが村人の抗議なのか、神の信託なのか、不慮の事故なのか定かではないが、この岩がただの岩ではなかったという証拠ではないだろうか。
【目神山売家の磐座 鏡岩 南から撮影】Photograph 2013.6.30

邸宅の東側には巨大な岩が山肌に敷き詰められるように並べられてあり、圧巻である。邸宅は、これらの巨石を避けるように建てられている。
【目神山売家の磐座 邸宅東の巨石】Photograph 2013.6.30

さらに気になったのは、この敷地から見える隣の敷地の巨石群である。ただものではない雰囲気をかもし出している。この日の探索はこれで切り上げたが、後日、どうしても気になって隣の巨石群を調べに再度訪れた。
遠くから見ると岩屋のように見えていたが、その隙間は思ったより小さく、がっかりした。ところが、この東側で決定的なものを見つけた。石と石との間に三角形の石が組み込まれている岩である。さらにその上部は、石で組み上げた平らな場所になっており、この上で祈りを行なったのではないだろうか。仮に『祈りの磐座』と呼称しておく。(北緯34度45分59.83秒、東経135度20分00.43秒)
このような形は自然には形成されないわけで、明らかに人が造り上げた磐座である。有名な西宮越木岩神社の甑岩の北側も類似の形をしており、何らかの関係があるのかもしれない。
【目神山 売家の磐座に続く隣の磐座】Photograph 2013.6.30

【目神山 祈りの磐座】Photograph 2013.6.30

【目神山 祈りの磐座 上部】Photograph 2013.6.30

【越木岩神社 甑岩の北側 】Photograph 2013.6.30
祈りの磐座との類似性が見られる

いずれにしても、この祈りの磐座は、隣の売り家の磐座とつながっており、さらに目神山八光会の磐座ともつながっている可能性が高い。目神山八光会の磐座は、私有地にあり、所有者から公表するのを禁じられているため紹介はできないが、奥津磐座、中津磐座、辺津磐座を備えたすばらしいものである。

この目神山一体は住宅地となってしまっているが、磐座を中心とした古代祭祀の跡がたくさんあったに違いない。そのほとんどは宅地化で破壊されてしまい。奇跡的に一部分が残ったのであろう。今回紹介した売り家も所有者が代われば、破壊されてしまう可能性が高い。残念である。


3.ごろごろ岳頂上の新磐座 勾玉の磐座


ごろごろ岳とは、芦屋市と西宮市の境の山で頂上が565.6メートルであることから名前が付けられたといわれており、剣岩があるので有名である。実は、私も、1987年に、この剣岩に出会ったのが「磐座」に興味を持った最初であった。当時、人が組み上げたように見える巨石が、なぜ、このような人目に触れない山の中に眠っているのか、不思議でならなかったことを覚えている。

ごろごろ岳頂上から200メートル南に降りた山の中に剣岩はある。(北緯34度45分54.67秒、東経135度17分51.69秒)
この剣岩を世に紹介したのは、神道家の荒深道斉氏である。
荒深道斉氏の『六甲山神代遺跡保存会主意書(1932年9月15日)』によると、この剣岩の表面には、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を形どったオリオン座が刻されており、これは、叢雲釼(ムラクモノツルギ)であるとしている。
【剣岩(天叢雲剣) 南から撮影】Photograph 2013.6.11

【剣岩(天叢雲剣) 西から撮影】Photograph 2013.6.11
剣岩の東に累々と岩が積み重なっている。

【剣岩(天叢雲剣) 東から撮影】Photograph 2013.6.11
剣岩は南からでないと剣形に見えない。

【剣岩(天叢雲剣)】Photograph 2013.6.11

荒深道斉氏は、表面にオリオン座が彫られているとする。

【荒深道斉氏による天叢雲剣の磐座のスケッチ】「天孫古跡探査要訣」より.

荒深道斉氏は、以下のような経歴の人物である。
本名は荒深道太郎、明治4年6月27日に岐阜県で生まれる。生誕時には、両親が村社日吉神社、氏神白山神社に21日間の祈願をすると、父親の前に子供を抱いた白髪の翁が現れ、母親の口の中に白い玉が入ったとの逸話が伝えられる。明治28年9月東京日比谷神宮教校卒。東京瓦斯紡績株式会社入社したが病気で引退。昭和3年から純正神道研究会を組織し、神霊科学の研究を行い、1万年以前の巨石文化の遺跡を探索した。大正13年6月に神憑式を行った時「イワイヌシ」と霊名を発して、霊的に目覚める。その後、神武天皇の重臣である道臣命など神々の指導を受けて、古事記の解釈などの指導書を発行した。昭和24年3月2日79歳で亡くなる。
荒深道斉氏の思想は、現在も「道ひらき会」に受け継がれている。

荒深道斉氏が、六甲山を探索したのは、昭和6年頃で、20回にわたって調査を行い、数多くの磐座を発見した。六甲山系の磐座を語る上で、外すことのできない人物である。

荒深道斉氏は、ごろごろ岳の頂上から1500メートル南東に下った麓に、八咫鏡(ヤタノカガミ)の磐座も発見している。(北緯34度45分13.93秒、東経135度18分21.97秒)
これは、他に類を見ない不思議な形をした磐座である。形は少し歪ではあるが、丸い面の周りに花弁状の縁取りがこしらえてある。これを鏡であると比定した荒深道斉氏の気持ちは良く理解できる。
今では、東方向の花弁が崩れており、看板などもなく、このまま忘れ去られてしまう磐座の一つではないかと思う。貴重な磐座なので、なんとか保存したいものである。
【鏡岩(八咫鏡) 南から撮影】Photograph 2013.6.22

【鏡岩(八咫鏡)西北から撮影】Photograph 2013.5.1
鏡岩は南からでないと鏡形に見えない。

【鏡岩(八咫鏡) 北から撮影】Photograph 2013.5.1
荒深道斉氏は、古代文字が彫られているとする。

【鏡岩(八咫鏡) 東から撮影】Photograph 2013.5.1
東の角は崩れている。

【荒深道斉氏による八咫鏡の磐座のスケッチ】「天孫古跡探査要訣」より.

さて、今回、報告したいのは、ごろごろ岳頂上部の磐座である。
(北緯34度46分01.42秒、東経135度17分54.34秒)
ここは、現在、宅地の工事が始まっている。頂上の三角点と登山道はかろうじて残っているが、その直ぐそばまで、工事が行なわれている。ネットで調べると少なくとも2011年までは、このあたりは、木が生い茂っていたことが確認できる。2013年の1月頃から工事の準備が始まったようだ。

ごろごろ岳の頂上については、岩の上に立って風向きを確認したといわれる風の岩があるとネットで紹介されているが、ごろごろ岳三角点より西に山道があり行き止まりと記載されている。このようにごろごろ岳の頂上には、磐座らしい巨石があるということは、知られていたようだが、木々に覆い隠されて、私の知る限り、その全体像がまともに取り上げられたことはなかったようである。今回、奇しくもこの宅地工事によって、丸裸になった磐座の全貌が現れたのである。

【ごろごろ岳 宅地工事中の頂上部】Photograph 2013.6.30


2013年6月22日、イワクラ学会の木虎誠氏、坂田登氏らと剣岩を訪れた帰りに、宅地工事の中にそびえる巨石群が目に入ったのが発端である。(北緯34度46分01.42秒、東経135度17分54.30秒)
近づいてみると上面が平らな岩に釘付けになった。上面が平らに削られているだけでなく、下部に足までついているではないか。まるでテーブルのようである。これは、祭壇に違いないと直感した。この祭壇岩の北には天を指した巨石がある。神戸新聞(2008年3月19日)がごろごろ岳の頂上部を撮影した過去の写真には、この巨石と対になるように2つの岩の間に三角の岩を挟みこんだ特徴的な岩が写っている。これは女陰ではないだろうか、そうすると北の巨石は男根で陽岩と陰岩が対になって造られ、これを祭壇岩から拝していたという図式が描ける。ただし、この陰岩は、すでに宅地工事で破壊されてしまったようだ。
【ごろごろ岳 頂上の巨石群全景】Photograph 2013.6.30

【ごろごろ岳 頂上の祭壇岩】Photograph 2013.6.22

【ごろごろ岳 頂上の男根岩】Photograph 2013.6.30

祭壇岩の西には、風の岩と呼ばれている巨岩がある。東から見ると二つの岩を積み重ねた形だが、南から見るとまるで人の顔のように見える。この岩には、盃状穴も存在する。
また、祭壇岩の南西には、岩が円形状に並べられた祭祀場がある。
【ごろごろ岳 頂上の風の岩 東から撮影】Photograph 2013.7.14

【ごろごろ岳 頂上の風の岩 南西から撮影】Photograph 2013.6.22

【ごろごろ岳 頂上の祭祀場】Photograph 2013.6.30

さらに、祭壇岩の南東には、ぐにゃりと曲がった落花生のような形状の岩がある。ここで暴論を言わせてもらうと、これは勾玉を形作ったものではないだろうか。
前述したように、このごろごろ岳では、剣岩、鏡岩が見つかっており、荒深道斉氏によりこれらが天叢雲剣と八咫鏡であると比定されているのであるから、当然、三種の神器の残りひとつである八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)を形どった磐座がごろごろ岳にあっても不思議ではない。いや、むしろ、ごろごろ岳から見つかるべきである。

また、このごろごろ岳頂上の磐座には、八咫鏡の磐座に良く似た加工をされた岩もあり、この頂上の磐座と八咫鏡の磐座は、同じ氏族が造った磐座だと思われる。さらに天叢雲剣も八咫鏡も、南の方向から見ないと、剣や鏡に見えないが、この岩も南から見ないと勾玉には見えないことも同じ設計思想で造られたのではないかと考えられる。

この磐座が、天叢雲剣の磐座、八咫鏡の磐座に続く、八尺瓊勾玉である論拠は以下のとおりである。
1) 形が勾玉の形をしている。
2) 天叢雲剣の磐座、八咫鏡の磐座と同じ、ごろごろ岳に存在する。
3) 天叢雲剣の磐座、八咫鏡の磐座と同じように、南方向から見ないと、その形に見えない。
4) この磐座の側に、八咫鏡の磐座と同じ造りの岩が存在する。

このごろごろ岳頂上部の磐座を『勾玉の磐座』と呼称したい。

【ごろごろ岳 頂上の勾玉の磐座(八尺瓊勾玉) 南東から撮影】Photograph 2013.6.30

【ごろごろ岳 頂上の勾玉の磐座(八尺瓊勾玉) 北東から撮影】Photograph 2013.7.14
勾玉の磐座は南からでないと勾玉形に見えない。
【ごろごろ岳 頂上の八咫鏡の磐座に良く似た岩】Photograph 2013.6.30

【ごろごろ岳 頂上の巨石群のスケッチ】2013.7.14

このごろごろ岳頂上の巨石群が私有地にあり、次々と磐座が破壊され、道路わきの石垣に並べられている。
勾玉の磐座も破壊されてしまうかもしれない。なんとも残念でならない。
ごろごろ岳頂上にありながら、登山道から30メートルほど外れているために、これまで見つからなかったのであるが、昭和初期に、このあたりをくまなく調べたであろう荒深道斉氏が、この頂上の磐座群に気がつかなかったのは、何とも不思議である。
これまで、天叢雲剣の磐座と八咫鏡の磐座に対し、八尺瓊勾玉の磐座は今は未だ眠っていると、まことしやかに伝えられてきたが、その八尺瓊勾玉が姿を現したのである。

また、今年は、20年に1度行なわれる伊勢神宮の遷宮と、約60年に1度行なわれる出雲大社の遷宮が、歴史上始めて重なる年である。なんという奇遇であろうか。
やはり何かが起こる前触れであろうか。良き前触れであることを願いたい。

2013年7月26日  「六甲山系の磐座〜勾玉の磐座発見〜」 レポート 平津豊