六甲山イワクラツアー
〜瀬織津姫を訪ねて〜

 Report 2014.8.28 平津 豊 Hiratsu Yutaka
Share (facebook) トップ画面へ

本論文・レポートのリンクおよびシェアは自由です。画像や文章を抜き出して引用する場合は出典を明記してください。
まとめサイト等への掲載や転載は禁止します。

2014年4月6日、イワクラ(磐座)学会の神戸六甲山イワクラツアーが行なわれた。柳原副会長から六甲のイワクラツアーを計画するように依頼を受け、六甲に詳しい諸先輩方をさしおいて僭越ではあったが計画させていただいた。
イワクラ学会では何度も取り上げられている六甲なので、今回は、「瀬織津姫を訪ねて」という副題をつけて、瀬織津姫(セオリツヒメ)に関係のあるイワクラを選択した。本来は、イワクラを科学的に考証しなければならないのに、神話に偏ってしまったことは大目に見ていただきたい。

なお、当日は、案内役であったため写真をあまり撮っておらず、本レポートでは、他の日に撮影した写真も使用した。

さて、10時に三ノ宮駅前で集合したが、その頃から小雨が降ってきてしまった。イワクラ学会のツアーに雨はつきものと、一同に笑いが起った。マイクロバスに乗り込み、六甲山頂までいっきに登る。ところが、標高が高くなるにつれて雨は雪に変わり山頂に到着すると、そこは雪景色であった。まさか、4月上旬のツアーが雪の中のツアーになるとは、思ってもみなかったのである。
2 六甲比命神社周辺のイワクラ群(11時40分)
六甲比命神社(ムコヒメジンジャ)に向う道は狭い山道で、なおかつこの時は、木の枝が雪の重みで垂れ下がり前方をふさいでいた。皆で枝を引っ張り、なんとかバスを通して、神社下に到着した。

ここで、今回のテーマである瀬織津姫(セオリツヒメ)について説明しておく。
この「六甲(ロッコウ)」という地名表記は、十四世紀の漢詩集にみられ、「六高」とも書かれている。しかし、この「六甲」「六高」を「ロッコウ」と読みだしたのは最近で、かつては「ムコ」と読んだ。このことは、務古水門(ムコノミナト)、武庫川(ムコガワ)という地名に残っていることからわかる。
これに関し、この地が、古墳時代中期に大王(オオキミ)が陵墓を築いた河内の「摂津の国」から見て向こう側なので「向こうの国」と呼ばれ、これから「ムコ」という地名になったというのが通説である。しかし、無人の地ならわかるが、六甲の地に人は住んでいたわけで、その人たちが自分の住んでいる場所をはたして「向こう」と呼ぶだろうかという疑問が残る。
一方、この六甲の地は、かつて、「ムカツ」と呼ばれた地であり、「六甲山」は、「向つ峰(ムカツミネ)」であるとの説がある。この「ムカツ」が転じて「ムコ」になったという。そうなると、「六甲比命神社」も「ムカツヒメ神社」である。

今の六甲比命神社には、弁財天が祀られているが、本来は、ムカツ姫が祀られていたことになる。
では、このムカツ姫とは何者なのか?
六甲山の南東に広田神社という古社がある。この広田神社の御祭神は、天照大神の荒御魂となっているが、その名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)であり、ムカツ姫である。
広田神社は、六甲山を含む広大な社領を持っていたとされており、六甲比命神社に広田神社の御祭神が祀られていても不思議ではない。
また、竹内文書にも、上古代二十二代天疎日向津比売身光天津日嗣天皇(アマサカリヒニムカイツヒメノミヒカリアマツヒツギアメノスメラミコト)というムカツ姫が登場するが、これは天照大神のことである。
一方、この六甲比命神社に祀られるムカツ姫について、ホツマツタヱの研究者である大江幸久氏は、瀬織津姫(セオリツヒメ)であるとの興味深い説を展開されている。

瀬織津姫は、罪や穢れを流す神として大祓詞にしか登場しない神だが、ホツマツタヱでは、サクナダリ・セオリツ姫ホノコとして登場し、天照大神が姫の前に立たれて正室として迎え入れたことにより、天下る日前向津姫(アマサガルヒノマエニムカヒツヒメ)と呼ばれた。この場合、天照大神は男神である。後世に天照大神を女神としたことにより、矛盾が生じ、瀬織津姫は隠されてしまったという。
その場面を高畠精二氏の現代語訳ホツマツタヱのサイトより転記する。

『どの姫達もそれぞれにお美しく聡明でしたが、その中でも生まれつき素直でお美しい一人の姫に天照大神はついに心を奪われてしまわれました。本来ならば君たるもの、姫を迎える時は殿にいて殿前(トマエ)でお目通しするのがしきたりとなっていましたが、この時ばかりは自ら階段(キザハシ)を瀧の流れの如くお降りになり、姫の前に立たれて迎え入れたほどです。この姫の名をサクナダリ・セオリツ姫ホノコさんと申します。さくなだりとは、岩を割いて流れ降る清い渓流を意味し、正に名が体を表わした美しい真名(いみな)でした。称名(たたえな)は君との感激的な出会いに因んで天下る日前向津姫(アマサガルヒノマエニムカヒツヒメ)と申し上げ、ムカツ姫の御名は後世までも君との出会いを伝える名として残りました。
-----中略------
天照大神は自ら日の輪(太陽)にお帰りになる(崩御される)ことを決心され、諸臣・諸民を集めて、后の瀬織津姫に遺し法(のこしのり)をされました。「私の亡き後、ヒロタ(現・広田神社)に行ってワカ姫のご神霊とともに余生を過ごし、女意心(イゴコロ)を守り全うしなさい。私も豊受大神神上がりのこの地(丹後久次)のマナイ(比沼麻奈為神社)でサルタヒコに穴を掘らせて罷(まか)ろうと思う。我は豊受大神と男(オセ)の道を守らん。これ伊勢(イモオセ=いせ)の道なり」とのたまい、洞(ほら)を閉じさせました。』



大江幸久氏のブログ「八上 白兎神社Uと全国神話伝承」より大江氏の説を転記する。

『天照大神のお后である瀬織津姫が天照大神のお命じによって晩年にお過ごしされたのは摂津の国のヒロタ、現在の兵庫県西宮市広田神社・六甲山の周辺です。ホツマの記述の通りならば、ここでの御現身(おうつしみ)の瀬織津姫は神上がられたことになります。したがって瀬織津姫の御陵のある場所は六甲山(ムコヤマ)旧名向津峰(ムカツミネ)と思われます。
ホツマに登場する瀬織津姫の別名は天照日に向う姫=ムカツ姫です。
広田神社の主祭神は天照大神荒御魂、またの御名は撞賢木厳之魂天疎向津媛(ツキサカキイズノミタマアマサカルムカツヒメ)です。
六甲の名前を冠した六甲山(むこやま)神社祭神(石の宝殿)と六甲比命大善神社=六甲比女(むこひめ)神社祭神が、広田神社と同一の祭神であることが長らく不明となっていました。
現在、石の宝殿=六甲山神社は広田神社の摂社となっていますが、越木岩神社境内の貴船神社の磐座は古くから石の宝殿を奥宮とする里宮として鎮座しています。同じく霊岩、甑岩の前にある摂社の六甲山神社、そして西宮神社の境内摂社の六甲山神社は石の宝殿の里宮として、後世に創建されたものです。
この六甲比命神社と六甲山神社の2つの神社名は広田神社主祭神、撞賢木厳之魂天疎向津媛と深く関連しています。』


現在の六甲比命神社は、六甲比命講の方々が手厚く守っておられ、古寺山にあった多聞寺の奥の院となっている。
聖徳太子が死去した後、播磨から六甲山にかけて多くの寺院を建立した法道仙人にまつわる心経岩(シンギョウイワ)、雲ヶ岩(クモガイワ)、仰臥岩(ギョウガイワ)といった磐座も存在する。
大江氏は、法道仙人がこの地を多聞寺の奥の院とすることにより、禁足地として、瀬織津姫の御陵を守ったのではないかと考えられている。
 【 瑠璃さん作 瀬織津姫 瑠璃さんのブログ

以下、大江氏の『六甲山・瀬織津姫とワカ姫 和す・尽くす 聖徳太子による神仏習合 平成25年9月8日』から抜粋して転記する。

『六甲比命大善神=弁財天を祀る巨大な磐座が御神体の神社です。ここが瀬織津姫の奥都城=御陵と考えられます。付近の心経岩、雲が岩とともに、その地より夏至の日の入り方向にある神戸市北区唐櫃の多聞寺の奥ノ院です。心経岩は、御陵に鎮まる瀬織津姫のご神霊を仏教的に弔う意図で、刻まれたものと思われます。
----中略-------
六甲比命神社よりやや上方に雲が岩と呼ばれる2つに割れた岩がありますが、法道仙人がここで修行中、紫雲に乗った毘沙門天が現れたという伝説があります。毘沙門天は天照大神の仏教的なお姿であり、位置的にも六甲比命神社の隣ですから、天照大神のご神霊が宿った岩と考えられます。その下方に、数十もの岩のピースが、ピラミッドまたは剣の形に組まれた不思議な磐座があります。この磐座は天照大神の憑代なのかもしれません。雲が岩の少し上には仰臥岩という上面が平らになった磐座と、熊野権現と八大竜王の石祠があります。そこには、熊野大権現を中央に、仏眼上人と花山法皇の名が刻まれた碑があります。
65代天皇であった花山法皇は、平安時代に熊野で修行されたときに、熊野権現=瀬織津姫の御神霊とめぐり会われて後、瀬織津姫をご守護されている方です。』


バスを降りて、山道をしばらく登ると、「摩訶般若波羅密多心経」が彫られた高さ5メートル、幅6メートル以上の皿状の岩が現れる。心経岩(シンギョウイワ)と呼ばれている磐座である。(北緯34度45分58.99秒、東経135度14分20.23秒)
法道仙人の頃に彫られた般若心経は風化してしまったので、大正5年に彫りなおされたものである。この岩の下部には、倒れないようにくさび石が挟んであり、もともと存在していた磐座に般若心経を彫ったものと考えられる。
 【心経岩】Photograph 2014.4.6

 【心経岩の下部 巨大な心経岩が倒れないようにがっちりと石がかましてある】Photograph 2013.10.13

さらに登ると、六甲比命大善神の磐座が見えてくる。(北緯34度45分59.25秒、東経135度14分21.15秒)
巨大な岩壁全てを磐座として祀っており、あまりの大きさに圧倒される。瀬織津姫の眷属が兎であることから、この磐座は兎を模っているともいわれている。また中央部にエンブレムのような彫り込みがあり、ここにも兎が彫られているという人もいる。
 【六甲比命大善神の磐座】Photograph 2013.10.13

 【人と比べると六甲比命大善神の磐座の巨大さがわかる】Photograph 2013.11.9

六甲比命神社は、この磐座の上に建っており、岩屋の部分を拝む形である。(北緯34度45分58.69秒、東経135度14分21.58秒)
神社までは、パイプで作った簡易のはしごを登っていくことになる。なかなか険しいルートであるが、最近は、瀬織津姫ブームで、多くの女性たちがこの神社まで訪れている。
神社の拝殿の中には、大江氏によって「ようこそイワクラ学会御一行様」と書かれた紙が貼ってあった。この神社の清掃や整備をされている大江氏には敬服するほかはない。
 【六甲比命神社に向う学会メンバー】Photograph 2014.4.6

 【六甲比命神社】Photograph 2013.10.13

 【六甲比命神社の本殿 岩屋に祀られている】Photograph 2014.4.6
 【六甲比命神社横の岩壁 人工的に組まれている 】Photograph 2013.10.13
六甲比命神社から少し登ると、雲ヶ岩(クモガイワ)という二つに割れた割れ岩がある。(北緯34度45分58.39秒、東経135度14分22.55秒)
法道仙人が修行中に、紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現れたことから「紫雲賀岩」と呼ばれていたが、その後「雲ヶ岩」と省略された。
 【雲ヶ岩】Photograph 2014.4.6

そしてこの直ぐ近くに、私が、今回のツアーで、みなさんに一番紹介したかったイワクラがある。(北緯34度45分57.68秒、東経135度14分22.06秒)
大江氏が2013年5月に発見したもので、小さな石が芸術的に組上げられている。もちろん石垣などでは決してなく、縄文土偶に似たセンスで何かを表そうとした意図を感じる。

大江氏にこのイワクラを教えていただいた後、いろいろと調べたが、このイワクラについて書かれた文献は見つからなかった。なぜこのイワクラが今まで見つからなかったか不思議である。
発見されたばかりで名前はないのだが、発見者が天照大神の依代ではないかと言っておられるので、発見者を尊重して「天照大神のイワクラ」と呼ぶのが適切かと思う。
 【天照大神のイワクラ】Photograph 2013.10.13

 【天照大神のイワクラ 明らかに人工の石組み】Photograph 2013.10.13

 【天照大神のイワクラ 石が縦に並べている】Photograph 2013.10.13

 【天照大神のイワクラ 石がL字に加工され、そこに楔のような細い石が組まれている】Photograph 2014.7.26

 【天照大神のイワクラ 不安定な逆三角形の石が組んである】Photograph 2014.7.26

この山を登りきった頂上にある磐座は、仰臥岩(ギョウガイワ)である。(北緯34度45分58.79秒、東経135度14分22.82秒)
テーブル状の磐座で、八大龍王、熊野権現、仏眼上人、花山法皇が祀られている。今では、このテーブルで何が行われたかを知る術はないが、綺麗に平面に削られた磐座を山の頂上に置いているのには、明確な使用方法があったに違いない。

ここは、6ケ所もの見所があるので、見学時間を1時間とって、自由に楽しんでもらおうと計画していたが、寒さのせいで、ツアーメンバーは、早々にバスに戻って来た。ゆっくりと見学してもらいたかったのだが残念である。
 【仰臥岩】Photograph 2013.6.22

 【仰臥岩 平らに削られている】Photograph 2013.6.22

3 天穂日命の磐座(12時35分)
天穂日命(アメノホヒノミコト)の磐座は、六甲カントリーハウスの中にある。(北緯34度46分02.46秒、東経135度14分39.93秒)
カントリーハウスの中にはアスレチックなどの遊具があり、普段は家族連れで賑わっているが、今日は雪のため誰も居ない。我々のためだけに開けてくれていたようである。そして、磐座までは、芝生に覆われた丘を登って行くのだが、今日は芝生の上に雪が積り、非常に滑りやすい危険な状態になっている。それでもイワクラ学会のメンバーは果敢に雪山を登っていった。

この磐座は、先ほど参拝した六甲比命神社の真東に位置しており、六甲比命神社と天穂日命の磐座の間には点々と岩が並べられている。この東西ライン上には、天叢雲剣の磐座や北山巨石群、目神山磐座群が含まれ、私は、重要なレイラインを形成していると考えている。

また、この磐座は、芦屋神社の奥宮(山宮)である。なぜ六甲の地に出雲国造の祖神である天穂日命の磐座があるのかについては、ホツマツタヱを持ち出さないと理解できないと大江氏は主張されている。以下、大江氏の『六甲山・瀬織津姫とワカ姫』から転記する。

『天穂日命の磐座がなぜ六甲山山頂、しかも瀬織津姫の磐座の至近距離、直線距離にしてわずか300メートル東方に鎮座しているのか、これには大変重要な意味があると思います。ここは、単に天穂日命の憑代ではなく、御陵ではないのでしょうか。天穂日命の磐座の里宮が芦屋市の芦屋神社ですが、かつては天穂日命一神を祀る神社でした。磐座から冬至の日の出ライン延長上にピタリと位置しています。里宮と磐座の関係が明確に残っている、という意味でも貴重です。
ホツマによれば、天穂日命は天照大神とモチコ姫との間の御子神で、長男に当たりますが、事情によって瀬織津姫によって養育されます。瀬織津姫は天穂日命の育ての親なのです。』


丸いなだらかな曲線で造形された、優しさを感じる磐座である。
学会のメンバーの興味を引いたのは、この磐座の前にあるストーンサークルである。あまりにもきれいに整ったサークルであるため、本物のストーンサークルか後世の模造かを議論していた。私もこのサークルを最初に見たときに、カントリーハウス整備時にお遊びとして造ったものかと考えていたのだが、後日、最初からあったという話も聞き、気になっているものであった。武部正俊氏は本物だと結論されたようである。近々、岩の配置を計測して検証してみたい。
 【天穂日命の磐座】Photograph 2014.4.6

 【天穂日命の磐座の横のストーンサークルで議論する学会メンバー】Photograph 2014.4.6


ツアー一行は、カントリーハウスのレストランで食事をして、冷えた体を暖めたあと、次のイワクラに向けて出発するのだが、諸先輩方から六甲神社に寄ってはどうかと意見され、計画には入れていなかったが、立ち寄ることにした。
4 六甲山神社の磐座(13時40分)
六甲山神社(ムコヤマジンジャ)には、石の宝殿と呼ばれる石で造られた祠がある。この祠は、南麓の越木岩神社の氏子が1613年に建立したものである。(北緯34度46分49.71秒、東経135度16分17.35秒)

神功皇后が三韓征伐で持ち帰った神の石を納めたとか、黄金の鶏を埋めたという伝説が残っている。
石の祠の奥には、六甲山大権現をはじめ数多くの石碑が立っており、修験道の霊山であったことを物語る。白山修験の山伏の影響のため、現在は、菊理媛命(ククリヒメノミコト)を御祭神としているが、廣田神社の境外末社であり、また、芦屋川と住吉川の分水嶺にあたり雨乞いが行なわれたということから、かつては、瀬織津姫を祀っていた可能性がある。

少し離れた場所に、3メールほどの磐座が祀られており、この磐座が六甲山神社の御神体と考えられる。(北緯34度46分48.02秒、東経135度16分18.41秒)
六甲山神社は、菊理媛を祀っているために、若い女性の参拝者が多く訪れる場所であるが、この磐座は有名ではなく、ここまで訪れる参拝者は少ない。
また、高砂の石の宝殿とほぼ同緯度にあることも面白い。
 【六甲山神社 石の宝殿】Photograph 2013.4.21

【六甲山神社 石の宝殿の裏の石碑】Photograph 2013.10.13

【六甲山神社の磐座】Photograph 2013.10.13

本来の計画に戻り、バスで六甲山を降りていく。窓外の真っ白な雪景色は、徐々にピンクの桜模様に変わっていった。
そして、目の前に、きれいな神奈備山が見えてきた、次の訪問地の甲山である。
5 甲山神呪寺と八十八カ所巡り(14時20分)
甲山(カブトヤマ)は、神功皇后が、国家平安守護のために、山頂に如意宝珠及び兜を埋めたと伝えられる独立峰で、その姿から人造のピラミッドではないかと言われている山である。
この甲山の中腹に、甲山大師とも呼ばれる神呪寺(カンノウジ)がある。(北緯34度46分22.89秒、東経135度19分47.79秒)
神呪寺について、『元亨釈書(ゲンコウシャクショ)』には次のように記載されている。

『淳和天皇の妃である真名井御前は、如意輪観音への信仰が厚く、「摂津の宝山がある。」とのお告げを受け、天長5年(828年)宮中を出て摂津に赴いた。
南宮を詣で、続いて広田神社へ詣でられ、神は社殿の扉を開いて妃と清談をされた。
次の日、山に入られ、山の池のほとりはすべて白石で、池の中から五色の光が出ていた。摩尼山の前の小さい峰で大きな蛾に出会い、摩尼峰に登ると紫の雲が覆った。すると、一人の美女が現れ「この山は究竟摩尼霊場という。四神相応の勝区である。だから私は、珍宝をこの地に納め置いたのである。毎日、私は必ずここに天降りる。ここに道場を立てるがよい。」といい終わると、たちまちに見えなくなった。この美女こそが広田神社祭神のお姿である。 
妃は大いに喜んで堂宇を建てた。妃は空海を甲山に招請して、17日間如意法を修せられた。空海は本尊として、桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を造った。この像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に大殿を落慶した。
妃は、空海について剃髪し、具足戒を受けて、法のイミナは如意輪と云った。
承和2年3月20日、如意は南方に向かって座り、如意神呪を招じつつ合掌して逝去された。33才であった。(意訳)』


このように、神呪寺は、如意尼が空海の助けを得て、開基された寺院である。ちなみに、如意尼が亡くなられた次の日が、空海が即身仏になるために入定した日にあたるのも、不思議なことである。(如意尼は33才で故郷に戻ったとの説あり)

また、この寺の如意尼の姿を描いた掛け軸に『如意尼公 元伊勢籠神社第三十代祝雄豊の娘 淳和天皇第四妃 当山開祖といわれる』と書いてあり、この如意尼こと真名井御前は、その名前が示すように、丹後の籠神社の奥宮である真名井神社ゆかりの人物でもある。さらにこの寺には空海が如意尼を刻んだという如意輪観音像があるが、この中に、丹後の浦嶋子(浦島太郎のモデル)の玉手箱が隠されているという話まで伝わっている。
伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神の元宮であり、最古の鏡や最古の家系図など、謎に満ちた籠神社との関連性や、空海の関与といい、神呪寺が非常に重要な寺院であることは想像に難くない。
 【神呪寺と甲山】Photograph 2014.4.6

当初の寺領は250町歩もあったが、現在は境内地の20町歩となってしまっている。しかし、甲山八十八カ所という写し霊場は、神呪寺の南に残っている。
『四国八十八カ所石像施主過去帳』の序文に、『本朝の霊区で弘法大師の遺跡である神呪寺に四国八十八カ所の霊像を模彫造立する事を宿願としている二、三人の信士らの発言が契機だ。』と記されている場所で、1798年に設立されたものである。
八十八カ所に石仏が建てられているが、私は、この台座の多くがイワクラではないかと考えている。これについては、現在、六甲山・巨石交流会で詳細な調査を行っているところである。

一行は、神呪寺を参拝したあと、八十八カ所の霊場に向かった。八十八カ所の全てを見ていただく時間はないので、私がハイライトと考える五十番の霊場を案内した。
この五十番の霊場では、巨大な岩屋の中に石仏が設置されており、もともとあった岩屋状のイワクラを利用したものと考えている。(北緯34度46分13.28秒、東経135度19分53.35秒)
この岩屋を形成している石組みには、正確に北を向いている岩や、複雑に組み合わされた岩などがあり、岩屋の奥には岩をはめ込んでいることなどから人工的に造られたイワクラと考えられる。
【神呪寺甲山八十八カ所五十番の霊場 この壁は南北線に揃えられている】Photograph 2014.4.27

【神呪寺甲山八十八カ所五十番の霊場 岩屋の奥に石がはめてある】Photograph 2014.4.27

【神呪寺甲山八十八カ所五十番の霊場 L字に加工した岩の間に岩が組んである】Photograph 2014.2.23
次に、つい最近の2014年2月に発見したイワクラを見ていただいた。
【虹の磐戸】Photograph 2014.4.27

この甲山八十八カ所の南側は、目神山(メカミヤマ)と呼ばれる所で、目神山は女神山であり、瀬織津姫の暮らした場所ではないかともいわれている。
この目神山には、かつて、数え切れないほどのイワクラが存在していたが、宅地開発でその多くが破壊されてしまった。この地域には、「岩を落とした家の女主人が不幸に見舞われる」という話がまことしやかに伝えられているほど、各宅地の敷地内にイワクラがたくさん存在していたのである。
今日は、瀬織津姫関係のイワクラを訪れたので、やはり、瀬織津姫を祀る広田神社に参拝してもらおうということで、町に向かった。
6 広田神社(15時00分)
西宮市大社町に鎮座する広田神社は式内社であり、神功皇后にまつわる神社である。(北緯34度45分10.08秒、東経135度20分24.56秒)
『日本書紀』には、次のように書かれている。

『時に、皇后の船海中に廻りて、進むこと能はず。更に務古水門(ムコノミナト)に還りまして卜ふ。是に、天照大神、をしへまつりてのたまはく、「我が荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を広田国に居らしむべし」とのたまふ。即ち山背根子が女葉山媛をもて祭はしむ。亦稚日女尊(ワカヒルメノミコト)、をしへまつりてのたまはく、「吾は生田長峡国に居らむとす」とのたまふ。因りて海上五十狭芽(ウナガミノイサチ)をもて祭はしむ。亦事代主尊(コトシロヌシノミコト)、をしへまつりてのたまはく、「吾をば長田国に祠れ」とのたまふ。則ち葉山媛の弟長媛(イロドナガヒメ)をもて祭はしむ。亦表筒男(ウハツツノヲ)、中筒男(ナカツツノヲ)、底筒男(ソコツツノヲ)、三の神、をしへまつりてのたまはく、「吾が和魂をば大津の渟中倉(ヌナクラ)の長峡(ナガオ)に居さしむべし。すなはち因りて往来ふ船を看さむ」とのたまふ。是に、神の教のまにまに鎮め坐ゑまつる。』


つまり、神功皇后が広田に天照大神の荒魂、生田に稚日女、長田に事代主、住吉に住吉三神を祀ったというものである。
前述したように、広田神社の御祭神は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、住吉大神、八幡大神、建御名方神、高皇産霊神であるが、『延喜式』には『広田社一座』とあるので、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命が主祭神であり、他の神は後から勧請されたものであろう。
撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は他にみない神名であるが、神社側は、これを天照大神(アマテラスオオカミ)の荒御魂(アラミタマ)と説明している。しかし、戦前の広田神社の由緒書きには、瀬織津姫(セオリツヒメ)が主祭神だと書かれていたという。

この広田神社の境内にイワクラは存在しない。元々は甲山山麓の高隈原(タカクマハラ)に鎮座していたが、後に御手洗川のほとりに遷座。さらに水害のため、1724年に現在の地に遷座した(諸説あり)。高隈原の場所は不明だが、イワクラが数多く残る目神山付近と考えられ、甲山を神体山としていたのではないかと考えている。かつての広田神社は、すぐそばまで海岸線がせまり、良港を含む広大な神領を持った広田国の中心として発展した。西宮という地名も西宮戎神社のことではなく、広田神社を意味するものである。ちなみに西宮戎神社は、広田神社の別宮である浜南宮の場所に建てられている。
 【広田神社】Photograph 2014.4.6

遠方から参加していた人から「広田神社に参拝するのが今日の目的の一つでした。」と言っていただいた。神道では有名な神社なのだが、どうも行き難い神社のようだ。イワクラがないので計画に入れるかどうか迷ったのだが、やはり、入れてよかったようだ。
ツアー一行は、清浄で美しい神社を参拝して、最後の訪問先に向かった。
7 芦屋神社(15時40分)
芦屋市東芦屋町の天神山に鎮座する神社で天穂日命を御祭神とする神社である。(北緯34度44分33.67秒、東経135度18分09.94秒)
記紀においては、天穂日命は、天照大神と素戔嗚尊が誓約を行なったとき、天照大神の勾玉より生まれた五男神の第二子である。第一子は、皇祖である正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)で、忍穂耳命は、葦原中国を治めるべく、降臨しようとしたが、葦原中国は騒々しいといって途中で引き返した。そこで天穂日命が出雲国に派遣されるが、大国主に惚れ込んでしまい三年たっても何の連絡もしなかったという神である。その後、大国主神が天孫に国を譲り、その大国主神を天穂日命の子孫の出雲国造(千家)が祀り続けている。

ここでは、山西宮司に天穂日命のお話をしていただいた。山西宮司によると、天穂日命は天孫を裏切ったのではなく、長い時間をかけて大国主神を説得し、国譲りの条件を整えた。つまり、強力なネゴシエーターであり、六甲山頂の磐座は、温和な形をしていて天穂日命の人柄をよく表しているということであった。
ツアー一行は、この芦屋神社に水神社として祀られている円形石室式古墳などを見学した。
最後に集合写真を撮ってツアーを終了し、芦屋駅で解散となった。
 【芦屋神社 山西宮司の話を聞く学会メンバー】Photograph 2014.4.6

五ヶ所の寺社と十ヶ所のイワクラを巡ったツアーとなったが、満足していただいただろうか。なるべく多くのイワクラを見ていただきたかったので、スケジュールを守るために、ツアーの皆さんを、絶えず急かせていたようである。申し訳なく思っている。

六甲山近辺には、今回案内した以外にも、数多くのイワクラが存在する。また、、新しいイワクラも次々と見つかっているので、また、機会を見てみなさんにご紹介したいと考えている。


 謝辞
本レポート作成にあたり、神話研究家の大江幸久氏には、ホツマツタエについてご教授いただきました。芦屋神社宮司の山西康司氏には、貴重なお話をしていただきました。
みなさんに厚く御礼申し上げます。

2014年8月28日  「六甲山イワクラツアー〜瀬織津姫を訪ねて〜」 レポート 平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報31号 2014年8月6日発行  掲載