徳島・剣山ミステリー探索

Report 2010.5.2 平津 豊  Hiratsu Yutaka
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私たちは、明石大橋を渡り、淡路島を縦断して順調に四国に渡り、そして、神戸淡路鳴門自動車道を鳴門インターで降りて徳島市に入った。
徳島県には2つのミステリーがある。1つは、邪馬台国があったとする説、もう1つは、ユダヤ人の失われた十支族がたどり着いたとする説である。
まずは、阿波=邪馬台国説に関係する八倉比売(やくらひめ)神社から訊ねることにした。八倉比売神神社は、国府町矢野字宮谷531に在る。

192号線を通って徳島南環状道路を3km程南下し、車が1台しか通れない道を500m進むと目の前に石造りの立派な鳥居が見えてくる国府町西矢野にある八倉比売神社の鳥居である。石が敷き詰められた登りの参道が続いている。歴史を積み重ねた道が奥へと続いている、今回の徳島県のミステリー探索の幕開けに相応しい景色である。
【八倉比売神社の鳥居】
2番目の鳥居の直ぐ左手に箭執(やどり)神社、もう少し登ると松熊(まつくま)神社がある、由緒記によると前者を矢の御倉、後者を弓の御倉として日霊(ひるめ)大神が高天原より天下るまで守ったとある。
前者の祭神は、櫛岩窓(くしいわまど)命と豊岩窓(とよいわまど)命、御門の神で天石門別(あめのいわどわけ)神といもいうとあり、後者の祭神は、手力男(たぢからお)命天宇受女(あめのうづめ)命で、いずれも天照大神が邇邇芸(ににぎ)の命を天孫降臨させるとき付き従えさせた神々である。
【箭執神社】

【松熊神社】
鳥居の左の車道を少し進むと整備された史跡公園があり、そこに車を止めた。ここは、古墳や住居跡があり、古くから人々が多く住んでいた所のようである。
細い道を100mほど歩くと急な階段があり、そこを登るとやっと八倉比売神社に着く。
神社略記によれば、式内正一位天石門別八倉比賣神宮とあり、最高の神格が与えられているが、現在の社殿は、小ぶりであり、とても式内正一位とは思えない。
神社略記によると、杉尾山を御神体とする神社で、現在の社殿は、江戸時代に造営された拝殿とある。つまり、奈良の三輪山のように山を崇める最も古い神社様式であり、現在の社殿の様子は、逆に江戸時代まで、その様式が守られてきた証と思える。
【天石門別八倉比賣神宮】
我々は、参拝をして、奥の院に向かった。
神社の裏手の山道を100m程登ると小さな広場に出た。その中心に青石の石積みで作られた祭壇がある。奇妙なことに、その祭壇は高さは0.5m程で、一辺2.5m程の5角形をしている。祭壇の上部には、小さな祠があり、その中に鶴亀(つるぎ)岩と呼ばれる石が祀られてる。この鶴亀(つるぎ)岩は、男根を模した石のようである
【八倉比賣神社の裏山にある5角形上の祭壇】

【5角形上の祭壇上の祠】
八倉比賣神宮の御祭神は、大日霊女命(おおひるめのみこと)別名天照大神である。郡昇氏や堀川豊平氏が邪馬台国=阿波説によると、卑弥呼は日の巫女であり、大日霊女や天照と同義であるという。さらに、この祭壇の下が古墳であり、これこそが、卑弥呼の墓であると主張している。
この古墳は、魏志倭人伝に「女王卑弥呼が死んだ時、倭人は大きな塚を作った。それは直径百余歩ほどもあり、その際殉葬された者は奴稗百余人であった。」と書かれている塚の大きさと一致するという。また、神社略記によれば、八倉比賣神宮の古文書等に、天照大神の葬儀の様子が記載されていることや、鎮座が338年と推定されることなどが書かれており、八倉比賣神宮が卑弥呼(=天照大神)の墓であるという説に符合する。

再びこの神社の前に戻ると、誰も居なかった境内に近所の人たちが数人集まり、階段の落ち葉を掃除していた。境内はきれいに掃除されており、この神社が今も人々に崇められていることがうかがわれる。
その一人に、天乃真名井(あまのまない)の場所を尋ねると、今は大泉神社となっており、神社の右脇の道を下ると看板がある。と丁寧に教えていただいた。
神社の右脇の道を下る。先ほど見た5角形の祭壇のあった場所は、小さな小山になっており、明らかに、八倉比売神社は、この古墳を拝する形になっているのがわかる。
さらに300m歩いたところに、5角形の井戸がある
この井戸や祭壇がなぜ5角形なのであろうか? 5角形は造りにくい形であり、囲うだけなら、普通は4角形か6角形になるはずである。この5角形に特別な意味があり、それを伝えていることは間違いない。
5角形の5という数字は、神社略記で天照大神の葬儀を行った5神(伊魔離神、大地主神、木股神、松熊神、広浜神)、あるいは、天孫降臨の時に5つの供の緒を分かち合った5神(天の児屋の命、布刀玉の命、天の宇受売の命、伊斯許理度売の命、玉祖の命)をあらわし、天照大神が亡くなった当時は、5つの部族によって国が成立していたということではないだろうか。それとも5角形という形に呪術的な意味があったのだろうか。
次に、徳島市八万町中筋の宅宮(えのみや)神社に向かった。その神社は、八倉比売神社から8km程南東に行ったところに、ちょうど鮎食川の対岸にある。

ここは、壱与(いよ)の神社と言われているところである。
旧称は、意冨門麻比売(おほとまひめ)神社、祭神は、大苫邊(おほとまべ)尊、大年(おほとし)大神、稚武彦(わかたけひこ)命である。
大苫邊尊は、神世七代のオホトノベのことであろう。神世七代の神を祭っているのは珍しい。この伊邪那岐(いざなぎ)神・伊邪那美(いざなみ)神よりも古い神を祭っているのは、全国でここだけということである。ちなみにオホトノジ・オホトノベは、神世七代の5代目にあたる。ここでも5という数字が出てくる。
【宅宮神社の鳥居】
なんの変哲もない神社ではあるが、ここに1700年以上の歴史を持つ神踊りが伝わっており、その時に歌われる神歌の一節に「伊豆毛の国の伯母御の宗女/御年十三ならせます/こくちは壱字とおたしなむ」とあるそうである。
魏志倭人伝に、卑弥呼の死んだ後「男王を立てたが、国中が服従せず、その上お互いに殺し合った。この時千余人が殺されたという。そこで再び卑弥呼の宗女の壱与という十三歳の女の子を立てて王としたところ、国中はやっと治まった。」に符合する歌と言われている。
さらに、この神社には、神代文字で書かれた祓詞の版木があるという、神代文字とは漢字以前に日本にあった独自文字のことであるが、もちろん歴史学者は認めていない。それが堂々と伝わっている。
【宅宮神社】
私たちは、徳島市内に戻り、徳島市西大工町にある有名な「いのたに」で徳島ラーメンを食べた。醤油とんこつに少し縮れた細麺で、チャーシューの代わりに甘辛く味付けした豚バラ肉がのっていた。このバラ肉が非常に塩辛く、強烈であった。さらに私たちは頼まなかったが、生卵をトッピングするのが普通のようである。
おなかが満たされたところで、次の目的地である立岩神社に向かう。438号を通って20km程西へ車を走らせると神山町に入る。そこを左折して、車一台がやっと通れる道に入る。1kmほど進むと道が複雑に分岐し、迷ってしまった。ナビはもちろん、6万分の1の地図も役に立たない。
近くの民家で道を聞くと、おじいさんが親切に教えてくれた。道は合っているようだが、話しぶりからまだまだ先のようである。しばらく行くと、急に登り道になって山を登りだした。先を行く車があったので、その後をついていく、地元の人であろうか、相当な速度で登っていく、しばらく行くと、その車は道を外れて集落の中に入っていった。このような高い山の中に集落があるのには驚きである。完全な林道をしばらく走ると、やっと立岩神社の看板を見つけた。
名西郡神山町鬼籠野字元山746にある天の岩戸立岩(あまのいわとたていわ)神社である。
【立岩神社の鳥居】
看板の右手に木で組まれた素朴な鳥居があり、山道が奥に続いている。
200mほど歩くと、小さな拝殿がある。上を見ると、巨大な岩が真直ぐに空に向かってそびえている。圧倒される光景である。岩は縦方向に裂けていて、これが天の岩戸にぴったりである。拝殿も巨石前に申し訳なさそうに作られた本殿も貧弱なものであり、ご神体である巨石の引き立て役でしかない。
【立岩神社】
「阿波古事記研究会」の案内板によると「阿波の風土記」に、「空よりふり下りたる山の大きなるは阿波国にふり下りたるを天の元山といい その山のくだけて、大和国にふりつきたるを天香具山というなんともうす」とあるそうである。
この神山の元山と奈良の天香久山(あまのかぐやま)が、空から降ってきた山であるという伝承であるが、阿波古事記研究会は、この元山を天香久山であるとしている。
古事記において、天香久山は、「天の宇受売の命、天の香久山の天の日影を手次に繋けて、天の真折をかづらにして、天の香久山の小竹葉を手草に結いて、天の岩屋戸にうけ伏せて・・・」とあるように天の岩戸に欠かせない場所である。さらに天の岩戸を開けた手力男(たぢからお)は、古事記に佐那那県に坐す。とあり、阿波古事記研究会によると、これは、この元山から東に山一つ越えた佐那河内の天岩戸別神社であるとしている。
天の岩戸に縁の深い場所が周りにあり、ここが天の岩戸神話の発祥の地であるというのが、阿波古事記研究会の主張である。
【立岩神社の御神体】
次に、本日のメインである悲願寺に向かう。
438号に戻って6km程西へ車を走らせる。この辺は神山町といういわくありげな町名がついている。いまから登る山が神の山なのであろうか、さらにこの辺一体の地名は神領という。神山町役場を過ぎるとすぐに「雨乞いの滝」という看板の方へ左折する。車一台が通るのがやっとの道幅の道を進むと石を積んだ石塁の上に作られた段々畑が見えてきた。2km程進むと、車が10台ほど止めることができる広場に着いた。広場には車が10台ほど止まっており、他の人も訪れているようだ。この広場より先は巨大な岩左右に配した関所のような場所が数多く現れる。石門といわれている巨岩である。
【巨石】
ここからは徒歩になる。車を降りて、急なのぼり道を20分ぐらい歩くと再び巨石が現れる。さらに登ると左側の川に幾つかの小さな滝があり、20分程度で「雨乞いの滝」に着く。
【巨石】
大きな滝で、途中で角度を変えて流れ落ちる様は非常に美しい。広場に車を止めていた人々は、この「雨乞いの滝」を見て引き返しているが、我々の目的はさらに先にある悲願寺である。
「雨乞いの滝」の手前に右にそれるわき道がある。この道は高い岩壁を右から回り込むように登るようになっており、これまでの道よりさらに急である。道の入り口には悲願寺という道しるべがあり、林道からでも行けると書いてあったが、悲願寺に至る道沿いの遺跡を見たかったので、我々はこの険しい道を選んだ。
【雨乞いの滝】
息を切らして岩壁を登りきると見晴らしの良いところに出た。対岸に人面に似た人面石が見えると言われているが、見つけることはできなかった。道はさらに奥に続いており、しばらく登ると右手に石塁が見える。見張り台ではないかと言われているものであろうか。残念ながらその上に登る場所はわからなかったので、登れなかったが、明らかに人の手で作られたものである。
【見張り台】
しばらく行くと広い杉林の中を進んで行くことになる。この杉林の下部は下草と土砂に覆われていてわかりにくいのだが、数多くの石垣があり、階段状となっている。この石垣も人が積んだ石塁であり、なぜこのような山奥に作る必要があったのだろうか、日当たりも悪く、段々畑であったとは考えにくい。
【石塁】
杉林を登りきると目の前に林道が横切っていた。確かにこの林道を使う方がはるかに楽に悲願寺に行けるようである。
この林道に沿って右に折れてしばらく登ると、道は左にカーブし、悲願寺に着いた。どうもこの林道は、後からつけた道で、この道がつく前は、杉林の道の続きで真っ直ぐ悲願寺に続く道を通っていたようである。しかし、疲労困憊の体ではとても登れそうにもない道である。
さて、悲願寺は、本堂と楼閣がある。まず、この楼閣が珍しい。古代神山研究会の看板によると、これは常夜塔で高根山中にあった古代燈台跡から明治にここに移されたと伝えられている。
堀川豊平氏の「邪馬壱国は阿波だった」によると、これは、卑弥呼が邪馬台国に張巡らせた通信基地の跡で、もとは焼山寺山の山頂にあり、当時一種の光通信が行われていたという説がある。魏から贈られた銅鏡はこれに用いられたというのだ、古代ロマンを感じる説である。
【悲願寺】
 
【燈台といわれる楼閣】

【悲願寺といいながら神社様式の本堂】
さらに、本堂の右手に祠がある。神社形式の祠に多いかぶせるように屋根を取り付けている。中の祠は見たことも無い様式で、非常に古い。ぞっとするような「凄み」のようなものを感じた。
古代神山研究会の看板によると、「高根悲願寺開其以前は、山神社で、巫女が神を祀っていたと古い伝承があり、今も境内に十二社神社(伊邪那岐、伊邪那美並に神代十二神)賢見皇神社(思金神)、山神社(大山津見神)、山殿合社(産土神と聖天神)、別祠に天照大神祠が祀られている。」とあり、神代十二神が祭神である。ここでいう十二神は、1.国之常立神(くにのとこたちのかみ) 、2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)、3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)、4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ) 、5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ) 、6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) 、7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ) 、という神代七代の12柱神を指すものと考えるが、この地で祈っていた巫女が天照大神であるとしたら、その祈りの対象がこれらの神々になるのは必然である。
魏志倭人伝には、「その国は、もと男子が王であった。ところが男王の治下、七、八十年以前のこと、倭国は大変に乱れて、国々は互いに攻撃し合って年が過ぎた。そこで、国々が協同して一人の女子を立てて王としたのである。彼女は名をヒミコ(卑弥呼)といい、鬼道に仕え、その霊力でうまく人心を眩惑している。歳はすでにかなりの年齢であるが夫を持たず、男弟がいて彼女の政治を助けている。彼女が王となってから後は、彼女を見た者は少なく、婢千人を侍らせている。ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、神託をうけるために彼女のもとに出入りする。彼女の居処の宮室は楼観(みはりやぐら)や城柵を厳しく設け、また常に兵器を持った人々がいて守衛している。」とある。
この悲願寺に至る道で、巨石でできた関所、見張り台、石垣などを見てくると、まさに難攻不落の城郭を形成しており、ここが卑弥呼の居城であると比定する説に納得してしまう。

さらに、悲願時の奥には、祭祀遺跡と言われる天遇岩や台石があるが、そこに続く道が良くわからない。また、これから今来た道を引き返さなければならないことを考えて、これ以上進むことを断念し、引き返した。
車に戻り、438号線を西に5km進み、北に折れて193号線を20km走り、徳島線の鉄道沿いに192号線を西に50km走り三加茂駅に着いた。
この駅前の三加茂町歴史民俗資料館に車を止めた。この隣の中庄八幡神社の列石を見るためである。道路沿いに神社に近づくと、1m程の高さの石板が奇麗に東西に並べられている光景に出会った。この列石は、387本あり、神社を取り囲んでいるという。その列石は、現在の歴史民俗資料館をも囲んでおり、昔は、この神社の境内が歴史民俗資料館を含んでいたと考えられる。一説には、この神社は建石神社とも呼ばれ、近くの金丸山から、この地に遷座したと伝えられている。ここでも山から平地への移動が伝えられている。
石板の列を神域と俗域を区別する境、つまり磐境であると見るのが最も自然の解釈と考えるが、このような磐境は、他に例を見ない。一方、この中庄八幡神社は、八幡神社なので、応神天皇・神功皇后・武内宿禰を祭神としているが、大巳貴(オオナムチ)命の石の御神体が存在するとの説もあり、謎の多い不思議な神社である。
【神社裏の東西の列石】

【神社と資料館の間の南北の列石】

【資料館横の南北の列石】

【中庄八幡神社】
日も落ちてきたので、今夜の宿である香川県美合温泉にあるビレッジ美合館に向かった。ビレッジ美合館は、438号線を北へ10km程のところにある。
温泉と食べきれないほどの料理を頂いて、明日に備えてゆっくりと眠った。

次の日、今日は、剣山へ向かうことになる。
剣山は、438号線をひたすら南に30kmほどいけば着くのだが、その道が車一台しか通れない道幅で、ところどころすれ違える場所があるだけという状態、しかも道が曲がりくねっていて先が見えないので、向こうから対向車が来ているのがわからないときている。
クラクションを鳴らしながら、毎回、曲がり角を賭けのような気持ちで、車を突っ込ませる。運転者は非常に疲れる道である。
実は、剣山へ登る前に、一箇所寄りたい所がある。天磐戸(あまのいわと)神社である。一宇という場所にあるということだが、地図には一切載っていない。この辺りであろうと見当をつけたところを過ぎても分からない。
道を引き返えす途中で、家の前で作業をされている人を見つけて、聞いてみることにした。もう少し下ると作業小屋があり、その裏に人が通れる小さな橋がある。ということである。そこから左の道と右の道があるという。その男性は、ちょっと考えて、左の道は近道だが、かなりきつい、右の道は遠回りになるということを教えてもらった。その口ぶりから、かなり大変そうである。
我々は、道を下り、天の岩戸と書かれた看板を見つけた。車を止めるところが無いので、もう少し下の下宮神社に止めて、ここに戻ってきた。
作業小屋の横に、剣山貞光一宇峡観光協会の案内看板によると「これより約2時間、法正地区の峰近く巨岩が割れて出来た洞穴が在る。入口は岩戸の趣があり、幅1m、奥行き約9m、その前に神楽石と呼ばれる約45平方の長方形の平磐が在る。これら奇岩の神秘さは古事記、日本書記に登場する天の岩戸神話ぴったりの舞台で、江戸時代の上期より、年に一度神楽歌と舞が奉納されていたという。神楽石の下方には、天鈿女神と猿田彦神の石像、そのまた下方には天照大御神と手力男神を祀る天の岩戸太神宮が鎮座している。」とあり、天の岩戸物語の舞台がここであるとしている。
作業小屋の下に川を渡れる橋があり、渡った先に、左に急な石段右に山道が続いている。
先ほどの看板にある2時間が本当ならば、とても本日のスケジュールに入れることができる寄り道ではないので、あきらめることにした。
【天の岩戸の案内看板】
橋の下には「古事記の中ノ瀬  「上ノ瀬ハ瀬速シ下ノ瀬ハ瀬弱し」とのりたまひてスズキたまふ時に成り坐せる神の名は、八十禍津日ノ神、大禍津日ノ神 天照大神(日御子)が禊した所」とあり、この橋の下が古事記で言う「中ノ瀬」であるということのようであるが、ここにも天照大神=日御子=卑弥呼という図式が描かれている。

帰り道、先ほどの看板の下に、古びた看板があった。汚れてよく見えないが「古事記の天の岩戸 天の岩戸は天手力男が造ったといわれ天井が四枚の板岩で上に千年の大木があり、近くに、大願成就坑磐 叢 千座の置戸 鬼の岩屋 天津磐境 不明の石グロ 五角井戸 天岩戸神社 等があり、六国史の天岩戸に関する全ての条件が揃っていて、日本一古くて立派な由緒あるお山です。汚さぬように致しましょう。  貞光忌部村 」と読める。
車を止めた下宮神社も忌部氏の神社であった。この辺りは、古くから祭祀を行ってきた阿波忌部氏の縁の地であるようであり、この天の岩戸も重要な地であることは間違いないようである。また、この看板にも「五角井戸」という文字があった。
【中の瀬】
我々は、また、山道を車でひたすら登った。途中のラ・フォーレつるぎ山という店で昼食をとって、見ノ越パーキングにやっと着いた。剣山は、登山リフトで1730mの西島駅まで登ることが出来る。そこから最短コースの尾根道コースをとって頂上まで登った。ゴールデンウィークということもあって登山する人は非常に多い。
登山道の終りに剱山本宮宝蔵石神社がある。小さな神社だが、ちゃんと神主さんも居る。登山者でごったがえしており、神社としてその賑わいもたいしたものである。
【剱山本宮宝蔵石神社】
参拝をして、その裏手にある3mほどの大きな磐座を見に行った。風化しているが丸い形をしている。宝剣が納められている宝蔵石と呼ばれている。
この剣山は、もともと石立山とよばれていたが、安徳天皇が源氏滅亡を祈願し宝剣を納めた後、剣山と呼ぶようになったと伝えられているが、そうであろうか、この山頂には鶴石(つるいし)、亀石(かめいし)という大岩があり、合わせれば「鶴亀(つるぎ)」となる。また、八倉比売神社にもつるぎ岩が祀られていた。「つるぎ」という言葉に神秘的な意味合いがあり、800年の前の安徳天皇にちなんでつけられたとはとても思えない。
不思議な歌詞で有名な「かごめうた」の「鶴と亀がすべった」の鶴と亀がこの剣山の鶴石と亀石のことであるとして謎を解こうとしている人たちもいる。この場合、「かごめ」は籠の目で六芒星(ヘキサグラム)を表しているとし、それは、イスラエルの国旗にあるダビデの星ということである。
イスラエルと言えば、昭和の始め、聖書研究家の高根正教は、この剣山にソロモンの財宝とモーゼの聖櫃(アーク)が埋蔵されているとして発掘調査をすると、大理石のアーチやレンガの回廊や100体のミイラを発見したと報告した。もちろんその真偽は明らかになっていない。
【宝蔵石】
我々は、1955mの山頂へ行って360度の絶景を存分に楽しんだ。
それにしても、この剣山の山頂の広大な平原はなんであろうか、そこに都市があっても不思議ではない。また、山頂から隣の山頂に道が尾根づたいに続いており、それが四方八方、見えなくなるまでつながっている。山頂の都市に古代人が住み、その都市と都市の間が連絡道でつながっているという光景がすんなりと浮かんでくる。
下山する途中の、宝蔵石神社の横に貼ってある祭りの様子を写した写真を見ていると、後ろから中年の女性に声をかけられた。手にはタオルの入った洗面器を持っている。おそらく、この神社かヒュッテに住んでいる人で、リフトで下山して風呂に入ってきたのであろう。彼女が言うには、明日(5月の3日)は、麓のフジノミヤ神社(富士の池の剣山本宮のことか)から御霊(みたま)が登ってきて、7月17日には、御輿が登ってきて、11月に御霊が下山するという。
その御霊とは何ですか、形のあるものですかと訊ねると、形は無いという答えであった。
御輿が登ってくる7月17日は、この剣山が非常に賑わうという。御輿をこの山頂まで上げるのは大変な労力であることが想像できる。この祭りの様子は、ソロモンの秘宝である聖櫃(アーク)をこの剣山山頂に埋めたことを伝えているのではないかと言われている。聖櫃とは契約の箱でモーゼが神から授かった十戒が書かれた2枚の石板、アロンの杖、マナの壺が収められた箱で、箱の上には純金でできた1対のケルビムが飾られ、箱は2本の棒で担がれて移動したと旧約聖書に描かれているが、これが日本の御輿にぴったりと合致する。また、この祭りが行われる7月17日は、ノアの箱舟がアララト山の山頂にたどり着いた記念の日なのだ。京都の祇園祭の日でもある。祇園(ギオン)祭りはイスラエルのシオン祭りに非常に似た響きである。
【剣山 山頂】


下山は、大剱コースをとった。300m程下ったところで、目の前に巨大な岩が見えてきた。御塔石(おとうせき)と呼ばれる大劒神社のご神体である。目の前に急に岩が現れたとき、不思議な感覚を覚えた。それはその巨大さからくるものでは無く、怖いという感情に似たようなものである。私は、この磐座こそが、この剣山を司る磐座であることを直感した。
大劒神社の御祭神は、安徳天皇、素盞鳴命(すさのおのみこと)、大山祗命(おおやまずみのみこと)です。大山祗は山の神として当然として、スサノオを祭神としているのは、この磐座の荒々しい迫力からだと感じた。
【亀石、鶴石】

【大劒神社と御塔石】
我々は登山リフトで降りて、車に乗った。剣山を降りる道は、登ってきた道を引き返さずに、438号をさらに進んで下山する。また、先の見えないカーブをブレーキを踏みながら、クリヤーしていく、なかなか平地にならない。途中で左折し、439号に入り、美馬市へ向かう。剣山の見ノ越から45km走ったところで、目的の地の美馬市穴吹町口山に着いた。本旅の最後の探索地は、「磐境神明(いわさかしんめい)神社」である。

神明神社をさがしてこの辺だと検討をつけたところに神社があったので車を止めたが、その神社は「白人神社」と書いてある。鳥居のところに中学生がいたので訊ねると、「こっちがしらひと神社、神明神社はあっち」と小高い丘を指差した。確かにそちらに鳥居が見える。この白人神社も奇妙な名前である。美馬市のホームページでは1600年頃に稲田修理亮によって再興されたとあるが、もともとの縁起がわからない。崇徳上皇を訪ねて来た源為朝の弓がこの神社に落ちたとの逸話があるので、源氏の白とも考えられるが、白を「しら」と読むところは、新羅(朝鮮)に縁のある神社とも考えられる。しかし、ここは、隣の神明神社のことを考えると、ストレートに白い人=ユダヤ人と考えてみたい。
【白人神社】

【白人神社の裏の石組】
中学生は階段がきついよと親切に注意してくれた。
非常にきつい階段を100メートルほど登ると広場に出た。これが丘の頂上のようであるが、社殿は見えない。右手に石積みがある。これがどうも神明神社のようである。
石積みは、整形されていない平たい20センチメートル程の石を無造作に積み上げたもので、東西方向に20メートル、南北に7メートルの長方形で、高さは1.2メートル程である。
南側に3箇所の入口が開いている。その奥に祠が5箇所設置されている。
イスラエルの元駐日大使であるエリ・エリアフ・コーヘン氏がこの神明神社を訪れ、「自然の石を積み上げた祭壇は、ユダヤ教の神殿とこの神社以外では見られない」といって石積みとユダヤ教の神殿との関連性を指摘した。コーヘン氏は剣山にも何度も登っているという。
この祭壇からぺトログラフが見つかっているというが、既に日没が迫っており、探すことはできなかった。
この広場に穴吹地町の看板があった。「古代この地に忌部が住みつき梶山に楮植え、その皮で白妙を織った。その白妙を献するために梶山から尾根伝いに神明宮へと運んだ。この道をしらたえの道という」と書かれてある。
忌部氏を中心とした山の民の暮らしと信仰の様子が目に浮かぶ。
【神明神社に向かう急階段】

【神明神社】

【神明神社】
これで今回は訪れることが出来なかったが、剣山の高知よりの麓には、イエス・キリストを想像させる栗枝渡(くりしと)八幡神社もある。
この神社にも数々の不思議があり、いつかは、訪れてみたいと思っている。
これで、我々の今回の徳島探索の旅は終りとなる。
それにしても、徳島=四国は不思議な土地であった。
剣山に隠されたアーク、ノアの箱舟がたどり着いた日に剣山に担ぎ上げられる御輿、イスラエル様式の磐境神明神社など、ユダヤとの関係を示唆する数々の事象。日ユ同祖論でいう失われた十支族が放浪の末、たどり着いた所がこの剣山なのではないかと考えてしまう。
また、日ユ同祖論で考えれば、その十支族が天皇家につながることになる。今でも、天皇即位の大嘗祭(だいじょうさい)に使われる神聖な神衣の「麁服(あらたえ)」は、剣山系の木屋平村の三木家で作られる。なぜ、こんな山奥から大事な神衣を調達しているのか、天皇家がこの地の出身だと考えると納得がいく、したがって天皇家の祖先の歴史である古事記にまつわる場所が徳島に多くあるのも当然となる。古事記に現る神々を祀った神社が数多くあり、卑弥呼=天照大神が常夜灯を用いて四国を治めた居城や卑弥呼の墓など、その傍証は数多く存在する。
しかし、私が一番、驚いたのは、この徳島の山上の村々とそれを結ぶ山道の存在である。昔は、山上に人々が住んでおり、そこから平地に降りてきたと言われているのだ。これはまさに、高天原の天照大神が邇邇芸命を天孫降臨させ、葦原中国を治めさせたという古事記の記述にピッタリである。
古事記を歴史と捉えるならば、高天原が海外であるとか島であるとかと考えるよりも山の上した方が現実的である。

我々は、帰路に着いた。
【剣山山頂】
(Photograph 2010.5.1、2)

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