山之辺の道-2

 Report 2011.10.1 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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【桧原神社から二上山を望む】
前回は、天理から桧原神社までの山之辺の道を探索したが、今回は、大神神社から桧原神社までの山之辺の道を探索した。(前回のレポートはレポート山之辺の道1
まずは、大神神社(オオミワジンジャ)におまいりをしてから出発する。何度も訪れている大神神社であるが、毎回、たくさんの参拝者にびっくりする。特にこの日は、1日で月次祭が行われており、参道に出店が建ち並び、賑わっていた。(これまでの大神神社のレポートはレポート大神神社
【参拝の人で賑わう大神神社】 (Photograph 2011.10.1)
300mほど北へ歩くと、狭井神社に(サイジンジャ)着く。この神社の薬井戸のご神水が万病に効くということで有名な神社である。大神荒御魂大神(オオミワノアラミタマノオオカミ)を御祀りしていて、この神社からのみ神域である三輪山へ登ることができる重要な神社である。(三輪山の登拝レポートはレポーート大神神社の磐座)
【狭井神社】
(Photograph 2011.10.1)
山沿いの道を100mほど北へ歩くと、月山記念館がある。3月から11月までの土曜日のみしか開館していないが、刀匠月山の名刀が拝見できる。非常に美しい波紋に感銘すること間違いない。丁寧に説明もしてくれる。

さらに山沿いの道を200mほど北へ歩くと、八大[雨かんむりに龍の字]王 [雨かんむりに龍の字]神神社と書かれた朱鳥居がある。[雨かんむりに龍の字]は、オカミと読む。鳥居をくぐると参道は池を囲むように続いている。2つの池の真中に神社というより、お祓い所というような建物がある。水子供養などを行っているらしい。
ここを訪れて、背筋に、冷たい感覚が走ったのであるが、その原因は、池の異様な静けさであった。波一つなく、鏡のようになった湖面に山の緑が映りこみ、池のほとりに朱鳥居が立っている光景は、美しく、冷たく、まさに神秘的である。
人を寄せ付けない池の対岸にある朱鳥居が御祭神をお祀りしていると考えるが、オカミ神とは、以下のように神産み神話に出でくる古い神である。

伊邪那岐(イザナギ)神と伊邪那美(イザナミ)神、が国産みの後、神産みを行った時、伊邪那美神は火の神である迦具土(カグツチ)神を産んだ後、死んでしまう。
『ここに、伊邪那岐の命、御佩はかせる十拳釼(トツカノツルギ)を抜きて、その子迦具土の神の頸を斬りたまひき、しかして、その御刀の前に著ける血、ゆつ石村に走り就きて成りませる神の名は、石折(イハサク)の神。次に根折(ネサク)の神。次に石筒之男(イハツツノオ)の神。次に、御刀の本に著ける血も、ゆつ石村に走り就きて成りませる神の名は、甕速日(ミカハヤヒ)の神。次に樋速日(ヒハヤヒ)の神。次に建御雷之(タケミカヅチノオ)神。亦の名は建布都(タケフツ)の神。亦の名は豊布都(トヨフツ)の神。次に、御刀の手上に集れる血、手俣より漏きい出でて成りませる神の名は、闇淤加美(クラエカミ)の神。次に、闇御津羽(クラミツハ)の神。上の件の石折の神より下、闇御津羽の神より前、あわせて八はしらの神は、御刀によりて生れませる神ぞ。---(古事記より)---』
この古事記の神産みに出てくる闇淤加美神と、日本書紀で同じく迦具土神から出てくる高[雨かんむりに龍の字]神を合わせた総称が、オカミ神であるとされている。タカオカミ神は京都の貴船神社の祭神であり、この近くにも大神神社末社で淤加美神を祀る貴船神社という小さな祠がある。
[雨かんむりに龍の字]は龍の古語で、水や雨を司る龍神である。そのあたりから。法華経に登場し、仏法を守護する八大龍王に結びついたと考えられる。この八大龍王はインドの蛇神ナーガラージャを仏教に取り入れたものと言われている。
私は、蛇をトーテムとする龍蛇族が国津神であると考えており、龍蛇族の本拠地とも言うべき大神神社のそばに、淤加美神が祀られているの非常には興味深い。
特に、この池を見ていると、龍が棲んでいても不思議ではない。
【鏡のような湖面】
(Photograph 2011.10.1)
ここから西へ向かって玄賓庵を経由するルートが桧原神社(ヒバラジンジャ)への近道であるが、東に400m行くと、村の中に富士神社と神御前神社(カミノゴゼンジンジャ)がある。ここを最初に訪れた時は、村の人に聞いてもどこにあるのか全くわからなかったほど小さく、あまり知られていない神社なのだが、とても重要な神社である。
大神神社末社の富士神社は、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)命を御祭神とし、富士山参拝にこの神社前の砂を持参する風習があったという。また、市杵島姫(イチキシマヒメ)命を御祭神とする厳島神社も併設されている。
【富士神社と厳島神社】
(Photograph 2011.3.19)
重要なのは、この向かいにある大神神社摂社の神御前神社(カミノゴゼンジンジャ)の方である。
御由諸には以下のように書いてある。
『御祭神 倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト) 御祭神は、第7代孝霊天皇の皇女であらせられて第十代崇神天皇の御代、三輪大神の神妃として、大神の神意を伺い天皇を輔けて、世に謂う三輪王朝、大和国家成立に尽力せられました。毎年元旦執り行われる本社の繞道祭(御神火祭)にあたり現行十八社めぐりの一つにあるは勿論、古く八社めぐりの頃はその終着の社として納幣の儀が執り行われた。皇室国家の守護神であり、三輪神婚説話では箸墓に鎮まる女神として広く知られ、また邪馬台国、大和説では女王卑弥呼として語られている。明治十年摂社制の第一次に於いて国より指定の摂社となり、家庭円満、諸願成就等の信仰が篤い社である。』
小さな祠ではあるが、掃除がいきとどき、大事に祀られていることがわかる。

【神御前神社】  (Photograph 2011.3.19)
この御由緒に関して、日本書紀に、三輪山の神についての物語がある。『倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)は大物主(オオモノヌシ)の神の妻となった。しかし、大物主が夜しか通ってこないので朝に姿を見せてほしいと頼んだ。大物主はこの願いを受け入れ、明日の朝に櫛箱の中に入っているが驚かぬようにといった。姫が不審に思いながらも次の朝、櫛箱を開けてみると、その中に美しい蛇がいた。姫はびっくりして泣き出した。大物主は、私に恥をかかせたのでお前も恥をかくだろうと言って、空を飛んで三輪の山に帰っていった。姫は大いに後悔し、急にしゃがみこんだ。その時に姫は、箸で陰処を突いて絶命してしまった。その亡骸は大市に葬った。そこで世の人が、その墓を名づけて箸の墓と言った。この墓は、昼は人がつくり、夜は神がつくった。その墓づくりのために、大阪の山の石を運んだが、山から墓に至る間を、人民が次から次へと、手渡しにして石を運んだ。』と言う話である。
【神御前神社】
(Photograph 2011.3.19)
600m程北に歩くと、その箸墓が見える。

箸墓は、弥生時代の墳墓が急激に巨大化した前方後円墳であり、この後作られる古墳のヒナ形となった重要な古墳である。この箸墓がいかに多くの人手をかけて造られたか、神の手を借りなければ不可能なほど大変な作業であったかが、日本書紀に残されているのである。
大物主つまり三輪大神の妻であり、この箸墓に葬られている姫とは何者なのだろうか?
年代測定が2009年に見直され、この箸墓が250年頃に造られていることとなり、『魏志倭人伝』にある卑弥呼の没年と一致すること。後円部の直径が卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致すること、近くに三角縁神獣鏡が多量に出土した黒塚があること、2009年に500m北の巻向遺跡から当時最大の巨大な宮殿跡が見つかったこと、などからこのヤマトトトヒモモソ姫が卑弥呼ではないかと言われている。
確かに、この時代に登場する歴史上有名な女性は、卑弥呼であり、鬼道で人を惑わすという表現と、大神の妻という巫女につながるヤマトトトヒモモソ姫の姿は一致する。
この不思議な名前、ヤマトトトヒモモソヒメノミコトは、日本書紀では、倭迹迹日百襲姫命、古事記では孝霊天皇の皇女として登場し、夜麻登登母母曾毘売命と表記されている。古事記では「ト」と「ヒ」が少ない。「ヤマト」は出身地を表し、「ヒメ」は女性、「ミコト」は尊称を表すので、問題は「トトヒモモソ」であるが、「トトヒ」は形容詞で「モモソ」が名前と考えるのが自然ではないかと思う。「百襲」の「ソ」は確実として、「百」は「ホ」とも読むことがあるので、「ホソ」と考えると、陰処(ホゾ)を突いて死んだ姫の逸話に一致する。一方、「トトヒ」は鳥飛びという神祀りに仕える巫女の意であるとする説が通説である。そうであるなら、この女神が鳥で形容されていることになり、鳥をトーテムとする天孫系の神ではないかという思いが湧いてくる。とても興味深い。天孫族の主神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)と、このヤマトトトヒモモソ姫とを同一視する考えにも納得してしまう。

歴史上、非常に重要な女神が、以外にもひっそりと小さな祠に祀られている。
【箸墓 -倭迹迹日百襲姫大市墓-】  (Photograph 2011.3.19)
東に向いて登り道を500mほど歩くと桧原神社(ヒバラジンジャ)に着く。

御由諸には以下のように書いてある。
『大神神社の摂社「桧原神社」は、天照大御神を、末社の「豊鍬入姫宮」は崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命をお祀りしています。
第十代崇神天皇の御代まで、皇祖である天照大御神は、宮中にて「同床共殿」でお祀りされていました。同天皇の六年初めて皇女、豊鍬入姫命(初代の斎王)に託され宮中を離れ、この「倭笠縫邑(ヤマトカサヌイムラ)」に「磯城神籬(シキヒモロギ)」を立ててお祀りされました。その神蹟は実にこの桧原の地であり、大御神の伊勢御遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、桧原神社として御大神を引続きお祀りしてきました。そのことより、この地を今に「元伊勢」と呼んでいます。
桧原神社はまた日原神社とも称し、古来社頭の規模などは本社である大神神社に同じく、三ツ鳥居を有していることが室町時代以来の古図に明らかであります。
萬葉集には「三輪の桧原」とうたわれ山之辺の道の歌枕となり、西につづく桧原台地は大和国中を一望できる景勝の地であり、麓の茅原・芝には「笠縫」の古称が残っています。
また「茅原(チハラ)」は、日本書紀崇神天皇七年条の「神浅茅原(カムアサヂハラ)」の地とされています。更に西方の箸中には、豊鍬入姫命の御陵と伝える「ホノケ山古墳(内行花文鏡出土・社蔵)」があります。   大神神社』

天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、現在の伊勢神宮に祀られるまでに、各地を転々と彷徨っており、その最初の地がこの桧原神社である。なぜ天照大御神がこの大和を出なければならなかったのかについては、またの機会に考えてみたい。
【桧原神社 左は豊鍬入姫宮】  (Photograph 2011.10.1)
この桧原神社の魅力の一つは、珍しい三ツ鳥居を目の前に見ることができることであろう。三ツ鳥居は大神神社のシンボルではあるが、現在は、この大神神社の三ツ鳥居は見ることができなくなっている。大神神社に祈祷殿が新築(1997年)されるまでは、大神神社で御祈祷を受ける際に、拝殿に上って奥の三ツ鳥居を見ることができたのだが、現在は、ご祈祷が祈祷殿で行われるので見ることができなくなっている。
また、撮影スポットとしても有名である。桧原神社の境内から鳥居を覗く方向に、二上山が見え、その向こうに夕日が沈むらしい。この日も数人の老人が大きなカメラを設置して夕日が落ちるのを待っていた。
【三ツ鳥居】  (Photograph 2011.10.1)
山之辺の道の探索は、今日は、ここまでとして、道を引き返した。
帰りは、玄賓庵を経由するルートを通ったが、オカミ神社まであっという間であった。
少し疲れたので、花もりという喫茶店で休むことにした。庭のテラスでわらびもちを食べたのだが、大豆をその場できな粉にしてかけてもらい、とってもおいしく頂いた。マスターは、昔、兵庫県のレストランで働いていたそうで、しばらくの間、楽しく談話させてもらった。山之辺の道のお休み処として、お勧めである。

その後、狭井神社の前の道を西に折れて、久延彦神社(クエビコジンジャ)にお参りした。
御由諸には以下のように書いてある。
『御祭神の久延比古命』は古事記に、どこへも足を運ばなくても世の中の事を全て知っている神様で知恵がたいそう優れておられると記されています。それゆえに、知恵・学問の神様として信仰を集め、学力向上・各種試験の合格ほお守りくださり、今日では就職成就はもとより仕事面においても知識・智力の向上・発展に大きな御力を授けてくださります。』

古事記には、次のように登場する。
『かれ、大国主の神、出雲の御大の御前に坐す時に、波の穂より天の羅摩の船に乗りて、鵝の皮を内剥ぎに剥ぎて衣服にして、帰り来る神あり。しかして、その名を問ひたまへども答えず。また、従へるもろもろの神に問ひたまへども、みな「知らず」と白しき。しかして、たにぐくの白言いししく、「こは、久延比古(クエビコ)ぞ必ず知りてあらむ」とまをししかば、久延毘古を召して問ひたまふ時に、答へ白ししく、「こは、神産巣日(カミムスヒ)の神の御子、少名比古那の神ぞ」かれしかして、神産巣日の御祖の命に白し上げたまひしかば、答へ告らししく、「こは、まことにあが子ぞ。子の中にあが手俣よりくきし子ぞ。かれ、いまし葦原の色許男(シコオ)の命と兄弟となりて、その国を作り堅めよ」かれ、それより大穴牟遅(オオナムチ)と少名比古那(スクナヒコナ)と、二柱の神相並びて、この国を作り堅めたまひき。しかる後は、その少名比古那の神は、常世の国に渡りましき。かれ、その少名比古那の神を顕はし白ししいはゆる久延比古は、今者に山田の曾冨騰(ソボド)といふ。この神は、足は行かねども、ことごと天の下の事を知れる神ぞ。』

大国主(オオクニヌシ)と少名比古那(スクナヒコナ)が協力して国づくりをする話である。大国主と少名比古那は、各種の伝承で、コンビで扱われ、大と小、力と知恵、というような対比で描かれている。力強いヒーローである大国主の傍に、小さくて優れた知恵を持った少名比古那がいるというのは、まさに絵になる構図である。私が古事記・日本書紀の物語の中で最も好きな場面である。

ここで、久延比古(クエビコ)は、誰も知らない少名比古那(スクナヒコナ)の名前を知っていた人物として登場する。古事記では、少名比古那が去った後、海から渡ってきた御諸神(ミモロノカミ)を大和の東の山に祀って国づくりを行ったと続くので、三輪の地に久延比古命が祀られているのは当然のように思える。

ちなみに山田の曾冨騰とは案山子(かかし)のことで、クエビコが歩行できなかったことを表しているらしい。一説ではクエビコが「崩え彦」であり、崩れた身体を表しているのではないかとも言われている。
【久延彦神社】
(Photograph 2011.10.1)
最後に、大直禰子神社(オオタタネコジンジャ)に、お参りした。
御由諸には以下のように書いてある。
『御祭神の大直禰子命は大物主大神のご子孫です。
第十代崇神天皇の御代に疫病が大流行し、国難がおこった時、天皇の御夢にあらわれた大物主大神の神託によって、茅渟県陶邑(現在の堺市)に大直禰子命を見出され、大神を祀る神主にされると疫病は治まり國が平和に栄えたとされます。
また御祭神が大物主大神のご子孫であることから若宮社とも呼ばれ、春の大神祭では若宮の御分霊が神輿に遷され、三輪の町を巡幸されます。
神仏習合の時代は、大神寺(オオミワジ)、後に大御輪寺(ダイゴリンジ)として、永らく大直禰子命の御神像と十一面観音像(国宝・現在は市内の聖林寺に奉安)があわせ祀られてきました。本殿には奈良時代の大神寺創建当初の部材が残っており、貴重な神宮寺の遺構として国の重要文化財に指定されています。』

オオタタネコとは何者か、古事記では河内の美努村(ミヌノムラ)、日本書紀では和泉の陶邑(スエノムラ)の出身とされており、いずれも渡来系の陶器製作地である。おそらく陶人(スエビト)と呼ばれた一族ではないかと思う。そして大物主の神が陶津耳命(スエツミミノミコト)の娘の活玉依毘売(イクタマヨリビメ)に生ませた櫛御方命(クシミナガタノミコト)の子供の飯肩巣見命(イヒガタスミノミコト)のさらに子供の建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子供が意冨多々泥古(オオタタネコ)とされている。

古事記には、オオタタネコに関係して次のような話がある。
『この、意冨多々泥古といふ人を、神の子と知るゆゑは、上にいへる活玉依比売(イクタマヨリビメ)、その容姿端正しくありき。ここに、杜夫あり。その形姿威儀、時に比ひなし。夜半の時に、たちまち到来る。かれ、相感でで共婚ひして、供住める間、いまだいくたもあらねば、その美人妊身みむ。しかして、父母その妊身める事を恠しびて、その女に問ひて日ひしく、「麗美しき杜夫あり、その姓名も知らず。夕ごとに到来りて供住める間におのづからに懐妊みぬ」ここをもちて、その父母その人をしらむとおもひて、その女に誨へて日しく、「赤土もちて床の前に散らし、へその紡麻もちて針に貫き、その衣の襴に刺せ」
かれ、教へのごとくして、旦時に見れば、針著けたる麻は、戸の鉤穴より控き通りて出でて、ただ遺れる麻は三勾のみなりき。しかしてすなはち、鉤穴より井でし状を知りて、糸のまにまに尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。かれ、それ神の子とは知りぬ。かれ、その麻の三勾遺りしによりて、そこを名けて、美和といふ。』
これは、日本書紀のヤマトトトヒモモソ姫の話と同じ形をしている。また、古事記では、いきなり陶邑にオオタタネコを見出して、大物主を祭らせており、いかにもとってつけたような話である。これらのことから、本来、ヤマトトトヒモモソ姫の逸話であったものをイクタマヨリ姫にすり替えて、オオタタネコを三輪の大神の話に登場させたのではないかと思える。
【大直禰子神社 若宮社】  (Photograph 2011.10.1)
大直禰子神社を南に折れると出発地点の大神神社の二の鳥居に出る。

山之辺の道は、何度訪れても、魅力的である。いつのまにか、古代に思いを馳せている自分に気がつく。
【大美和の杜から大神神社の一の鳥居を望む】
(Photograph 2011.10.1)
2011年10月1日  「山之辺の道-2」 レポート 平津豊