Share (facebook)

トップ画面へ戻る
調査報告へ戻る
post to my website in 2022.4.24  平津 豊  Hiratsu Yutaka

尾道向島の岩屋巨石

本論文・レポートのリンクおよびシェアは自由です。画像や文章を抜き出して引用する場合は出典を必ず明記してください。まとめサイト等への掲載や転載は禁止します。


はじめに

尾道市の千光寺、西國寺、浄土寺が岩屋山を向いて建てられているという説が2000年に、尾道の彫刻家児玉康兵氏によって発表され、尾道市大学の稲田全示教授らによって詳しく調査された。 〉尾道の巨石群
尾道を代表する3つの寺院が全て一つの山を向いて建てられているのは異例である。
本報では、その岩屋山に何があるのかを確認し、岩屋山に向けて寺院を建設した理由を推測する。

筆者は、2014年6月に、篠澤邦彦氏が企画されたツアーで、尾道の巨石を案内していただいた。
その後、2014年10月と2017年9月に訪れた。特に2017年は、稲田全示氏と面会し、巨石談義を行って楽しい時間を過ごさせていただいた。
稲田全示氏は尾道市大学の教授で、学生達とともに尾道の巨石群をくまなく調査し、その結果を『隠された神話』という書籍で発表されている。

なお、この岩屋山の岩屋巨石は、商工会がパワースポットとして観光化すべく宣伝していたが、2020年6月の大雨で登山道が崩れ、草木の生えていない巨石群一帯がさらに崩れる懸念があることから、7月に立ち入り禁止とし、今後の観光活用を断念することにした。

岩屋山の大元神社

この向島の岩屋山には、宗教法人天道五常会が1964年に建てた大元神社がある。
神社のご由緒によると、御祭神は天照大御神、伊邪那岐命、伊邪那美命、天常立尊、国常立尊の五柱の神々の合体としての大元大御神(おおもとおおみかみ)。
開祖の普明光(岸本和一郎氏)は、53歳の時に奇病にかかったが、四国八十八ヶ所の巡礼中に五十八番仙遊寺にて、病気が完治して救われた。これをきっかけに全身全霊を捧げた修行を行っていた1964年5月3日の朝、突如轟音とともに山が揺れ五色の光体が出現して、山上の大きな岩に消えて行くという奇現象が起こり「大元大御神今ここに降臨。ここに宮を建てよ。」との御神命がくだされた。この降臨が天孫降臨に次ぐ重大事だととして「第二の高千穂」と称されている。
神と仏を祀っており両部神道の流れを汲む神社と考えられる。

この神社の神域とされている場所は、円形に並んだ岩の中央がくぼんでいて、灰皿のような独特の形になっている。丸いものがすっぽりはまるので、まるでUFOの着陸場のようである。岩石が加工されているのではないかと考えられる。


◆写真 【広島県尾道市向東町大元神社 】 Photograph 2014.6.7


◆写真 【広島県尾道市向東町大元神社の神域 】 Photograph 2014.6.7



◆図 【向島の岩屋山】 カシミール3Dで作成

岩屋巨石

岩屋山には岩屋巨石という場所がある。
この巨石については、尾道市大学の稲田教授らが調査され、人工の造形物であることを発表している。


◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石 】 Photograph 2014.6.7

この岩組は岩屋を形作っており、内部には岩屋薬師如来が祀られている。
岩屋の内部の壁には、磨崖仏や梵字が彫られているが、これは当然ながら6世紀半ばの仏教伝来以後のことである。
ここで注目すべきは、岩組の左側の岩と上部の岩に線刻が彫られていることである。この線刻は、岩屋が造られた時代に彫られたものではないだろうか。
線刻の意味については不明であるが、その深さに注目してもらいたい。
仏教伝来以降に彫られた磨崖仏の彫りの浅さに比べて非常に深く彫られている。
岩石の風化速度から推測すると、岩屋の外部に彫られた磨崖仏は、数百年後には消えてしまうが、この線刻は数千年後でも残存しているはずである。逆に、この線刻が彫られた時代が数千年前であったとしても矛盾は無い。


◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の線刻 】 Photograph 2014.6.7



◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の線刻 カミナリを描いたという説有り】 Photograph 2014.6.7



◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の線刻 】 Photograph 2014.6.7


次にこの岩屋の岩組みを観察することで、この岩組みが人工物であることが証明できる。
岩屋の左下の岩と上部の岩の接触部は曲線であるのに綺麗に一致している。これは加工されている証拠である。


◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の東側 】 Photograph 2014.6.7

岩屋の天井部の岩は凹状に加工されている。一方、岩屋を支える左の岩は凸部となっており、この凹凸がピッタリとはまりそうである。それなのに、本来、2つの岩が収まるべき位置から数十センチずれている。
また、南側からこの岩屋の様子を観察すると、岩屋を支える左の岩が一つの岩を2つに割った後、1.5メートルほどずらして造られていることがわかる。
わざとずらして造られているのである。
一説には、天の岩戸伝説になぞらえて、岩屋の扉が開いている状態を表現しているのではないかと言われているが、このような造作を行った理由は不明である。


◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の左側の岩のずれている部分(矢印)】 Photograph 2014.6.7



◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の南側 岩を2つに割った後、写真右の岩を手前に引き出している 】 Photograph 2014.6.7



◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の南西側 】 Photograph 2014.6.7



◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の上部 】 Photograph 2014.6.7


この岩屋の開口部は、東南東(120°)の方角を向いているため、冬至の朝には、岩屋の奥に朝日が差し込む。
さらに岩屋の北側には、同じく冬至の日に天体ショーが現れる仕組みが用意されている。

岩屋の北側には、V字に割られた岩があり大きな不動明王が彫られている。この磨崖仏は、もちろん仏教が伝来した後の仕業である。
岩のV字の方位は西南西(240°)であり、冬至の日の入りの方位にピタリと重なる。
つまり冬至の日に北東側に立てば、このV字の隙間に日が沈むことになる。また、当然ながら、夏至の日に南西側に立てば夏至の朝日が昇る。
冬至の日の出に向いた岩屋開口部、冬至の日の入り(夏至の日の出)に割れた岩と、一つの岩組みに2つの太陽軌道の特異点(ニ至ニ分)が存在しているのは偶然ではなく、この岩屋構造全体が太陽の特異点を意識して造られたものであることを示している。
また、これらの割られた岩に矢穴の跡は無い。矢穴は築城時代に用いられた技術であり、古代にはそれとは別の技術が用いられていたと推測できる。



◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の北側のV字部 北東から 】 Photograph 2014.6.7



◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋巨石の北側のV字部 南西から】 Photograph 2014.6.7



◆図 【向島の岩屋山説明図】 平津豊作図

※この岩屋巨石一帯は、2020年7月末より立ち入り禁止となっている。

岩屋山と尾道三山の関係

尾道の3寺院が岩屋山を向いて建てられている事を発見した児玉康兵氏は、風水都市研究家の黄永融氏と出会い、尾道が平安京と同じように陰陽思想に基づいて設計されたという考えに傾倒していった。
具体的には、浄土寺を青龍、西國寺を玄武、千光寺を白虎、岩屋山を朱雀に見立て、尾道の中心にある持倉家の五輪塔を龍穴とした四神相応思想である。しかし、それでは遡ったとしても四神相応思想が日本に伝わった5~6世紀までである。

岩屋巨石は、その建造に関する記録が何も残っていないことから、浄土寺、西國寺、千光寺の寺院が建てられる以前から存在した岩石遺構と考えられる。重要なのは寺院ではなくその場所である。
尾道市大学の稲田全示教授らの調査によると、西國寺の西國寺山の頂上のタンク岩の割れ目が冬至の日の入り方向に向いていること、浄土寺山の不動岩の右面が冬至の日の入り方向を向いていること、千光寺の御船岩のスリットに冬至の日の出が入ることなどが発見されている。 〉尾道の巨石群
また、尾道の浄土寺、西國寺、千光寺の位置と岩屋山の関係は、岩屋山を基点として北を0°とする360°で表現すると、浄土寺と岩屋山を結ぶ線は2°、西國寺と岩屋山を結ぶ線は330°、千光寺と岩屋山を結ぶ線は300°と約30度の間隔を作っている。そのため、浄土寺から岩屋山を望む方向に見える太陽が最も高い太陽であり、千光寺から岩屋山を望む方向から朝日が昇ると冬至の日であることを示す。
さらに、岩屋巨石の岩屋には冬至の朝日が差し込み、V字に割られた岩に冬至の夕日が沈む。
これらの事実から、著者は、縄文時代に太陽を観察する天文観測施設が尾道に存在したのではないかと考える。
つまり、縄文時代に、太陽軌道の特異点(二至二分)を観測する天体観測装置が岩屋山を中心として尾道全体に造られたが、時が経つにつれて忘れられ重要な場所であるという記憶だけが残った。それが聖山信仰へと変化していき、そこに仏教が寺院を建てて上書きしたのではないかと推測する。

千光寺の本尊が千手観音、浄土寺の本尊が十一面観音、西國寺の本尊が観音菩薩、と全て観音菩薩であることもその傍証となっている。(尾道市大学の稲田全示教授によると、西國寺のご本尊は薬師瑠璃光如来とされていたが、近年、観音菩薩像であることが判明したという)
尾道に天文観測施設の岩石遺構が存在していたが、仏教がこの尾道に入ってきた時、「観音は突き出た岩の上におられる」という経文にしたがって、その岩石遺構の上に観音像を置いたのが、浄土寺、西國寺、千光寺の始まりであり、後に堂宇が建てられたのではないかと考える。
したがって、陰陽思想や四神相応思想は後付であり、浄土寺山、西國寺山、千光寺山、岩屋山の岩石遺構に対しての畏敬に基づいて寺院が建てられたものと推測する。

この尾道には、古代の叡智を結集した巨大な天文観測施設が造られていたのではないだろうか。



◆図 【尾道三寺院と岩屋山の関係】カシミール3Dで作成

※この岩屋巨石一帯は、2020年7月末より立ち入り禁止となっている。

岩屋山の陽石

岩屋巨石の直ぐ近くに奇怪な岩石がある。穴が多く開いている。この岩石だけこのように穴が開いているのは不思議である。
その穴の中で灯を燈していた形跡があり、この岩も人の手が加えられているのかもしれない。

◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋山の奇怪な岩】 Photograph 2014.6.7

岩屋巨石の中腹に巨大な陽石がある。
陽石とは、男根を模った岩石のことである。首の部分は、2つの石を合わせたものではなく、一つの石を彫りこんで造形している。また、陽石の先端部にも造形の跡がある。
陽石は立っていることが多いが、この陽石は斜面に沿って北向きに置かれている。
その陽石が向く先に穴が造られているため、この穴は陰石なのも知れない。そうであれば女陰に向っている男根を表しており、性に対してタブーのなかった古代人が豊穣と繁栄を願って造った可能性がある。


◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋山の陽石】 Photograph 2014.6.7



◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋山の陽石の先端部】 Photograph 2014.6.7


◆写真 【広島県尾道市向東町岩屋山 岩屋山の陰石か?】 Photograph 2014.6.7


向島と尾道の流水線刻

2017年に、稲田全示氏に興味深い岩石を案内してもらった。

一つは、向島の寺内荒神社の岩石に彫られた線刻である。
石組みも意味がありそうな形をしているが、この岩の表面に線刻が彫られている。


◆写真 【広島県尾道市向東町 寺内荒神社の線刻のある岩石】 Photograph 2017.9.1


◆写真 【広島県尾道市向東町 寺内荒神社の線刻のある岩石】 Photograph 2017.9.1



◆写真 【広島県尾道市向東町 寺内荒神社の線刻のある岩石】 Photograph 2017.9.1

ニつ目は、尾道の艮神社と千光寺の中間にある線刻である。
尾道市が見渡せる大岩の上部に、寺内荒神社の線刻に良く似た線刻がある。


◆写真 【広島県尾道市 線刻のある岩石】 Photograph 2017.9.1



◆写真 【広島県尾道市 線刻のある岩石】 Photograph 2017.9.1



◆写真 【広島県尾道市 線刻のある岩石 非常に深く彫られていることがわかる】 Photograph 2017.9.1



◆写真 【広島県尾道市 線刻のある岩石 この岩石を割るために矢穴を作ろうとしたのか?】 Photograph 2017.9.1

これらの線刻は、岩屋巨石の線刻と同じように深く刻まれており、古代に彫られた線刻ではないかと考えられる。
稲田氏らは、線刻を人になぞらえたときの左足部分が岩石の下部につながっている事から、水を流したのではないかと考え、流水線刻と呼んでいる。
また、稲田氏は、この流水線刻は薬を調合したものではないかと考察しており、さらに明日香村の酒船石に類似していることから、尾道にあるこれらのものが明日香に伝わったとの考えを持たれている。
著者も、この線刻が何らかの装置であるという考えには賛成である。
しかし、酒船石は模様や記号ではなく、何かを入れるために造られたことがわかるが、尾道の線刻はそこまでは言いがたい。
この岩に天体観測の方位や天体の軌道を刻んだ可能性も含めて詳細な研究を期待する。


◆写真 【奈良県高市郡明日香村 酒船石】 Photograph 2015.5.2


◆写真 【奈良県高市郡明日香村 酒船石】 Photograph 2015.5.2


おわりに


「尾道の巨石群」「尾道向島の岩屋巨石」と2報にわたって尾道の岩石遺構について述べ、岩屋山を中心とした天文観測施設が形成されていたという仮説を説明してきたが、疑問が残っている。
岩屋山の岩屋巨石自体に太陽観測の仕組みが施されているのはさておき、それ以外の太陽観測が岩屋山を対象とした観測であるということである。これでは観測する時期によって観測場所を変えなければならず効率的ではない。
岩屋山を中心とした天文観測施設を造るとしたら、岩屋山に立った時に定点観測できるように、太陽を観察する目印を岩屋山の南に造るのではないかと思うのである。
これについては、向島を対象とした研究を行なうことで明らかになると考える。
その研究手法は、まず天文の軌道をシミュレートし、その特異点を示す方向で岩屋山から視認できる場所に岩石遺構が存在するかどうかをフィールドワークで確認するといった、天文考古学の手法となるであろう。
ここであえて「天体」と表記したのは、最近、古代人が「高い月」や「低い月」を観測していたのではないかということも検討されており、古代人が観測する対象は「太陽」に限らないからである。「太陽」「月」「星」へ研究対象を広げて検討すべきである。

著者としては、「尾道の巨石群」の「千光寺の玉の岩」のところで紹介した「向島の竜王山の頂上にも玉の岩があった」という噂が気になる。
千光寺と岩屋山と竜王山は一直線となり、その方位は冬至の日の出(夏至の日の入り)ラインとなるからである。
岩屋山を観測点とした場合、夏至の日には千光寺の玉の岩の方向に太陽が沈み、冬至の日には竜王山の玉の岩の方向から太陽が昇る、という仕組みとなる。この時、玉の岩の明りは、方位の目印の役目をする。竜王山に玉の岩が存在するのかもしれない。
今後、岩屋山の南のフィールドワークによって、新しい発見がなされることを期待したい。


◆図 【千光寺と岩屋山と竜王山の関係】カシミール3Dで作成


◆写真 【稲田全示氏と著者】 Photograph 2017.9.1

(イワクラハンター 平津豊)

謝辞

本論文を作成するに当たり、資料の提供と現地を丁寧に案内してくださった稲田全示氏、篠澤邦彦氏に深謝の意を表します。


参考文献

1.稲田全示:隠された神話、尾道市役所(2008)
2.平津豊:イワクラ学初級編、ともはつよし社(2016)
3. 薬師寺慎一:吉備の古代史時点、吉備人出版(2012)
4. 尾道観光マップ:岩屋山ミステリーツアーマップ(2017)
5. Genevieve von Petzinger(櫻井裕子訳):最古の文字なのか?、文藝春秋(2016)

2022年4月24日  「尾道向島の岩屋巨石」  ホームページ「ミステリースポット」掲載



トップ画面へ戻る
調査報告へ戻る

Copyright © 1987-2022 Hiratsu Yutaka All Rights Reserved.