神戸六甲山の
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Report 2017.5.6 平津 豊 Hiratsu Yutaka | ![]() |
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2013年から1年間ほど集中して兵庫県神戸市に通い、六甲山周辺のイワクラの現地調査、文献調査、聞き取り調査を行ってきた。その成果は、これまで部分的に論文やレポートとして発表してきたが、ここで一度、集大成としてまとめておくことにする。 また、講演会で「神戸六甲のイワクラにまつわる謎」というテーマで話しているが、その内容を文章化しておくのも有益だと考える。 みなさんが、六甲山のイワクラを巡るときの一助となれば幸いである。 詳細は、以下の論文及びレポートを見ていただきたい。 ホームページ「ミステリースポット」http://mysteryspot.main.jp/ ●2013年7月26日 Report 2013.7.26 六甲山系の磐座~勾玉の磐座発見~ ●2013年7月29日 Report 2013.7.29 六甲山系の磐座~六甲に走るレイライン~ ●2013年11月23日 Report 2013.11.23 越木岩神社の甑岩 ●2014年3月8日 Report 2014.3.8 保久良神社とカタカムナ ●2014年8月28日 Report 2014.8.28 六甲山イワクラツアー~瀬織津姫を訪ねて~ イワクラ(磐座)学会 ●「六甲山新イワクラレポート」 、平津豊、イワクラ(磐座)学会会報29号(2013) ●「目神山樹木伐採・清掃ボランティア」、平津豊、イワクラ(磐座)学会会報30号(2013) ●「神戸六甲山のイワクラツアーレポート」、平津豊、イワクラ(磐座)学会会報31号(2014) ●「越木岩神社の磐座の重要性と神社隣地の磐座の保存活動」、平津豊、イワクラ(磐座)学会会報34号(2015) ●「保久良神社とカタカムナ」、平津豊、イワクラ(磐座)学会会報38号(2016) |
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■神戸の神社 |
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神戸周辺の神社縁起について、『日本書紀』には、以下のように書かれている 。 | ||
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「皇后の船、直に、難波を指す。時に、皇后(きさき)の船(みふね)海中(わたのなか)に廻りて、進むこと能(あた)はず。更に務古水門(むこのみなと)に還りまして卜(うら)ふ。是に、天照大神、誨(をし)へまつりて曰(のたま)はく、「我が荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を広田国に居らしむべし」とのたまふ。即ち山背根子が女(むすめ)葉山媛(はやまひめ)を以て祭(いは)はしむ。亦(また)稚日女尊(わかひるめのみこと)、誨へまつりて曰はく、「吾は生田長峡(ながを)国に居(を)らむとす」とのたまふ。因りて海上(うながみの)五十狭芽(いさち)を以て祭はしむ。亦(また)事代主尊、誨へまつりて曰はく、「吾をば長田国に祠れ」とのたまふ。則ち葉山媛の弟長媛(いろどながひめ)を以て祭はしむ。亦表筒男、中筒男、底筒男、三の神、誨へまつりて曰はく、「吾が和魂をば大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡に居さしむべし。便(すなは)ち因りて往来ふ船を看(みそなは)さむ」とのたまふ。是に、神の教(みこと)の随(まにま)に鎮め坐(す)ゑまつる。」 |
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神功皇后が、広田国に天照大神の荒魂、生田長峡に稚日女、長田国に事代主、渟中倉の長峡に住吉三神を祀ったという話である。 これに対し、私は、神功皇后が最初に祀ったのではなく、神功皇后が祀る前から神戸の六甲山に祀られていたのではないかと考えている。 また、これらの神社に磐座は存在しない。それは、これらの神社が田宮であるからである。 神社の変遷に関する私の持論は、山の上の磐座を祭祀する自然崇拝(山宮)が、時代を経るにしたがって山の麓の鎮守の杜に移り(里宮)、さらに人々の生活の場に神社が建てられると(田宮)、山の上の磐座は忘れ去られてしまった。というものである。 したがって、これら神功皇后ゆかりの神戸の神社は田宮であり、六甲山に山宮が存在するのではないかと考えるのである。 |
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【神社の変遷】 『イワクラ学初級編』、平津豊、ともはつよし社(2016) より |
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■本住吉神社 |
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兵庫県神戸市東灘区住吉宮町に鎮座する本住吉(もとすみよし)神社は、住吉三神を祀る神社である(北緯34度43分7.00秒、東経135度15分36.84秒)。 住吉三神を祀る神社としては大阪の住吉大社が有名で、神功皇后が祀った神社は、どちらであるかという論争が行われてきた。 これに対し、江戸時代の国学者である本居宣長(もとおりのりなが)は神戸の本住吉神社と主張しており、私もこの説をとる。神功皇后は三韓征伐の帰りに、大阪で麛坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の反乱が起ったため、神戸の務古水門(むこのみなと)で足止めされたのであり、その時点では、敵地の大阪に住吉神を祀ることはできないからである。 さて、この本住吉神社には、東灘区渦森台に奥宮がある(北緯34度44分34.18秒、東経135度14分51.73秒)。そして、この本住吉神社と奥宮を結んだラインは、六甲山上の天狗岩のあたりを通過する。 このことから私は、この天狗岩という磐座が本住吉神社の原初の祭祀場ではないかと考えている(北緯34度45分16.09秒、東経135度14分41.92秒)。 したがって、標高764メートルの天狗岩が本住吉神社の山宮であり、標高352メートル渦森台の奥宮が里宮、標高35メートルの本住吉神社が田宮と推測するのである。 |
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【本住吉神社】Photograph 2013.8.10 |
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【本住吉神社の奥宮】Photograph 2013.8.10 |
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【天狗岩】Photograph 2013.9.29 |
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【その変遷 (平津豊説)】 |
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■生田神社 |
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兵庫県神戸市中央区下山手通に鎮座する生田神社は、稚日女(わかひるめ)尊を祀る式内社である(北緯34度41分40.56秒、東経135度11分26.15秒)。 この生田神社も、昔は、北東に1600メートルの砂山(いさごやま)にあって、神社は、山の上から下りてきたという伝承が残っている。 生田神社と砂山を結んだラインは、麻耶山上の天狗岩のあたりを通過する。同じ天狗岩という名前だが別の磐座である。 したがって、この天狗岩が生田神社の山宮であり、砂山が里宮、生田神社が田宮と考えられる。 |
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【生田神社】Photograph 2013.8.10 |
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一方、西宮市甑岩町の越木岩神社の甑岩に稚日女が祀られているという説があり、この甑岩が生田神社の山宮である可能性もある。 次に、この越木岩神社の磐座について説明する。 |
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【生田神社の変遷 (平津豊説)】 |
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■越木岩神社 |
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2015年4月10日に越木岩神社の飯森宮司からイワクラ学会に協力要請があり、私は、越木岩神社の隣地に残る磐座がマンション建設で破壊されようとしている問題について深く関わることになった。 すぐに、イワクラ学会のホームページに越木岩神社の磐座群と祭祀ラインについての説明を記載し、Facebookを利用して署名を呼びかけ、磐座の重要性について説明した書類を作成した。 5月には、ネット署名も開始し、テレビや新聞でも特集され、総数38206名の署名(2015年6月30日現在)をいただいた。 6月10日に越木岩神社は、株式会社創建に対して、内容証明郵便で署名を郵送するが、受取を拒絶された。 8月には、創建がブログに「ただの岩である」との主張をしたことに対して、イワクラ学会は、越木岩神社のブログに反論を掲載したりした。 本件について、西宮市は建築許可を下ろしてしまったが、現在はアスベストの問題で法廷闘争に入り、工事はストップしている。 |
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【越木岩神社の隣地に残る磐座の保存活動】 |
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【越木岩神社】Photograph 2013.3.16 |
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さて、越木岩神社のご由緒には次のように書いてある(北緯34度45分30.42秒、東経135度19分19.73秒)。 |
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御由緒 当社は東六甲山麓唯一の霊地で、天然記念物の森に鎮座します霊験あらたかな神社である。
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越木岩神社から南東に2.7キロメートルの所に「十日えびす」で有名な西宮神社が鎮座している。えびす大神を御祭神とする神社である。 「えびす」は、七福神の一柱で、記紀神話以外の蕃神である。時に、海に関係の深い大国主の息子の事代主神(ことしろぬし)や伊弉諾の息子の蛭子(ひるこ)の別名とされることもある。 私は、この「えびす」は、時々海岸に漂着するクジラを寄り神として信仰したものではないかと考えている。 |
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越木岩神社は、この西宮神社からえびす神を勧請しているが、えびすに蛭子の字をあてている。 西宮神社は、広田神社の摂社である南宮社の庇を借りて大きくなった神社である。この神社は、大国主西神社と呼んでいたが、末社である大己貴社が大国主西神社であるとする説が強まり、明治3年に社名を「西宮神社」に改め、大己貴社を大国主西神社としたという。 延喜式神名帳の菟原郡の大國主西神社の項目には、「明細帳に縣社西宮神社境内大國主神社縣社とあり」との注釈があり、西宮神社の境内に大國主神社があると記載されている。しかし、神名帳の大國主西神社は菟原郡としており、西宮神社のある武庫郡ではない。これについては、昔は菟原郡と武庫郡の境の夙川がもっと東を流れていた可能性もあり、何ともいえない。 一方、写真は、飯森隆年宮司から見せていただいた古文書である。ここには、「摂津国武庫郡越木岩新田大國主西神社・・」と書かれており、この越木岩神社(甑岩神社)が、大國主西神社または西神社と呼ばれていたことがわかる。 このように、延喜式神名帳に記載された大國主西神社をめぐって、越木岩神社と西宮神社の間に諍いがあったようである。 |
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【越木岩神社に伝わる古文書】Photograph 2013.10.13 |
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また、越木岩神社の境内の様子を描いた古文書に、蛭子神社と岩神社が別に描かれているものがある。もしかしたら、現在の越木岩神社と、その北にある甑岩は切り離して考えたほうが良いのかもしれない。 つまり、この場所は、甑岩を中心とする古代祭祀場であり、後からその南側に大國主西神社が鎮座したのではないのだろうか。 というのも、甑岩とオオクニヌシの関係を示唆するものが何もないからだ。 |
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【越木岩神社に伝わる古文書】Photograph 2013.10.13 |
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【飯森隆年宮司に古文書を見せていただいている、大江幸久氏と葛原黄道氏】Photograph 2013.10.13 |
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この越木岩神社の甑岩という磐座について、神社は市杵島姫大神が祀られているとしているが、池田仁三(じんぞう)はコンピュータ画像解析で、この甑岩の台座に「稚日女命宮、庚子年九月廿日薨、御年四十七歳」と彫られていることを発見したと発表している。 これが真実であるならば、この甑岩が生田神社の山宮である可能性が高くなるのである。 この稚日女(わかひるめ)について、後述するホツマツタヱを持ち込んで解釈すると面白いことがわかる。ホツマツタヱに登場するワカヒルメは、イザナギとイザナミの娘で、ワカヒメ別名ヒルコ(昼子)だという。そうであるなら、越木岩神社の御祭神が蛭子=ヒルコで、神社の御神体である甑岩にワカヒルメが祀られていて当然ということになる。 |
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【池田仁三による画像解析結果 大磐座前の台座】 |
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■越木岩神社の磐座群 |
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次に、この越木岩神社の磐座について説明する。(北緯34度45分32.34秒、東経135度19分18.97秒)。 甑岩について、神社パンフレットでは以下のように説明されている |
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甑岩(こしきいわ) 女性守護・安産・子授の神
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【越木岩神社の甑岩(南座)】Photograph 2013.3.16 |
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この甑岩には不思議な逸話が伝わっている。 神社のパンフレットでは次のように書かれている。 |
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大坂(阪)城築城の残石
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また、西宮の民話にも同じ話が残っている。 | ||
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西宮の民話 こしき岩のいかり
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400年前に、甑岩を割ろうとしたら白い煙が噴出したという話が伝わっているのである。 この言い伝えが誇張したものであったとしても、当時の人々がこの磐座が破壊されることを許さず、殿様の命令にもかかわらずそれに成功したことは事実である。 |
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同様の例が、越木岩神社から1.7キロメートル北西にある二つに割れた夫婦石に伝わっている(北緯34度46分22.90秒、東経135度18分59.98秒)。 このイワクラは、昭和初期から道路工事のために何度も破壊指示が出たが、祟りを怖れた住民の要望を受け入れて残されることになり、道路はこのイワクラを避けて不自然に上りと下りを分岐させて建設されている。 このイワクラも破壊をまぬがれた例の一つである。 元夙川学院短大学の敷地内に残る3つのイワクラも破壊されずに残されることを切に願っている。 |
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【夫婦岩】Photograph 2013.8.10 |
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甑岩の形は、イワクラ学的には女陰を模したものである。 甑岩の東側には、大阪城築城のために切り出そうとしていた時の刻印が残っている。北側の上部の三角形の岩に矢穴があることから、そのときに切り出そうとした跡ではないかと考えられる。 また、この北側には、真北を指す方位石が置かれ、典型的な祭祀場の形態になっていることから、この甑岩は北を拝する磐座と考えられる。 |
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【甑岩(南座)】Photograph 2014.8.24 |
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【甑岩(南座)の北側】Photograph 2013.6.11 |
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甑岩から北東に40メートルの位置に貴船社があり、その背後に磐座(中座)がある(北緯34度45分33.69秒、東経135度19分20.04秒)。 |
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【中座】Photograph 2013.8.10 |
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さらにその北側に、北座がある(北緯34度45分34.32秒、東経135度19分19.91秒)。 この磐座は男根を模した形となっており、甑岩と対を成すものと考えられる。 |
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【北座】Photograph 2013.3.16 |
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阪神大震災によって、この越木岩神社も被害を受け、甑岩の東側が崩れ、北座も崩れ落ちた。 飯森宮司は、これらの磐座を完全に復元しようと考え、飛鳥建設から見積もりをとったところ、1千万円もかかることがわかった。社殿も半壊しており断念するしかなかったそうである。 そして、甑岩の東側と北座については、明らかに修復したとわかるように行ったということである。 特に北座は以前とは全く形を変えてしまっており、イワクラを研究するものとしては、残念でならない。 |
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【1979年の姿 (道ひらき機関紙より)】 |
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【甑岩(南座)の東側】Photograph 2014.8.24 震災後に崩れ落ちた東面をあえて、修復したことがわかるように補強している。 |
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【越木岩神社 1987年の 甑岩(南座) 】Photograph 1987.3.15 |
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■越木岩神社の磐座群と北山公園のイワクラとの関係 |
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甑岩(南座)から北に40メートルの位置に貴船社(中座)の磐座があり、さらに北に20メートルの位置に北座がある。この南北線を北へ伸ばすと、元夙川学院短大学の敷地内に2つの巨岩が並んで残存している。この南北線をさらに伸ばして川を挟んだ向こう側には、鳥の姿をした特徴的な石組みがある(北緯34度45分40.13秒、東経135度19分20.99秒)。 以後、これを「鳥のイワクラ」と呼称する(平津豊命名)。この敷地内の巨岩は、この鳥のイワクラを崇める祭壇であった可能性がある。 |
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【元夙川学院短大の敷地内 2箇所の北の磐座】Photograph 2014.9.14 |
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【北山公園内 鳥の磐座】Photograph 2014.9.14 |
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さらにこの南北線を北山公園に伸ばすと、北山公園内の陽石(北緯34度45分48.28秒、東経135度19分20.47秒)と太陽石(北緯34度45分54.82秒、東経135度19分20.21秒)と呼ばれる有名なイワクラに到達する。 この不可思議な事実については、イワクラ学会の江頭務氏によって、一直線に並ぶ太陽石と陽石と越木岩神社が奥津磐座、中津磐座、辺津磐座を形成するものであるという説が発表されている『江頭務:「神奈備山磐座群の進化論的考察」、イワクラ学会報9号(2007年)』。 私は、この江頭説に対し、鳥のイワクラや元夙川学院短大の敷地内に残る2つの巨岩もこの南北ラインを形成するイワクラであると補強した『平津豊:「越木岩神社磐座の重要性」、イワクラ学会報34号(2015年)』。 |
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【北山公園内 陽石】Photograph 2015.7.12 |
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【北山公園内 太陽石】Photograph 2013.11.24 (北緯34度45分54.07秒、東経135度19分20.05秒) |
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この北山公園内のイワクラについては、1981年に大槻正温(まさやす)氏が北山の巨石は太陽観測施設であるとの説を発表した。 これについては、2008年に江頭務氏が調査し、検証を行っている『江頭務:「古代北山・太陽観測施設説の調査報告」、イワクラ学会報12号(2008年)』。 |
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【大槻正温、六甲山系の方位石と巨石群 大和岩雄:「神々の考古学」、大和書房(1998)より】 |
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【北山公園内の方位石】Photograph 2015.7.12 (北緯34度45分54.81秒、東経135度19分18.87秒) |
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そして、このイワクラ群は、南北だけでなく東西にも広がっている。元夙川学院短大学の敷地内に、その東翼を形成するイワクラが残存している(北緯34度45分34.53秒、東経135度19分21.81秒)。 このイワクラの上部は人が座れるように丸く組上げられていて、大変興味のあるイワクラである。 この東翼のイワクラについて、イワクラ学会の岡本静雄氏は、オロチのレリーフとホトの線刻があると指摘している。 |
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【東翼のイワクラ オロチのレリーフとホトの線刻】Photograph 2015.7.12 |
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【甑岩-北山のイワクラ配置図】 |
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この図のイワクラ群の全てが揃って古代祭祀を形成していたと考えられるが、この内、赤枠の3ヶ所のイワクラが破壊されようとしている。 これらのイワクラがこのままマンション建設によって破壊された場合、もう元には戻らないばかりか、イワクラの詳細も調査されずに、貴重な古代祭祀の情報も永遠に消失する。調査が行なわれれば、イワクラ周辺から縄文時代の遺物が出土し、古代祭祀の様子を知る貴重な資料となるかもしれない。 また、このイワクラ群の重要な南北の崇拝ラインを建物で遮ってしまうことにもなる。 越木岩神社から北に向ってイワクラが連なり、その距離は750メートルもの広い範囲から形成される古代祭祀跡である可能性が高い。 これは、この西宮市に奈良の一宮である大神神社に匹敵する規模の古代祭祀遺構が残っていることを意味する。 観光資源としても大きな利用価値を持つものである。 |
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■六甲山神社 |
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越木岩神社の甑岩の手前に、石で造られた祠があり、六甲山社と呼ばれている。立看板には、以下のように書かれている。 |
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六甲山社
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また、越木岩神社の中座の前にある貴船社の立看板には、以下のように書かれている。 |
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貴船社 祭神 貴船大神・龍神
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これらからのことから、越木岩神社は、六甲山の頂上の石の宝殿と深い関係があることがわかる。 さらに、六甲山神社の石の宝殿は、越木岩の村人が1613年に建立したものである。 |
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この六甲山神社には、神功皇后が三韓征伐で持ち帰った神の石を納めたとか、黄金の鶏を埋めたとかという伝説が残っている(北緯34度46分49.71秒、東経135度16分17.35秒)。 石の祠の奥には、六甲山大権現をはじめ数多くの石碑が立っており、修験道の霊山であったことを物語っている。白山修験の山伏の影響のため、現在は、菊理媛命(くくりひめのみこと)を御祭神としているが、広田神社の境外末社であり、また、芦屋川と住吉川の分水嶺にあたり雨乞いが行なわれたということから、かつては、瀬織津姫を祀っていた可能性もある。 |
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【六甲山神社 石の宝殿】Photograph 2013.4.21 |
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【六甲山神社裏の石碑】Photograph 2013.10.13 |
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少し離れた場所に、3メールほどの磐座が祀られており、この磐座が六甲山神社の御神体と考えられる(北緯34度46分48.02秒、東経135度16分18.41秒)。 六甲山神社は、菊理媛を祀っているために、若い女性の参拝者が多く訪れる場所であるが、この磐座まで訪れる参拝者は少ない。また、高砂の石の宝殿とほぼ同緯度にあることも面白い。 |
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【六甲山神社の磐座】Photograph 2013.10.13 |
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このように、越木岩神社の甑岩と六甲山神社の磐座は、石の祠を介して結びついている。 そして、六甲山神社の磐座から越木岩神社の甑岩を結ぶラインは、なんと、冬至の日の出方向と一致するのである。これは、意図的に計算して、六甲山神社の磐座と甑岩が造られていることを示している(平津豊説)。 |
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【六甲山神社の磐座と甑岩の聖線 (平津豊説)】 |
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地球の地軸が23.4度傾いているため、日本では四季があり、その特異点が春分、夏至、秋分、冬至である。これを二至二分という。 冬至は、夜が最も長く昼が短い日で、夏至は、昼が最も長く夜が短い日である。 |
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【太陽と地球の動き】 |
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【春分、夏至、秋分、冬至】 |
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季節が寒くなっていくのか、暖かくなっていくのか、これは縄文時代の人々にとっても重要な事柄であったに違いない。 冬至に向って太陽の勢いが衰え、冬至から再び光を増していくことから、冬至には、死んだ太陽の復活を祝う冬至祭りが行なわれたと考えられる。 また、夏至には、太陽の最盛の時を祝うと同時に、これから徐々に衰えていく太陽に力を与える為に火を炊く夏至祭りが行なわれたと考えられる。 したがって、この祭りの時期を特定するためにも二至二分を知ることは重要であり、その時期を測定する装置としてイワクラを配置したと推測する。 つまり、縄文人は、1つのイワクラからもう1つのイワクラを見た方向から太陽が昇ったり沈んだりすることで、その時期を測定したのである。 |
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■広田神社 |
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兵庫県西宮市大社町の広田神社は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)命を祀る式内社である(北緯34度45分12.38秒、東経135度20分24.20秒)。 延喜式神名帳には、摂津国武庫郡 廣田神社 天疎向津媛命と掲載されている。現在の広田神社は、この撞賢木厳之御魂天疎向津媛を天照大御神(あまてらすおおみかみ)の荒御魂(あらみたま)であると説明している。 |
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【広田神社】Photograph 2013.6.11 |
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この広田神社は、甲山(かぶとやま)山麓の高隈原(たかくまはら)に鎮座していたが、御手洗川のほとりに遷座。さらに水害のため1724年に現在の地に遷座した。したがって、現在の広田神社は田宮であり磐座は存在しない。 この高隈原がどこであるかという記録は残っていないが、私は、磐座が数多く残る目神山(めがみやま)付近ではないかと考えている。そして、六甲山頂の六甲比命神社が山宮ではないかと考えるのである。 |
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【広田神社の変遷 里宮は目神山】 |
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つまり、六甲山上の標高860メートルの六甲比命神社の磐座が山宮で、標高200メートルの目神山の高隈原が里宮であり、標高30メートルの現在の広田神社が田宮と推測している。この山宮の六甲比命神社の磐座と広田神社の関係については隠されてしまっていたが、近年、明らかになってきた。以下に、その理由を説明する。 | ||
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【広田神社の変遷 山宮は六甲比命神社】 |
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■目神山 |
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目神山(めがみやま)は、女神山との説があり、瀬織津姫の暮らした場所ではないかともいわれている。 この目神山には、かつて、数え切れないほどのイワクラが存在していたが、宅地開発でその多くが破壊されてしまった。この地域には「岩を落とした家の女主人が不幸に見舞われる」という話がまことしやかに伝えられているほど、各宅地の敷地内にイワクラがたくさん存在していたのである。 |
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【今は存在しないイワクラ 甲陽公園内奇岩ノ一部 尼崎市立地域研究史料館所蔵絵はがき より】 |
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しかし、今でも、奇跡的に残ったイワクラがある。 例えば、ある邸宅の入り口には徳川幕府の大阪城再建のときの採石の名残りである矢穴と大名の刻印があり、南側には、鏡岩ではないかと考えられる高さ3メートル、幅5メートルの巨大な岩がある。東側には巨大な岩が山肌に敷き詰められるように並べられてあり、圧巻である。邸宅は、これらの巨石を避けるように建てられている。 |
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【目神山邸宅内の大名の刻印】Photograph 2013.6.11 |
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【目神山邸宅内のイワクラ】Photograph 2013.6.11 |
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また、この隣の敷地に、石と石との間に三角形の石が組み込まれている岩であり、その上部は、石で組み上げた平らな場所になっている(北緯34度45分59.83秒、東経135度20分00.43秒)。 この上に座って祈りを行なったのではないかと考えて「祈りのイワクラ」と命名した(平津豊命名)。 |
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【祈りのイワクラ】Photograph 2013.6.30 |
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【祈りのイワクラ上部】Photograph 2013.6.30 |
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【目神山の邸宅内のイワクラ】Photograph 2013.11.24 |
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【目神山の邸宅内のイワクラ】Photograph 2013.11.24 |
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その他、数軒の邸宅のイワクラも拝見させていただいたが、もっとも素晴らしいイワクラは目神山八光会の磐座群である。 この磐座群はカタカムナを信仰しているご主人によって大切に祀られている。 樹木が自然のまま伸び放題の状態になり、岩石の隙間に生えた木が岩石を破壊しはじめていたため、2014年3月にイワクラ学会で邸内の伐採作業を行った。 この磐座は、「隠れ磐座」のため、住所や写真は非公開である。 |
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■神呪寺と甲山八十八カ所 |
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この目神山の北側に、お椀を伏せたような形の甲山(かぶとやま)がある。 甲山は、神功皇后が、国家平安守護のために、山頂に如意宝珠及び兜を埋めたと伝えられる山で、頂上から銅戈が出土している。 非常に綺麗な独立峰で、その姿から人造のピラミッドではないかと言われている山でもある。 この甲山の中腹に、甲山大師とも呼ばれる神呪寺(かんのうじ)がある(北緯34度46分22.89秒、東経135度19分47.79秒)。 |
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【神呪寺】Photograph 2014.1.19 |
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神呪寺について、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』には次のように記載されている。 | ||
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淳和天皇の妃である真名井御前は、如意輪観音への信仰が厚く、「摂津に宝山がある。」とのお告げを受け、天長5年(828年)宮中を出て摂津に赴いた。
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このように、神呪寺は、如意尼が空海の助けを得て、開基された寺院である。ちなみに、如意尼が亡くなられた次の日が、空海が即身仏になるために入定した日にあたるのも、不思議なことである。(如意尼は33才で故郷に戻ったとの説もあり) |
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【広田の神影向(ようご)岩 広田の神が現れた場所】Photograph 2014.5.18 (北緯34度46分13.67秒、東経135度19分47.65秒 |
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また、この寺の如意尼の姿を描いた掛け軸に「『如意尼公 元伊勢籠神社第三十代祝雄豊の娘 淳和天皇第四妃 当山開祖といわれる」と書いてあり、この如意尼こと真名井御前は、海部直雄豊祝の娘の厳子(いつこ)であり、その名前が示すように、丹後の籠神社の奥宮である真名井神社ゆかりの人物でもある。さらにこの寺には空海が如意尼を刻んだという如意輪観音像があるが、この中に、丹後の浦嶋子(浦島太郎のモデル)の玉手箱が隠されているという話まで伝わっている。 籠神社は、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神の元宮であり、最古の鏡や最古の家系図など謎に満ちているが、その籠神社との関連性や、空海の関与といい、神呪寺が非常に重要な寺院であることは想像に難くない。 なお、如意尼が修行した九想の滝は、岩の組み合わせが自然ではなく、人工的な岩組つまりイワクラと考えられる。 |
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【九想の滝】Photograph 2014.7.26 (北緯34度46分15.57秒、東経135度19分58.30秒) |
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当初の神呪寺の寺領は250町歩もあったが、現在は境内地の20町歩となってしまっている。しかし、甲山八十八カ所という写し霊場が神呪寺の南に残っている。 『四国八十八カ所石像施主過去帳』の序文に、「本朝の霊区で弘法大師の遺跡である神呪寺に四国八十八カ所の霊像を模彫造立する事を宿願としている二、三人の信士らの発言が契機である。」と記されている場所で、1798年に設立されたものである。 |
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【甲山八十八ヶ所位置図 西宮市文化財資料第57号より】 |
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八十八カ所に石仏が建てられているが、私は、この台座の多くがイワクラではないかと考えている。 なかでも、五十番の霊場は、石仏が巨大な岩屋の中に設置されている(北緯34度46分13.28秒、東経135度19分53.35秒)。 この岩屋を形成している壁は正確に南北に造られており、岩屋の奥には岩をはめ込んでいる。また、複雑に組み合わされた岩などから人工的に造られたイワクラと考えられる。 |
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【神呪寺甲山八十八カ所五十番の霊場】Photograph 2014.4.24 |
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【神呪寺甲山八十八カ所五十番の霊場 L字に加工した岩の間に岩が組んである】 Photograph 2014.2.23 |
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六十番の霊場は小山の頂上にあるが、この頂上には丸い岩があり卵岩と呼ばれている。奈良県山添村の長寿岩がかつて丘の上に据えられていたように、この卵岩も丘の上に据えられている。一部割られているが、矢穴で割られていることから築城時代に石垣用の岩に使うために割られたものと推測する。 この場所からは、甲山を真北に見ることができるため、甲山をピラミッドや霊山とすればその拝殿を置くのに最も適した場所である。「この場所から甲山を拝せよ」とでも言いたげそうに仏頭石と呼ばれる岩が立っている。 この卵岩は太陽を模したものであろうか、太陽祭祀がこの丘で行われていたカも知れない。 また、この場所にはペグマタイトおよびアプライトの岩脈が走っており、磐座祭祀が行われる場所に選択される場所でもある。 |
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【卵岩】Photograph 2014.5.18 |
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【仏頭岩と甲山】Photograph 2014.5.18 |
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■六甲比命神社とホツマツタヱ |
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六甲山の頂上に巨大な磐座を祀る六甲比命(ろっこうひめ)神社が鎮座している(北緯34度45分58.69秒、東経135度14分21.58秒)。 この「六甲(ろっこう)」という地名表記は、十四世紀の漢詩集にみられ、「六高」とも書かれている。しかし、この「六甲」「六高」を「ろっこう」と読みだしたのは最近で、かつては「むこ」と読んだ。このことは、務古水門(むこのみなと)、武庫川(むこがわ)という地名が残っていることからわかる。 これに関し、この地が、古墳時代中期に大王(おおきみ)が陵墓を築いた河内の「摂津の国」から見て向こう側なので「向こうの国」と呼ばれ、これから「むこ」という地名になったというのが通説である。しかし、無人の地ならわかるが、六甲の地に人は住んでいたわけで、その人たちが自分の住んでいる場所を果たして「向こう」と呼ぶだろうかという疑問が残る。 一方、この六甲の地は、かつて「むかつ」と呼ばれた地であり、「六甲山」は「向つ峰(むかつみね)」であるとの説がある。この「むかつ」が転じて「むこ」になったという。そうなると、「六甲比命神社」も「むかつひめ神社」である。 今の六甲比命神社には、弁財天が祀られているが、本来はムカツ姫が祀られていたことになる。 では、このムカツ姫とは何者なのか? 竹内文書にも、上古代二十二代天疎日向津比売身光天津日嗣天皇(あまさかりひにむかいつひめのみひかりあまつひつぎあめのすめらみこと)というムカツ姫が登場する。 この六甲比命神社に祀られるムカツ姫について、ホツマツタヱの研究者である大江幸久氏は、瀬織津姫(せおりつひめ)であるとの興味深い説を展開している。 瀬織津姫は、罪や穢れを流す神として大祓詞にしか登場しない神であるが、ホツマツタヱでは、サクナダリ・セオリツ姫ホノコとして登場し、天照大神が姫の前に立たれて正室として迎え入れたことにより、天下(あまさが)る日前(ひのまえに)向津姫(むかつひめ)と呼ばれた。この場合、天照大神は男神である。後世に天照大神を女神としたことにより矛盾が生じ、瀬織津姫は隠されてしまったという。 |
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その場面を高畠精二氏の現代語訳ホツマツタヱのサイトより転記する。 なお、ホツマツタヱは、1966年に松本善之助が東京の古書店で写本を偶然発見した古文書であり、ヲシテ文字によって五七調に書かれ、全40アヤ(章)で構成されている。 |
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どの姫達もそれぞれにお美しく聡明でしたが、その中でも生まれつき素直でお美しい一人の姫に天照大神はついに心を奪われてしまわれました。本来ならば君たるもの、姫を迎える時は殿にいて殿前(とまえ)でお目通しするのがしきたりとなっていましたが、この時ばかりは自ら階段(きざはし)を瀧の流れの如くお降りになり、姫の前に立たれて迎え入れたほどです。この姫の名をサクナダリ・セオリツ姫ホノコさんと申します。さくなだりとは、岩を割いて流れ降る清い渓流を意味し、正に名が体を表わした美しい真名(いみな)でした。称名(たたえな)は君との感激的な出会いに因んで天下る日前向津姫(あまさがるひのまえにむかつひめ)と申し上げ、ムカツ姫の御名は後世までも君との出会いを伝える名として残りました。
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このように、広田神社のご祭神は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)命であり、ムカツ姫なのである。戦前の広田神社の由緒書きには、瀬織津姫が主祭神だと書かれていたようである。 したがって、六甲山上の六甲比命神社の磐座と広田神社は深い関係がある。 大江幸久氏のブログ「八上 白兎神社Ⅱと全国神話伝承」より大江氏の説を転記しておく。 |
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天照大神のお后である瀬織津姫が天照大神のお命じによって晩年にお過ごしされたのは摂津の国のヒロタ、現在の兵庫県西宮市広田神社・六甲山の周辺です。ホツマの記述の通りならば、ここでの御現身(おうつしみ)の瀬織津姫は神上がられたことになります。したがって瀬織津姫の御陵のある場所は六甲山(むこやま)旧名向津峰(むかつみね)と思われます。
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現在の六甲比命神社は、六甲比命講の方々が手厚く守っており、古寺山にあった多聞寺の奥の院となっている。 六甲比命神社は、岩屋の部分を拝む形で祭祀されており、神社まではパイプで作った簡易のはしごを登っていくことになる。なかなか険しいルートであるが、最近は瀬織津姫ブームで多くの女性たちがこの神社まで訪れている。この神社の清掃や整備をされている大江氏には敬服するほかはない。 |
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【六甲比命神社】Photograph 2013.10.13 |
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【六甲比命神社の本殿 岩屋に祀られている】Photograph 2014.4.6 |
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【六甲比命神社の岩壁 人工的に組まれている】Photograph 2013.10.13 |
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■六甲比命神社周辺のイワクラ群 |
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この六甲比命神社の周りには、聖徳太子が死去した後、播磨から六甲山にかけて多くの寺院を建立した法道仙人にまつわる心経(しんぎょう)岩、雲ヶ岩、仰臥(ぎょうが)岩といった磐座も存在する。 大江氏は、法道仙人がこの地を多聞寺の奥の院とすることで禁足地にして、瀬織津姫の御陵を守ったのではないかと考えられている。 以下、大江氏の『六甲山・瀬織津姫とワカ姫 和す・尽くす 聖徳太子による神仏習合(2013年9月8日)』から抜粋して転記する。 |
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六甲比命大善神=弁財天を祀る巨大な磐座が御神体の神社です。ここが瀬織津姫の奥都城=御陵と考えられます。付近の心経岩、雲が岩とともに、その地より夏至の日の入り方向にある神戸市北区唐櫃の多聞寺の奥ノ院です。心経岩は、御陵に鎮まる瀬織津姫のご神霊を仏教的に弔う意図で、刻まれたものと思われます。
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六甲比命神社の真下に、六甲比命大善神の磐座がある(北緯34度45分59.25秒、東経135度14分21.15秒)。 巨大な岩壁全てを磐座として祀っており、あまりの大きさに圧倒される。瀬織津姫の眷属が兎であることから、この磐座は兎を模っているともいわれている。 |
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【六甲比命大善大神の磐座】Photograph 2013.10.13 | ||
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【六甲比命大善大神の磐座 人と比べるとその大きさがよくわかる】Photograph 2013.11.9 |
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六甲比命大善大神の磐座の下に、心経(しんぎょう)岩がある(北緯34度45分58.99秒、東経135度14分20.23秒)。 高さ5メートル、幅6メートル以上の皿状の岩に「摩訶般若波羅密多心経」が彫られている。法道仙人の頃に彫られた般若心経は風化してしまったので、大正5年に彫りなおされたものである。この岩の下部には、倒れないようにくさび石が挟んであり、もともと存在していた磐座に般若心経を彫ったものと考えられる。 |
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【心経岩】Photograph 2014.4.6 |
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【心経岩の下部 巨大な心経岩が倒れないようにがっちりと石がかましてある】Photograph 2013.10.13 |
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六甲比命神社から少し登ると、雲ヶ岩という二つに割れた割れ岩がある(北緯34度45分58.39秒、東経135度14分22.55秒)。 法道仙人が修行中に、紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現れたことから「紫雲賀岩」と呼ばれていたが、その後「雲ヶ岩」と省略された。 |
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【雲ヶ岩】Photograph 2013.6.22 |
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山の頂上には、仰臥(ぎょうが)岩がある(北緯34度45分58.79秒、東経135度14分22.82秒)。 テーブル状の磐座で、八大龍王、熊野権現、仏眼上人、花山法皇が祀られている。今では、このテーブルで何が行われていたかを知る術はないが、綺麗に平面に削られた磐座を山の頂上に置いているのには、明確な使用方法があったに違いない。 |
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【仰臥岩】Photograph 2013.6.22 |
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【仰臥岩 平らに削られている】Photograph 2013.6.22 |
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そしてこの直ぐ近くに、私が気に入っているイワクラがある(北緯34度45分57.68秒、東経135度14分22.06秒)。 大江氏が2013年5月に発見したもので、小さな石が芸術的に組上げられている。もちろん石垣などでは決してなく、縄文土偶に似たセンスで何かを表そうとした意図を感じる。 大江氏にこのイワクラを教えていただいた後、いろいろと調べたが、このイワクラについて書かれた文献は見つからなかった。なぜこのイワクラが今まで見つからなかったか不思議である。 発見されたばかりで名前はないのだが、発見者が天照大神の依代ではないかと言っておられるので、発見者を尊重して「天照大神のイワクラ」と呼ぶのが適切かと思う。 (※2016年に大江氏はこの主張を訂正した。) |
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【大江氏が2013年5月に発見したイワクラ】Photograph 2013.10.13 |
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【大江氏が2013年5月に発見したイワクラ 楔のような細い石が組まれている】Photograph 2014.7.26 |
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【大江氏が2013年5月に発見したイワクラ 不安定な逆三角形の石が組んである】Photograph 2014.7.26 |
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■芦屋神社 |
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芦屋市東芦屋町の天神山に鎮座する芦屋神社は、天穂日(あめのほひ)命を祀る神社である(北緯34度44分33.67秒、東経135度18分09.94秒)。 記紀においては、天穂日命は、天照大神と素戔嗚尊が誓約を行なったとき、天照大神の勾玉より生まれた五男神の第二子である。 第一子は、皇祖である正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)で、忍穂耳命は、葦原中国を治めるべく降臨しようとしたが、葦原中国は騒々しいといって途中で引き返した。そこで天穂日命が出雲国に派遣されるが、大国主に惚れ込んでしまい三年たっても何の連絡もしなかったという神である。大国主神が天孫に国を譲った後は、天穂日命の子孫の出雲国造(千家)がその大国主神を祀り続けている。 なぜか、出雲とは関係のない芦屋に天穂日命が祀られていて、六甲山頂に天穂日命の磐座が鎮座しているのである。 また、この芦屋神社の境内には、円形石室式古墳があり水神社として祀られている。 この芦屋神社の境内には、円形石室式古墳があり水神社として祀られている。 |
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【芦屋神社】Photograph 2013.8.10 |
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【芦屋神社の水神社】Photograph 2013.8.10 |
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■天穂日命の磐座 |
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天穂日命の磐座は、六甲カントリーハウスの中にある。(北緯34度46分02.46秒、東経135度14分39.93秒) なぜ六甲の地に出雲国造の祖神である天穂日命の磐座が鎮座しているのかについては、ホツマツタヱを持ち出さないと理解できないと大江氏は主張されている。 以下、大江氏の『六甲山・瀬織津姫とワカ姫』から転記する。 |
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天穂日命の磐座がなぜ六甲山山頂、しかも瀬織津姫の磐座の至近距離、直線距離にしてわずか300メートル東方に鎮座しているのか、これには大変重要な意味があると思います。ここは、単に天穂日命の憑代ではなく、御陵ではないのでしょうか。天穂日命の磐座の里宮が芦屋市の芦屋神社ですが、かつては天穂日命一神を祀る神社でした。磐座から冬至の日の出ライン延長上にピタリと位置しています。里宮と磐座の関係が明確に残っている、という意味でも貴重です。
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丸いなだらかな曲線で造形された、優しさを感じる磐座である。 この磐座の前にストーンサークルがある。私は、このサークルを最初に見たときに、カントリーハウス整備時にお遊びとして造ったものだと考えていたのだが、後日、最初からあったという話も聞き、気になっているものである。 あまりにもきれいに整ったサークルであるため、本物のストーンサークルか後世の模造かをイワクラ学会で議論したが結論は出ていない。 他の石に合わせて形を割っている石があり、私は本物ではないかと推測している。 |
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【天穂日の磐座】Photograph 2013.4.21 |
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【天穂日の磐座のストーンサークル】Photograph 2013.9.29 |
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【天穂日の磐座のストーンサークル 石が組み合わされている】Photograph 2013.9.29 |
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天の穂日の磐座が山宮で、芦屋神社が里宮と考えられる。そして、大江氏が指摘しているように、天の穂日の磐座から芦屋神社を結ぶラインは、冬至の日の出方向に一致している(大江幸久説)。 | ||
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【天の穂日の磐座と芦屋神社の聖線(大江幸久説)】 |
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■弁天岩 |
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県道344号線の芦有道路を車で走っていると突然現れる巨石が弁天岩である(北緯34度45分15.83秒、東経135度17分26.34秒)。 芦屋神社の水神社と同じ水神が祀られており、芦屋神社が管理している。 海で捕まえた鱶(ふか)を川の中の鱶切り岩で切り刻み、弁天岩に投げつけると、住処を汚された水神が洗い流すため大雨を降らせたと伝えられており、雨乞いの磐座である。このあたりでは、江戸時代まで雨乞いの儀式が行なわれていたそうである。 また、この巨石の20メートル西には、白山大神、白神大神と彫られた石碑のある磐座(北緯34度45分15.78秒、東経135度17分25.55秒)があるが、藤本浩一によると水波能比売(みずはのひめ)命が祀られていたという。六甲山神社と同じく、白山修験の山伏の影響で上書きされたものと推測する。 さらに、南に160メートル下ったところにナマズ石と呼ばれる岩がある。546メートルの荒地山の山頂付近にあった岩が1995年1月17日の阪神淡路大震災で、転がり落ちてこの地に現れたものである。歴史言語研究家によって、ナマズ石の表面に弥生時代に描かれた古代文字が発見されたといわれており、その調査時のペイントの跡が残っている。 私が確認したところ、ペイントが塗られている部分が彫られているとは思えず、このナマズ石に線刻は確認できなかった。 |
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【弁天岩】Photograph 2013.4.21 |
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【鱶切り岩】Photograph 2017.4..22 |
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【白山大神の磐座】Photograph 2013.4.21 |
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【ナマズ岩】Photograph 2013.6.22 |
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■荒深道斉が発見したイワクラ |
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荒深道斉は、昭和6年頃に20回にわたって六甲山を調査し、数多くのイワクラを発見した。六甲山系のイワクラを語る上で、外すことのできない人物である。 本名は荒深道太郎、明治4年6月27日に岐阜県で生まれている。生誕時には、両親が村社日吉神社や氏神白山神社に21日間の祈願をすると、父親の前に子供を抱いた白髪の翁が現れ、母親の口の中に白い玉が入ったとの逸話が伝えられている。明治28年9月東京日比谷神宮教校を卒業後、東京瓦斯紡績株式会社入社したが病気で引退した。昭和3年から純正神道研究会を組織し、神霊科学の研究を行い、1万年以前の巨石文化の遺跡を探索した。大正13年6月に神憑式を行った時「イワイヌシ」と霊名を発して、霊的に目覚めた。その後、神武天皇の重臣である道臣命など神々の指導を受けて、古事記の解釈などの指導書を発行した。昭和24年3月2日79歳で亡くなったが、荒深道斉の思想は、現在も「道ひらき会」に受け継がれている。 その荒深道斉が発見したイワクラの数々を紹介する。 |
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●三国岩 「この三国岩は六甲山の分水嶺であり、かつては武庫、莬原、有馬三郡の境界点でもありました。」という説明板が立っている。三つの国を見渡せたから三国岩であると言われている。 巨大な5つの岩を積み上げたイワクラである。(北緯34度45分06.85秒、東経135度12分55.67秒) 荒深道斉はこの表面に小穴や線で天体図が描かれていると記している。また、荒深は、この三国岩の北側の川西邸内に北座(奥座)があるが、原形を失ってしまっているとも記している。 現在の川西邸内には、注連縄がかけられた西のイワクラ(北緯34度45分09.94秒、東経135度12分53.44秒)が残っているが、荒深がいう北座ではないようである。この北座は頂上の三角点の辺りにあったと思われる。三国岩は岩門で、磐座の本体はこの北座であったようだが、失われてしまっている。 |
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【荒深道斉のスケッチ 三国岩 『天孫古跡探査要訣』、道ひらき(1939)より】 |
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【三国岩】Photograph 2013.6.22 |
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【三国岩の上部】Photograph 2013.10.13 |
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【三国岩西のイワクラ】Photograph 2013.6.22 |
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●天体石 荒深道斉は、この表面に小穴や線で天体図が描かれていると記している。(北緯34度44分29.92秒、東経135度14分43.07秒) |
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【荒深道斉のスケッチ 天体石 『天孫古跡探査要訣』、道ひらき(1939)より】 |
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【天体石】Photograph 2014.1.19 |
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●叢雲釼のイワクラ (剣岩) | ||
剣岩はごろごろ岳頂上から200メートル南に降りた山の中にある。(北緯34度45分54.67秒、東経135度17分51.69秒) ごろごろ岳は、芦屋市と西宮市の境の山で頂上が565.6メートルであることから名付けられたといわれている。実は、私も1987年に、この剣岩に出会ったのが「イワクラ」に興味を持った最初であった。当時、人が組み上げたと思える巨石が、なぜこのような人目に触れない山の中に眠っているのか、不思議でならなかったことを覚えている。 荒深道斉の『六甲山神代遺跡保存会主意書(1932年9月15日)』によると、この剣岩の表面には、武甕槌神(たけみかづちのかみ)を模ったオリオン座が刻されており、これは、叢雲釼(むらくものつるぎ)であるとしている。 |
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【荒深道斉のスケッチ 叢雲釼 『天孫古跡探査要訣』、道ひらき(1939)より】 |
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【剣岩(叢雲釼) 南から撮影】Photograph 2013.6.11 |
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【剣岩(叢雲釼) 西から撮影】Photograph 2013.6.11 剣岩の西に累々と岩が積み重なっている。 |
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【剣岩(叢雲釼)】Photograph 2017.4.22 |
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●八咫鏡のイワクラ | ||
荒深道斉は、ごろごろ岳の頂上から1500メートル南東に下った麓に、八咫鏡(やたのかがみ)のイワクラも発見している。(北緯34度45分13.93秒、東経135度18分21.97秒) これは、他に類を見ない不思議な形をしたイワクラである。形は少し歪ではあるが、丸い面の周りに花弁状の縁取りがこしらえてある。これを鏡であると比定した荒深の気持ちは良く理解できる。 今では、東方向の花弁が崩れており看板などもなく、このまま忘れ去られてしまうイワクラの一つではないかと思う。貴重なイワクラなので、なんとか保存したいものである。 |
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【荒深道斉のスケッチ 八咫鏡鏡石 『天孫古跡探査要訣』、道ひらき(1939)より】 |
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【八咫鏡のイワクラ 南から撮影】Photograph 2013.6.22 |
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【八咫鏡のイワクラ 西北から撮影】Photograph 2013.5.1 鏡岩は南からでないと鏡形に見えない。 |
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【八咫鏡のイワクラ 北から撮影】Photograph 2013.5.1 |
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【八咫鏡のイワクラ 東から撮影】Photograph 2013.5.1 東の角は崩れている。荒深道斉は、この面に古代文字が彫られていると記している。 |
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■八尺瓊勾玉のイワクラ |
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荒深道斉は、叢雲釼のイワクラと八咫鏡のイワクラを発見しているが、三種の神器に模しているなら、八尺瓊勾玉のイワクラが無いのはなぜであろうか、そう疑問に思っていたところ、2013年6月22日に、ごろごろ岳頂上部でその勾玉のイワクラを発見した。北緯34度46分01.42秒、東経135度17分54.34秒) ごろごろ岳頂上部は、岩の上に立ち風向きを確認したといわれる風の岩があるとネットで紹介されているが、ごろごろ岳三角点より西に山道があり行き止まりと記載されている。このようにごろごろ岳の頂上に磐座らしい巨石があるということは知られていたようだが、木々に覆い隠されて、私の知る限りその全体像がまともに取り上げられたことはなかったようである。それが2013年の1月頃から宅地工事の準備が始まり、丸裸になったイワクラの全貌が現れたのである。 岩上面が平らに削られているだけでなく、下部に足までついている岩がある。これは、祭壇に違いないと直感した。この祭壇岩の北には天を指した巨石がある。神戸新聞(2008年3月19日)がごろごろ岳の頂上部を撮影した過去の写真には、この巨石と対になるように2つの岩の間に三角の岩を挟みこんだ特徴的な岩が写っている。これは女陰ではないだろうか、そうすると北の巨石は男根で陽岩と陰岩が対になって造られ、これを祭壇岩から拝していたという祭祀形態が描ける。ただし、この陰岩は、すでに存在しない。 |
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【ごろごろ岳 頂上の巨石群全景】Photograph 2013.6.30 |
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【ごろごろ岳 頂上の祭壇岩】Photograph 2013.6.22 |
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【ごろごろ岳 頂上の男根岩】Photograph 2013.6.30 |
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祭壇岩の西には、風の岩と呼ばれている巨岩がある。東から見ると二つの岩を積み重ねた形だが、南から見るとまるで人の顔のように見える。また、祭壇岩の南西には、岩が円形状に並べられた祭祀場がある。 |
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【ごろごろ岳 頂上の風の岩 東から撮影】Photograph 2013.7.14 |
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【ごろごろ岳 頂上の風の岩 南西から撮影】Photograph 2013.6.22 |
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【ごろごろ岳 頂上の祭祀場】Photograph 2013.6.30 |
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さらに、祭壇岩の南東には、ぐにゃりと曲がった落花生のような形状の岩がある。これは勾玉を形作ったものではないか、そう推察したのである。 前述したように、このごろごろ岳では、剣岩、鏡岩が見つかっており、荒深道斉によりこれらが叢雲釼と八咫鏡であると比定されているのであるから、当然、三種の神器の残り一つである八尺瓊勾玉を模ったイワクラがごろごろ岳にあっても不思議ではない。いや、むしろ、ごろごろ岳から見つかるべきである。 また、このごろごろ岳頂上のイワクラ群には、八咫鏡のイワクラに良く似た加工をされた岩もあり、この頂上のイワクラと八咫鏡のイワクラは、同じ氏族が造ったイワクラだと思われる。さらに叢雲剣も八咫鏡も、南の方向から見ないと、剣や鏡に見えないが、この岩も南から見ないと勾玉には見えないことも同じ設計思想で造られている。 このイワクラが、叢雲剣のイワクラ、八咫鏡のイワクラに続く、八尺瓊勾玉である論拠は以下のとおりである。 1) 形が勾玉の形をしている。 2) 叢雲釼のイワクラ、八咫鏡のイワクラと同じ、ごろごろ岳に存在する。 3) 叢雲釼のイワクラ、八咫鏡のイワクラと同じように、南方向から見ないと、その形に見えない。 4) このイワクラの側に、八咫鏡のイワクラと同じ造りの岩が存在する。 このごろごろ岳頂上部の磐座を「八尺瓊勾玉のイワクラ」と呼称する(平津豊命名)。 |
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【八尺瓊勾玉のイワクラ 南東から撮影】Photograph 2013.6.30 |
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【八尺瓊勾玉のイワクラ 北東から撮影】Photograph 2013.7.14 八尺瓊勾玉のイワクラは南からでないと勾玉形に見えない。 |
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【ごろごろ岳 頂上の八咫鏡の磐座に良く似た岩】Photograph 2013.6.30 |
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【ごろごろ岳 頂上の巨石群のスケッチ 平津豊作図】2013.7.14 |
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ごろごろ岳頂上にありながら、登山道から30メートルほど外れているために、これまで見つからなかったのであるが、昭和初期に、このあたりをくまなく調べたであろう荒深道斉が、この頂上のイワクラ群に気がつかなかったのは、何とも不思議である。 これまで、叢雲釼のイワクラと八咫鏡のイワクラに対し、八尺瓊勾玉のイワクラは今は未だ眠っていると、まことしやかに伝えられてきたが、その八尺瓊勾玉が姿を現したのである。 このごろごろ岳頂上のイワクラ群は、私有地にあり、次々とイワクラが破壊され、道路わきの石垣に並べられている。勾玉のイワクラも破壊されてしまうかもしれない。なんとも残念でならない。 なお、これらを三種の神器に例えて述べてきたが、三種の神器が縄文時代に存在したわけではない。むしろこれは逆で、八咫鏡のイワクラ、叢雲剣のイワクラ、勾玉のイワクラのそれぞれの形、つまり円、三角(または菱形)、勾玉形から三種の神器が創造されたのではないだろうか。円と三角は基本図形であり、残る勾玉形については、胎児を表すというのが定説であるが、私は渦巻きの変形ではないかと考える。このように仮定してみると、円、三角、渦巻きという図形は、縄文から続く線刻にも多くみられ、測量や力学を利用するには必要な概念である。これらが揃うと、角度測定、測量、力を低減化する滑車技術などにつながるのである。縄文時代から伝わる聖なる図形だったのではないだろうか。 |
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また、このごろごろ岳周辺は、奥池の高級住宅地になっているが、目神山の住宅地と同様に、その宅地内にもイワクラと思われる岩石が残っている。 ある邸宅内に、磐座として祀られている岩石がある。ご主人の話によると、この土地を購入された後、この岩石を壊して家を建てようとするとなかなか進まなかった。そこへ、甑岩神社と六甲山の石の宝殿を結ぶ線を清めに来た霊能者に出会い、この岩は神の岩で古代の統治者がここで冬至の日の出を確認し1年の始まりを宣言した場所だから壊してはいけないと言われ、岩石を避けて家を設計すると、たちまち建築許可が下りたそうである。それ以来この岩石を磐座として祀っているとのことであった。 この磐座は亀のような姿で、小高い丘の斜面に鎮座していて、その西の隙間が南北線に一致している。ご主人によるとこの磐座を中心として斜面に一直線に石が並んでいたそうである。この磐座を中心として270°、240°、215°にその痕跡がある。270°は真西で春分秋分の日の入り方向、240°は冬至の日の入り方向となる。 また、この邸宅の石垣には「吉神」という文字が彫られた石が使われている。ご主人によると、この敷地内のどこかにあった石を石垣に使ったようで、磐座の名前なのかもしれない。「吉神」は易において「凶神」と対に使われる方位神のことではないかと推する。 |
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【奥池の邸宅内のイワクラ】Photograph 2017.2.26 |
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【奥池の邸宅内のイワクラ】Photograph 2017.7.30 南北線を示すスリット |
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【奥池の邸宅内のイワクラ】Photograph 2017.7.30 斜面に並ぶ列石 |
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【奥池の邸宅内のイワクラ】Photograph 2017.7.30 「吉神」という文字が彫られた石 |
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そして、一番驚いたのは、この磐座が六甲山神社(石の宝殿)と越木岩神社の線上にぴったりと一致することである。正確にいうと六甲山神社の磐座と越木岩神社の中座(貴船社)を結ぶライン上にこの磐座が乗っている。しかもこの磐座から六甲山神社の磐座までの距離が2600メートル、この磐座から越木岩神社の中座までの距離が2600メートルとちょうど中間に位置しているのである。 六甲山神社の磐座と越木岩神社を結ぶラインについては、前述したように、冬至の日の出(夏至の日の入)の方向である。その中間にこのような磐座が存在しているとは驚きである。これらのことを考え合わせると、この磐座とその一帯は方位や基点を示すための施設だったのではないかと推測する。 |
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また、武部正俊氏に案内してもらった邸宅内にも特徴的な岩組みがある。 微妙なバランスで組上げられており、小さな石を一つ取除けば崩れてしまいそうである。スリットもあり、詳しく調査すればイワクラである可能性が高い。 |
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【奥池の邸宅内のイワクラ】Photograph 2017.2.26 |
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【奥池の邸宅内のイワクラ】Photograph 2017.2.26 |
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■六甲山に浮かぶ三角形 |
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江頭務氏は、叢雲釼のイワクラと八咫鏡のイワクラと弁天岩が正三角形を形成していることを『江頭務:「漢人のイワクラ」、イワクラ学会会報8号(2006)』で発表されている。 この正三角形は、正確な60度を示しており、偶然とは考えにくく、何者かが意図をもって構築した可能性が高い。六甲山系のイワクラを考察する上で重要な発見である。 これに対し、私は、この三角形の叢雲釼のイワクラから弁天岩を結ぶ辺を南に伸ばすと、保久良神社に到達することを発見した『平津豊:「六甲に走るレイライン」、HPミステリースポット(2013)』。 保久良神社にもイワクラ群が存在しており、この事実も偶然とは考えにくい。その保久良神社について説明する。 |
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【六甲山に浮かぶ三角形】 |
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■保久良神社 |
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兵庫県神戸市東灘区本山町の金鳥山中腹に保久良神社(ほくらじんじゃ)という古社が鎮座している。(北緯34度44分08.08秒、東経135度16分40.91秒) この神社には、巨大な古代の謎が潜んでいる。 |
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【保久良神社】Photograph 2013.7.14 |
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保久良神社の御由緒は以下のとおりである。 | ||
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保久良神社 御由緒
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御祭神について、境内に説明が掲げられていたので転記する。 | ||
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御祭神「椎根津彦命」の御事蹟(その一)
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上記の社伝によれば、椎根津彦命が実在の人物として登場し、須佐之男命・大歳御祖命・大国主命を祭祀したとある。 延喜式神名帳にも「保久良(ほくらの)神社」として記載され、御祭神は須佐男命となっている。 しかし、やはり、この保久良神社の本来の主神は、椎根津彦命であろう。 椎根津彦命について、少し掘り下げてみる。 『古事記』では、椎根津彦命は次のように、神武東征に登場する。 |
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またその國より遷り上り幸でまして、吉備の高嶋宮に八年坐しき。故、その國より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて、釣しつつ、打ち羽擧き來る人、速吸門(はやすひのと)に遇ひき。ここに喚び歸せて、「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は國つ神ぞ。」と答え曰しき。また、「汝は、海道を知れりや。」と問ひたまへば、「能く知れり。」と答へ曰しき。また、「從に仕へ奉らむや。」と問ひたまへば、「仕へま奉らむ。」と答へ曰しき。故ここに槁機を指し渡して、その御船に引き入れて、すなはち名を賜ひて、槁根津日子(さをねつひこ)と號けたまひき。こは、倭國の造等の祖。 |
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『日本書紀』では、次のように書かれている。 | ||
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其の年の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。速吸之門に至ります。時に、一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、招せて、因りて問ひて曰はく、「汝は誰そ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神なり。名をば珍彦(うづひこ)と曰す。曲浦(わだのうら)に釣魚す。天神の子来でますと聞りて、故に即ち迎へ奉る」とまうす。又問ひて曰はく、「汝能く我が為に導つかまつらむや」とのたまふ。対えて曰さく、「導きたてまつらむ」とまうす。天皇、勅をもて漁人に椎槁(しひさお)が末を授して、執へしめて、皇船に牽き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦(しひねつひこ)とす。此即ち倭直部が始祖なり。 |
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『旧事本紀』では、次のように書かれている。 | ||
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天孫親ら諸ら諸の皇子・舟師を帥て東征たまふ。速吸門に至し時に一漁人有て艇に乗て至る。
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どの話も同一の出来事を伝えていることに異論はないであろう。 神武天皇が海路で大阪に攻め入る途中、速吸門で待っていた珍彦が神武天皇を案内し、椎根津彦という名を賜る話である。 その後、椎根津彦は神武天皇に付き従い、変装して天香具山の土を持ち帰り、これをもって神武天皇は戦勝を祈願し、勝利する。 椎根津彦はその功により、倭国造の要職に就くという話でもあり、倭国造つまり大倭氏の祖神逸話にもなっている。 また、姫路沖の家島にある「どんがめっさん」という海亀を模したイワクラには次のような逸話が伝わっている。 |
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白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、沖で釣をしていると、吉備水道を抜け出て来た船団が播磨灘に向かってやってきて、翁がこの海に関して詳しい事を知り、翁に道先案内を頼みました。船団は、家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、食料の補充をして数年間がたちました。そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。難波について翁は手柄を褒められました。翁の亀は、忙しい主人をおいて、先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。
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【どんがめっさん】Photograph 2013.12.8 |
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この家島の逸話も椎根津彦と神武天皇の出来事を伝えたものと考えられる。 神武天皇が吉備の高嶋から大阪に行く途中に出会っており、家島にもその話が伝わっているとすると、速吸門は明石海峡だと考えられる。 そして、その椎根津彦が祀られているのが神戸の保久良神社であるということに違和感は全く無い。 これらの話の中に登場する珍彦こと椎根津彦は、海亀に乗った翁が釣りをしているという姿で表現されているが、この姿から何か想像しないだろうか、そう浦島太郎である。 珍彦と浦島太郎の関係については、考察が長くなるので、別の機会に述べることにする。 |
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■保久良神社の磐座 |
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神社の南には石灯篭があり「灘の一つ火」と呼ばれている。古代から絶やすことなく灯がともされていたが、昭和33年(1958年)頃に電灯に変わったようである。 阪神大震災でこの石灯篭をはじめ、鳥居や社務所も倒壊したが、今では、猿丸宮司や氏子の尽力によって復興している。 この「灘の一つ火」は、灯台の役目をしていて、沖を通る船の安全を守ったもので、保久良神社は、古代の海上交通の要所であった。 それは、神武天皇の海路の案内をした椎根津彦命=珍彦を祀っている神社に相応しい。 また、日本武命が熊襲遠征の帰途、夜に航路がわからなくなった時、保久良神社の灯火が見えて難波へ帰りつけたという話もある。1月20日の大俵(だいひょう)祭では、餅を長方形に伸ばして、両側から折り重ね、藁苞にして供える。これは昔、兵糧として用いられた餅で、日本武尊が熊襲征伐の帰路、この餅を持参して参拝したものと伝えられている。 さらに、社伝によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、広田、長田、生田神社を祭り、保久良に宝物を収めたとされており、広田神社に並ぶ重要な神社であったと考えられる。 保久良神社および背後の金鳥山の一帯は、六甲山よりも早く隆起した土地で、水成岩の地質である。 この古い地質の保久良神社を取り巻くように巨石が点在し、昭和13年(1938年)の社殿改築工事の際には、紀元前2~300年頃の祭礼用の石斧や銅戈、鏃、土器などが出土している。古代から、この地で祭祀が行なわれていた証拠である。 磐座に関する境内の説明には以下のように書いてある。 |
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「磐座」古代祭祀遺蹟地
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猿丸宮司のご好意で、本殿裏の瑞垣内にある磐座を見せていただいた。 本殿を取り巻くように巨石が並んでいるが、猿丸宮司の話では、本殿の北に位置する小さな石がこの磐座群の中心だという。他の岩が地面に埋まっているのに対し、この石だけが、地面と切り離されているのがその理由らしい。 また、神社の境内やその外に存在する磐座について、いくつかは破壊されてしまったり、取り除かれてしまっているが、磐座は二重の円を形成しているようだと教えていただいた。 六甲山系で有名な磐座である天叢雲剣の磐座と弁天岩を結んだ線を伸ばすとこの保久良神社に到達することから、私は、保久良神社の位置が、重要な意味を持っていると考えている。 |
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【保久良神社の本殿北の瑞垣内の磐座と猿丸宮司】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社本殿東の磐座】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社本殿北東の磐座】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社本殿北の磐座】Photograph 2013.7.14 表面に線刻があるように見えるが、時間が無く詳しく調査できなかった。 |
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【保久良神社本殿北の磐座 中心石】Photograph 2013.7.14 猿丸宮司によるとこの石が磐座群の中心となる石とのこと (北緯34度44分08.75秒、東経135度16分41.47秒) |
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【保久良神社本殿北西の磐座】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社本殿西の磐座】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社境内西にある磐座 神生(かみなり)岩 北から撮影】Photograph 2013.7.14 (北緯34度44分07.48秒、東経135度16分40.95秒) |
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【保久良神社境内西にある磐座 神生岩 南から撮影】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社境内南にある磐座 立石 北から撮影】Photograph 2013.7.14 (北緯34度44分07.48秒、東経135度16分40.95秒) |
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【保久良神社境内南にある磐座 立石 南から撮影】Photograph 2013.7.14 |
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【保久良神社境外東にある磐座 三交(さんご)岩 西から撮影】Photograph 2013.7.14 (北緯34度44分08.13秒、東経135度16分42.89秒) |
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【保久良神社境外東にある磐座 三交岩 北下から撮影】Photograph 2013.7.14 |
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『攝津保久良神社遺跡の研究』には、昭和16年(1941年)に樋口清之氏が保久良神社の遺蹟を研究した結果が詳しく書かれている。以下その抜粋である。 | ||
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當遺跡に布設せられてゐる巨石の石質は之を大別して、石英粗面岩Ryoliteと緑泥片岩Chlorite schistの二種類とすることが出來る様觀察した。
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【保久良神社の岩群図】 『攝津保久良神社遺跡の研究』より |
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【保久良神社の岩群の配置パターン図】 『攝津保久良神社遺跡の研究』より |
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【出土した銅剣】 『攝津保久良神社遺跡の研究』より |
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この文献が書かれた時期には、神生岩は雷岩、三交岩は三五岩と表記されていたようである。(平津注) |
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■カタカムナ文献と楢崎皐月 |
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いろいろと逸話の残る保久良神社であるが、さらに不思議な話が伝わっている。 1949年、この神社が鎮座する金鳥山で、楢崎皐月がカタカムナ神社の平十字という老人からカタカムナという文献を見せられている。 そのカタカムナ文献は、幾何学的な円と直線からなる図象文字で書かれており、楢崎は、満州で交流していた蘆有三(らうさん)導士から聞かされたアシア族の八鏡化美津文字(はっきょうかみつもじ)ではないかと考え、これを翻訳することに成功した。 楢崎皐月の解読によってこのカタカムナ文献は高度な文明を築いた古代人の宇宙観を、詩歌という形で書いた科学書であることがわかったのである。楢崎は、これをもとに、相似象学と呼ばれる独自の学問を展開している。 それは、原子転換、正反重畳状態の原則、不確定性原理、極限飽和定律、風景工学、医療法、農法など驚愕な内容である。 楢崎皐月が書いた『日本の物理学予稿』から少し引用すると。 |
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上古代が始元量と直感した間(マ)には、数種の基本的状態があり、それぞれの間(マ)の状態は微分された状態が統合されているという観方をしている。そして微分状態量のいくつかの組み合わせ量、すなわち状態和の量に従い、いろいろな物と成り、いろいろな物理を構成するという観方をしている。また間(マ)の基本的状態は始元状態の変遷の相(スガタ)であり、その変遷を(アマノタカマカハラ)と表現したのである。したがって後代人が(アマノタカマカハラ)を神の在す高天原、すなわち超自然界の如く解釈したことは当たっていない。上古代人は全く神秘思想がなく極めて高度の理学思想を持っていたことを指摘しておく。
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(A3)(モコロシマ オホゲツヒメ ミツゴナミ ヒノカガビコ タグリカナヤマ)
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このように、神名や国名は古代の物理用語であり、古文書を史書としてではなく、科学書として解読したのである。 楢崎は、陸軍の技術研究機関で研究を行なっていた人物であり、この解釈には、多分に楢崎の自論が持ち込まれているのは間違いないであろう。 したがって、この解説を全て鵜呑みにすることはできないが、カタカムナ文献の「カムナガラ」「ミトロカエシ」「イヤシロチ」などの言葉のリズムは魅力的であり興奮すら覚える。この文献自体を創作と切り捨てるには、あまりにも魅力的すぎるのである。 |
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【上古代 八鏡之文字 研究資料(再写録)楢崎皐月 昭和29年4月5日-6月21日より】 |
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上図のように カタカムナ文献は、右回りの螺旋状に幾何学文字が配置されていて、中心から外に向って読むそうである。 保久良神社のイワクラの配置について、樋口清之氏は二重及び三重の円と推測されているが、私には、渦巻状に配置されているのではないかと思えてならない。 樋口清之氏の二重円及び三重円説は、イ群を共有した円となる。したがって猿丸宮司が主張していた中心石が本殿北のイ群にある事と合致する。しかし不自然ではないだろうか、普通、二重円や三重円は、独立した円を描くと思うのだ。 むしろ、ト群を起点とした螺旋と考えた方が自然ではないだろうか。 この場合、最も重要な点はト群になるが、この地点には立岩というメンヒルが立っているのである。私は、このメンヒルの方が遺蹟の中心に相応しいと考える。(平津豊保久良神社磐座の渦巻配置説(2014年)、Report 2014.3.8 保久良神社とカタカムナ) そして、これは、このカタカムナ文献に書かれている渦巻流体と保久良神社の関係を示すものであろう。 さらに、保久良神社の御祭神の別名が珍彦=ウヅヒコというのも意味深である。 |
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【保久良神社の岩群の配置パターン図 平津豊説】 |
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また、樋口清之氏の調査の中で銅剣が出土した層に木炭が多量に埋まっていたという事実が報告されているが、カタカムナには、木炭を地面に埋めて土地をイヤシロチ(快適な土地)にするという技術があり、この点も保久良神社とカタカムナをつなげる証拠の一つかもしれない。 さらに、私が注目するのは、このカタカムナ文献の第1歌の中に出てくる「アシアトウアン ウツシマツル」という言葉である。 素直に読めば、楢崎が見たカタカムナ文献は、アシアトウアンという人物が写したものという意味である。 この人物は誰なのか? これについては、楢崎が満州の老師から聞いたアシア族の人物と考えるのが自然であろう。 では、このアシア族とは何者なのだろうか。 楢崎は、満州の老師から、上古代の日本にアシア族という高度の文明をもつ種族が存在し、八鏡の文字を創り、特殊な鉄などさまざまな生活技術を持っていた。それが神農氏らによって支那に伝えられて、支那の文明の元になったという話を聞いている。 また、平十字は、カタカムナ神を祀る一族の王アシアトウアンと天皇家の祖先が戦い、アシアトウアンは敗けて九州で死んだと語ったともいう。 つまり、アシア族は、数万年前の日本に存在した種族であり、今とは異なる科学原理に基づいた高度な文明を持っており、その末裔は天孫族に滅ぼされているということである。 この古代文明を築いたアシア族こそ、保久良神社の磐座をはじめ、六甲山系に数多く残るイワクラを造った一族に相応しいと思うのだ。 もう、お気づきだと思うが、神戸市の東に位置する「芦屋」という地名は、六甲の地にアシア族が住んでいた証拠ではないだろうか。 |
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■六甲山のレイライン |
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六甲山のイワクラ配置について、2013年7月に私のホームページで『六甲山系の磐座~六甲に走るレイライン~』として発表した(イワクラ学会会報29号に掲載(2013))。 それは、江頭務氏が発見した叢雲剣のイワクラと八咫鏡のイワクラと弁天岩が形成する正三角形の底辺を延ばした線(Bライン)と三角形の頂点から、この底辺Bラインに平行で引いた線(Aライン)上に、重要なイワクラが位置していることの発見である。 |
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【六甲山のレイライン 1 平津豊説】 |
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●Aライン Aライン(北緯34度45分54秒~34度46分04秒)の東端から、祈りのイワクラ、太陽石、八尺瓊勾玉のイワクラ、叢雲剣のイワクラ、天穂日の磐座、六甲比命のイワクラ群がこのライン上に位置する。 特に、天穂日の磐座には、このAラインの方向を示す線刻があり、このAラインをなぞるように小さな岩が点々と続いている。 |
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【天穂日の磐座の近くにある線刻】Photograph 2013.4.21 |
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【天穂日の磐座から西に連なる岩】Photograph 2013.4.21 |
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●Bライン Bライン(北緯34度45分06秒~34度45分16秒)の東端から、八咫鏡のイワクラ、弁天岩、天狗岩、堡塁岩、三国岩がこのライン上に位置する。 未だ紹介していない堡塁岩は、岩が積み上がった巨大な岩で、クライミングで有名であるが、この岩も祭祀に関わったイワクラと推測する。また、海から見える磐座でもあり、シーマークの役割もあったと考えられる。 |
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【保塁岩(西) 東から撮影】Photograph 2013.4.21 |
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【保塁岩(西) 突端部を南から撮影 この方向から拝した可能性がある】Photograph 2013.4.21 |
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六甲山系を横断するこのAラインとBラインは東西のラインであり、春分と秋分の太陽の日の出と日の入りの方向である。なぜ六甲山のイワクラが一直線に並ぶのか、なぜ二本なのかについては、今後も研究して、明らかにしていきたいと考えている。 なお、場所は明かせないが、前述した目神山八光会の磐座のイワクラもこのライン上にきっちり載っていることだけは記しておく。 |
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【六甲山のレイライン 2 平津豊説】 |
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ここで、六甲山系で最も手厚く祀られている越木岩神社の甑岩が、このAラインにもBラインにも乗っていないのが気になるが、前述したように甑岩の祭祀ラインは南北750メートルもあり、その中心は奥津磐座にあたる太陽石である。この太陽石は、Aライン上に載っている。 | ||
また、甑岩と六甲山神社の磐座は、石の祠を介して結びついており、この2箇所を直線で結ぶと、六甲山神社の磐座から越木岩神社の甑岩を結ぶラインは、冬至の日の出方向と一致する(平津豊説)。 | ||
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【六甲山のレイライン 3 平津豊説】 |
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江頭務氏が発見した叢雲剣のイワクラと八咫鏡のイワクラと弁天岩の正三角とその一辺の延長線上に保久良神社の磐座群に至る。 そして、保久良神社の磐座群から甑岩を結ぶラインは、夏至の日の出方向と一致する(平津豊説)。 |
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【六甲山のレイライン 4 平津豊説】 |
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芦屋神社と天の穂日の磐座は、神社と奥宮の関係で結びついているが、天の穂日の磐座から芦屋神社を結ぶラインは、冬至の日の出方向に一致している(大江幸久説)。 | ||
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【六甲山のレイライン 5 平津豊説】 |
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また、当然のように、天の穂日の磐座と六甲山神社の磐座を結ぶと、夏至の日の出方向と一致してしまう(平津豊説)。 | ||
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【六甲山のレイライン 65 平津豊説】 |
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さらに、六甲山神社から真南に延ばした線は八幡滝に至るが、この八幡滝は、保久良神社の直ぐ側であり、保久良神社の祭祀場の範囲内と考えて良いかもしれない。 また、保久良神社から真東に伸ばしたラインと甑岩の祭祀ラインを南に伸ばしたラインと叢雲剣のイワクラと八咫鏡のイワクラと弁天岩の正三角の一辺を伸ばしたラインが交わる場所には、イワクラが存在しているべきであるが、国道2号線が通っており、イワクラが存在していたとしても破壊されてしまっているであろう。ただ、この交点から300メートル離れた場所に日向巨建岩が存在していることを付け加えておく。 |
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【日向天巨建岩 北から撮影】Photograph 2013.3.16 |
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このように、六甲山周辺には、数多くのイワクラが存在し、それらが計画されたように配置されている。 その配置が、太陽運行と関係のある方向であることから、偶然ではなく意図されたものと推測する。 縄文人は、二至二分の方向に巨石を配置し、その巨石から太陽が昇ったり沈んだりする光景を見て、二至二分を知ったのであろう。 それが時が経つにつれて忘れられ、重要な岩石であるという記憶だけが残った。 そして、アニミズムと結びつくことにより、重要な岩石は磐座として祭祀されるようになったと考えられる。時代が進んで、神話が作られ神に名前が付けられるようになると、神社祭祀へと変貌し、神社が山から田へ下ると、イワクラだけが元宮として山の中に残されたのである。 |
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■参考文献 |
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1 倉野憲司校注:古事記、岩波書店(1991) 2 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注:日本書紀、岩波書店(1994) 3 植垣節也校注訳:風土記、小学館(1997) 4 特選神名牒(内務省蔵版)、思文閣出版(1925) 5 大野七三編著:先代旧事本紀、批評社(2001) 6 遠山正雄:皇学、「いはくらについて」(1933~1936) 7 大場磐雄:祭祀遺蹟、角川書店(1970) 8 大場磐雄:日本考古学会考古学雑誌、「磐座・磐境等の考古学的考察」(1942)、32巻8号 9 鳥居龍蔵:鳥居龍蔵全集第四巻 「上代の日向延岡」、朝日新聞社(1976) 10 小野真一:祭祀遺跡、ニュー・サイエンス社(1982) 11 藤本浩一:磐座紀行、向陽書房(1982) 12 須田郡司:日本の聖なる石を訪ねて、祥伝社(2011) 13 水谷慶一:知られざる古代、日本放送出版協会(1980) 14 坂江渉:神戸・阪神間の古代史、神戸新聞総合出版センター(2011) 15 渡辺豊和:縄文夢通信、徳間書店(1986) 16 ホームページ玄松子「玄松子の記憶」、http://www.genbu.net/ 17 飯森隆年:「越木岩神社の古文書」(2008) 18 横田正紀:「本住吉神社紀」(2014) 19 大江幸久:ブログ「八上 白兎神社Ⅱと全国神話伝承」、 http://white.ap.teacup.com/hakuto/ 20 大江幸久:「六甲山・瀬織津姫とワカ姫 和す・尽くす」(2013) 21 樋口清之:史前学雑誌、「摂津保久良神社遺蹟の研究」(1942)14巻2・3号 22 荒深道斉:『天孫古跡探査要訣』、道ひらき(1939) 23 荒深道斉:「六甲山神代遺跡保存会主意書」(1932) 24 楢崎皐月:「上古代八鏡之文字研究資料」(1954) 25 楢崎皐月:「日本の物理学予稿」 26 西宮市郷土資料館:「甲山八十八ヶ所」、西宮市教育委員会(2012) 27 大和岩雄:「神々の考古学」、大和書房(1998) 28 虎関師錬:「元亨釈書」大菴呑碩写(1558) 29 神代秘史資料集成天之巻、八幡書店(1984) 30 江頭務:「漢人のイワクラ」、江頭務イワクラ学会会報8号(2006) 31 江頭務:「神奈備山磐座群の進化論的考察」、イワクラ学会報9号(2007) 32 江頭務:「古代北山・太陽観測施設説の調査報告」、イワクラ学会報12号(2008)。 33 平津豊:「六甲山新イワクラレポート」 イワクラ学会報29号(2013) 34 平津豊:「目神山樹木伐採・清掃ボランティア」、イワクラ学会報30号(2013) 35 平津豊:「神戸六甲山のイワクラツアーレポート」、イワクラ学会報31号(2014) 36 平津豊:「越木岩神社の磐座の重要性と神社隣地の磐座の保存活動」、イワクラ学会報34号(2015) 37 平津豊:「保久良神社とカタカムナ」、イワクラ学会報38号(2016) 以下、ホームページ「ミステリースポット」http://mysteryspot.main.jp/より 38 平津豊:「六甲山系の磐座~勾玉の磐座発見~」2013年7月26日 39 平津豊:「六甲山系の磐座~六甲に走るレイライン~」2013年7月29日 40 平津豊:「越木岩神社の甑岩」2013年11月23日 41 平津豊:「保久良神社とカタカムナ」2014年3月8日 42 平津豊:「六甲山イワクラツアー~瀬織津姫を訪ねて~」2014年8月28日 |
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2017年5月6日 「神戸六甲山のイワクラにまつわる謎」論文 平津豊 | ||
○2013年7月29日 平津豊ホームページ ミステリースポットに掲載「六甲山系の磐座~六甲に走るレイライン~」 | ||
○2017年5月6日 平津豊ホームページ ミステリースポットに改訂して掲載「神戸六甲山のイワクラにまつわる謎」 | ||
○2017年12月11日 イワクラ(磐座)学会会報41号 掲載 | ||
○2019年1月、2月 兵庫歴史研究会 歴研ひろば 269号、270号 掲載 | ||
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