諏訪大社と諏訪七石

 Report 2018.8.16 平津 豊 Hiratsu Yutaka  
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はじめに

長野県諏訪市に諏訪七石と呼ばれる岩石がある。これらは諏訪大社に関係する岩石のようである。
諏訪大社は、出雲の国譲りの際に、出雲から諏訪へ逃げたとされる建御名方(たけみなかた)神を御祭神とする神社である。この他に妃神の八坂刀売(やさかとめ)神と兄神の八重事代主(やえことしろぬし)が祀られている。
【諏訪大社 上社本宮】Photograph 2018.5.26

古事記には、建御名方神については、以下のように記載されている。

故ここにその大國主神に問ひたまひしく、「今汝が子、事代主神、かく白しぬ。また白すべき子ありや。」ととひたまひき。ここにまた白ししく、「また我が子、建御名方神あり。これを除きては無し。」とまをしき。かく白す間に、その建御名方神、千引(ちびき)の石を手末(たなすえ)に擎(ささ)げて来て、「誰ぞ我が國に来て、忍び忍びにかく物言ふ。然らば力競べせむ。故、我先にその御手を取らむ。」と言ひき。故、その御手を取らしむれば、すなわち立氷(たちひ)に取り成し、また劒刃に取り成しつ。故ここに懼(おそ)りて退き居りき。ここにその建御名方神の手を取らむと乞ひ歸(かえ)して取りたまへば、若葦を取るが如、塧(つか)み批(ひし)ぎて投げ離ちたまへば、すなはち逃げ去にき。故、追ひ往きて、科野(しなの)國の州羽(すわ)の海に迫め至りて、殺さむとしたまひし時、建御名方神白ししく、「恐し。我をな殺したまひそ。この地を除きては、他處(ところ)に行かじ。また我が父、大國主神の命に違はじ。八重事代主の言に違はじ。この葦原中國は、天つ神の御子の命の隨(まにま)に獻(たてまつ)らむ。」とまをしき。
------『古事記』より


出雲国譲りについてはこちら「出雲の磐座と神事」

この諏訪大社の御分霊を祀る諏訪神社は、北海道から九州にまで6500社存在するといわれている。諏訪信仰がこのように広まったのは、神功皇后の三韓出兵や坂上田村麿の東夷平定に神助ありと伝えれらたことや諏訪氏が鎌倉の御家人であったことから、武家の守護神として広まったと考えられる。

諏訪大社は、大祝(おおほうり・おおほり)という生き神を祀る信仰が明治まで続いていた土地である。大祝は、諏訪氏一門の幼児が務め、現人神として諏訪から外に出ることを禁止された。これは『古事記』の「この地を除きては、他處に行かじ」に基ずくものと考えられる。
大祝は、神を降ろす依り代として機能し、諏訪では長い間、祭政一致の統治形態が続いていたのである。

諏訪大社は、上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮の4つの社から成り立っているが、いずれも本殿を設けず、上社は磐座(いわくら)を通して守屋山を拝し、下社は斎庭(ゆにわ)の木を拝し、古代の祭祀形態を守り続けている。
上社は、建御名方冨(たけみなかたとみ)神を祀り、建御名方冨神の神裔とされる神(じん)家が大祝を務めた。神家は諏訪氏と名乗り、戦国時代に活躍する。
下社は、妃神の八坂刀売(やさかとめ)神を祀り、信濃国造の金刺(かなさし)氏が大祝を務めた。
大祝の下には神長官(じんちょうかん)が置かれた。上社の神長官は、守矢(もりや)氏が務めた。守矢氏は、守屋山の神、洩矢神の神裔とされ、建御名方神に征服された神と伝わっている。また、上社には「さなぎの鐸」という宝物が残っており、守矢氏のみが用いた道具で、6個の鉄鐸をつなぎ合わせたもので、祭祀で振り鳴らしたそうである。
【神長官守矢史料館 さなぎ鈴】Photograph 2018.5.27

【諏訪大社 上社前宮】Photograph 2018.5.27

そして、この4社の中で、特に前宮(北緯35度59分27.80秒、東経138度7分59.52秒)は重要である。
大祝は、前宮の神原(ごうはら)に居をかまえ、前宮で祭祀を行なっていた。この前宮には、大祝に神を降ろす時に使われた要石と呼ばれる磐座があったとされる場所や、大祝の住居の庭にあった弓立石、ミシャグチ神とともに冬ごもりした土室、御頭祭(おんとうさい)が行われる十間廊が残っている。
【大祝に神を降ろす時に使われた要石があった場所】Photograph 2018.5.27
【大祝の居館の庭にあった弓立石】Photograph 2018.5.27

【大祝がミシャグチ神とともに冬ごもりした土室跡】Photograph 2018.5.27
【御頭祭が行われる十間廊】Photograph 2018.5.27

現在の御頭祭は、途絶えていた祭りが1614年に再興されたもので、古代の祭とは異なっている。
本宮で御霊代を神輿に移し、前宮まで行幸する。十間廊では、神輿の前に鹿の剥製が捧げられる。これに御杖柱(みつえはしら)が奉じられ、雅楽が演奏される中、神事が続く。
この神輿は、明治5年に廃止された大祝の代わりに用いられているものである。また、現在は鹿の剥製となっているが、古代では、当然ながら本物の鹿が75頭供えられていたのである。そして問題は、御杖柱である。現在の御杖柱は、2.2メートルの檜の角柱であるが、昔は榊の杖に髪の毛を結びつけたものであったという、さらに御杖柱は、「御贄柱」と書き「オンネ柱」であるという文献もある。これに「オコウ」役の少年を縛りつけて、後に開放されていたという噂もある。
これらは諏訪の神事に「生贄」という儀式が存在していた証拠ではないだろうか。
【神長官守矢史料館 御頭祭に差避けられた鹿】Photograph 2018.5.27

【神長官守矢史料館 御贄柱】Photograph 2018.5.27

また、この御頭祭は、旧約聖書との類似性が日ユ同祖論者によって指摘されている。
それは、イサクの燔祭と呼ばれている部分である。

神はアブラハムを試みられた。そして彼に、「アブラハムよ」と言われ​た。それに対し彼は、「はい、私はここにおります!」と言った
すると、続いてこう言われた。「どうか、あなたの子、あなたの深く愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に旅をし、そこにおいて、わたしがあなたに指定する一つの山の上で、これを焼燔の捧げ物としてささげるように」。
それでアブラハムは朝早く起き、自分のろばに鞍を置き、従者二人と息子のイサクを伴った。そして焼燔の捧げ物のためのまきも割った。それから彼は身を起こし、神の指定された場所に向けて旅立った。三日目になってから、アブラハムが目を上げるとその場所が遠くから見えるようになった。そこでアブラハムは​従者たちに言った、「あなた方はろばと共にここにとどまっていなさい。わたしと​この子とは、あそこまで進んで行って崇拝をささげ、それからあなた方のところ​に戻って来ようと思うのだ」。
その後アブラハムは焼燔の捧げ物のためのまきを取って息子イサクに負わせ、自分の手には火と屠殺用の短刀を取った。そして、二人は共に進んで行った。やがてイサクがその父アブラハムに語りかけて、「父上l!」と言った。彼はそれに答えて、「わたしはここにいる、我が子よ!」と言った。それでは続けて言った、「ここに火​とまきがありますが、焼燔の捧げ物のための羊はどこにいるのですか」これに対してアブラハムは言った、「我が子よ、神が自ら焼燔の捧げ物のための羊を備えてくださるであろう」。こうして二人は共に歩きつづけた。
ついに彼らは神が指定された場所に着いた。それでアブラハムはそこに祭壇を築き、まきを並べ、息子イサクの手と足を縛って、祭壇の上、そのまきの上に寝かせた。次いでアブラハムは手を伸ばし、屠殺用の短刀を取り、自分の子を殺そうとした。ところが、エホバのみ使いが天から彼に呼びかけて、「アブラハム、アブラハム​よ!」と言った。それに対して彼は、「はい、私はここにおります!」と答えた。するとみ使いは、さらに言った、「あなたの手をその少年に下してはならない。これに何を行なってもならない。わたしは今、あなたが自分の子、あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので、あなたが神を恐れる者であることをよく知った」。そこでアブラハムが目を上げて見ると、ずっと前方に、一頭の雄羊が角をやぶに絡めて動けなくなっているのであった。それでアブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、自分の子の代わりにそれを焼燔の捧げ物としてささげた。
-------創世記 22章1-18節より


この類似性は、非常に高い。
オコウ役の少年、雄羊と雄鹿、そしてモリヤ山と守屋山。
なぜ、諏訪の人々は、アブラハムの子であるイサク(ユダヤ人の祖)にまつわる伝承を受け継いでいるのであろう。
ユダヤ人が諏訪に渡来して、イサクの燔祭を伝えた可能性がある。それは、建御名方神が諏訪に鎮座する以前の事である。
【守矢氏が祀る御左口(みさぐち)神社】Photograph 2018.5.27

諏訪大社で6年毎に行われる「御柱祭」も不思議な祭りである。山中から大木を16本切り出し、各宮の四隅に建てる祭りである。他の地方では見られない奇祭である。
この御柱祭に縄文時代の巨木を扱う技術が受け継がれていることは確かであろう。
一方、御柱の意味について、一般的に、神の依り代と捉えられている。
しかし、私はそうは思わない。まず神の依り代であれば四隅に4本も立てる意味がわからない。さらに御柱は、山の中で切り出された後、引き回され傷だらけになるのである。これは依り代に相応しい扱いとは思わないのである。
私は御柱は神域を示す結界であり、さらに言うならば人柱の代わりかもしれないと思うのである。
 【諏訪大社 上社前宮の御柱】Photograph 2018.5.27

小袋石

この前宮が背後の守屋山を拝していることは前述したが、その方向に700メートル登ったところに「小袋石(おふくろいし)」がある(北緯35度59分21.61秒、東経138度7分27.48秒)。
小袋石にたどり着くまで、磯並社(玉依姫命、池生神)、瀬神社(須瀬理比売命(説))、穂股社(御井神(説))玉尾社(興玉命)の小さな祠をたどっていくことになる。近くには、磯並山神(大山祇神)、下馬社(道俣神(説))の祠もあるそうである。
ここは、諏訪大社の境内地で、大祝が職位するときの上十三所御社参の祭場であるので、磐座祭祀が行われていたと考えて良いだろう。
小袋石は幅約8メートル、高さ約2メートルの巨石であるが、地面とは縁が切れている。
この巨石には「舟つなぎ石」の別名がある。太古は諏訪湖の水がここまであり、この岩に舟をつないでいたと言い伝えられている。小袋石の上部が特徴的な形をしており、この形状から舟をつないだと考えられたのだろう。昔には諏訪湖が中山道まで迫っていたと聞いたが、小袋石の標高は916メートルであり、現在の諏訪湖との間には160メートルもの標高差がある。この差はちょっと高すぎると考える。
いずれにしても神長官の御左口神社と御神体山守屋山の間に鎮座している磐座なので、御左口神社は、小袋石を通して守屋山を拝しているのではないだろうか。
 【小袋石  案内していただいた齋藤さんと 】Photograph 2018.5.26
 【小袋石の下部】Photograph 2018.5.26

沓石

二つ目の「沓石(くついし)」は、諏訪上社本宮の一の御柱の後ろにある(北緯35度59分54.65秒、東経138度7分08.63秒)。
沓の形に似ていることから沓石と呼ばれているが、諏訪大神が乗った御馬の蹄の跡が残る石とも伝わっている。
ちなみに、この沓石の後ろには、1835年に諏訪の国学者宮坂恒由が建てた天之逆鉾(あめのさかほこ)が立てられている。
 【沓石】Photograph 2018.5.26

 【天之逆鉾】Photograph 2018.5.26

硯石

三つ目は、最も有名な「硯石(すずりいし)」である(北緯35度59分52.88秒、東経138度7分09.12秒)。
これも諏訪上社本宮にあり、四脚門から守屋山の方向を見ると遠くに硯石が見える。古代の諏訪上社本宮では、この硯石から守屋山を拝していたと考えられる。正確に四脚門から硯石の方位を測ると205度であり、このラインを伸ばすと守屋山の頂上ではなく守屋神社の側を通ることになった。
現在の諏訪上社本宮では、拝殿から神居に向う方向が祭祀ラインとなっている。神仏習合の時代には、この神居の中に弘法大師が建てたお鉄塔があったという。つまり、仏教によって祭祀方向が変えられてしまったのではないだろうか。ただし、この拝殿から神居の方向は115度であり、この方向から冬至の日が昇ることになる。
さて、その諏訪上社本宮の磐座である硯石には近づけないのでよく見えないが、上部が窪んだ岩であると伝わっている。
また、『諏訪大社上社古図』に描かれた位置とは異なっているように思える。この硯石は嵩上げされたという情報もあり、移動している可能性が高い。
 【四脚門から見る硯石】Photograph 2018.5.26

 【硯石】Photograph 2018.5.26

 『諏訪大社上社古図』(神長官守矢史料館ガイドブック)より

諏訪上社本宮の新旧の祭祀ライン

蛙石

四つ目の「蛙石」または「甲石」も諏訪上社本宮にあることになっているが、どこにあるのか不明となっている。上社古図の拝殿の奥の神居にあるという文献もあるが、よくわからない。
『諏訪大社上社古図』には「硯石」、「沓石」、「御座石」が描かれているが「蛙石」は見当たらない。替わりに蓮池の側に「ヲカケ石」が描かれている。
この蓮池の「ヲカケ石」は写真の石だと思うが、蛙に見えるので、この石が「蛙石」ではないだろうか(北緯35度59分56.21秒、東経138度7分07.20秒)。
『諏訪大社上社古図』(神長官守矢史料館ガイドブック)より

 【蛙石】Photograph 2018.5.26

蛙と言えば、元日の朝に、上社本宮では蛙狩神事が行われる。
御手洗川の川底から蛙を捕らえて、矢で蛙を射抜き、生贄として神前に捧げる神事である。
これもまた、諏訪に残る生贄の風習の一例ではないだろうか。

御座石

五つ目は、この『諏訪大社上社古図』にも描かれている「御座石」である。
文明年間(1469~1486年)に書かれた『諏訪上社物忌令之事』には、「御座石と申すは正面の内に在り、件の蝦蟇神の住所の穴龍宮城へ通ず、蝦蟇神を退治、穴破り石を以って塞ぐ、其上に坐給いし間、名を石之御座と申す也、口伝これ在り」と書かれており、蛙石と御座石の関連性がみられる。
現在の諏訪上社本宮には、この「御座石」は見当たらず行方不明である。
『諏訪大社上社古図』(神長官守矢史料館ガイドブック)より

他の文献は、矢ケ崎の上社の摂社御座石神社の御座石としている。
この御座石神社には3つの石がある。一番大きな石は、社殿の西にある穂掛石であるが、この石は吉田の田の中で穂を掛けていた石とあるので、御座石ではない。
鳥居の前にある「御履石」と拝殿の前の石については、諏訪明神(建御名方命)が母神を高志(越後)から呼び寄せた時、高志沼河姫命が鹿に乗って社前の石に降り立ち、旅の履をはきかえられたと伝わる。拝殿の前にある石は、どぶろく祭のときに幣帛が捧げられるというので磐座である。名前が掲げられていないが、御座石としては、この2つの石がふさわしい(北緯36度00分09.31秒、東経138度10分23.85秒)。
 【御座石神社】Photograph 2018.5.26

 【御座石神社 穂掛石】Photograph 2018.5.26

 【御座石神社 御履石】Photograph 2018.5.26

 【御座石神社 拝殿の前の石】Photograph 2018.5.26

亀石

六つ目の「亀石」は、高島城の中にある。元は西茅野市の安国寺と中河原の境にあった千野川明神に祀られていた。それが洪水で流されてしまい、その後、高島城に置かれていたが、1875年に売却されてしまった。それが2007年に所有者により高島城に戻されたものである(北緯36度02分22.37秒、東経138度06分44.47秒)。
まさに亀の形をしていて、水を掛けると甲羅の模様が浮かび上がり、願いがかなうと云われている。
 【亀石】Photograph 2018.5.26

兒玉石

七つ目の「兒玉石」または「小玉石」は、新井にあったが無くなってしまったという説と、湯の脇の兒玉神社の「いぼ石」という説がある。
諏訪七石が、諏訪上社にまつわる石であるとすると、この兒玉神社は外れてしまうが、兒玉神社の御祭神は建御名方命の孫の兒玉彦命であるので結びついている。
兒玉神社には5つの巨石があり、拝殿前の2つの巨石は「いぼ石」と呼ばれ、この石の穴に溜まった水でいぼを洗うと必ず治癒するといわれている(北緯36度03分04.61秒、東経138度07分07.40秒)。
『神諏訪宮神徳記抄』には「神が諏訪湖より大石を取り上げたが袖は濡らさなかった。中に二個の大石があり兒玉石大明神と称した。」とある。
 【兒玉神社】Photograph 2018.5.26

 【兒玉神社のいぼ石】Photograph 2018.5.26

諏訪七石の考察

諏訪七石を巡ってみて、ある特徴に気がついた。
他の地域の祭祀されている岩石、つまり磐座は、その場所が意味を持っているため、古代から動いていないのが普通である。それが、諏訪七石では、ほとんどの岩石が移動しているのである。
また、ほとんどの岩石が水に関係があることも特徴である。
亀石、蛙石は水に関係のある動物が水辺に祀られていた。兒玉石に溜まる水に治癒力があるとしていた。御座石に溜まる水は少ないが川の分岐点に鎮座していた。小袋石の下には湧き水が流れていた。そして、硯石、沓石には窪みがあり、水を湛えることができる。
これらを考察するのに芦ヶ沢の聖石遺跡が重要なキーとなる(北緯36度01分41.98秒、東経138度14分22.76秒)。
縄文中期から後期(4500~3500年前)の聖石遺跡の中央には、聖石と呼ばれる祭祀の石が配置されていた。この石が縄文の集落でどのような意味を持っていたかは不明であるが、この聖石にも窪みがあり水を湛えることができるのである。
縄文時代からこの諏訪の地域では、このように水を湛えることができる石を祭祀に用いてきたものと考えられる。
もちろん、前述したように諏訪に色濃く残る生贄の台と考えられないこともないが、その場合は、窪みを造る必要はないだろう。
 【聖石遺跡の聖石】Photograph 2018.5.27

写真の後ろに見える綺麗な山は蓼科山である。蓼科山は、女神山とも呼ばれ聖なる山である。その山が見える聖石遺跡でどのような祭祀が行なわれていたのであろうか。
山本建造氏は、『明らかにされた神武以前』の中で、乗鞍神社の隣に住んでいた老翁から聞いた話として、以下のように記載している。

「大昔の飛騨の人々は、森の中に水をためる池をつくり、その池の周りに皆が集まって、その水に映る日輪様の光を眺めながら、うっとりするまで見つめて『みたましずめ』をしたんじゃ。年に二回の本祭りのときは笛を吹き、太鼓を鳴らす係りもあって、舞を舞う姫もいたんじゃ。心が鎮まり清らかになるころ、古老が静かに先祖がご苦労されたことや、大自然のお恵みに対する感謝の教えがあったのしゃ。私の小さいころ、山奥の社の池の周りに四、五人の人が座って水に映えて光るところを囲んでいる姿をぼんやりと覚えているよ。」
--------『明らかにされた神武以前』より


飛騨については、こちら「謎の古代飛騨」

この日抱御魂鎮(ひだきのみたましずめ)は、各地で朝夕さかんに行われ、飛騨を出て行った人々は、自分の故郷を、日抱(ひだき)をするところ、日抱(ひだ)といい後にひだ(飛騨)という地名になったという。老翁の話が真実ならば、この儀式は160年前まで行われていたことになる。
この日抱御魂鎮が諏訪でも行われていたのではないだろうか。
水が溜まった岩石を囲み、水に映った太陽を見つめて、精神統一していたのではないかと想像するのである。
そうであるならば、崇拝すべきは太陽であり、水の溜まる岩石は道具に過ぎないので、移動させても問題は生じない。これが諏訪七石が動かされている理由ではないだろうか。
また、水が溜まった岩石を祭祀するのは、岩石を諏訪湖に模していた可能性もあり、この地方では磐座祭祀と諏訪湖信仰が深く結びついていた可能性がある。
(イワクラハンター 平津豊)

謝辞

本論文を作成するに当たり、丁寧に案内してくださった齋藤聖美氏、篠原正司氏および葦木ヒロカ氏に感謝いたします。

参考文献

1.古事記 ワイド版岩波文庫 倉野憲司校注、岩波書店、東京(1991)
2.日本書記 岩波文庫 坂本太郎・家永三郎他校注、岩波書店、東京(1994)
3.神長官守矢史料館周辺ガイドブック、神長官守矢史料館、長野県(2010)
4.山本健造:明らかにされた神武以前: 日本民族 その源流と潜在意識、福来出版、岐阜県(1992)
2018年8月16日  「諏訪大社と諏訪七石」 平津豊