アマテラス鎮座前の伊勢

 Report 2013.1.27 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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2012年12月22日、伊勢神宮参拝に向った。
今回の旅のテーマは、伊勢に天照大神が鎮座する前の伊勢はどのようであったかを探るというものである。2日間の日程ではあるが、伊勢のパワースポットなるものは、ほとんど網羅しているので、そちら関係が好きな方には、参考にしていただけると思う。

車での旅行であるが、渋滞もなくスムーズに三重県伊勢市豊川町にある伊勢神宮の外宮(ゲクウ)に着いた。
ご存知のように、伊勢神宮(正式にはただの神宮という)は、天照坐皇大御神(アマテラシマススメオオミカミ)を祀る皇大神宮(コウタイジングウ)[これを内宮(ナイクウ)という]と、豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)を祀る豊受大神宮(トヨウケダイジングウ)[これを外宮(ゲクウ)という]と両宮に所属する別宮、摂社、末社、所管社を含む125社の総称である。
【豊受大神宮(外宮) 一の鳥居】Photograph 2012.12.22

古来より、なぜか内宮よりも外宮を先に参拝しなければならないとされている。
内宮は、11代垂仁天皇26年に天照大御神が鎮座したが、外宮は、21代雄略天皇22年に雄略天皇の夢に現れた天照大御神のお告げにより、丹波国から天照大御神の食事をつかさどる御饌都神(ミケツカミ)として豊受大御神を迎えたと外宮入口の看板に書いてある。
これによると、明らかに内宮の方が主で、外宮が従のはずだか、外宮を先に参拝しなければならないのである。これについては後で考えたい。

独特の伊勢鳥居形式である一の鳥居、二の鳥居をくぐって、外宮の正宮に向う。参道の中央は神の通り道とされ、空けて通るのは当然だが、外宮においては、参拝者は左側通行を行なう。
【豊受大神宮(外宮) 正宮】Photograph 2012.12.22
正宮の参拝所の手前の鳥居前には蕃塀という板塀が建ててあり、正面から写真を撮ることはできない。さらに、一般の参拝者が参拝する外玉垣南御門には白幕がかかり、御正殿を見て参拝はできないのだが、私は、御垣内参拝をさせていただいた。

宿衛屋の神職からお払いを受けて、玉垣の中に足を踏み入れると、別世界に入り込んだ気分になる。
神職に続いて巨大な玉石の上を注意深く、一歩一歩進んでいく毎に、緊張感が高まっていく。
御正殿を正面にして2拝2拍手1拝の参拝を行なう。
後ろの白幕の向こう側には一般参拝者がたくさん参拝しているのだが、あたりには凛とした空気がたちこめ、雑音は聞こえてこない。
不思議な体験である。
しかし、この御垣内参拝でも目の前の内玉垣南御門の扉は閉まっていて中は見ることができない。御正殿は、4重の垣根で厳重に囲まれているのである。

既に、正宮の西隣には、来年行なわれる式年遷宮に向けて、新しい社が建っている。御正殿の全体像は見えないが、もちろん唯一神明造りで、鰹木は9本、千木は外削ぎ(先端が垂直)である。
【豊受大神宮(外宮) 遷宮のために新御敷地に新しく建てられた正殿】Photograph 2012.12.22

この正宮の直ぐ前(南側)に川原祓所(カワラハライショ)といわれる注連縄で四角に囲まれた3つ石がある。昔は宮川の支流がここを流れていた名残で、遷宮の遷御 (センギョ )の前に、ここで川原大祓が行なわれる。なぜこれが3つの石で表されているのかは重要かもしれない。
【豊受大神宮(外宮) 川原祓所(手前)、正宮(奥)】Photograph 2012.12.22
【豊受大神宮(外宮) 川原祓所の三つ石】Photograph 2012.12.22

正宮から別宮(ベツノミヤ)へ向っていると、小さな溝に渡された石の橋がある。これが亀石である。一説には、高倉山の頂上にある古墳に使われていた岩だったという。
【豊受大神宮(外宮) 亀石】Photograph 2012.12.22

次に外宮境内の風宮(カゼノミヤ)を参拝した。御祭神は、級長津彦命(シナツヒコノミコト)と級長戸辺命(シナトベノミコト)。昔は小さな祠であったが、1281年の元寇の神威の発現により別宮に列せられた風と農業の神である。
【豊受大神宮(外宮)別宮 風宮】Photograph 2012.12.22

次に、外宮境内の多賀宮(タカノミヤ)を参拝した。御祭神は、豊受大御神荒御魂(トヨウケオオミカミノアラミタマ)。
この多賀宮は、延喜式神名帳に高宮として現れる社で、雄略天皇の御代に豊受大御が外宮に鎮座したときに同時に奉斎された重要な別宮である。
【豊受大神宮(外宮)別宮 多賀宮】Photograph 2012.12.22

最後に、土宮(ツチノミヤ)を参拝した。
御祭神は、大土乃御祖神(オオツチノミオヤノカミ)で山田の原の守護神。昔は末社であったが、宮川堤防の守護神として1128年に別宮に列せられた。なぜか、この社だけ東向きに建っている。
【豊受大神宮(外宮)別宮 土宮】Photograph 2012.12.22

次に外宮から南東に約4キロメートルの三重県伊勢市宇治館町にある内宮に向った。

宇治橋を渡って、内宮の神域に足を踏み入れる。ここは、外宮と違って右側通行である。

【皇大神宮(内宮) 宇治橋鳥居】Photograph 2012.12.23
【皇大神宮(内宮) 五十鈴川手洗場】Photograph 2012.12.22

一の鳥居をくぐり、五十鈴川の御手洗場の直ぐ南に、瀧祭神(タキマツリノカミ)として小さな石が祀られている。御祭神は瀧祭大神(タキマツリノオオカミ)で、地元ではおとりつぎさんと呼ばれ内宮に参拝する前に必ず参拝するところである。八朔の日(8月1日)御手洗場の水を滝祭神に奉り、家に持って帰ると無病息災で過ごせるといわれている。
社殿のない所管社であるが、別宮に準じて祭典が奉仕されるほど大事にされている神である。
【皇大神宮(内宮)所管社 瀧祭神】Photograph 2012.12.22
【皇大神宮(内宮) 瀧祭神のご神体】Photograph 2012.12.22

二の鳥居をくぐって、南にある真新しい風日折宮橋を渡ると風日折宮(カゼヒノミノミヤ)がある。外宮の風宮と同じく御祭神は、級長津彦命と級長戸辺命である。元寇の神威の発現により別宮に列せられた風と農業の神である。
【皇大神宮(内宮)別宮 風日折宮】Photograph 2012.12.23

神楽殿の東側に、四至神(ミヤノメグリノカミ)として小さな石が祀ってある。これは内宮の四隅に祀られていた石神をここに集めたものである。
【皇大神宮(内宮) 四至神】Photograph 2012.12.23

西の御敷地の石積みの南西角に米粒の形をした岩がある。籾種石(モミダネイシ)と呼ばれている岩で、1783年に飢饉の中、楠部町の人々が、大神のために五十鈴川から運んだものである。
【皇大神宮(内宮) 籾種石】Photograph 2012.12.22

内宮の正宮の前は、写真撮影は階段下からしか許されないという、外宮よりもさらに厳しいものである。ここでも御垣内参拝をさせていただいた。御垣内の中の雰囲気について、文字にはできないのだが、内宮と外宮では、どこか異なったものを感じた。

御正殿の全体像は見えないが、もちろん唯一神明造りで、鰹木は10本、千木は内削ぎ(先端が水平)である。
【皇大神宮(内宮) 正宮】Photograph 2012.12.23

この後、荒祭宮(アラマツリノミヤ)に向うが、その途中に、御稲御倉(ミシネノミクラ)がある。この御稲御倉は、社の構造が全て見えており、唯一神明造りが良くわかるようになっている。
【皇大神宮(内宮) 御稲御倉】Photograph 2012.12.23

正宮の北に位置する荒祭宮は、天照坐皇大御神荒御魂(アマテラシマススメオオミカミノアラミタマ)を御祭神としており、外宮の多賀宮と同じく正宮の荒御魂を祀る社である。延喜式神名帳にも荒祭宮とみえる重要な社である。
荒御魂(アラミタマ)とは、和御魂(ワギミタマ)と対となる神道の概念で、荒ぶる魂、つまり、天変地異を起こしたり、病を流行らせたりする力である。人々はこの魂を鎮めるために供物をささげ祭りを行なうのである。一方、それほどのエネルギーに満ちた荒御魂は、新しい事象や物体を生み出す力でもある。
よって、正宮には私的な祈りはタブーとされているが、この荒祭宮には願ってもよいとされている。
【皇大神宮(内宮)別宮 荒祭宮】Photograph 2012.12.23

これで、外宮と内宮を参拝したのだが、不可解なことが多い。
内宮のご正殿の鰹木は10本(偶数)、千木は内削ぎであるのに対し、外宮のご正殿の鰹木は9本(奇数)、千木は外削ぎである。
一方、出雲大社では、祭神が男神の社は、鰹木を奇数、千木は外削ぎとし、女神の社は、鰹木を偶数、千木を内削ぎとする。
このルールに当てはめると、内宮は女神、外宮は男神である。しかし、天照大神も豊受大神も女神であるので腑に落ちない。

また、延喜式神名帳によれば、内宮の御祭神は、天照坐皇大御神の他に手力雄神(タヂカラヲノカミ)と萬幡豊秋津姫命(ヨロズハタトヨアキツヒメノミコト)の三座と記載されている。天ノ岩戸を開いた神と天孫降臨したニニギの母神であるが、アマテラスと並べるにはいかにも脇役すぎる。
一方、外宮の御祭神は、四座とされながら登由宇気大神(トヨウケノオオカミ)しか記載されていない。日本最高の神社でありながら不可解である。

さらに、三井文庫に残る伊勢参詣曼荼羅(イセサンケイマンダラ)には、内宮・外宮ともに本殿が3つ並び建っている。確かに、現在の内宮・外宮の瑞垣内にも小さな東宝殿と西宝殿があるが、これらは御幣・御装束・神宝類を祀る場所だという。過去に3つの本殿が建っていたとすると、この3座は何を意味するのであろうか。

今回、参拝してみて、最も印象に残ったのは、その警備の厳しさである。伊勢神宮の中心である正殿は、瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣と四重の垣根に守られているおり、絶えず衛視に見守られている。この正殿の中には、何があるのだろうか。よほど世に出てはいけないものが隠されているに違いない。
内宮のご神体は八咫鏡であり、この正殿に保管されていると思われるが、明治時代の文部大臣・森有礼(モリアリノリ)が八咫鏡を見たところ、鏡の裏面にはヘブライ語の聖書の一文が書かれていたという有名な話がある。
そんな話を、つい信じたくなるかのような厳しい警備である。
【伊勢参詣曼荼羅  江戸時代 三井文庫蔵  本殿が三つ並んで建っている】



さて、外宮と内宮を参拝した後、本日の最大の目的である内宮の北側にある磐座(イワクラ)を探すことにした。重要であるとされながら、その位置について詳しく書かれたものは少ない。一部の人は、近寄らないほうが良いとまで言っている場所である。私は、イワクラ学会の武部正俊氏の論文を参考に探すこととした。武部正俊氏は、この磐座を「内宮の磐座」と命名している。
【皇大神宮(内宮)所管社 大山祇神社】Photograph 2012.12.22
内宮の宇治橋を渡らずに北に進むと、子安神社と大山祇神社がある。その向こうの神宮司庁を突き進むと二股の道に出る。
左の道を進むと、直ぐにあやしい小高い森が目に入った。
その森の中を覗き込むと巨大な岩が突き出ているではないか、異様な光景である。
これが内宮の磐座に違いない。
内宮磐座の位置は、緯度34度27分37.5秒、経度136度43分30.7秒である。
【内宮の磐x座   東から撮影 】Photograph 2012.12.22
【内宮の磐座   南から撮影 】Photograph 2012.12.22
【内宮の磐座   西から撮影 】Photograph 2012.12.22
【内宮の磐座 北から撮影】Photograph 2012.12.22
 
 【内宮の磐座 そそりたつ男根を思わせる部分】Photograph 2012.12.22

磐座は、数個の巨石を組み合わせた長径10メートルほどのもので、その長径は正確に東西方向を向いている。また一部突き出た部分は、西から20度北にずれている(290度)。
この磐座の隣は広場となっており、山口祭(ヤマグチサイ)という祭祀が行われる。この祭りは、遷宮の御用材を伐る山の神を祭り、伐採と搬出の安全を祈る祭りであ.る。
20年に1度行なわれる式年遷宮では33もの祭事が行なわれるが、その一番最初に行なわれる重要な祭事である。今回の式年遷宮では2005年5月2日に行なわれている。
ちなみに山口祭の深夜に行われる木本祭(コノモトサイ)では、心御柱の用材を伐採するに際して、木の本に坐す神をお祭りするものである。心御柱は、御正殿の中心に埋められ、御正殿が隣に遷宮した後もその場に心御柱覆屋を建てて隠され、40年間鎮座し続ける。
心御柱は、一部の神職しか見ることができないもので秘匿されている。心御柱の大きさは、一説によれば、長さ六尺、太さ九寸といわれている。
山口祭も木本祭も一般人には非公開で行なわれる祭祀である。
【内宮の磐座の隣の山口祭が行われる広場】Photograph 2012.12.22
この山口祭は、非公開だが株式会社アイティービーが運営している伊勢志摩観光情報のホームページ上で見ることができる。
http://www.iseshimatv.jp/movie/movie_015.html
神職や儀式に加わる童男童女と神宮司庁職員らが、正宮内で拝礼し。事始めの祝儀の食事である饗膳(キョウゼン)の儀を行い、神路山(カミジヤマ)の祭場に向けての参進などを経て、童男が古式の作法で草木を刈って安全を祈念するものである。
その祭場がこの磐座の隣にある広場である。武部正俊氏も指摘しているようにネットの画像には、この磐座がいっさい映っていない。まるで映りこむことを避けているようである。
ただこの映像で一箇所だけ皇學館大学の岡田登教授が、「岩の社という、かって小さな社があった。」と説明しているので、伊勢神宮がこの磐座を認識していることは確かである。
また、矢野憲一氏によると、古代からこのあたりは、岩井田山と呼ばれ、岩井社があり、明治初年までは祠もあった。さらにまた、鎌倉時代には、このあたりに住む石部(イソベ)氏が山神岩社を祀っていた。という。
しかし、この磐座に対し、注連縄すら行なっていないのはなぜであろうか。伊勢には、日本の磐座信仰を封印しなければならない理由があるようである。

また、武部正俊氏は、この内宮の磐座が内宮の正宮の真北610メートルに位置しているため、参拝者は、この磐座を拝んでいることになるのではないかと指摘している。

より大きな地図で 伊勢 内宮の磐座 を表示


次に、三重県伊勢市中村町にある、内宮の別宮の月讀宮(ツキヨミノミヤ)に参拝した。内宮の境内ではなく、北に1.8キロメールの位置に鎮座している。
【皇大神宮(内宮)別宮 月讀宮 一の鳥居 】Photograph 2012.12.22

鳥居をくぐった所に内宮の末社である葭原神社(アシハラジンジャ)が鎮座している。延喜式神名帳の荻原神社といわれており、御祭神は佐佐津比古命(大歳神の御子)、宇加乃御玉御祖命、伊加利比賣命で、倭姫命が祝い定めた神社とされる。
【皇大神宮(内宮)末社 葭原神社 】Photograph 2012.12.22

その奥に4つの社があり、東から順に、
月讀尊荒御魂(ツキヨミノミコトアラミタマ)を祀った月讀荒御魂宮(ツキヨミノアラミタマノミヤ)、
月讀尊(ツキヨミノミコト)を祀った月讀宮(ツキヨミノミヤ)、
伊弉諾尊(イザナギノミコト)を祀った伊佐奈岐宮(イザナギノミヤ)、
伊弉冉尊(イザナミノミコト)を祀った伊佐奈弥宮(イザナミノミヤ)と並び、参拝は、月讀宮→月讀荒御魂宮→伊佐奈岐宮→伊佐奈弥宮と行なう。
延喜式神名帳の月讀宮二座、および伊佐奈岐宮二座と記載されている社で、明治6年に現在のような4宮それぞれが瑞垣をめぐらせた形となった。
外宮の別宮にも、同じくツキヨミを祀った月夜見宮がある。
【皇大神宮(内宮)別宮 月讀宮】Photograph 2012.12.22

次に、伊勢市楠部町、月讀宮から北に1.5キロメールの位置に鎮座している倭姫宮(ヤマトヒメノミヤ)を参拝した。
大正12年に倭姫の御陵とされる古墳の直ぐそばに創祀された新しい別宮だが、是非、参拝したかった神社である。
というのも、私はこの倭姫が好きで、あやかって娘に倭子(ワコ)という名前を付けた。
残念ながら「倭」という文字は、当時は名前に用いることが認められなくて、同義の「和」を用いたが、それほど思い入れのある姫神である。
【皇大神宮(内宮)別宮 倭姫宮】Photograph 2012.12.22
倭姫は11代垂仁天皇の皇女で、天照大御神をこの伊勢に鎮座させた人物である。
日本書紀の垂仁天皇25年3月に、

『天照大神を豊鋤入姫命から離ちまつりて、倭姫命に託けたまふ。ここに倭姫命、大神を鎮め坐させむ処を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(サキハタ)に詣る。更に還りて近江国に入りて、東美濃を廻りて、伊勢国に至る。時に天照大神、倭姫命にをして曰はく、「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰すね国なり。傍国の可怜(ウマ)し国なり。是の国に居らむと欲ふ」とのたまふ。故、大神の教の随に、其の祠を伊勢国に立てたまふ。因りて斎宮を五十鈴の川上に興つ。是を磯宮と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります処なり。』


と書かれ、倭姫命が、三輪の笠縫から菟田の筱幡、近江、美濃を経て伊勢に至った事が記載されている。
さらに伊勢神道(度会神道)の根本経典である神道五部書の一つ「倭姫命世記」によると倭姫は、27ヶ所も放浪し、そのうちの12ヶ所は、伊勢の国内である。
なぜこうも転々としなければならなかったのか不可解である。

そもそも、皇祖神で太陽神という最も貴い天照大神が、当時の政治と祭祀の中心である大和から移動しなければならなかったのかが、問題である。

その様子は、日本書紀の10代崇神天皇6年に書かれている。

『6年に、百姓流離へぬ。或いは背叛くもの有り。其の勢、徳を以て治ぬむこと難し。是を以て、晨に興き夕までに惕りて、神祗に請罪る。是より先に、天照大神・倭大国魂(ヤマトノオホクニタマ)、二の神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神の勢いを畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)に託けまつりて、倭の笠縫邑に祭る。仍りて磯堅城の神籬を立つ。亦、日本大国魂神を以ては、渟名城入姫命(ヌナキノイリビメノミコト)に託けて祭らしむ。然るに渟名城入姫命、髪落ち体[ヤマイダレ+叟]みて祭ること能はず。』


つまり、天照大神と倭大国魂の神とを天皇の大殿に祭ったが、うまくいかず、天照大神は豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)に託して笠縫邑に祭り、倭大国魂(ヤマトノオホクニタマ)は渟名城入姫命(ヌナキノイリビメノミコト)に託けて祭らせたと記載されている。天照大神は、もともと天皇の傍に祀っていたはずだと考えると、天照大神が倭大国魂によって追い出されたと読める。それでも倭大国魂の怒りはおさまらず、渟名城入姫命を衰弱させたのである。

一方、この崇神天皇7年に、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)が天皇に対して、吾を祭れば天下が治まると迫り、大田田根子(オオタタネコ)に祭らせたという記述があり、この事柄と無関係とは思えない。

大物主大神とは三輪の神であり、最も古い国津神である。この頃、大和政権の中枢で、国津神系の復権があり、天孫系の神が追い出されたのではないかと考えられる。さらに、その頃の天照大神は、最高神ではなかったのではないかと思えるのだ。
つまり、この頃は、アマテラスではなくオオヒルメであったのではないかということである。

古事記では、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が穢れを洗い流したとき、左目を洗ったときに天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗ったときに月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗ったときに建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)が生まれる。

しかし、日本書紀の一書では、イザナギとイザナミが国生みの後、大日孁貴(オオヒルメノムチ)を生み、月の神、蛭児(ヒルコ)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)を生んでいる。また、他の一書では、伊弉諾尊が左手で白銅鏡を持ったときに大日霎尊(オオヒルメノミコト)、左手で白銅鏡を持ったときに月弓尊(ツクユミノミコト)、首を回して見たときに素戔嗚尊(スサノオノミコト)が生まれている。

日本書紀の一書によれば、アマテラスの位置にオオヒルメが配されているのである。
また、注目すべきは、ツクヨミとスサノオの間に生まれている蛭児である。この蛭児は三歳になっても足が立たないので船に乗せて棄てたのであるが、ヒコ・ヒメ、イラツコ・イラツメ、オトコ・オトメの例のようにヒルコとヒルメは明らかに対を成す神であろう。
そのオオヒルメには、機織り部屋で仕事をしたり、神田の稲を作ったりと、古代の巫女の性格が色濃く残っている。太陽神というよりも、太陽神を祀る巫女であったと考えられ、アマテラスという神名は後から付けられたのではないかと思える。
いや、アマテルという太陽神は、本来、天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)をさすものであったはずである。
つまり、オオヒルメは、当時、今のような最高神ではなかったので、大和から放浪し、遠く伊勢の地に鎮まることができたのではないかと考えるのである。

このとき、さらに重要なことが起こっている。
倭姫は、三種の神器の内、八咫鏡(ヤタノカガミ)と天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を持ち出しているのである。天照大神が我が分身と思えと言った八咫鏡は当然としても、天叢雲剣まで持って放浪の旅に出ている。倭姫が天叢雲剣を所持していた証拠は、景行天皇の御代に倭健命(ヤマトタケルノミコト)が東国征伐に出かけるとき、倭姫のもとを訪れ、天叢雲剣を受け取っていることから明らかである。この後、天叢雲剣は、倭健命によって草薙剣(クサナギノツルギ)と名を変え、熱田神宮に預けられる。
これも、当時、三種の神器という概念が固まってなかったと想定することで解決する。また、こうも考えられる。倭姫の天照大神の巡行は、倭健命が行なった地方征伐と同じように、地方を平定する旅であり、そのためには武力が必要である。倭姫は、天叢雲剣に象徴される武力集団を伴っていたという考えである。

次に、42号線で伊勢市二見町江の二見ケ浦に向った。伊勢から鳥羽へ向う新二見トンネルの脇の海岸沿いに二見興玉神社(フタミオキタマジンジャ)がある。御祭神は猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)、宇迦御魂大神(ウガノミタマノオオカミ)、綿津見大神(ワタツミノオオカミ)である。
天孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降臨するときに、天の八衢(ヤチマタ)で迎えて道案内したのが猿田彦である。また、倭姫が天照大御神の鎮座地を求めていたときにも五十鈴川の川上に導いたと云われている。道案内したのだから猿田彦は土着の神である。
【二見興玉神社】Photograph 2012.12.22
【二見興玉神社の前にある天岩屋】Photograph 2012.12.22
明治までは三宮神社であったが、明治43年に興玉社を合祀して二見興玉神社となった。
夫婦岩で有名であるが、本質は、夫婦岩の700メートル先の興玉神石であり、9メートルの男岩と4メートルの女岩からなる夫婦岩は、この興玉神石の鳥居である。興玉神石は周囲約850メートル、高さ約7.5メートルといわれており、安政元年(1854年)の大地震で海中に沈んでしまっている。この「興玉神石」の遥拝所として成立したのがこの神社である。
また、夫婦岩からのぞむ日の出は、神々しい風景であり、東に向いた伊勢国の象徴であることは今も昔も変わらない。
【夫婦岩 東から撮影】Photograph 2012.12.22
【夫婦岩  南から撮影】Photograph 2012.12.22

次に、二見町江の町中に鎮座する猿田彦石を見に行った。
高さ2メートル、幅5メートル程度の岩で、猿田彦が降臨した岩と伝えられているが、やはりこの磐座にも注連縄はなく、祀られている感じはない。
【猿田彦石】Photograph 2012.12.22

本日の最後の探索場所は、42号線沿いに1キロメートルほどの所にある松下社である。
今まで伊勢で訪れた神社とは全く違って、うっそうと茂った森の中の神社である。

実は、伊勢神宮には、天照大御神の弟の月読命を祀る別宮はあるのに、同じ弟の素戔嗚命を祀る宮がないのはどういうわけであろうかと疑問に思っていたのである。
伊勢市中村の上田神社には、素盞嗚尊、大山祗命、菅原道真公が祀られているが、伊勢神宮125社にも入っておらず。あまりにも扱いが小さい。
一般的に、アマテラス、ツキヨミ、スサノオは、3貴神として崇められているのであるが、なぜスサノオだけがいないのか不思議である。
その一つの答えが、この松下社にあると考える。
【松下社  一の鳥居】Photograph 2012.12.22
看板には次のように書いてある。

『所在 二見町松下 祭神 素戔嗚尊・菅原道真・不詳一座
例祭 二月二日 沿革
松下地区の氏神さまです。加木牛頭天王社・御船社・蘇民の森ともいわれています。当社の創立は不詳であります。「氏経日次記」文安6年(1449)の記事が古い記録です。この社にいつの日か素戔嗚尊と同神とされる牛頭天王が勧請され、やがて同神とかかわる蘇民社も祀られたものでありましょうか。蘇民社では古くから「蘇民将来子孫」と書いた桃符を配布と(領布初祭12月16日)近郊それを受けて注連縄に吊るし、今に至っています。なお、牛頭天王の縁起を書いた元和6年(1620)銘の儀軌が、当会所に蔵されています。また境内に樹齢2000年といわれる大楠(県指定天然記念物)もあります』



蘇民将来伝説とは、牛頭天王が宿を探しているときに裕福な巨旦は宿を貸すことを断ったが、貧しい蘇民将来は家に招き粟飯でもてなした。後に牛頭天王は、疫病が流行っても蘇民将来の子孫は難を逃れることを約束したというものである。これは京都八坂神社の祇園祭りの由来でもある。

二見地方には、今でも軒先に「蘇民将来子孫家門」と書かれた札がついた注連縄を一年中かける風習が色濃く残っており、伊勢内宮のおかげ横丁でもこの注連縄が売られているのをみかけた。
この地方では、スサノオは、牛頭天王に姿を変えて民間に信仰されているのである。
確かに、アマテラスにとってスサノオは敵であり敬遠する神である。よって伊勢神宮のシステムから排除したのであろう。しかし、スサノオへの信仰までは消すことができなかったようである。

【松下社  蘇民社】Photograph 2012.12.22
【松下社】Photograph 2012.12.22

この日は、内宮の直ぐ前の神宮会館に泊まった。

次の日、朝6時半から、神宮会館のスタッフの案内を受けながら早朝参拝を行なった。

ピリッとする冷たい空気が朝のすがすがしさと混じって心地よい。
朝早いのに、一の鳥居の前には十数人のカメラマンが集まっていた。鳥居越しに朝日を撮影するためのようだ。
さすがに伊勢神宮である。我々の他に、既に参拝されている方もちらほらみられた。
忌火屋殿(イミビヤデン)の前では、何やら祀りの準備が行なわれていた。ガイドさんの話では、この日は、天皇誕生日であるので、その準備ではないかということだ。
【皇大神宮(内宮) 忌火屋殿前で神事の準備をする神職達】Photograph 2012.12.23


2日目、1番目の探索場所は、内宮からほど近い伊勢市中村町にある皇大神宮摂社の宇治山田神社(ウジヨウダジンジャ)である。
延喜式神名帳に出てくる大國玉比賣神社ではないかと云われている。御祭神は大水神の御子の山田姫命(ヨウダヒメノミコト)である。那自賣神社(ナジメジンジャ)も同座されている。
【皇大神宮(内宮)摂社 宇治山田神社】Photograph 2012.12.23

住宅街の中に小高い丘があり、そこが神社だろうとわかるのだが、登る道がみつからない。周りを2週回ってやっとみつけた。岡の上は苔に覆われており、なかなか風情がある。

この社の裏手に、小さな石を積んだ上に注連縄が張られた場所がある。
この組石に向うと南東の方向に拝することとなる。つまりこの組石は、朝方の太陽を拝む祭祀場ではないかと考えられる。
伊勢の地に古代から伝わる太陽崇拝であろうか、ただその施設がひっそりと隠されているのはなぜであろうか、だいたいこの宇治山田神社には立て看板もなく、参拝を拒んでいるかのようである。
【皇大神宮(内宮)摂社 宇治山田神社の裏手にある組石】Photograph 2012.12.23

次の探索場所は、伊射波神社(イサワジンジャ)である。
再度、42号線を通って鳥羽へ向う、鳥羽駅を越えて、安楽島(あらしま)海水浴場を目指す。伊射波神社は、加布良古崎(カブラコザキ)の先端にあり、御崎の南側からアプローチする。
公民館とバス停に行き着くので、その左手からかめや旅館の方へ入っていくと、伊射波神社への道が見つかった。ただこの道はかなり狭く、どうにか車一台通れる程度なので車を置くかどうか迷っていると、おばあさんが近づいてきて、車は通れないので歩くようにとの親切な忠告をいただいた。おばあさんに教えられた場所に車を止めて歩くことにした。道は一本道で、「一宮へ」という案内看板もあり迷うことはない。
そう、この伊射波神社は志摩国の一宮なのである。車でいけない場所にある一宮は、全国でここだけではないだろうか。
【伊射波神社への道】Photograph 2012.12.23

20分ほど歩くと、一の鳥居が見えてくる。この鳥居は海岸の直ぐそばに建っており、参道は海岸から神社に続いている。
古代の人々は、船に乗って岬に近づき、この海岸に船を止めて、神社を参拝していたのであろう。海人族の原始的な祭祀の形の一つである。
【伊射波神社 一の鳥居 南から撮影】Photograph 2012.12.23
【伊射波神社 一の鳥居 北から撮影】Photograph 2012.12.23

その先は、少し急な上り坂になったが、200メートルほどで伊射波神社に着いた。
無人の小さな社であるが、良く整備されており、信仰の厚さが伺われる。我々以外にも3組の参拝者に逢ったことからもわかる。一の宮なのだから当たり前ではあるのだが、ここまで辺ぴな場所に質素に建っていると、つい疑ってしまう。
伊射波神社の位置は、緯度34度28分20.3秒、経度136度52分30.85秒である。
【伊射波神社 二の鳥居】Photograph 2012.12.23

全国一の宮めぐり(学研)には以下のように書かれている。

御祭神 稚日女尊(ワカヒメノミコト)、伊射波登美尊(イサワトミノミコト)、玉柱屋姫命(タマハシラヤヒメノミコト)、狭依姫命(サヨリヒメノミコト)である。
稚日女尊は天照大神の側近で神功皇后も崇敬した海上守護の姫神。伊射波登美尊は志摩国開拓神。玉柱屋姫命はその妃神で、天日別命(アメノヒワケノミコト)の娘。狭依姫命は、宗像三女神の1柱である市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)の別名で、近くの長藻地(ナガモジ)という島に祀られていたが島が水没し、当社に合祀された。
--中略----
「かぶらこさん」とよばれる当社は、天照大神に仕えた稚日女尊を岬に祀ったことがはじまりと伝え、志摩の海上守護の神として信仰されてきた。また、垂仁天皇の皇女倭姫命が伊勢神宮に御贄を奉ずる地を探した際、当地で出迎えたという伊射波登美尊は、安楽島の二地(フタジ)にあった本宮に祀られていたが、平安後期に岬上に遷座された。二地の「鳥羽贄遺跡」が、その本宮跡とされている。


【伊射波神社 本殿】Photograph 2012.12.23
【伊射波神社 小さな石神】Photograph 2012.12.23

伊射波神社に参拝した後、250メートルほど岬の先端に下りていくと、領有神(ウシハクガミ)が祀られている。
社もなく小さな石神が祭られているだけであるが、非常にきれいな石で、どこか生物的なものを感じる。
領有神の位置は、緯度34度28分23.0秒、経度136度52分35.9秒である。

この後、御朱印を頂くために、漁港に戻り宮司宅を訪れた。
あいにく宮司さんは留守であったが、ご夫人とお話させていただき、「領有神は、前の遷宮のときにかわした」とおっしゃられていた。多分、この石神は、伊射波神社の場所に祀られていたのではないかと考えられる。

領有神のウシバクとは主人(ウシ)として領有し統治することである。
古事記には、「天照大御神、高木の神の命もちて問ひに使はせり。なが(大国主神)うしはける葦原の中つ国は、あが御子の知らす国と言依さしたまひき。かれ、なが心いかに」とあって、神が統治を行なうことを、天津神(アマツガミ)にはシラスを使い、国津神(クニツガミ)にはウシハケルを使用する。つまり、領有神と呼ばれている神は、土着の神(国津神)であることを意味している。したがって、伊射波神社に祀られている天照大神の側近である稚日女尊とは別の神である。

では、この領有神とは誰かということが問題であるが、延喜式神名帳にも粟嶋坐伊射波神社二座と記載されているだけで神名はない。
伊射波登美尊は土着の神であるが、遷座されたとあるので、後から合祀された神であり、領有神ではない。
狭依姫命は、宗像三女神であるのでふさわしくない。

おそらく、稚日女尊がこの地に祀られた時に、その神の名前は消されてしまったのであろう。
猟師たちに「かぶらこさん」「加布良古大明神」「志摩大明神」と呼ばれてきたのは、この領有神だろうと考えられる。

一方で、この伊射波神社には、深夜にただ一人で白木綿一反を敷いて待つと、御神体の白蛇が現れ、頭上に毒気を吐きかけてくるが、これを耐えれば、どんな病気も平癒するという話が伝えられている。そうであるなら、この領有神は蛇神であろう。
【領有神】Photograph 2012.12.23
【領有神 ご神体】Photograph 2012.12.23

この後、もう一つの志摩国一宮の伊雑宮(イザワノミヤ・イゾウグウ)に向う。167号線を11キロメートルほど南下した志摩市磯部町上之郷に鎮座している。

皇大神宮別宮であり、御祭神は、天照坐皇大御神御魂(アマテラシマススメオオミカミノミタマ)。
倭姫命が巡幸中に、真名鶴が稲穂をくわえて鳴いている様子を見て、伊佐波登美神にその穂を抜かして、皇大神の御前に奉られた場所が当宮であるという。
社殿は、唯一神明造で鰹木は6本の偶数、千木は内削ぎ、西側には遷宮用の古殿地を備える。他の皇大神宮別宮と同じく、内宮を小さくしたような神社である。
【皇大神宮(内宮)別宮 伊雑宮 一の鳥居】Photograph 2012.12.23
【皇大神宮(内宮)別宮 伊雑宮】Photograph 2012.12.23
【皇大神宮(内宮)別宮 伊雑宮 御田植祭が行われる磯部の御神田 】Photograph 2012.12.23

そもそも、志摩国の一宮が二箇所あること自体が、不思議であるのだが、さらに伊雑宮と内宮と外宮との不思議な関係について掘り下げてみる。

内宮と外宮は、最初に渡会氏(ワタライウジ)が祭祀を務めていた。
渡会氏は、天日別や天牟良雲を祖先とする古代氏族である。朝廷で藤原氏の力が強まるにつれて、同族の荒木田氏が内宮を取り仕切るようになり、渡会氏は外宮に追いやられてしまう。
鎌倉時代に渡会氏は、これに反発して、外宮の豊受大御神(トヨウケノオオミカミ)は、国常立尊(クニトコタチノミコト)または天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)であると主張する度会神道を成立させた。
このとき、奈良時代の神道五部書と呼ばれる「天照坐伊勢二所皇太神 宮御鎮座次第記」「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」「豊受皇太神御鎮座本記」「造伊勢二所太神宮宝基本記」「倭姫命世記」が世に出るが、これらは、度会行忠らによって、伊勢神宮に伝わる古伝を元に執筆された偽書と考えられている。
神道五部書は、外宮が内宮より上位の神格であることを主張するものであった。
この度会神道が、現在の伊勢神道へとつながっている。

一方、1531年に警護の的矢氏が九鬼浄隆に滅ぼされ、伊雑の神戸は九鬼氏に横領される。
このことにより伊雑宮は経済的基盤を失って没落していくことになる。
社会が安定してくると、伊雑宮は再興の訴えを度々起こす。その請願活動の中で、伊雑宮の重要性を強調するために、1646年には「伊勢三宮」という表現で内宮や外宮と同格であることを主張し始め、1658年には、ついに、伊雑は内宮の本家という主張を行なっている。
さらに、1679年、江戸の戸嶋惣兵衛の書店から、聖徳太子と蘇我馬子が編纂したものとして、「神代皇代大成経」が出版された。
その内容は、倭姫命が猿田彦神の神示に従い、天照大神の神霊を飯井大神宮(伊雑宮)に遷したとされ、伊雑宮が日神のアマテラスを祀る社であり、外宮は月神のツキヨミ、内宮は星神のニニギを祀ると書かれている。これは、伊雑宮側の主張と一致するものであったが、1681年に、幕府は「大成経」を偽書として禁書とし、戸嶋惣兵衛を追放、その本を持ち込んだ永野采女や潮音道海を流罪とした。朝廷は、伊雑宮は内宮の別宮。祭神は伊射波富美命。という裁決を行なった。

この伊雑宮こそが本当の内宮であるという議論が、なぜ起るかと考えると。
前述したように日本書紀には、倭姫命が伊勢にたどりつき、五十鈴川のほとりに斎宮を建て天照を鎮めた。この宮を磯宮というとある。
内宮の「皇大神宮儀式帳」では、伊勢内宮は礒宮から現在の位置に移ったとある。外宮の「倭姫命世記」では、天照の御神鏡は諸国を廻ったあげく現在の地に鎮座する前に、伊勢国の伊蘇宮に1年間留まったとある。
これらの磯宮、礒宮、伊蘇宮が紛らわしく、いかにも磯部氏が祀る伊雑宮を表しているかのように思えるところに端を発していると考えられる。

したがって、この伊勢三宮説は、一部の人々の間では、今でも熱烈に支持されている。
伊雑宮の前に建つ神武御剣道場(ジンムミツルギドウジョウ)の小泉太志命(コイズミタイシメイ)もその一人である。
伊雑宮の前に住み天皇陛下のために一日何万回も真剣を振り続けるという秘法を行なった人で、六芒星の石灯籠を造らせた一味の一人であるようだ。

六芒星の石灯籠とは、伊雑宮前の道路や内宮前の道路に建っている石灯籠のことであり、六芒星のマークが彫られている。六芒星は籠目紋(カゴメモン)とも言われるものである。
なぜ、カゴメ紋なのかは不明であるが、一説には、伊雑宮の本来の神紋がカゴメ紋であるためといわれている。
【(手前)伊雑宮の前に建つ石灯籠   (奥)神武御剣道場】Photograph 2012.12.23
【皇大神宮(内宮)の前に建つ石灯籠】Photograph 2012.12.23
同じようにカゴメ紋を神紋としていると噂されている神社がもう一つある。それは丹波の籠神社(コノジンジャ)である。この籠神社の奥宮の眞名井神社(マナイジンジャ)には、カゴメ紋が刻まれた石碑が少し前まで建っていたという。
この碑は、地中から掘り出された碑を再建したとも、1990年頃に「天地カゴメ宮」という団体が寄進したものとも、言われ確認はできていないが、今は、そのカゴメ紋は三つ巴に変更されている。
※「天地カゴメ宮」については、こちらのページを見てください。皆神山ピラミッド

実は、この眞名井神社こそが外宮の豊受大神の神社なのである。
「丹後国風土記」に豊受大神は登場する。
真奈井で八人の天女が水浴びをしていた。その様子を見ていた老夫婦が羽衣を1つ隠したので、1人の天女が、天に帰ることができなかった。地上にとり残された天女は、老夫婦の養女となり、十数年共に生活し、天女のおかげで老夫婦は金持ちとなった。しかし、ある日、「汝は、吾が児にあらず」と言って、天女を追い出してしまった。失意のうちに天女は、竹野郡船木の里の奈具の村に住んだ。この天女が豊宇賀能売命(トヨウカノメノミコト)であるという。

外宮の元宮である籠神社にカゴメ紋が作られ、内宮の元宮という説のある伊雑宮にもカゴメ紋が作られるのはどういうことであろうか、このカゴメ紋は何を意味しているのであろうか。

このカゴメ紋については、ユダヤのダビデの星であるという説がある。この説は、伊勢神宮の不思議を日ユ同祖論で説明しようというものである。

私は、天智・天武天皇の時代に、神代文字の破棄と焚書と歴史の書き換えがあったと考えており、その裏で秦氏が関わっていたと考えている。この秦氏こそ渡来してきたユダヤ系氏族である可能性が高いので、天武天皇が行なった伊勢神宮の創生に秦氏の持っていたユダヤの文化が入っていても不思議ではない。

一部の日ユ同祖論者は、次のように主張している。
近く、伊雑宮が内宮と外宮と同列に扱われるときがくる。そのとき、熱田神宮から伊雑宮に草薙剣(クサナギノツルギ)が戻される。この草薙剣は旧約聖書のアロンの杖である。一方、外宮には、八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)ではなく、籠神社の眞名井(マナイ)神社から移されたマナの壺が隠されていいる。さらに、内宮の八咫鏡(ヤタノカガミ)は、モーセの十戒石版であり、これで、伊勢神宮に旧約聖書の3種の神器が揃う。これらが、本神輿つまりアークに入れられてイスラエルに運ばれるとき、救世主が現れる。
そして、その救世主こそ、天照大神であり、イエス・キリストであるというのだ。
なんとも、荒唐無稽な話ではあるが、私は日ユ同祖論自体には捨てられないものがあると考えている。
「徳島・剣山ミステリー探索」のレポートはこちら、「秦氏を追ってのレポート」はこちら)

日本の神社様式とエルサレム神殿との間には、入口に立てられる二本の柱、手足を洗う洗盤、聖所と至聖所に別けられた構造など類似点が多い。特に伊勢神宮は、飾り気がなく、掘っ立て柱を使った組み立て式であり、イスラエルの民が荒野を旅していた頃、いつでも礼拝できるように四角く囲まれた垂れ幕の中に木造の至聖所を作る幕屋という構造とそっくりである。
天武時代に、日本の神話と宗教を新しく構築しなおすときに、そのモデルとなる伊勢神宮の社を豪華にするのではなく、より原点に近いイスラエルの幕屋を再現したと考えると不思議に納得してしまう。


この伊雑宮から南に600メートル程のところに、伊雑宮所官社の佐美長神社がある。
倭姫命の前に、稲穂をくわえて現れた真名鶴を大歳神として祀った神社と伝えられている。社殿の前には、4つの小さな祠の佐美長御前神社がある。この神社に祀られている神は不詳である。また、境内の南側に3メートル4メートルの四角く囲われた場所がある。これは何であろうか。さらに、この佐美長神社の向きが異常で、90度(東)を向いている。佐美長御前神社の方が190度でほぼ南面している。先ほどの四角い場所の一辺は340度で、佐美長神社の方を向いている。不思議な構図である。ここにも何か隠されたしくみがあるのではないかと考える。
【伊雑宮所官社の佐美長神社】Photograph 2012.12.23
【佐美長神社境内 佐美長御前神社】Photograph 2012.12.23
【佐美長神社境内 (手前)四角く囲われた場所 (奥)佐美長御前神社】Photograph 2012.12.23

この後、伊勢道路を通って伊勢市方面に戻るのだが、その途中にある鸚鵡岩(オウムイワ)に立ち寄った。
幅127メートル、高さ31メートルの巨大な1枚岩である。その岩のそばに聞き場があり、50メートル離れた語り場の中で話をしたり拍子木を打つと、聞き場で聞こえるという。語り場は1箇所から音が出るように工夫してある。実験してみたが、なんとなくそんな気がする程度である。だいたい、語り場での話し声はそのまま直接聞き場に聞こえてしまう。岩に反射した音と区別するのが難しい。
鸚鵡岩の位置は、緯度34度23分21.5秒、経度136度47分52.2秒である。
【鸚鵡岩】
Photograph 2012.12.23

最後の探索場所は、朝熊山の磐座である。伊勢市から伊勢志摩スカイラインを通って、朝熊山の山頂のレストハウスの展望台にあるので直ぐにわかる。
朝熊山の磐座の位置は、緯度34度27分34.5秒、経度136度47分30.0秒である。
周りをコンクリートで固められ、全く磐座の扱いは受けていない。
よく、破壊されずに残っていたものである。
伊勢音頭に「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と唄われたように、朝熊山は重要な場所であったようだ。現在、山頂には金剛證寺(コンゴウショウジ)が建っている。
【朝熊山の磐座 南から撮影】Photograph 2012.12.23
【朝熊山の磐座 東から撮影】Photograph 2012.12.23
【朝熊山の磐座 北から撮影】Photograph 2012.12.23
【朝熊山の磐座 西から撮影】Photograph 2012.12.23

この朝熊山の磐座と内宮の磐座との位置関係について、武部正俊氏は東西関係になる(図)と指摘している。また、この朝熊山の磐座から神島を通る方角に霊峰富士山がある。
日本には、はるか遠くにある特異な場所が一直線で結ばれるという、いわゆるレイラインが数多く存在する。なぜ、遠くの2点間の場所が把握できたのか、なぜ古代祭祀上重要なポイントがそこにあるのか、驚くばかりである。

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この朝熊山の磐座を最後に、我々は帰路に着いた。
今回は、2日間の旅であったが、伊勢の主なパワースポットを周ることができ、充実した旅であった。

【朝熊山の磐座から眺める景色 神島の向こうに富士山が見えるらしい】Photograph 2012.12.23

さて、この旅のテーマである。アマテラス鎮座前の伊勢について考察する。
今では、伊勢神宮の天照大御神は、皇祖であり太陽神である最高神として認識されているが、過去は必ずしもそうではなかったのである。

時代を大きく七つに分けて考える。
①アマテラスが大和に祀られていた時代、②アマテラスが伊勢に鎮座した時代、③アマテラスが最高神となる天武・持統時代、④アマテラスが冷遇される時代、⑤アマテラスが国家神道に利用される江戸・明治時代、⑥アマテラスが忘れ去られる昭和時代、⑦平成現代

ここで、伊勢神宮の成立については、直木孝次郎氏の「伊勢神宮と古代の神々」の説をベースに、少しアレンジしてみた。

①前述したように、この頃のアマテラスは、太陽神を祀る巫女神であり、天皇の始祖という性格も強くなく、名前もオオヒルメであった。「天照」は、延喜式に他田坐天照御魂神社や木島坐天照御魂神社などがみられるように、他の神が使用しており、太陽神も各地に存在した。この本来の天照神は、天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)をさすものであったとみるが、ここでは触れない。

②崇神天皇の時代に疫病が流行したことをきっかけに、それまで宮中に祭っていたアマテラスを倭の笠縫邑に移して豊鍬入姫に祀らせ、垂仁天皇の時代に倭姫が、菟田、近江、美濃を巡幸して伊勢に至った。
これは、大和朝廷において国津神である大物主の威力が強くなって天津神を祀ることができなくなり、八咫鏡と天叢雲剣を持って大和を離れたことを意味しているのではないかと考える。また、転々と巡幸したのは、各地の豪族を天津神の仲間に引き入れる旅であったのかも知れない。どちらにしても、伊勢には既に土着の神[これを仮に伊勢神と呼ぶ]がいたわけであるから、そこに天津神を祀るのは簡単なことではなかったであろう。その苦労は、伊勢国内で12箇所も流浪した「倭姫命世記」の記述に現れている。
この頃、アマテラスと呼ばれていたかどうかは疑問がある。オオヒルメとして、伊勢の土着の神を祀る巫女神として鎮座したのではないかと考えている。

また、直木孝次郎氏は、伊勢への巡幸について、日本書紀では崇神・垂仁の時代となっているが、実際は継体・欽明天皇の時代(6世紀半ば)であろうと推定している。
これは、崇神・垂仁時代に現れた斎王が、景行時代を最後に雄略時代まで途絶えているからである。つまり継体・欽明時代の出来事を崇神・垂仁時代まで遡って記載したのではないかということである。

③天智天皇亡き後、大友皇子(オオトモノオウジ)と大海人皇子(オオアマノオウジ)の間で壬申の乱(672年)が起った。この戦いでは、美濃を中心とする東国地方の豪族や伊勢の豪族は大海人皇子側に味方した。万葉集にも伊勢神宮から風が吹いて大海人皇子が勝利したという歌があるほど、伊勢豪族の援助は勝利に大きく貢献した。勝利した天武天皇(大海人皇子)は、伊勢神宮を天照大御神を祀る最も格の高い神社とした。さらに、古事記と日本書紀を編纂させて、天照大御神を皇祖で太陽神とする神話を創作したのである。

天照大神の正体について、平安時代の「扶桑略記」には、伊勢神宮の巫女である斎宮のもとへ毎夜天照大神がやってきて同床したとある。鎌倉時代の「通海参詣記」には、皇大神宮の神は蛇であり、斎宮はその后である。その証拠に毎朝斎宮の布団をあげると蛇のウロコが落ちているとある。伊勢内宮の荒木田家にも「天照大神は蛇で斎宮はその蛇神の妻であるという伝えがある。磯部には、「伊雑宮の神様(天照大神)は蛇だったとの言い伝えが残っている。
つまり、天照大神=蛇神=男神という伝承が色濃く残っているのである。
これらについては、もともと伊勢に祀られていた蛇神(伊勢神)と後から入ってきた天照大神とが混同されて伝わったのではないかと考える。

伊勢にはもともと伊勢神が祀られていた。その後大和から入ってきた巫女神であるオオヒルメは、その巫女の役割を斎宮に渡し、オオヒルメは天照大神として伊勢神にとって代わった。という複雑な経緯がこのような錯誤を生んだのであろう。
また、「天照」という神名も火明命(ホアカリノミコト)という男神に使用されていた名前であったこともさらに錯誤を助長している。
天武天皇が神話を作り変えるときに、天照大神を太陽神として設定するなら男神とするのが普通である。これを女神としたのには、皇極、斉明、持統など多くの女皇が即位したことと無関係ではないと思える。特に、伊勢に行ったことが日本書紀に記載されている持統天皇は、天武天皇の后であるので、この編纂に影響力を持っていたであろうと思われる。

伊勢神宮の皇大神宮が蛇神である伊勢神のそばに巫女神であるオオヒルメを祀り、その後、蛇神にとってかわって天照大神となったという仮説を提唱したのであるが、これと同じ図式が本レポートに出現している。それは伊射波神社(イザワジンジャ)と領有神(ウシバクガミ)である。
ウシバクは、土地を所有するという意味なので明らかに土着の神であり、しかも蛇神である。この蛇神の名前を消し、変わりに祀られたのは稚日女尊(ワカヒメノミコト)である。
この稚日女について、日本書紀では、高天原の斎服殿で機織をしていたときにスサノオが馬の皮を部屋の中に投げ込んだため、梭(カビ)で身体を傷つけて亡くなった女神である。これが天照大神の天岩戸隠れの原因となったのであるが、日本書紀では稚日女(ワカヒルメノミコト)と読み、一説ではオオヒルメの幼名と解釈されている。つまり、伊射波神社に祀られていた土着神である蛇神を岬に移動させて、ワカヒルメという巫女神がとってかわっているのである。伊勢内宮と同じ図式である。

④このようにして、伊勢神宮の神格は、7世紀後半に決定したのであるが、その後、1872年に明治天皇がご参拝されるまで、天皇が伊勢神宮を参拝することはなかった。これは、天照大御神が最高神であるという認識が、浸透しなかったことを意味している。
天照大神が登場する古事記や日本書紀自体についても、日本書紀こそ、朝廷内で30年毎に講義が行なわれたようであるが、古事記は正史として取り扱われず、これらは江戸時代になるまで、細々と伝えられていたきらいがあり、天照大神を頂点とする仕組みが人々に浸透しなくても当然である。
江戸時代には、荒廃していた伊勢神宮を建て直すため、御師と呼ばれる人たちが農民に布教して、お蔭参りを流行させ、神宮は再興する。
しかし、これら御師は、外宮に祀られている豊受大御神を広めたため、外宮先参りという風習が生まれたともいわれている。

⑤明治時代になると古事記と日本書紀を神典とした国家神道が国民を支配するのに伴って、伊勢神宮と天照大御神も国家の最高神として信仰を集めることになる。

⑥昭和の敗戦後、アメリカから民主主義が導入されると、天照大御神は再び忘れ去られてしまったのである。

⑦しかし、近年は、全国8万社の神社を束ねる神社本庁が伊勢神宮を本宗とし、伊勢神宮を頂点とする組織体を形成し、特に平成になってからはスピリチュアルブームに乗って、伊勢神宮の神格は、かってないほど高くなっているのである。

以上のように、伊勢にとって天照大神は新しい神である。天照大神が鎮座する前は、土着の神が鎮座していたのである。

内宮の瀧祭神(タキマツリノカミ)は、小さな石神でありながら、別宮に準じて祭典が奉仕されているのは、この神が内宮の地の土着神、伊勢神であり、その地を奪ったため、祟りを怖れているのではないかと考えられる。この伊勢神は、名前に龍の字があることから蛇神であろう。
また、この瀧祭神や、伊射波神社の領有神(ウシバクガミ)、四至神(ミヤノメグリノカミ)、川原祓所(カワラハライショ)の3つ石など、祀られている土着神は、小さな石に矮小化され、その神の名前も消されてしまっている。
さらに、それよりも古い、内宮の磐座や朝熊山の磐座などの自然崇拝は、その存在自体が無視されている。東を向いた伊勢国には、太陽信仰があったと考えられるが、宇治山田神社の石積みのように隠されてしまっている。
つまり、天武天皇以降の施政者は、天照大神を頂点とする天津神の神話をこの地に展開するために、土着の伊勢神を封印したのである。
したがって、伊勢神の依り代である磐座は、小さな石に矮小化され、注連縄と名前を引き剥がすことで無視されているのである。

日本は、豊かな自然に恵まれた島国であるがゆえに木や岩に神が宿る自然崇拝が生まれ、ここから神社神道が発展してきた。
しかし、天武・持統天皇は、この自然崇拝を隠蔽して、新しい神への信仰方法を試みた。
いわば、天皇の祖先神を祀る皇室神道というモデルケースをこの伊勢で実験したのではないかと思える。

よって、伊勢神宮は綿密に計算された神社であり、日本中の信仰を集める装置である。
その装置は、再び機能し始め、神々しい光を放っている。

計画された神社、伊勢神宮。その姿はとても美しい。
そこには、飾り気を削ぎ落としたシンプルな形式美がある。
新しさの中に古さを宿した死と再生のリズム。
よどみなく繰り返される生命のリズム。

まもなく、伊勢神宮では、20年に一度の式年遷宮がとり行なわれる。
式年遷宮は、古い様式を維持しながら新しく建てかえる、よみがえりの儀式である。

奇しくも伊勢神宮と出雲大社の遷宮とが重なる2013年。
何か重大なことが起るかもしれない・・・・・

2013年1月27日  「アマテラス鎮座前の伊勢」 レポート 平津豊