六甲山系の磐座
~六甲に走るレイライン~

 Report 2013.7.29 平津 豊 Hiratsu Yutaka
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聖地や遺跡が直線上に並ぶ現象をレイラインという。
これは、1921年にイギリス人のアルフレッド・ワトキンスにより提唱され、イギリスの古代遺跡だけでなく、ペルーやメキシコなど世界中の古代遺跡で見られる現象である。
しかし、学術的に、このレイラインを認めるのは少数派に過ぎない。というのも古代人がどのようにして直線性を確保したのかが不明であることと、その直線性は偶然でも発生するのではないかということによる。
1つ目の理由は、古代人の知恵と技術を過小評価しずぎである。太陽や北極星といった天体を利用すれば、それほど難しいことではない。2つ目の懸念は、もっともなことである。たくさんの点から選択すれば、直線は簡単に成立してしまう。レイラインを扱うには、この危険性を充分に認識しなければならない。

一方で、写真家の小川光三氏が提唱した、伊勢斎宮から、桧原神社、箸墓を通って淡路島の伊勢の森まで続く、北緯34度32分の「太陽の道」。千葉県玉前神社から、寒川神社、富士山頂、大江元伊勢を通って、出雲大社まで続く「御来光の道」。淡路島の伊弉諾神宮を中心とし、諏訪大社、伊勢神宮内宮、熊野大社、高千穂神社、出雲大社などが夏至や冬至の日の出日の入りラインに並ぶ「ひのわかみやと陽のみちしるべ」。など多くのレイラインが提唱されている。
このように直線で結びつけられた聖地・遺跡の間に、何らかの意味があり、そのラインに古代人の意図や、歴史の謎を解く鍵があるとしたら、このラインに着目するのは、自然なアプローチでもある。
今回、「六甲山系の磐座~勾玉の磐座発見~」で紹介した3つの磐座が新しく現れたことによって、六甲山系を横断する2つのレイラインが見えてきたので報告する。

六甲山系のレイラインとしては、昭和50年代に大槻正温氏が北山の巨石群が太陽観測施設であると発表している。
また、江頭務氏は、天叢雲剣の磐座と八咫鏡の磐座と弁天岩が正三角形を形成していることを「漢人のイワクラ(イワクラ学会会報8号)」で発表されている。
この正三角形は、正確な60度を示しており、偶然とは考えにくく、何者かが意図をもって構築したものである可能性が高く、六甲山系の磐座を考察する上で重要な発見である。
これに対し、今回は、この三角形の底辺を延ばした線(Bライン)と三角形の頂点から、この底辺Bラインに平行で引いた線(Aライン)上に、重要な磐座が位置していることを発見した。

■ Bライン

Bラインの東端に位置するのは、八咫鏡(ヤタノカガミ)の磐座(北緯34度45分13.93秒、東経135度18分21.97秒)である。この磐座は、昭和初期に神道家の荒深道斉氏が世に紹介した磐座である。
【八咫鏡の磐座】Photograph 2013.6.22

八咫鏡(ヤタノカガミ)の磐座から真西に1.4キロメートル延ばすと、弁天岩(北緯34度45分15.83秒、東経135度17分26.34秒)を通る。弁天岩は県道344号線の芦有道路を通っていると突然現れる巨石であり、三つの岩から形成されている。この巨石の20メートル西には、白山大神、白神大神と彫られた石碑のある磐座(北緯34度45分15.78秒、東経135度17分25.55秒)がある。このあたりでは、江戸時代まで雨乞いの儀式が行なわれていたといわれている。弁天岩の北70メートルの川の中には鱶切り岩があり、海で捕まえた鱶をこの岩で切り刻み弁天岩に投げつけると、住処を汚された水神が洗い流すため大雨を降らせたと伝えられる。
【弁天岩】Photograph 2013.4.21

【白山大神の磐座】Photograph 2013.4.21

また、南に160メートル下ったところにナマズ石と呼ばれる岩がある。546メートルの荒地山の山頂付近にあった岩が1995年1月17日の阪神淡路大震災で、転がり落ちて、この地に現れたものである。歴史言語研究家であるK氏によって、ナマズ石の表面に弥生時代に描かれた古代文字が発見されたといわれており、その調査時のペイントの跡が残っているが、私は線刻があるとは思えない。このナマズ石があった荒地山もBライン上にのっていた可能性が高い。
【ナマズ石】Photograph 2013.6.22

さらにBラインを6.8キロメートル西に伸ばすと三国岩(サンゴクイワ)(北緯34度45分06.85秒、東経135度12分55.67秒)を通る。
「この三国岩は六甲山の分水嶺であり、かつては武庫、莬原、有馬三郡の境界点でもありました。」という説明板が立っている。三つの国を見渡せたから三国岩であると言われている。
巨大な5つの岩を積み上げた磐座である。荒深道斉氏はこの表面に天体図と思われる小穴や線が描かれていると記している。また、荒深道斉氏は、この三国岩の北側の川西邸内に北座(奥座)があるが、原形を失ってしまっていると記している。
現在の川西邸内には、注連縄がかけられた西の磐座(北緯34度45分09.94秒、東経135度12分53.44秒)が残っているが、荒深道斉氏がいう北座ではないようである。この北座は頂上の三角点の辺りにあったと思われる。三国岩は岩門で、磐座の本体はこの北座であったようだが、失われてしまっている。
【三国岩】Photograph 2013.6.22

【三国岩西の磐座】Photograph 2013.6.22

これら八咫鏡の磐座、弁天岩、白山大神の磐座、三国岩、三国石西の磐座を含むBラインを北緯34度45分6秒~34度45分16秒の幅で規定すると、その緯度の幅はわずか10秒で、距離にすると約300メートルである。驚くべき一致ではないだろうか。なお、「六甲山系の磐座~勾玉の磐座発見~」で紹介した六甲山頂の新磐座もこのBライン上にきっちりのっている。

■ Aライン

もう1つのAラインは、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)の磐座(北緯34度45分54.67秒、東経135度17分51.69秒)または200メートル北にある勾玉の磐座(北緯34度46分01.42秒、東経135度17分54.34秒)を通る東西のラインである。

この天叢雲剣の磐座も、昭和初期に神道家の荒深道斉氏が世に紹介した磐座である。上述した八咫鏡の磐座とともに、六甲山系の磐座の中で最もミステリアスな磐座である。
勾玉の磐座は私が発見した磐座で、天叢雲剣、八咫鏡の磐座とセットとなる八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)の磐座ではないかと考えている。
【天叢雲剣の磐座】Photograph 2013.6.11

【勾玉の磐座】Photograph 2013.6.30

天叢雲剣の磐座から4.9キロメートル西にのばすと、六甲カントリーハウス内の天穂日(アメノホヒ)の磐座(北緯34度46分02.46秒、東経135度14分39.93秒)を通る。

天穂日の磐座は、六甲山上で一番有名な磐座ではないだろうか、この磐座は、天穂日を祭神とする芦屋神社の奥宮であるとも云われるものである。天穂日の命は、天照大神と素戔嗚尊が誓約を行なったとき、天照大神の勾玉より生まれた五男神の第二子である。ちなみに第一子は、皇祖である正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)である。忍穂耳命は、葦原中国を治めるべく、降臨しようとしたが、葦原中国は騒々しいといって途中で引き返した。そこで穂日命が出雲国に派遣されるが、大国主に惚れ込んでしまい三年たっても何の連絡もしなかったという神である。
この磐座は、荒深道斉氏も注目していた磐座であり、丘の上に堂々と鎮座している。この磐座から西に小さな岩が点々と続いている。このAラインをなぞっているようである。
【天穂日の磐座】Photograph 2013.4.21
【天穂日の磐座から西に連なる岩】Photograph 2013.4.21

天穂日の磐座から西に420メートル伸ばすと仰臥岩(ギョウガイワ)(北緯34度45分58.79秒、東経135度14分22.82秒)、雲ヶ岩(北緯34度45分58.39秒、東経135度14分22.55秒)、六甲比命神社(北緯34度45分58.69秒、東経135度14分21.58秒)、六甲比命大善神の磐座(北緯34度45分59.25秒、東経135度14分21.15秒)、心経岩(北緯34度45分58.99秒、東経135度14分20.23秒)と、磐座が集中している場所に到達する。
ここは、六甲比命講の方々が手厚く守っている六甲比命神社を中心に、古寺山にあった多聞寺の奥の院でもあり、山岳信仰に彩られている。

仰臥岩には、八大龍王、熊野権現、仏眼上人、花山法皇が祀られている。
【仰臥岩】Photograph 2013.6.22

雲ヶ岩は、法道仙人が修行中に、紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現れたことから「紫雲賀岩」と呼ばれていたものが、「雲ヶ岩」に省略されたという。
【雲ヶ岩】Photograph 2013.6.22

心経岩は、高さ5メートル、幅6メートル以上の岩に「摩訶般若波羅密多心経」が彫られている。法道仙人の時に彫られたものは消失したので、大正5年に再建されたものである。
【心経岩】Photograph 2013.6.22

六甲比命大善神の磐座はとてつもなく巨大なものであり、その上に建てられた六甲比命神社には弁財天が祀られている。この六甲比命については、諸説あり、昔、六甲山が西宮の廣田神社の社領であったことから、廣田神社の御祭神である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)つまり天照大神の御荒御魂であるという説や、大江幸久氏は、ホツマツタエを読み解いて、瀬織津姫(セオリツヒメ)であるとの興味深い説を展開されている。
【六甲比命神社】Photograph 2013.6.22

【六甲比命大善大神の磐座】Photograph 2013.6.22



Aラインの話に戻るが、勾玉の磐座から東に3.2キロメートル延ばすと、「六甲山系の磐座~勾玉の磐座発見~」で紹介した祈りの磐座(北緯34度45分59.83秒、東経135度20分00.43秒)に到達する。
【祈りの磐座】Photograph 2013.6.30

これら、目神山の祈りの磐座、勾玉の磐座、天叢雲剣の磐座、天穂日の磐座、六甲比命神社、六甲比命大善神の磐座、仰臥岩、雲ヶ岩、心経岩を含むAラインを北緯34度45分54秒~34度46分04秒の幅で規定すると、その緯度の幅はわずか10秒で、距離にすると約300メートルである。驚くべき一致である
なお、目神山には、目神山八光会の磐座という非常にすばらしい磐座が存在するが、この場所は諸事情により明かせない。しかし、このAライン上にきっちり乗っていることだけは記しておく。

ここで、六甲山系で最も手厚く祀られている越木岩神社の甑岩が、このAラインにもBラインにものっていないのが気になる。

ただし、江頭務氏が「神奈備山イワクラ群の進化論的考察(イワクラ学会会報9号)」で、甑岩が辺津磐座であり、中津磐座と奥津磐座が北山公園内の陽石と太陽石であるという説を発表されている。この説によると、甑岩は、南北700メートルにもおよぶ巨大な祭祀場を形成していたこととなるが、この祭祀場の中心は奥津磐座の太陽石(北緯34度45分54.07秒、東経135度19分20.05秒)であるので、Aラインに含まれると考えても良いかもしれない。

六甲山系を横断する、この2つのレイラインは、東西方向であり、春分秋分の太陽の通り道である。したがって、これらのライン上の磐座と太陽崇拝との関係を調査する必要がある。

さらに、六甲山系には、この2つのレイラインの他にもレイラインが仕組まれている可能性がある。
たとえば、天叢雲剣の磐座と弁天岩(白山大神の磐座)を結んだ線を延ばすと、保久良(ホクラ)神社に到達する。この保久良神社は、昭和24年、楢崎皐月がカタカムナ神社の平十字という老人からカタカムナという象形文字でつづられた文献を見せられたという金鳥山にある神社で、本殿裏の玉垣内の磐座を中心にして、二重の円を描くように多くの磐座が存在している。
また、保久良神社の500メートル西の八幡谷には滝が祀られているが、その真北には石の宝殿と呼ばれる白山大神を祀る六甲山神社が鎮座する。

このように、六甲山系には、レイラインが張りめぐらされている可能性が高い。現在のところ、なぜ、このようなラインが存在するのかは不明であるが、今後も調査を続けて明らかにしたい。
2013年7月29日  「六甲山系の磐座~六甲に走るレイライン~」 レポート 平津豊
イワクラ(磐座)学会 会報29号 2013年12月2日発行  掲載