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post to my website in 2022.3.27  平津 豊  Hiratsu Yutaka

磐座と神社変遷

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イラスト 瑠璃さん

はじめに

本記事は、『イワクラ学初級編』平津豊著、ともはつよし社(2016)より抜粋してお届けしています。


磐座と神社変遷-1   山上磐座の前で祭祀を行なう時代 

【Basic knowledge9】
磐座と神社変遷の関係について考えてみます。
山上磐座の前で祭祀を行なう時代、山上の磐座より離れ麓に社を建てる時代、人が多く住む場所に神社を建てる時代、山の中の磐座が忘れ去られる時代の4つの段階に分けて述べていきます。

■山上磐座の前で祭祀を行なう時代
まず、自然崇拝によって、山そのものが崇拝対象となります。御山、神山、宮山、御嶽、大山などと呼ばれている山は全てそうです。
美しい形の神奈備(かむなび)山は特に重要視されました。そして、山の上や中腹にある岩石つまり磐座の前で祭祀が行なわれるようになります。
このとき、重要な位置にある岩石や特徴的な形をした岩石が選ばれたことでしょう。
太陽祭祀も行なわれていたと考えられますので、冬至の夕日が差し込む岩屋や、夏至の日の出が反射する岩石なども磐座に選ばれたと思います。磐座の上部や前面に小さな社を建てる場合もありました。これを山宮(やまみや)といいます。

奈良県山辺郡山添(やまぞえ)村吉田の岩尾神社は、その昔、神が降臨された際に持参されたと伝えられる巨石を崇拝している神社です。
急な階段を登りきると、標高290メートルの山の頂上には、男岩女岩と呼ばれる2つの巨石を中心に、たくさんの岩石がゴロゴロしています。
東の男岩は特に大きく、表面に石英や長石で形成されたペグマタイトのラインが十字に走っている珍しい岩石です。
2つの巨石の間に小さな祠を置いていますが、これは、後から便宜的に付け加えたもので、この神社のご神体は、男岩と女岩の磐座です。
また、この岩尾神社では、子供たちが川原で拾ってきた石を参拝者が買い求めて神様に供える夏祭「石売り行事」が行なわれます。石に対して特別な思いを持っていたことがうかがえる神社です。




◆写真 奈良県山添村 岩尾神社


磐座と神社変遷-2   山上の磐座より離れて麓に社を建てる時代

【Basic knowledge10】
■山上の磐座より離れて麓に社を建てる時代
時代が下ると、生活の場が山から森に移り、山の麓から山上の磐座を遥拝するようになります。この場所が鎮守の杜(もり)です。
また、稲作の広まりとともに、収穫を祈る祭り(春祭)と収穫に感謝する祭り(秋祭)が行なわれるようになると、春に山上の磐座から神が里に降りてきて田の神となり、秋に山に帰って山の神になると考えるようになります。
そして、里に神を迎える社が建てられます。
このとき、拝殿とは別に神の住居である本殿が設けられたと考えられます。これを里宮(さとみや)といいます。また、この頃に、神に名称を付けるという人格神祭祀も始まったのではないかと思います。

明治時代に山上の磐座から移動した神社があります。岡山県赤磐市石上の石上(いそのかみ)布都魂(ふつみたま)神社です。
石上布都魂神社の社殿から100メートル程の急な山道を登ると裏山の頂上に着きます。
その山頂には、岩盤の上に岩が配置されている荘厳な磐座があります。
明治に火災にあうまでは、この磐座の前に社殿が建っていましたが、明治以降は、山頂まで参拝するのが大変なので、山の中腹に現在の社殿を建てたということです。
祭祀の場所が山頂の磐座から山の中腹に移動した例です。
余談ですが、『古事記』に、素盞嗚(すさのお)命が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、大蛇の尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を取り出し、その剣が天皇の三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)となる有名な話が書かれていますが、『日本書紀』には、「一書に曰(い)はく」として「其の素盞嗚尊の、蛇を断(き)りたまへる剣は、今吉備(きび)の神部(かむとものを)の許(ところ)に在り」と書いてあります。
この吉備の神部が、石上布都魂神社です。
宮司のお話では、崇神天皇の御代に疫病が流行り、霊剣が備前の石上布都魂神社に在ることを知った天皇が、霊剣を大和に移されて、疫病をしずめたそうです。つまり、天理の石上(いそのかみ)神社は、この石上布都魂神社の神剣を移した先ということになります。



◆写真 岡山県赤磐市 石上布都魂神の磐座


磐座と神社変遷-3  人が多く住む場所に神社を建てる時代

【Basic knowledge11】
■人が多く住む場所に神社を建てる時代
さらに時代が下ると、人々は山里から平地に生活の場を移し、それにつれて祭祀の場も山の麓から離れます。
人々が生活している平地に神社が建てられ、生活の場に神が常に存在することになります。これを田宮(たみや)といいます。
神話の形成と人格神の確立により自然崇拝や磐座信仰は薄れていき、神の依代として、人の製作物である鏡や剣が本殿に置かれ、御神体となります。
神社の社殿は、鎌倉時代頃から立派になっていきますが、祭祀の本質は変貌していったのです。

兵庫県西宮市大社町の廣田神社は式内社であり、神功皇后にまつわる神社です。
『日本書紀』には、神功皇后が反乱にあって船が進まなくなったときに、広田に天照大神の荒魂、生田に稚日女、長田に事代主、住吉に住吉三神を祀ったと書かれています。
廣田神社は、町の中にある田宮ですので神社の境内に磐座は存在しません。
現在の廣田神社は、甲(かぶと)山山麓の高隈原(たかくまはら)に鎮座していましたが、後に御手洗川のほとりに遷座。さらに水害のため1724年に現在の地に遷座しました。高隈原がどこであるかの記録は残っていませんが、著者は、磐座が数多く残る目神(めがみ)山付近ではないかと考えています。
さらに、六甲(ろっこう)山の頂上に巨大な磐座を祀る六甲(ろっこう)比命(ひめ)神社があります。
この地域には、務古水門(むこのみなと)、武庫川(むこがわ)、向(むか)つ峰、向(むか)つ國などの記録が残っており、ムコまたはムカツと呼ばれた地でした。したがって六甲比命もムコ姫・ムカツ姫であったと考えられます。
この六甲比命神社に祀られるムカツ姫について、ホツマツタヱの研究者である大江幸久氏は、瀬織津姫(せおりつひめ)であるとの興味深い説を展開されています。
瀬織津姫は、罪や穢れを流す神として大祓詞にしか登場しない神ですが、ホツマツタヱでは、サクナダリ・セオリツ姫ホノコとして登場し、天照大神が姫の前に立たれて正室として迎え入れたことにより、天下(あまさが)る日前(ひのまえに)向津姫(むかつひめ)と呼ばれました。この場合、天照大神は男神です。後世に天照大神を女神としたことにより、矛盾が生じ、瀬織津姫は隠されてしまったといいます。
そして、廣田神社のご祭神は、撞賢木(つきさかき)厳之御魂(いつのみたま)天疎(あまさかる)向津媛(むかつひめ)命という名前で、ムカツ姫なのです。
現在の廣田神社では、天照大神の荒御魂(あらみたま)と説明されていますが、戦前の廣田神社の由緒書きには、瀬織津姫(せおりつひめ)が主祭神だと書かれていたようです。
したがって、六甲山上の標高860メートルの六甲比命神社の磐座が山宮で、標高200メートルの目神山の高隈原が里宮であり、標高30メートルの廣田神社が田宮と考えられますが、現在の廣田神社からは、里宮も山宮も辿ることができなくなっています。


◆写真 兵庫県西宮市 広田神社


磐座と神社変遷-4  山の中の磐座が忘れ去られる時代

【Basic knowledge12】
■山の中の磐座が忘れ去られる時代
神社が田宮に建てられると、昔に山の磐座を祭祀していたという記憶はだんだん薄れていき、山の中の磐座は、忘れ去られたのです。
山と人々の生活の場が近く、今でも山と深く関わりあっている場所、例えば奈良県の山添村などでは、今でも多くの神社に磐座が御神体として祀られています。
また、山の上にある磐座を山宮として祭祀を続けている神社や、境内に磐座のある神社などもありますが、全国に約八万社あるといわれる神社のうち磐座祭祀が残っているのは少数派です。磐座が本来の御神体であったことは忘れられてしまい、その磐座がどこにあったのかもわからなくなってしまったのです。
祭祀されていない磐座を訪れると、岩石の周りは木々が生茂り、岩の表面は蔓に覆われています。このまま放置すると、木の根が岩を割って、磐座を崩してしまうことでしょう。
また、古代の祭祀場であったことが忘れられ、その土地が宅地開発される例も数多く見られます。そのとき、磐座はただの岩として、破壊されてしまうのです。

例えば、兵庫県淡路市東山寺奥の院の磐座などは、磐座信仰の場所に仏教が上書きした所のようですが、既に人の訪れる様子はなく、蔓に覆われて全体像が見えなくなっています。
菱形の岩がはめてあったり、八面体の岩が据えてあったりと、非常に特徴のある磐座群なので、木々の伐採を行なって保存したいものです。
また、兵庫県神戸市目神山は住宅地となっていますが、元は磐座が数多くあった場所で、宅地開発されるときに、たくさんの磐座が破壊されてしまいました。
一方、六甲八光会の磐座など、一部の磐座は今でも宅地の中に残っています。
しかし、これらの磐座も宅地の持ち主が代わると壊される可能性が高く、非常に心配です。




◆写真 兵庫県淡路市 東山寺奥の院の磐座


磐座と神社変遷-5  磐座と神社変遷のまとめ

【Basic knowledge13】
■磐座と神社変遷のまとめ
古代の日本では、山そのものが神、海そのものが神、あるいは岬、あるいは森、あるいは石そのものが神でした。
神の世界とは、この世に存在するものの総称であり、すべてのものの中に霊魂が宿っていると考えました。
森羅万象が神の体現であり、生命は神の分霊と考えられ、人間もまた神のある景色の一部でした。
これは神道の八百万(やおよろず)の神々という考えにつながっていきます。
自然崇拝によって、山そのものが崇拝対象となります。
そして、山の上や中腹にある岩石つまり磐座の前で祭祀が行なわれるようになります。
このとき、重要な位置にある岩石や特徴的な形をした岩石が選ばれたことでしょう。
太陽祭祀も行なわれていたと考えられますので、冬至の夕日が差し込む岩屋や、夏至の日の出が反射する岩石なども磐座に選ばれたと思います。
磐座の上部や前面に小さな社を建てる場合もありました。これを山宮といいます。
時代が下ると、生活の場が山から森に移り、山の麓から山上の磐座を遥拝するようになります。
この場所が鎮守の杜(もり)です。
また、稲作の広まりとともに、収穫を祈る祭り(春祭)と収穫に感謝する祭り(秋祭)が行なわれるようになると、春に山上の磐座から神が里に降りてきて田の神となり、秋に山に帰って山の神になると考えるようになります。
そして、里に神を迎える社が建てられます。これを里宮といいます。
また、この頃に、神に名称を付けるという人格神祭祀も始まったのではないかと思います。
さらに時代が下ると、人々は山里から平地に生活の場を移し、それにつれて祭祀の場も山の麓から離れます。
人々が生活している平地に神社が建てられ、生活の場に神が常に存在することになります。これを田宮といいます。
神話の形成と人格神の確立により自然崇拝や磐座信仰は薄れていき、神の依代として、人の製作物である鏡や剣が本殿に置かれ、御神体となります。
神社の社殿は、鎌倉時代頃から、立派になっていきますが、祭祀の本質は変貌していったのです。



◆イラスト 平津豊作図



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