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post to my website in 2019.11.9  平津 豊  Hiratsu Yutaka

破磐神社

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破磐神社


兵庫県姫路市西脇に「破磐神社」という変わった名前の神社がある。
この「破磐」とは、「われた岩」のことで、神功皇后が放った矢の一本が当たったという「われ岩」が神社とは別の場所に御神体として祀られている。

破磐神社は、破磐山の東南の麓に鎮座している。
電車で訪れる場合は、姫新線太市駅を降りて北に徒歩で400メートル。車の場合は、山陽自動車道の姫路西インターが近い。
鳥居をくぐると左手の手水舎の清水が出迎えてくれる。境内はよく掃き清められ、気持ちの良い清風が吹く神社である。


【破磐神社 鳥居】 Photograph 2013.7.13



【破磐神社 手水舎】 Photograph 2017.3.07


われ岩の逸話に因んで神功皇后とその夫である仲哀天皇と息子の応神天皇を祀っている。
他に、須佐之男命が1907年に合祀されているが、中田宮司は、社を建てたいと考えられており、土地を空けて機会を待っている。
拝殿の中には、多くの龍の絵が掲げられている。これは、全国各地の崇敬者から奉納されたもので、この神社で龍の姿を見る人が多いそうである。


【破磐神社 拝殿】 Photograph 2013.7.13



【破磐神社 拝殿と本殿】 Photograph 2013.7.13


破磐神社では、約400年前から始まった「奉点燈祭」という火祭りが毎年8月15日に執り行なわれている。この祭りは、豊臣秀吉が中国を征伐した際、秀吉の意に従わなかった峰相山鶏足寺が焼き討ちに合い、その事件で亡くなった僧や氏子たちの供養を行なうことを目的としている。また、それに先立つ7月31日には先祖供養と家内安全・無病息災・五穀豊穣を祈る「千燈祭」が行われている。
祭りの日は、日が落ちるまで盆踊りが踊られ、村総出で祭りを盛り上げる。富くじが行われるなど、自治会のイベントの様相が強い。
児童による若竹太鼓が終わって暗くなると、麦わらで作った大松明にご神火を移して火祭りが始まる。まずは少年達が松明を掲げて輪になって練り歩き、エントエントのかけ声で、地面に松明を打ちつける。その後、厄年の男性や剛胆な有志が登場し、舞殿に上がって松明で相手を叩きあう。舞殿に火がつかないように消防隊員が見守る中、火の粉と煙がまわりに飛び散る。舞殿という狭い場所なので逃げる事ができない勇壮な祭りである。
現在(2019年)、この火祭りの舞台となる舞殿の建替えが行われている。


【破磐神社 奉点燈祭前の祭事】 Photograph 2013.8.15



【破磐神社 奉点燈祭】 Photograph 2013.8.15



【破磐神社  奉点燈祭】 Photograph 2013.8.15



【破磐神社 奉点燈祭】 Photograph 2013.8.15



【破磐神社 奉点燈祭】 Photograph 2013.8.15


破磐神社の御神体である「われ岩」は、破磐神社から南西に1.8キロメートル離れた場所にある。著者は1990年頃に、噂を聞いて「われ岩」を探したことがあるが見つけることはできなかった。後日に中田宮司から聞いて分かるのだが、その頃の「われ岩」の周りは荒れ果てて、忘れ去られていたようだ。
今では、中田宮司達によって整備され、気持ちよく参拝できる場所になっている。
われ岩は5メートル以上の高さがある逆三角形をした大岩で、大きく割れている。
またその岩石の色は、独特の白緑色をしていて清楚である。
このわれ岩について、科学的には、丘の上に人が据えた形跡や、人が割った明確な跡は現時点では見つかっていないが、古代に特別な岩石として崇められたことは想像に難くない。
播磨を代表する磐座である。


【われ岩 参道】 Photograph 2013.7.13



【われ岩 南西から撮影】 Photograph 2013.7.13



【われ岩 西から撮影】 Photograph 2013.7.13



【われ岩 北から撮影】 Photograph 2013.7.13



【われ岩 東から撮影】 Photograph 2013.7.13



【われ岩 南から撮影】 Photograph 2013.7.13


破磐神社の変遷

著者は、破磐神社から車で30分の所に居住していることもあり、度々参拝したり、友人を案内したりして、中田千秋宮司には世話になっているが、2019年8月31日にあらためて神社の変遷についてインタビューを行った。


【2015年の播磨イワクラツアーの様子】 Photograph 2015.3.15


破磐神社の「奉点燈祭」は、戦後間もないころに途絶えることになった。祭りが中止になった理由はこの火祭りでの怪我人が絶えなかったためである。
「奉点燈祭」は、その勇壮さと荒々しさのせいで、氏子の間から祭りの中止を望む声が上がり、いつしか途絶えることとなった。

戦後の全国の神社は、1945年の「神道指令」によって、「国家の宗祀」ではなくなり、国の公的機関として外された。国の保証が無くなった多くの宮司たちは兼業、またはいくつもの神社の兼任となっていった。そのため、地方の神社では年中行事や氏子たちの人生儀礼に支障を生じ、次第に荒廃が進んでいった。

破磐神社もその例に洩れず、先代の宮司は学校の先生との兼業宮司で、境内には玉垣もなく参拝者の姿もなかった。息子の中田千秋宮司は、既に料理人として独立して世界的に活躍していたこともあり、父親の跡は、他の神社の宮司に兼任してもらうつもりでいた。ところが、中田宮司は「(神社の跡目の話し合いの席で)その夜は酒が随分入り、どうも自分の方から(宮司を)やると言ったみたいだ。」と笑って話してくれた。また、その時に、神社を受け継ぐ条件として祭りの復活をあげたそうである。


【インタビューを受ける中田宮司】 Photograph 2019.8.17

破磐神社のある太市村は、1889年町の村制施行に伴い揖東郡太市村として発足した。その後1954年に曽左村・八木村・糸引村、余部村などと合併し姫路市に組み込まれた。既に過疎が進んでいたのである。その太市村の西脇地区がこの破磐神社の「千燈祭」と「奉点燈祭」を取り仕切ってきたので、西脇地区だけで祭りの復活は困難になっていた。そのうえ、中田千秋宮司は専任宮司となることも宣言していた。そこで、中田宮司が提案したのは、自分の生活費は自分で稼ぐことと、神社の運営はできるだけ手作りで行うことであった。そして、氏子たちにもできる範囲のことを手伝ってほしいと頭を下げた。

中田千秋宮司は、1980年に神社に戻ると、周辺道路の拡張と整備を自治体に陳情する傍ら、自らも周りの雑木林を伐採し境内を整備し始めた。1982年に神職の資格を取り、姫路市民会館の結婚式場でアルバイト神主をしながら、湊川神社で神主の実習生としても勤めた。中田宮司は、精力的に外へと出かけて多くの人たちとの縁を構築した。その人達が中田宮司を訪ねて破磐神社を参拝するようになった。中田宮司は、遠方から神社を訪問し正式参拝される人達のために「直会」として料理を振舞ったところ、しだいに、元料理人である宮司の作る「直会」が美味しいと評判となっていった。


【中田千秋宮司】 Photograph 2019.8.17

地域外から多くの参拝者が破磐神社を訪れるようになったと同時に、地元の氏子たちも神社の整備に積極性に関わるようになった。
1984年頃には祭の復活の話し合いがもたれた。ここでの問題は、祭の復活に当たってどの地区がイニシアティブを取るかということだった。「奉点燈祭」が中止されるまでは、西脇区の氏子達が取り仕切っており、中止を決めたのも彼らであった。宮司は、氏子達の負担の軽減を考えて、神社の氏子全員の祭として運営することを提案し、他の地区の氏子達も大いに乗り気であった。しかし、それまで祭を取り仕切っていた西脇地区の氏子達の心境は複雑であった。危険であるという理由で祭を中止したのは自分達であったが、祭に他の地区の氏子がしゃしゃり出てくるのは面白くない。西脇地区の氏子達は「今まで、熱くて危険な思いをして祭りを続けてきたのは自分達だ。」と主張するが、他の地域の氏子達からは「しんどいと言ってやめたのは、おまえたちだろう」と非難した。夜中に幾度となく中田宮司は氏子達に呼び出された。過疎化が進み、祭を一つの地区だけが担うには限界が見えている。中田宮司は氏子が一緒になって祭を行えるよう熱心に説得を行なった。その結果、10の地域の氏達が持ち回りで祭を取り仕切り、婦人会や老人会も参加し、子供会を中心とした太鼓の会も祭で披露することになった。

祭が復活し、神社の整備も進むと、破磐神社はかつての荒廃ぶりがすっかり払拭され、神社庁から「モデル神社」として表彰されるまでになった。「モデル神社」は、神社庁が1975年から神社振興対策として3年ごとに研究会を持ち、荒廃から復興を果たした地域の神社に送られるという称号である。破磐神社は1987年第5期の研究会において選ばれた。


【モデル神社表彰状 昭和62年7月1日】 Photograph 2019.8.17


破磐神社の復興事業は、ご神体である「われ岩」の整備へと進んだ。1992年7月5日、3人の地権者の協力を得て、山中に隠れていた「われ岩」を氏子総代会・破磐神社伝統文化保存会(1988年結成)の方達が、ユンボ2台を操作して「われ岩」座の周りの竹林や雑木林を掘り返して整備を行なった。当日は雨が降りしきる中での作業となったが、人々の精力的な奉仕活動によって、無事にしめ縄を付けてお祀りするに至った。現在では、破磐神社のパンフレットに掲載されたり、道路の交差点に案内板が設置されたりしており、破磐神社と一緒にこのわれ岩をお参りする人も増えている。

また、無類の酒好きである中田宮司は、1991年に播磨で初の「酒匠」の資格を取ると、酒の情報誌『BanCul』、神戸新聞社の取材、神社の機関紙『姫路神祇』などに寄稿するようになり、講演依頼も増えた。しかし、神社の整備を怠ることはなく、境内は掃除が行き届き、底に笹が生けられた手水舎にはいつも純潔な水が溢れて、参拝者を迎えている。

【神社新報 やまびこ 平成元年10月2日】 【姫路神祇 16号 平成11年4月14日】 【巡礼マガジン No33 2004年冬 シンメディア】 【BanCul 1994 秋号】


「不思議なことに自分が動いていると、自分が困った時に必ず協力者が現れる。」と宮司は語る。
湊川神社の神職研修に通うために乗った電車で一緒になった地元の人は、毎日境内を清掃しに来てくれた。また、お守りを作るための竹炭を焼くドラム缶状の釜は、地元の鉄工所が提供してくれた。

中田宮司は祭を復活させることで、神社を復興させるばかりではなく地域のコミュニティを活性化させたのである。
狭い地域の氏子達は古い枠組みに囚われて、地区同士の連帯感を作れずにいたが、外からの参拝者が増えることで、氏子全体に、破磐神社が自分達の氏神様であるという共通の郷土愛が生まれた。そして、小さく分かれていた地区の対立や軋轢も、祭を復活するという目的によって、大きな新しいコミュニティとなって編成されることとなったのである。

最近は、神社境内で撮った写真にオ―ヴが写ったり、龍が出現したりすると話題になり、パワースポットとして有名になっている。

破磐神社の由緒に関する考察


神社の由緒について、パンフレットには、以下のように書かれている。

御祭神
息長帯日売命(神功皇后)
帯中津日子命(仲哀天皇)
品陀和気命(応神天皇)
須佐之男命(明治40年合祀)

御由緒
当社は、今を遡ること約千八百年前と伝えられています。
その昔、神功皇后が三韓を御討征になられ御凱旋の時、忍熊王の難がありましたので、御船を妻鹿の湊に寄せられ、三野の荘・麻生山で朝敵退治を天神地祇に祈られました。その折、麻積連祖・笠志直命に弓の弦を探すように命ぜられました。笠志直命は麻を弦として皇后に差し出しましたところ、皇后はこれで矢をつがえられ、天に向って放たれました。
第一の矢は、印南郡的場に虚矢となって落ち、第二の矢は飾磨郡安室辻井に落ちてしまいましたが、第三の矢は太市郷西脇山中の大磐石にあたって磐が三つに破れました。
神功皇后これは吉兆である、と大層お喜びになられ、この地に矢の根を祀られ、後に仲哀天皇、応神天皇の御ニ柱を合わせ祀り、破磐三神として崇め奉るようになりました。
この破れた大磐石は、当社より西南1.7キロ離れた山中に現存し、この地は今も宮が谷と呼ばれています。
この地は、非常に狭隘で祭事に煩いがあるというところから、中世に現在地にお遷し申し上げたということです。
神仏混淆の時代には、三尊の弥陀を前に安置して三所大権現と称されていましたが、明治戊辰の神仏分離令の布告によって仏体は境内西の御堂に取りかれ、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇・矢の根をお祀りもうしあげ旧号破磐神社に復しました。明治七年郷社に列し、明治四十年無格社建速神社を合祀し現在に至っています。

破磐神社起源の大磐石
これは、神功皇后が放たれた第三の矢が当たって破れたと伝えられている破磐神社起源の大磐石です。
当社より1.7km離れた山中に現存し、破磐の祠があったところで、この地は今も宮が谷と呼ばれています。
破磐神社の起源について
「かみのさち吹く風弓のかふら矢と いかで磐をも通ささらめや」
と詠まれています。
--------------------神社パンフレットより


境内の立看板には次のように書かれている。

由緒
往昔息長帯日売命が三韓を討征し凱旋された時、忍熊王の難があったので御船を妻鹿の湊に寄せられ三野の荘麻生山で天神地祇に朝敵退治を祈られ麻積連祖笠志直命に弦を求めるように仰せられたところ大巳貴命の神託により一夜の中に麻生その麻を弦として三本の矢を試射された、第一の矢は印南郡的形に虚矢となって落ち、第二の矢は飾磨郡安室辻井に、第三の矢は太市郷西脇山中の大磐石に中って磐を三つに破った。神功皇后これを吉兆して、この地に矢の根を祭られ後に仲哀天皇、応神天皇、御ニ柱を崇め奉り破磐三神に称し奉った。この地は当神社より西南1.7キロの地にあって現在宮ケ谷とよばれている。破れた大磐石は現存し、その大きさは高さ6.5米、前巾5.5米、後巾6米、奥行7.5米で、その容姿は神化を思わせ見る人をして驚嘆させるばかりである。この山地は狭陰で祭事に煩があるので徳川初期現在地に遷座し奉った。
神仏混淆の世になり三尊の弥陀を前に安置し三所大権現と称し奉る様になったが明治戍辰の神仏分離令の布告により仏体は取り除かれ神功皇后、仲哀天皇、応神天皇並びに矢の根を尊祟、明治2年9月旧号破磐神社に復した。明治7年2月郷社に列し、明治40年建速神社を合祀し現在に至っている。
この破磐神社の起源について、「神のさち吹風弓のかふら矢と いかで岩をも通ささらめや」と詠まれている
例祭 10月18日、千燈祭 7月31日、奉点燈祭 8月15日、厄除祭 2月18日
--------------------神社立看板より


つまり、破磐神社の起源は、神功皇后が三韓征伐の帰りに忍熊王の反乱が起ったため、船を妻鹿の湊に止めて、麻生山で天神地祇に朝敵退治を祈られ、麻積連祖の笠志直命に弦を調達させたところ、大巳貴命の神託により一夜の中に麻が生え、その麻を弦として三本の矢を試射した、第一の矢は印南郡的形に虚矢となって落ち、第二の矢は飾磨郡安室辻井に、第三の矢は太市郷西脇山中の大磐石に中って磐を三つに破った。神功皇后は、吉兆と喜んで、この地に矢の根を祭られ後に仲哀天皇、応神天皇、御ニ柱を崇め奉り破磐三神に称し奉った。というものである。
以下、この破磐神社のパンフレット及び立看板の内容を便宜的に『破磐神社掲示由緒』と表現する。

神功皇后は、14代仲哀天皇の皇后で、夫と共に熊襲を成敗するために九州に遠征した。この時、筑紫の国の橿日宮(かしひのみや)で仲哀天皇が急死する。神功皇后は懐妊したまま武内宿禰(たけうちのすくね)とともに海を渡って新羅を攻めて凱旋したと『日本書紀』は伝えている。
この『日本書紀』が事実を伝えているとすると、神功皇后は、熊襲征伐のために九州に出兵するときと、三韓を征伐して大和に帰還するときの2度、播磨の国を通っていることになる。
しかし、これから述べる播磨の伝承には、熊襲征伐の話はあまり記載されず、韓国に出兵するという話が多い。『日本書紀』に書かれているように熊襲征伐の後に直ぐ九州から新羅を攻めたのではなく、熊襲征伐とは別に新羅征伐を行ったのかもしれない。

いずれにしても、播磨には、この神功皇后にまつわる場所や神社が数多く存在する。
例えば
赤穂市には、神功皇后が三韓征伐の帰りに嵐にあったとき、この岩に船を繋いで祝詞を唱えると波が静まったと伝わる宝崎(ほうざき)神社のノット岩がある。祝詞岩が転訛してノット岩になったと考えられる。



【宝崎神社ノット岩】 Photograph 2016.1.30


神社では、加古川市尾上町の尾上神社、高砂市高砂町の高砂神社、姫路市四郷町の新羅神社、神崎郡香寺町の田川神社、神崎郡香寺町の櫃倉神社、龍野市竜野町の小宅神社、揖保郡太子町の黒岡神社などに神功皇后の伝承が伝わっている。中でも、姫路市の南八代には、かつて短羽矢(たんばや)明神があり、神功皇后が麻生山から射た白羽の矢を祀っていたと伝わっており、これは神功皇后の射矢と類似の話である。

もちろん、播磨を外れると、兵庫県には、神功皇后が神戸で戦勝を祈ったことが起源の広田神社、生田神社、長田神社、本住吉神社や神功皇后が懐妊の際に腰にはさんで出征して、出産を遅らせたと伝えられる三つ石を祀っている三石神社など、さらに伝承は多くなるが、本論文では播磨国に限って検証する。

なお、現在、三石神社に祀られている三石は、昔から祀られていた石ではなく、代替わりしている。
神戸の神社については、以下のミステリースポットの記事を参考
ミステリースポット『神戸六甲山のイワクラにまつわる謎』


【三石神社の三石 】 Photograph 2013.8.10


『古事記』や『日本書紀』と同時代に書かれた書物に『風土記』がある。
『風土記』は、元明天皇の詔により(713年)各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれた書物で、地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上された。写本が残存するのは、『出雲国風土記』、『播磨国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』、『肥後国風土記』のみで、『播磨国風土記』は一部が欠損しているものの、運よく大部分が残っている。

『播磨国風土記』に記載されている神功皇后の話は以下のとおりである。

『播磨国風土記』の賀古の郡には、以下のような記述がある。

「印南の浦。一家伝へらく、印南(いなみ)と号くる所以は、穴門の豊浦の宮に御宇(あめのしたしら)しめしし天皇、皇后と倶に、筑紫の久麻曽(くまそ)の国を平けむと欲して、下り行でましし時に、御舟、印南の浦に宿りたまふ。この時、滄海(あをうなばら)いと平(な)ぎ、風波和静けかりき。故れ、名づけて入浪(いりなみ)と曰ふ。」

仲哀天皇が神功皇后とともに熊襲征伐に向うときに印南の浦に立ち寄った話である。【西方へ征伐時】

「大国の里。土は中の中。大国と号くる所以は、百姓の家、多く此に居めり。故れ、大国と曰ふ。この里に山あり。名を伊保山と曰ふ。帯中日子(たらしなかつひこ)の命を神と坐さしめて、息長帯日女(おきながたらしひめ)の命、石作の連大来(おほく)を率て、讃伎(さぬき)の国の羽若(はいか)の石を求ぎたまひき。彼より度り賜ひて、御廬(みいほ)を定めたまはざりし時に、大来見顕(みあら)はしき。故れ、美保山(みほやま)と曰ふ。山の西に原あり。名を池の原と曰ふ。原の中に池有り。故れ、池の原と曰ふ。原の南に作石(つくりいし)あり。形、屋のごとし。長さ二丈、広さ一丈五尺、高さもまたかくのごとし。名号を大石といふ。伝へて伝はく、聖徳の王の御世、弓削の大連が造れる石なりといふ。」

神功皇后が仲哀天皇の陵墓のために、大来に命じて石を求めて讃岐に行かせたが良い石が見つからず、播磨の美保山で良い石を見つけたという話である。美保山は高砂市の伊保山の古名と考えられ、後半に書かれている大石は石の宝殿のことである。【東方へ帰還時】

「因達(いだて)の里。土は中の中。右、因達と称ふは、息長帯比売の命、韓国を平けむと欲して、渡り坐しし時に、み船前に御(ま)しし伊太代(いだて)の神、此処に在す。故れ、神のみ名に因りて里の名と為す。」

神功皇后が三韓征伐に向った時に船前で先導した射楯の神が、この地に鎮座しているという話である。【西方へ征伐時】

『播磨国風土記』の揖保の郡には、以下のような記述がある。

「言挙阜(ことあげのおか)。右、言挙阜と称ふ所以は、大帯日売(おほたらしひめ)の命、行軍の時に、この阜を御して、軍中の教令したまひしく、「この御軍は、慇懃(ねもころ)に、言挙げな為そ」とのりたまひき。故れ、号けて言挙前と曰ふ。」

神功皇后が立ち寄った言挙の丘は、太子町の黒岡と比定されている。【西方へ征伐時】

「宇須枝津(うすきつ)。右、宇須枝と名づくる所以は、大帯日売の命、韓国を平(ことむ)けむとして度り行きたまひし時に、御船宇頭川(うずがは)の泊に宿てましき。この泊より伊都に度り行きたまひし時に、忽(たちま)ちに逆風に遭ひ、進行すこと得ずて、船越ゆ御船を越すに、御船、猶ほしまた進むこと得ざりき。すなはち、百姓を追ひ発して御船を引かしめたまふ。ここに、一女人あり、己が真子を資け上げむとして江に堕ちき、故れ、宇須枝と号く。
宇頭川。宇頭川と称ふ所以は、宇須枝津の西の方に、絞水之淵(うづ)あり。故れ、宇頭川と号く。すなはち是は、大帯日売の命、御船を宿てたまひし泊なり。
伊都(いつ)村。伊都と称ふ所以は、御船の水手等(かこども)伝ひしく、「何時かこの見ゆる所に至らむかも」といへり。故れ、伊都と曰ふ。」

神功皇后が三韓征伐に向うときに立ち寄ったこの場所は、灘のけんか祭りで有名な魚吹(うすき)神社と比定されている。人柱の記述である。【西方へ征伐時】

「御津(みつ)。息長帯日売の命、御船を宿てたまひし泊なり。故れ、御津と号く。」

神功皇后が立ち寄った場所の地名説話である。

「萩原(はりはら)の里。土は中の中。
右、萩原と名づくる所以は、息長帯日売の命、韓国より還り上りましし時に、御船この村に宿てき。一夜の間に、萩一根生ふ。高さ一丈許りなり。仍りて萩原と名づく。すなはち御井を闢(ひら)きたまふ。故れ、針間井(はりまい)と伝ふ。その処は墾(は)らず。また、墫(もたひ)の水溢(みづいは)みて井と成る。故れ、韓清水(かんしみず)と号く。その水、朝に汲めども朝に用ゐず。すなはち酒殿を造りき。故れ、酒田と云ふ。舟傾きて乾たり。故れ、傾田(かたぶきだ)と云ふ。舂米女等の陰(ほと)、陪従(おもとびと)婚(をか)し断つ。故れ、陰絶田(ほとたちだ)と云ふ。仍りて萩多に栄ゆ。故れ、萩原と云ふ。ここに祭れる神は、少足(すくなたらし)の命に坐す。」

神功皇后が三韓征伐からの帰りに立ち寄ったこの場所は、揖保町の萩原神社に比定されており、播磨国の国名説話の一つにもなっている。【東方へ帰還時】

『播磨国風土記』の讃容の郡には、以下のような記述がある。

「中川の里 土は上の下  仲川(なかつがは)と名づくる所以は、苫編(とまあみ)の首等(おびとら)が遠祖、大仲子(おおなかつこ)、息長帯比売の命の韓国に度り行きたまひし時に、船淡路の石屋(いわや)に宿りき。その時、風雨大く起こり、百姓悉く濡れき。時に、大仲子、苫以て屋を作りき。天皇勅伝りたまひしく、「こは国の富たり」とのりたまふ。すなはち姓を賜ひて苫編の首と為したまふ。よりて此処に居みき。故れ、仲川の里と号く。」

神功皇后が三韓征伐へ向うときに淡路島の岩屋に船をつけた話である。【西方へ征伐時】

『播磨国風土記』の逸文まで広げると、次のような記録も残っている。逸文とは、他の文献の中に引用として記載されている『風土記』の一部分のことをいう。

『釈日本紀』第十一巻播磨の国の風土記に曰ふ
「尓保都比売(にほつひめ)の命
息長帯日女の命、新羅の国を平けむと欲したまひて下り坐しし時、衆の神に禱りたまひき。その時、国堅めましし大神の子、尓保都比売の命、国の造石坂比売(いはさかひめ)の命につきて、教へて曰りたまはく「好く我が前を治め奉らば、ここに善き験を出して、比々良木の八尋桙根(やひろほこね)の底不附(そこつかぬ)国、越売(おとめ)の眉引(まびき)の国、玉匣(たまくしげ)賀々益(ががます)国、苫枕(こもまくら)有宝(たからある)国、白衾(しらぶすま)新羅の国を、丹の浪を以ちて平伏(ことむ)け賜はむ」とのりたまふ。かく教へ賜ひここに赤土(まはに)を出だし賜ひき。その土を天の逆桙(さかほこ)に塗りたまひ、神舟の艫と舳に建てたまふ。また御舟の裳と御軍(みいくさ)の着衣(よろい)を染めたまひぬ。また海水(うしほ)を攪き濁して渡り賜ふ時、底潜(くく)る魚また高く飛ぶ鳥どもも往き来せず、前を遮るものなし。かくて新羅を平伏(ことむ)け己訖(おは)りて還上りたまひぬ。乃ちその神を紀伊の国の管川(つつかわ)なる藤代(ふじしろ)の峰に鎮め奉りき。」

尓保都比売は、丹生都比売(にうつひめ)のことと考えられており、神功皇后が播磨に立ち寄ったとき、船に水銀を含む丹砂を塗って魔除にした話である。【西方へ征伐時】

このように、『播磨国風土記』には、神功皇后が息長帯日女(おきながたらしひめ)または、大帯日売(おほたらしひめ)として登場する。
そして、神功皇后が三韓征伐又は熊襲征伐へ向ったときに立ち寄った記述が6ヵ所、大和への帰還時の記述が2ヵ所、不明が1ヵ所である。
しかし、これらの箇所に神功皇后の射矢の話やわれ岩のことは書かれていない。

一方、田井恭一の『播磨国風土記を楽しむ』では、『播磨国風土記』の揖保の郡に破磐神社の事が記載されているとしている。
それが以下の部分である。

「欟折山(つきおれやま)。品太(ほむだ)の天皇、この山にみ狩したまひ、欟弓(つくゆみ)もて走り猪を射たまふすなはちその弓折れき。故れ、欟折山と曰ふ。この山の南に石の穴あり。穴の中に蒲生(かまお)ふ。故れ、蒲阜(かまをか)と号く。今に至りては生ひず。」

『播磨国風土記を楽しむ』では、この欟折山を破磐神社から西に1キロメートル離れた山と比定し、「石の穴」を「われ岩」の事ではないかと推測している。割れた岩を「穴」と表現するのは、納得できるものではないが、いずれにせよ『播磨国風土記』のこの部分には、品太の天皇つまり応神天皇は登場するが、その母親である神功皇后は登場しておらず、矢とわれ岩の伝承も伝えていない。

このように、『播磨国風土記』には、神功皇后が多く登場しているのであるが、神功皇后の射矢の話、つまり『破磐神社掲示由緒』の説話は記述されていない。
『播磨国風土記』は、完全な形で残っていないため、欠落している部分に、神功皇后の射矢の話が記載されていたとも考えられるが、欠落している部分は、明石郡と赤穂郡の全体と加古郡の冒頭であり、この部分に神功皇后の射矢の話が記載されていた可能性は低い。


そこで、播磨の古代史を調べる上で、避けては通れない『播磨鑑』を調べることにする。
『播磨鑑』は播磨国印南郡平津村の医師であった平野庸脩(ようしゅう)が当時収集できるかぎりの地方史文献を参照して、播磨国にまつわる神社仏閣、地名、風俗などを記録した自筆手稿本である。現在では残存しない文献を数多く参照しており、播磨国の歴史にとっては貴重な資料である。元禄年間から書かれ始めたと考えられており、平野は死ぬまで追記し続けたと言われている。本論文では最初に出版された明治42年版(1909年)を用いている。ちなみに、『播磨鑑』飾東郡之部には、神功皇后が三韓征伐の時に福泊の沖に立ち寄り、晴れ間が多いと言った事が播磨の国名になったという播磨国の国名説話の一つが紹介されている。

『播磨鑑』の飾東郡之部には、以下のように記述されている。

皇后三韓御退治の時當國福泊の沖に御船来るとき雨しばし晴れ間と勅有し故晴間の沖と伝風吹泊りし處を吹留りと伝今福泊(印南郡之内也)と伝又當國をはれ間の國と伝扨御野庄麻生山に御登り天神地祇を一七日御祭り有し麻生山を此時まては蘆男山と伝神代より大巳貴命鎮座の山たる故大巳貴の御別名アシハラノシコオを略して山の名とするか
・・・(中略)・・・
麻積の連祖笠志直の命に命し弩の弦を求めんと勅有しに大巳貴の神託として一夜の中にあしを山に麻生ひし故後麻生山と號す神功皇后弓弭にて此山の巌を穿玉ひし所をは泉出の清水と云鳴動石と云有きどく多し今地震の前表に鳴るは此清水の岩也岩の峩々たる下に岩の重なり動く事有なり古記に播磨ゆする山と云は是也山石動山と云也此所に後に八幡をいはひ奉るにや八幡屋敷とて峯の平地跡有彼麻の芋をさらせし川を芋川と云今小川と云試みに御弓を引玉ふ的を建玉ふ所印南郡の内也初矢此的の邊にてあだ矢と成落し故に的涯と伝今的形と伝一矢又あだ矢と成り落し所を矢おち村と云今飾西郡安室の郷也(號新在家村)後矢落村より北へ引と見へたり此所に古しへ神社有射楯兵主とて二座大巳貴五十猛也(後に同郷辻井村に祭る今は行矢明神と云延喜式に入りしも其時分は矢落村に祭りしにや古記に見ゆ)二の矢は徐部庄青山村夢崎川の所昔はイルメサキ明神と崇祠す(古記に青山村夢崎川の所昔はイルメサキ明神を祭るイメサキ川成へし夢崎川とは人丸の夢に住吉の御告有しと伝傅る也)三矢大市の郷大石を射貫きたり故に破岩明神と伝(大市西脇の宮を云と或説に有れ共大市中村の近所の山に三つにわれし石有是成へし其上西脇村の氏宮は八幡宮と伝也)
・・・(中略)・・・
又皇后御歸朝の時も麻生山に御登臨有り新羅の王子箕子を質として當國に止め玉ふ此王子を天奏して揖保郡峯松山に精舎を建鶏足寺と伝又木庭村八重岩は皇后麻生御駐驛天神地祇御祈の時大巳貴の現座の所也又同村に楯岩と伝て木庭山東の方一反面ほと岩有皇后御弓御試の楯岩也又皇后五壇山にて三韓退治を祈り玉ふ由山の廻りに花壼のある也。

『播磨鑑』の揖東郡之部には、以下のように記述されている。

○破岩社
往昔 神功皇后麻生山ヨリ御試ノ矢ヲ放タモフ時三ノ矢大石ヲ射貫キタモフ處是ヲ岩破ノ祠トス
「神のうち吹風弓のかふら矢を いかて岩をもとほさゝらめや」

『播磨鑑』の飾西郡之部には、以下のように記述されている。

○三和山社
在手柄山 行箭社共伝
總社社家 宮守左近支配
祭神 大巳貴命 幸魂 奇魂
三和山のしるしは杉にあらねとも
いく代ふりぬる神のみつかき

○行箭社
青山村ニ其礎有リ
神功皇后元年九月三韓征伐の御首途に播磨の湊に御船を縣られし時麻生山飾東郡より事始の箭を射させらる其矢の落ちたる所に立し社也故に斯名付く事始の三つの矢當郡三ヶ所へ落留りて一つは此所一つは三和山手柄山一つは辻井の社也共に行矢の社と伝 寶暦十年まて一千五百五十餘年

○射楯兵主神社
安室郷辻井村 延喜式ニ座 大巳貴命 事代主命 又五十猛共有り神功皇后麻生山より射玉ひし御矢あた矢の落とし所を矢内と伝(新在家村の内)是を射楯兵主神と祠る安室郷の内に座す一説曰海上の船を守りて不思議多し貞觀二年八月六日大風に祈りをかけて船難なくしてしかも京都へ二時に着けるとそ海上の祈には此御神を祭り昔は山○○○○幣を取りしなり

○破岩社
餘部庄青山村又揖東郡大市ノ郷ノ内ニ在リ西脇ノ社カ
ワリイハノ神社餘部庄青山ノ神社破岩ノ事峯相記
神功ノ故事ニ伝上宮太子大石ヲ破テ異賊ニ見セテ和州三輪山ヨリ生駒山ヲ投越テ播磨国ユスルノ山(此所未考)ニ留ルト伝ヘリ
按ルニユスルノヤマトハ麻生山ヲ伝飾東郡ニ有ハリマ古所集ニ
此國のゆたかなるへき印には
木々もゆするの山の神風
神のさち吹く風弓のかぶら矢と
いかて岩をも通さゝらめや


まず、『播磨鑑』の記述より、「破磐神社」の旧名は「破岩社」であったこともわかる。
この「破岩社」については、揖東郡之部と飾西郡之部の2ケ所に書かれている。
次に、歌について検証する。
この歌は、神社の看板やパンフレットの歌と、細かな文字の違いがあるが、同じ歌であろう。
歌を並べてみる。

(1)『播磨鑑』揖東郡之部
「神のうち吹風弓のかふら矢を いかて岩をもとほさゝらめや」
(2)『播磨鑑』飾西郡之部
「神のさち吹く風弓のかぶら矢と いかて岩をも通さゝらめや」
(3) 『破磐神社掲示由緒』立看板(2013年7月13日撮影)
「神のさち吹風弓のかふら矢と いかで岩をも通ささらめや」
(4) 『破磐神社掲示由緒』パンフレット(2015年3月15日入手)
「かみのさち吹く風弓のかふら矢と いかで磐をも通ささらめや」

一般的に古社には社伝が残っており、それをもとに由緒を公開していることが通常である。社伝は口伝であったり古文書であったりする。仮に破磐神社の社伝を『破磐神社社伝』と表現する。これが現存しているものなのかどうかについては、著者は聞き及んでいないが、現在は失われていても過去に存在していた可能性はある。

ここで、(3)と(4)の『破磐神社掲示由緒』と(2)の『播磨鑑』の内容がほぼ同じであることから、平野庸脩が『破磐神社社伝』を『播磨鑑』に収録したのか、それとも破磐神社において、『破磐神社社伝』が失われていて、近年『播磨鑑』飾西郡之部の歌を引用して『破磐神社掲示由緒』を作ったかのどちらかであろう。
一方、(1)と(2)の大きな違いは「神のうち吹風弓」のところである。(1)揖東郡之部の歌は、「神が打った吹風のような弓」という意味であるが、(2) 飾西郡之部の歌は「神の幸吹く風の弓」となっている。これは「うち」と「さち」を読み間違えたものと考えられるが、どちらが正しいかを断言することはできない。著者は、平野庸脩が読み間違えた可能性は低いと想定するので、平野が手にした古書の内容が既に異なっていたのではないかと考える。

次に、『破磐神社掲示由緒』は、この『播磨鑑』の神功皇后の逸話とほぼ一致しているものの、はるかに『播磨鑑』の方が詳しい。
『播磨鑑』の記述の出典は不明であるが、平野庸脩が『破磐神社社伝』を『播磨鑑』に収録したか、別の古書を引用したかのどちらかである。
少なくとも現在の破磐神社には、『播磨鑑』の記述より詳しい伝承は残っていないと考えられる。
そこで、以後は、『播磨鑑』の記述をベースとして、話を進めていく。


麻生山
神功皇后が矢を射た麻生山は、姫路市奥山の小富士(172メートル)と推定されており、麓に麻生八幡宮が鎮座している。麻生八幡宮には、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇が祀られ、立看板には、

西征の神功皇后が麻生山に登り戦勝を大国主に祈ったことに基づいて八幡三神を祀る一社を創建したことに始まると言われている。

と書かれている。麻生山の場所については疑いの余地はない。
ここで、神功皇后が麻生山で矢を射たのは、三韓征伐の時【西方へ征伐時】であり、麻生八幡宮の立看板にもそのように書いてある。一方、『破磐神社掲示由緒』は、忍熊王の反乱鎮圧の時【東方へ帰還時】である。これについては後述する。

初矢
『播磨鑑』の始めて射た一矢についての記述は、不明確で解読に難がある。あだ矢になって的形に落ちた又は矢落村に落ちたと2説を併記していると解釈するのが通説のようだが、麻生山から南東方向の的形と北西方向の矢落村を併記するのは不自然である。また、的形は一矢の「的」であり、一矢が落ちた「場所」の矢落村とは別であると解釈できなくもないが、これも同じく、麻生山から見て南東方向の的に対して射た矢が、北西方向に落ちたことは矛盾する。
著者は、初矢は的形を的として射てあだ矢となった。次の一矢もあだ矢となって矢落村に落ちた。というように、初矢と一矢は別の矢であると解釈する。

麻生山から南東3キロメートル位置する姫路市的形町が初矢の的の場所として異論はないであろう。この「的」について、『播磨鑑』に

楯岩と伝て木庭山東の方一反面ほと岩有皇后御弓御試の楯岩也

と書かれており、この楯岩を「的」と考えるのが妥当である。
著者は、この楯岩の候補として姫路市木場の木庭神社の岩石を挙げる。
この岩は上島(神島)を意識して造られた人工物でありイワクラと考えられる。一反は約1000平方メートルであり、この木庭神社のイワクラとは程遠いが、これを着物の一反の意味であると解釈すると大きさは近づく。


【木庭神社のイワクラ】 Photograph 2014.5.14

木庭神社については、以下のミステリースポットの記事を参考
ミステリースポット『播磨神島レイライン2』

一矢
一矢の落ちた矢落村は、『播磨鑑』の飾東郡之部によると姫路市新在家にあった村である。新在家は麻生山から北西に5キロメートルの位置にある。
『播磨鑑』にも記載されているが、矢の祭祀は矢落村から姫路市辻井の行矢社射楯兵主神社に移っている。

行矢社射楯兵主神社の立看板には、以下のように書かれている。

行矢神社は、昔八丈岩山の南麓矢落村にあった。神功皇后が韓国出兵のとき、麻生山から射た矢の落ちた所で、八丈岩山と秩父山の間である。祭神は八丈岩山に祀られた位達神(射楯神)と、秩父山に祀られた大汝命(兵主神)である。射楯神は、スサノオノミコトの子五十猛(いたけるの)命で、韓国出兵のとき水軍を指揮し、農耕の振興に務めた。兵主神(伊和大神)は、この土地の開拓に努めた。土地の人々はこの二神を行矢社に祀り、落ちた矢を社宝とした。その後矢落の人々は、神社と共に現在地に移った。・・・


【行矢社射楯兵主神社】 Photograph 2019.8.17

射楯兵主神社は、延喜式特選神名牒に記載される式内社である。神名牒では本町の射楯兵主神社と記載されており、この場所ではない。これについては、明治3年の社格調査では辻井の行矢社が式内社の射楯兵主神社と決定したが、後日異議が出て、現在の姫路市総社本町の射楯兵主神社になった経緯がある。
祭神は、大巳貴命と五十猛命であるが、神名牒は主神は五十猛であろうと推測している。それは著者も同感で、射楯兵主神社である以上、射楯神が兵主神より上位である。射楯神は五十猛命のことである。イタケル(五十猛)が転訛してイタケ、イタテ(射楯)になったものと推測する。
『播磨国風土記』の因達の里によると、神功皇后が三韓征伐に向った時に船前で先導したのが射楯の神である。
神功皇后の射矢伝説が播磨で信仰されていた射楯神と、結びついていったものと考えられる。
ちなみに、著者は、「行矢(いくや)」は、「徒矢(あだや)」に対して付けられた名称と推測している。後述する「生矢(いくや)」も同じである。


【播磨国総社 射楯兵主神社】 Photograph 2013.3.31

播磨国総社射楯兵主神社についいて、詳しくは以下のミステリースポットを参考
播磨国総社射楯兵主神社については、こちら『伊和神社と宮山磐座』

二矢
二の矢は『播磨鑑』の飾東郡之部によると青山村のイルメサキ明神であり、これは姫路市青山の稲岡神社あたりと推測する。稲岡神社の祭神は豊受姫大神(稲丘太神)と射目埼大神である。ここは、麻生山から北西に8キロメートルの位置にある。
ただし、『播磨鑑』に記載されている稲岡神社の記述には、神功皇后の射矢の事には触れられず、行箭(いくや)社が青山村にあると書かれていることから、著者は矢が落ちた場所は、稲岡神社そのものではなく、この近所と考えている。つまり、二の矢が落ちたのは青山の行箭社であるが、正確な場所は不明である。


【稲岡射目埼神社】 Photograph 2019.8.17

ここで、話を複雑にしているのは、『播磨鑑』の行箭社の記述である。
神功皇后の三つの矢は、青山村の行箭社と三和山手柄山の行矢の社と辻井の行矢の社であると書かれている。
姫路市手柄には、生矢神社が鎮座しており、立看板には、以下のように書かれている。

『播磨鑑』に「三和山社 在手柄山行箭社共伝」、『播州名所巡覧図会』には手柄山、一名、三輪山の「山頭、生矢社あり」とする。神功皇后の行矢伝説があり、平清盛が厳島神社造営の途次、三和山に行矢大明神を祀ったという。・・・以下略   姫路市教育委員会看板

当社は、播磨鑑によると行箭社として神功皇后元年九月三韓征伐の御首途播磨の湊に、御船を掛けられし時、麻生山(飾東郡)より事始めの箭を射させた。それの落ちたる處に立ちし社也る故に斯号名付く。宝暦十年まで千五百五十余年になる旧き處なりとあって、その年代はつまびらかではないが、生矢神社の起源記によれば、人皇七十七代後白河院天皇の御字、保元三戌寅の年(皇暦千八百十八年)播磨守平清盛の崇敬祭祀している守護の明神大巳貴命の神霊とあり、清盛は、嘗て安芸の国厳島神社造営の頃しばしばこの地を往来して、たまたま霊夢を感じて神勅渾心に徹しこの神を三和山に崇祀し生屋大明神の御号を奉りて子孫繁栄を祈った。・・・以下略   生矢神社看板

『播磨鑑』の飾西郡之部の行箭社の記述と『播磨鑑』の飾東郡之部の記述が大きく異なっている。これについては、行箭社の記述には辻井の行矢の社としか書かれておらず、矢落村から行矢射楯兵主神社へ遷座したことが書かれていないこと、全体として非常に簡素に書かれていることから、飾東郡之部の記述の方が信憑性が高いと考える。
おそらく、当時既に形成されていた神功皇后の三つの矢の話を聞いた平清盛が1122年に三和山に新しく生矢神社を建設したのではないだろうか。


【生矢神社】 Photograph 2019.8.17

三矢
三の矢は、『播磨鑑』の飾東郡之部によると、大市の郷の破岩明神と書かれており、現在の姫路市西脇のわれ岩のことであろう。
又、矢の話から離れるが、神功皇后は、朝鮮からの帰りにも麻生山に登り、人質の新羅の王子箕子を播磨の国に留め、揖保郡峯松山に鶏足寺を建てたと書かれている。
神功皇后を祀る破磐神社が、鶏足寺の焼き討ちで亡くなった僧や氏子たちの供養を行なう「奉点燈祭」を行っているのも納得できる。

ちなみに、破磐神社の近くのたつの市にも「イタテ」という名前の入った神社がある。中臣印達神社である。延喜式の式内社に掲載されている中臣印達神社の比定地の一つある。また、『播磨国風土記』の粒丘をめっぐっての論争や阿波遅神社など興味深い神社でもある。これらは、長くなるので、別途書き記したい。
ご祭神が五十猛命であることから、やはり「印達」は射楯神を示していると考えて間違いないであろう。さらに、2013年にこの神社を訪れたときに、西本和俊宮司に対応していただいたが、この西本宮司は播磨国総社射楯兵主神社の宮司も務められているということであった。中臣印達神社と射楯兵主神社との深い関係が示唆される。


【中臣印達神社】 Photograph 2015.3.15

さて、ここで、神功皇后が麻生山で矢を射た時期について、『播磨鑑』では、三韓討伐の時【西方へ征伐時】であるが、なぜ、『破磐神社掲示由緒』では、忍熊王の反乱鎮圧の時【東方へ帰還時】となっているのかという問題に話を戻す。
可能性は、次の3つである。

1. 平野庸脩が、『破磐神社社伝』または神功皇后の射矢伝承を記録した古書を『播磨鑑』に写すときに間違った。
2. 破磐神社が、『破磐神社社伝』から『破磐神社掲示由緒』を作る時に間違った。
3. 破磐神社が、『播磨鑑』から『破磐神社掲示由緒』を作る時に間違った。

『播磨鑑』は、平野庸脩自身の考えは交えずに、古書の記述を収集することに拘った書物であり、信頼性の高い文献である。『播磨鑑』が用いた古書の原書にあたれない現状では断定はできないが、筆者は、1のケースの可能性は低いと考える。
2のケースは、破磐神社において社伝が途切れることなく伝承していたと仮定した場合であるが、自からの『破磐神社社伝』を間違って『破磐神社掲示由緒』に書き写すことは考えられないが、もし、『破磐神社社伝』が口伝であるなら、口伝を書き留めるときに間違った可能性は残る。
筆者が最も可能性が高いと考えているのは3のケースである。3のケースは、破磐神社において、『破磐神社社伝』が何らかの理由で失われてしまい、近年に『播磨鑑』を参考にして『破磐神社掲示由緒』を復活させたと仮定した場合である。
『播磨鑑』の飾東郡之部では、三の矢の大市の郷の破岩明神の後に、神功皇后が三韓征伐からの帰りにも麻生山に登った話が続いており、破磐神社が、『播磨鑑』から『破磐神社掲示由緒』を作る時に、この麻生山の登行を矢を射るために登ったと勘違いしたのではないだろうか。
また、傍証とはなるが、『播磨国風土記』に登場する神功皇后は、【西方へ征伐時】の方が圧倒的に多い。



まとめ

『破磐神社掲示由緒』と『播磨鑑』飾東郡之部、そして『播磨鑑』飾西郡之部の行箭社を整理すると以下の表のようになる。

   『破磐神社掲示由緒』  『播磨鑑』飾東郡之部  『播磨鑑』飾西郡之部の行箭社
 時期  忍熊王征伐に向う時  三韓征伐に向かう時  三韓征伐に向かう時
 射た場所  麻生山  麻生山  麻生山
 的形  ○一矢  ○初矢  ×
 矢落村又は行矢神社  ○二矢  ○一矢  ○
 青山村  ×  ○二矢  ○
 西脇の破岩  ○三矢  ○三矢  ×
 手柄山の生矢神社  ×  ×  ○


ここで、念のために断っておくが、矢が13キロメートルも飛ぶことはないし、岩を割ることもない。神功皇后の射矢の話は、神功皇后の偉大さや神秘性を表すために誇張した話である。そして、神功皇后の人気にあやかった地名説話でもある。

また、『播磨国風土記』には、神功皇后が多く登場しているのであるが、神功皇后の射矢の話は記述されていない。一方、『播磨鑑』には、詳細な記録が残っている。このことは、『播磨国風土記』が書かれた8世紀には、神功皇后の射矢の話は形成されておらず、9世紀以後に形成したと考えれば解決できる。それほど、播磨では、神功皇后の人気が高かったのであろう。

さらに、前述したように、このわれ岩を民俗学的に考察すると、逆三角形をした大岩が丘の上に立っている風景や、独特の白緑色をした岩石が割れている事から、人々がこの岩石を特別視して、祀りを始めたと考えることに無理はない。古代の日本に存在していたアニミズムの一例である。
したがって、アニミズムとして「われ岩」という岩石を古代から祭祀していたところに、播磨における神功皇后の人気、さらに播磨で祭祀されていた射楯神が加わって、神功皇后の射矢の話が9世紀以降に形成されていったのではないだろうか。

著者の考えをまとめると以下のようになる。
・姫路市西脇のわれ岩がアニミズムとして信仰されていた。(縄文時代以降)
・神功皇后が播磨に立ち寄る。(4世紀頃)※神功皇后の年代については、その存在も含めて諸説あり。
・播磨で神功皇后の逸話が数多く形成する。(8世紀以前)
・播磨で祀られていた射楯神と播磨における神功皇后の人気により神功皇后の射矢の話が形成される。(9世紀以降)
その神功皇后の射矢の話の原形は以下のようであった。
  ・神功皇后は、三韓征伐に向うときに播磨に立ち寄り、戦勝を祈って矢を射た。
  ・矢を射た麻生山は、姫路市奥山の小富士。
  ・初矢は、姫路市的形町の的形に落ちた。的の楯岩は、木庭神社のイワクラ。
  ・一矢は、姫路市新在家の矢落村に落ち、矢の祭祀は姫路市辻井の行矢社射楯兵主神社に移った。
  ・二矢は、姫路市青山の行箭社に落ちた。行箭社の場所は稲岡神社付近。
  ・三矢は、姫路市太市のわれ岩を割った。
  ・姫路市手柄の生矢神社は、これらの神功皇后の射矢の話にあやかって12世紀以降に祀られた。
  ・われ岩の祭祀が、宮が谷から現在の破磐神社の地へ移った。

あとがき

本論文は民俗学的なアプローチと科学的アプローチから構成されるイワクラ学、及び文献学としての考察を行ったものである。
したがって、宗教的には、神功皇后の射矢の伝承を否定するものでないことは、断っておく。
破磐神社は、この神功皇后の射矢の伝承とともにこの地で守り継がれてきた神社であり、人々は破磐神社とこの伝承を信仰し、人生儀礼をこの神社で行うことで自らの崇敬神社としてきたのである。
中田宮司によって、「村」のコミュニティが再編され、大人から子供までが参加する手作りの「村祭」に今でも出会える敬愛すべき神社である。



謝辞

本論文を作成するに当たり、インタビューに快く答えてくださった中田千秋宮司に深謝の意を表します。

参考文献


1.倉野憲司校注:古事記、岩波書店(1991)
2.坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注:日本書記、岩波書店(1994)
3.特選神名牒(内務省蔵版)、思文閣出版(1925)
4.植垣節也校注訳:新編日本古典文学全集5 風土記、小学館(1997)
5.田井恭一:播磨国風土記を楽しむ、神戸新聞総合出版センター(2010)
6.寺林峻、中村真一郎:播磨国風土記を歩く、神戸新聞出版センター(1998)
7. 破磐神社パンフレット、破磐神社
8. 杤尾泰治郎:コラム神社おこし、神社新報、p3、神社新報社(1989)
9. バンカル、姫路市文化国際交流財、№13、p19(1994)
10. 中田千秋:姫路神祇、姫路支部神社シリーズ第八回(1999)
11. 姫路市町別人口・年齢別人口、姫路市総務局総情報政策室(2017)



2019年11月9日  「破磐神社」  論文 平津豊



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