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post to my website in 2019.4.29 平津 豊 Hiratsu Yutaka
1984年にサンデー毎日が「日本にピラミッドがあった」という特集を行ったとき。葦嶽山と並んで注目されたのが「のうがピラミッド」であった。
(葦嶽山ピラミッドについてはこちら『葦嶽山ピラミッド2』)
のうが高原には、タイル石、貴婦人墳墓、方位石、鏡石など巨石文明の残骸と思われる岩石が数多く残っている。特に塔岩は高さ20メートル、幅4メートルものV字型の2本の巨大な岩組で、のうが高原のシンボルである。
サンデー毎日の取材班は、葦嶽山ピラミッド調査の後にのうが高原に向かったのだが、取材班が現地を訪れる1週間前にこの塔岩の一本が崩れ落ちた。
地震なども起っておらず、太古からそびえいたであろう塔岩が前触れもなく崩れたのである。
これについては、後述するタイル石を剥がした人が居たのでその祟りであるとか、取材班に塔岩を調査させないためにある組織が崩したとか、当時はオカルティズムな噂が飛び交った。
【崩壊前後の塔岩】 『サンデー毎日』より
のうが高原は、広島県廿日市市宮内にある。
のうが高原の中の山は「野貝山」という名称であるが、坂本弘氏はその著書『のうがピラミッド』の中で、「のうがやま」とルビを付けている。「のうが」は「濃毛」が転訛したものとも言われているが、「のうが」の言葉が何を意味するのかは不明である。
標高700メートルののうが高原は、1965年頃から株式会社のうが高原によって開発され、1971年にレジャー施設が建設された。のうが高原ホテルを中心として、キャンプ場、湖、プール、茶室、乗馬クラブ、展望台までのリフトなどを備えた一大観光地であった。
ピーク時には年間30万人の集客を誇った施設であったが、1986年にその事業は終了し、立ち入り禁止区域となっていた。現在は、地権を受け継いだ会社によってメガソーラー施設に変わろうとしている。
【のうが高原レジャー施設の全景 1971年頃】 『のうが高原ホテルパンフレット』より
【造成中の のうが高原】 Photograph 2019.4.14
2019年4月14日に、石の語りべの須田郡司氏と写真家の徳平尚彦氏とともに広島を訪れ、工事中であるにも関わらずに、調査のために特別に立ち入らせていただいた。現地では、地元の佐伯昌昭氏と現場の工事を指揮されている三宅賢治氏から丁寧な案内を受けることになった。
江戸時代に書かれた『藝藩通志(げいはんつうし)』に、「塔岩は、天然に臺座石ありて、其上に五重石あり、俗傅ふ、毎歳元旦、金雞、石上に来鳴く、村雞其聲聞けば即死す。故に明石の一閭、雞を畜ず、傘石、机石、共にその傍にあり、形似を以名づく」
と書かれ、のうが高原の岩石群が江戸時代から知られていたことがわかる。また元旦に金のニワトリが塔岩の上で鳴いたため明石村のニワトリがみんな死んだ。という記述は、この巨石群に不思議な現象が起っていたことを示している。
塔岩はのうが高原のシンボルではあるが、ピラミッドと思われるのは野貝山である。のうが高原側から見ると50メートルのなだらかな丘であるが、南麓の明石村から見ると500メートルの標高差の山となる。
【野貝山】 Photograph 2019.4.14
標高719メートルの頂上を中心として、まわりに多くの岩石群が存在する。坂本弘氏の『のうがピラミッド』には、これらの岩石群の発見について、次のように述べられている。
1976年9月26日に、のうが高原を開発した鍛冶岡義人社長の元に、山根昭彦氏が稲留左治(すけはる)という人を連れてきた。稲留氏は「廿一世紀を考える会」の国際会議場の設立候補地としてのうが高原を訪れたのである。このとき、野貝山原山一帯に巨大な石がごろごろあるという話が出た。稲留氏は日本にも巨石文明があったのではないかと考えている一人であったので、こののうが高原で日本の巨石文明が発見されれば、日本と世界をつなぐ国際会議場に相応しいと思った。さっそく、稲留氏は、鍛冶岡社長、社長秘書の福田ミチコ氏、山根氏とともに、山に踏み入って、これらの岩石群を発見した。
野貝山頂上の南東にタイル石と呼ばれる岩石がある。
タイル石は、石の表面にタイル状の石が貼り付けられたように見える3.5メートルの石である。タイル状の石は20~30センチメートルの大きさ厚みは2センチメートルほどで、岩質も異なる。エジプトのピラミッドが石灰岩の外装石で覆われて白く輝いていたように、このタイル石も野貝山を覆っていた化粧石ではないか。このような考えが発見当時から広まっていた。
【タイル石】 Photograph 2019.4.14
【タイル石】 Photograph 2019.4.14
【タイル石】 Photograph 2019.4.14
【タイル石】 Photograph 2019.4.14
のうが高原には光る石があり明石村の人は毎朝、高原に手を合わせて拝んでいたという。また、株式会社のうが高原の鍛冶岡社長は、「のうが高原には夜光石があって、その光を頼りに漁船は瀬戸内海を航行した。」と祖母から聞かされたと証言している(『サンデー毎日』より)。
さらに、この峰を切り開くときに明石村の老人が、「東の峰に光るものがあるそうじゃが、昔からそのそばに寄ったら危ないといわれとるから、そっちはいかんほうがいい。」と言ったという(『のうがピラミッド』より)。
おそらく麓の明石村の「明石」は、光る石に因んで付けられた名前であろう。この光る石がタイル石であり、木々が生い茂る前は、太陽を反射して光っていた可能性は非常に高い。
1984年のサンデー毎日の調査に同行した広島大学の岩石学の吉田博直助教授は、タイル状の石はアプライトであり、節理でたまたまタイル状になったと断定している。
良く似た石が岡山県白石島にもある。鎧岩と呼ばれるそれは、鬼ケ城という山の頂上の北面の一部をタイル状の石が覆っているものである。
この景観に対しても地質学者は、アプライトおよびペグマタイトの岩脈が急な斜面と平行に存在し、その外側だけ割れて落ちて、たまたまこのように残ったと説明する。自然に起りにくいので天然記念物に指定されているが、これは、自ら苦しい説明だと認めているようなものである。
では人が造ったのならばどのようにしてタイルを貼り付けたのかという問題が残る。それはセメントが使われたであろうと推測する。
現在のコンクリートは1824年に発明されたポルトランドセメントが使用されているが、寿命は100年程度である。一方、ローマ時代に建てられたコロッセオは、強固なコンクリートが使われ2000年を経ても現存している。さらに、9000年前のイスラエルのイフタフ遺跡からセメントが出土している。
ここでも我々現代人が古代人より進歩していることが思い込みであることがわかる。
日本の縄文時代に強固なセメントがあったとしても何ら不思議ではない。
(白石島の鎧岩についてはこちら『高島・白石島のイワクラ』)
【岡山県白石島 鎧岩】Photograph 2016.5.29
地質学で説明可能だからと言って、人造の可能性を捨てるべきではない。特に地質学の説明に「奇跡的に」、とか「たまたまた」という言葉が使われている場合は、なおさらである。
タイル石の接着部分の成分分析を行えば、この議論は前に進めることができるであろう。機会があれば行ってみたいと考えている。
今回タイル石を訪れて、残念だったのは、前述したように発見時に比べて、タイルが1枚剥ぎ取られていることである。不届き者による理解に苦しむ行為である。
タイル石の側に貴婦人墳墓と呼ばれる石組がある。鍛冶岡氏らが発見した当初は、この石組は土の中に埋まっていたという。それを不思議な気持ちに駆られて掘り起こしたそうである。このとき、穴の前面に楔形の石が無数に埋め込まれていたという。
1~2メートルの左右の石の上に、幅3メートル厚み1メートルの石が載っており、机状に組み合わされている。それぞれの石が切り離されており人造物である。これが奥まで続いていれば石室ということになるが、入口に石が置かれていて中の様子がわからない。発見当時にこの中央の石を取除こうとしたが、爆破するためにドリルで穴をあけた石工の腰が立たなくなり作業は中止したという。
この奥に遺体があるのか宝物があるのか、興味深く、この中から遺物が出土すれば、否応なくアカデミズムも野貝山を認めざるを得ないであろう。そして、考古学的な調査が行なわれることになるであろう。
【貴婦人墳墓】 Photograph 2019.4.14
【貴婦人墳墓】 Photograph 2019.4.14
野貝山の頂上の南側に方位石と名付けられた岩組がある。
4つの石で構成されたものであるが、1つは横に倒れ、もう一つは谷底に落ちている。4つの石によって2つの方向が示される。北西―南東と北東―南西方向である。図に示すように、この方向は太陽の軌道の特異点を示している可能性がある。北東―南西方向は、約215°と冬至の日の入りの方向210°より5°ずれているが、2つの石の間隔もあり許容範囲かもしれない。一方、北西―南東方向は、石の面に沿って測定したが300°と夏至の日の入り方向(=冬至の日の出方向)に一致した。しかもその面はスパッと割られていて、北東―南西の面よりも人為的である。葦嶽山の方位石が意味のある方位を示していないように、正確な方位を示す方位石は珍しいのであるが、この野貝山の方位石は、冬至及び夏至の太陽の軌道を示しており、人造の可能性が非常に高い。
【方位石】 Photograph 2019.4.14
【方位石】 Photograph 2019.4.14
【方位石の配置図 】 平津豊作図
【広島県葦嶽山(鬼叫山) 方位石】Photograph 2017.9.17
この野貝山の頂上には、ストーンサークルがあったという、現在は小さな船形をした岩が残っている。
さらに、鍛冶岡社長はサンデー毎日の取材班に対して「1965年に道路をつけようと樹々を切り払ったところ、十~十二畳敷きのピラミッドのような三角形をした巨大な岩が出てきた。そのてっぺんに直径80センチメートルの丸い石が乗っていた。」と証言している(『サンデー毎日』より)。
これが残っていれば、まさに酒井勝軍が提唱した太陽石であり、この野貝山がピラミッドである証拠の一つとなったであろう。
【小さな船形石】 Photograph 2019.4.14
台座の上に乗せられた丸石で思い浮かぶのは奈良県山添村の長寿岩である。奈良県山添村の長寿岩は、1992年ふるさとセンターの造成工事を行なっていたところ小高い丘の上に現れた巨大な石のボールである。それも不安定な形で台座の上に乗っていた。造成の邪魔であり、不安定で危険であったので、重機を使って丘の上から転がして今の位置に落としてしまった。台座などその他の岩は爆破されてしまったが、この丸石は巨大で爆破するには費用がかかるのでモニュメントとして残されることになった。
(長寿岩についてはこちら 『山添村星の磐座』)
【奈良県山添村の長寿岩】 Photograph 2013.4.28
このように大規模な造成工事の時に、誰も立ち入らなかった山野の中から不思議な石組みが現れることがある。三宅氏によると現在行われているのうが高原の造成工事でも巨大な岩がたくさん出できており、その様子は、普通の山とは違っていて異常であるという。
写真は、その中の一つであるが、巨大な石組みが土の中から現れている。もしこれが人造であったなら世界最大級のドルメンである。
【のうが高原造成中に掘り出された巨石】 Photograph 2019.4.14
【のうが高原造成中に掘り出されたドルメン】 Photograph 2019.4.14
今回は行けなかったが、塔石の近くには笠石、野貝山の南西方向には、飾り石、円形鏡石、扇形鏡石、磐船、雨宿石、古代参道などと呼ばれている岩石がある。
特に、鏡石と古代参道には、非常に興味がある。
円形鏡石は半円形にくりぬいたように見える石組みであり、その半円部の厚みは10センチほどあるので、ここに円形の鏡石がはめてあったのではないかと言われている。
【円形鏡石】『サンデー毎日』より
扇形鏡石は、上部にアールのついた7つの石があり、これを元の位置に復元すると台座の上に扇形の石になるという。
【扇形鏡石】『のうが高原とピラミッド』より
古代参道は、幅2メートルの道の両側が1メートルの石の壁となっている所で野貝山から明石村方向に続いている。急斜面の石を取除いて道を切り開いたと考えられる場所である。
実物を見て、これまで私が各地で見てきた岩石との類似性について考察してみたい。
野貝山頂上から700メートル東にのうが高原ホテルが建設された。そのとき、もともとあった巨大な岩組を囲むように風呂場を建設して、名物となっていた。なお前述した1984年のサンデー毎日の調査ではこの岩風呂については触れられていない。
この巨大な岩組は、高さ18メートルと6階建てのビルに相当し、一番大きな岩石は700トンを超える大きさである。この巨大な岩組を風呂場として取り込む建設はさぞかし大変であったであろう。よくもそのようなことを考えたものだと感心する。
【風呂場の岩組 東の塔岩】 Photograph 2019.4.14
【風呂場の岩組 東の塔岩】 Photograph 2019.4.14
『のうがピラミッド』に掲載されている測量結果を転記しておく。
最下段:幅9.6、奥8、高さ3.5メートル。二段目:幅9.3、奥8、高さ3.5メートル。三段目:幅10、奥4、高さ5.5メートル。四段目:幅4.6、奥3、高さ3.5メートル。五段目:幅4.9、奥3.5、高さ2メートル。
一段目と二段目の間には小さな石が挟まっていてバランスを保っているように見える。また、五段目の平たい石について、『のうがピラミッド』では、これが立っていて太陽を反射していた鏡石ではないかと推測している。
【風呂場の岩組 東の塔岩】 Photograph 2019.4.14
【風呂場の岩組 東の塔岩】 Photograph 2019.4.14
【風呂場の岩組 東の塔岩】 Photograph 2019.4.14
【風呂場の岩組 東の塔岩】 Photograph 2019.4.14
【風呂場の岩組 東の塔岩 岩石配置図 】 平津豊作図
この巨大な岩組を人が積み上げたことについては、私は否定的である。五段目の鏡石も含めて、節理による自然の造形と考える。
しかし、この岩組みに人の手による加工が施されている可能性は残る。横方向は節理としても縦方向の面は、人為的に割られた可能性がある。野貝山の南にある塔岩との対比を意識して、上部が塔状になるように割ったのかもしれない。風呂場の造成前は、巨大な岩組の下の方に岩の階段が20段ほどあったことからも、この巨大な岩組みに加工が施されていても不思議ではない。この風呂場の岩組みを仮に東の塔岩と呼ぶことにする。
古代人は南の塔岩や東の塔岩を加工して岩の上で祭祀を行ったのではないだろうか。
南の塔岩は北にある野貝山ピラミッドを拝むためであろう。
一方、東の塔岩において割られたと考えられる岩面は158°の方向に向いており、この方向の11キロメートル先に宮島の弥山(みせん)が位置している。この弥山もピラミッドと言われており、東の塔岩は、これを拝んでいた可能性もある。
(弥山についてはこちら『宮島厳島神社―弥山』)
【のうが高原ホテル内の東の塔岩と弥山との関係】
この東の塔岩から南を見た眺望はすばらしい。
弥山を含む宮島の山の稜線が仰向けに横たわった女性に見える。これは地元の人が「寝観音」と呼ぶものである。
【宮島の寝観音】 Photograph 2019.4.14
山の稜線を何かに見立てて崇拝するという例は世界中にある。
紀元前4000年に造られたスペインのドルメン・デ・メンガという墳墓では、墳墓内部から入口方向を振り返るとペーニャ・デ・ロス・エナモラドスと呼ばれる山が真正面に見える。その山の稜線は仰向けになり空を見上げる巨人の顔である。墳墓の入口の軸を計画的にこの巨人の顔に向けて遺跡が造られているのである(Giulio
Magli『古代文明に刻まれた宇宙』より)。
【スペイン ペーニャ・デ・ロス・エナモラドスの眠れる巨人】
もちろんこの「寝観音」の「観音」は仏教用語であるので、仏教伝来以降に付けられた名前である。
先史時代において、子供を産む女性は豊穣のシンボルであり神秘の対象でもあった。
それゆえ、縄文時代には妊娠した女性を模した土偶が盛んに造られた。そのような時代の古代人は、のうが高原の東の塔岩からこの眠れる女性の姿を見て、地母神が出現したヒエロファニーを感じ、崇拝したのではないだろうか。
地権者の社長は、これらの古代遺跡の貴重さについて理解されており、山を崩し、池を埋め立てるといった地形を変える巨大工事が行われているにもかかわらず、野貝山はメガソーラーの工事からは外されている。
また、メガソーラーの工事に合わせて、のうが高原ホテルの解体も始まっているが、風呂場の大岩組は破壊せずに残される予定である。
ホテルの廃材が取除かれたこの東の塔岩は、すばらしい光景になるであろう。大岩が開放されたときに、再び訪れたいと考えている。さらに、イワクラ学会として、この大岩や野貝山を含めた岩めぐりなどができる観光コースが設置できないかなどを、地権者へ働きかけていきたいと考えている。
なお、現在、この場所では、ダイナマイトによる爆破工事が行われ(我々が滞在している間も爆破が行われていた)、巨大なダンプカーが行き交っているので、非常に危険である。また、当然ながら私有地であるので無許可では立ち入らないようにお願いする。安全を確保するために不法侵入は厳しく取り締まられている。
【のうが高原ホテルの解体状況】 Photograph 2019.4.14
本論文を作成するに当たり、資料の提供と現地を丁寧に案内してくださった佐伯昌昭氏と三宅賢治氏に深謝の意を表します。また、調査に付き合っていただいた須田郡司氏と徳平尚彦氏に感謝いたします。また資料を提供していただきました釈迦郡文雄氏に感謝いたします。
1.坂本弘『発見された人類宝庫広島のうがピラミッド』、広島陽光クラブ(1977)
2.『のうが高原とピラミッド』 神榮クラブ
3.『のうが高原ホテルパンフレット』のうが高原ホテル
4.『古代人のピラミッド』中国新聞 1977年2月23日
5.『サンデー毎日 緊急増刊 日本にピラミッドがあった』毎日新聞社(1984)
6.Giulio Magli著・上田晴彦訳『古代文明に刻まれた宇宙』青土社(2017)
7.酒井勝軍『太古日本のピラミッド』國教宣明團発行(1934)、八幡書店復刻(1999)
2019年4月29日 「のうがピラミッド」 論文 平津豊
2019年4月29日 「のうがピラミッド」 ホームページ「ミステリースポット」掲載
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